第12弁論
[解説]研究者によれば、アテナイ人の人口に等しかったとも、それに数倍したともいわれる数の奴隷を擁したアテナイの奴隷制社会において、政治的・社会的混乱は、奴隷が解放される数少ない好機にほかならなかった。 長引くペロポンネソス戦争は、寡頭派と民主派との対立を激化させていった。しかし、その内実は、所有地を国内に持つ者と、土地を持たず、それゆえ海外に求めざるを得ない者との対立、要するに、戦争によって不利を被る者と利を享ける者との対立にすぎなかった。そして、中農層が、敵軍の侵入によって間断なく耕地を荒らされ、ようやく戦争に飽いてきたとき、寡頭派による民主制転覆の条件は整った。BC 411年、こうして樹立した「四百人」寡頭制政権は、しかし、対外的には信用されず、対内的には激烈な権力闘争によって内部分裂を引き起こし、さらには中心人物の一人プリュニコスを何者かに暗殺されて、わずか4か月で崩壊した。この「四百人」の最も急進的な糾弾者は、奇妙にも、テラメネスとクリティアスである。テラメネスは「四 百人」の中心的人物の一人であった。クリティアスは、父親が「四百人」の一人であった。要は、我が身の安泰を図るためには、彼らは誰よりも激しく「四百人」を攻撃せざるをえなかったのである。 プリュニコス暗殺後ただちに、クリティアスは、プリュニコスを弾劾裁判にかけるべしとの提案をし、これを可決させた。プリュニコスは、生前、和平交渉の使節になったことを罪に問われ、国家反逆罪で有罪と判決された。これによって、プリュニコスの暗殺者は、英雄としてあがめられることになった。何人もの者が、我こそはプリュニコスの暗殺者なりと名乗りをあげた。アゴラトスもその一人であった。BC 409年の春、プリュニコスの暗殺者たちに名誉を授与する提案が承認されている。提案は三つから設り、内容は、 カリュドン人トラシュブウロスに、暗殺行為により黄金の冠を授与し(エラシニデス提案)、 かつ、トラシュブロスにアテナイの市民権を与え、アゴラトスをはじめとする仲間の共謀者たち7、8人には、それより少ない特典を授与する(ディオクレス提案)、 なお、メガラ人アポロドロスを暗殺者と認めるために買収された者たちの調査を評議会に命じる(エウディコス提案)、 というものであった。 暗殺者として名乗りをあげた者たちが多く、その認定には、買収も絡んで、かなり混乱した様子がうかがえる。それと同時に、反寡頭派の同志集団のようなものの存在が、おぼろげながら浮かび上がってくる。 とにかく、以後、アゴラトスは、プリュニコスを暗殺した功績によって、アテナイの市民権を取得したと自称するようになる。事実、それを疑う者はいなかったようである。その背景には、民主制回復後の「四百人」狩りの嵐があったと見てよい。この時期、彼がどのように生きたかは定かではないが、おそらく、「四百人」の残党に対する告訴屋(sykophantes) として恐れられる一方、これによって、急進的な民主派と目されるようになったことであろう。「四百人」糾弾の口火を切ったテラメネス、クリティアスたちでさえ、弾劾を恐れてアテナイから姿を消しているほどである。「四百人」の関係者たちが市民権を回復するのは、BC 405年、アイゴス・ポタモイでアテナイの艦船が壊滅し、アテナイ存亡の危機に、市民全員の一致協力が必要となる時まで待たなければならなかったのである。 BC 405年秋から冬にかけて、海も陸もペロポンネソス軍によって完全に包囲される中、アテナイはまだ主戦民主派が勢力を持っていた。最も強硬な主戦論の論客はクレオポンであった。彼は一市民にすぎなかったが、民会においては、スパルタ側の条件を呑むよう提案した者を投獄できるほどの影響力を有していた。 アテナイの敗北を機に、再び民主制転覆を策謀していた寡頭派は、先ず、クレオポンを弾劾裁判に引きずりこむ画策をし、抹殺に成功する。さらに、スパルタとの屈辱的な和平案を呑ませようとするテラメネスに、激しく反対する勢力を根こそぎにするために、彼らはアゴラトスを利用しようとした。 先ず、アゴラトスの同志のテオクリトスなる者が、国政転覆の陰謀ありと、すでに寡頭派に牛耳られていた評議会に密告し、アゴラトス一人の名前を上げた。そこで、評議員の中から選ばれた者たちが、アゴラトス逮捕に向かったが、仲間の者たちがこれを阻止した。しかし、このまますむはずもなく、仲間は、アゴラトスに亡命を熱心に勧め、自分たちもいっしょに同行しようとまで申し出た。しかし、彼は聞き入れようとしなかった。 やがて、寡頭派に傾いていた評議会は改めて決議を発し、ムニキアに潜んでいたアゴラトスを逮捕した。こうして、彼に関係する者たちが、国政転覆の陰謀者として、次々と処刑されていった。その中には、将軍、歩兵指揮官、その他の市民が含まれていた。民会はこの者たちを二千人の民衆裁判で裁くよう決議したが、テラメネス、クリティアスたちに率いられた「三十人」政権が設立したため(BC 404)、この決議は無視され、被告は「三十人」に掌握された評議会の判決で処刑された。もちろん、アゴラトスは密告の褒賞として釈放される。 第13弁論の直接の告発者は、この時に処刑された一人ディオニュソドロスの兄弟であるが、法廷で弁じているのは、ディオニュソドロスの妻の兄(つまり、義兄弟)である。弁者の主張では、この密告劇は、始めから終わりまで、「三十人」派とアゴラトスとで仕組んだものであるという。しかし、不可解なことだが、アゴラトスは釈放後、ピュレに赴き、「三十人」打倒の勢力を糾合してそこを占拠していたトラシュブウロスの指揮下に入り、数度の戦闘を経て、アテナイに帰還する民主派の行進に加わっている。民主派の人々は、彼の供述によって主だった仲間たちが処刑さたことを知っていたので、これを私刑にしようとしたが、将軍の一人アニュトスに制止され、以後、手だしもしなかったが、相手にもしなかったというのである。 アゴラトスが謀略に深く関わっていたにせよ、いなかったにせよ、とにかく仲間を売ったという事実に変わりはない。これを恨みに思う者たちの殺意からアゴラトスを守ったものは、一つには、党争が両派一人でも多くの味方を必要としていたという状況であり、もっと大きくは、BC 403年春、市内派とペイライエウス派との和解の誓約により、過去の出来事に対する大赦令が公布されたという事実であろう。しかも、彼もまた、数度の戦闘を戦いぬいて帰還した民主派の英雄には違いなかったのだ。 しかし、おそらくは、BC 401年、エレウシスに退去していた寡頭派を最終的に切り崩したのを機に、再び「民主派革命」の嵐が吹き荒れたと考えられる。もはや、プリュニコス暗殺の功を挙げても、苦しい戦いを戦いぬいて帰還したという実績を申し立てても、人々の心を動かす材料とはなり得ない。そんな時に、アゴラトスは告訴されたのである。大赦令に抵触しないよう、殺人罪によってである。裁判は、BC 399年頃、すなわち、ソクラテス裁判と同じ時期であったと考えられる。 事件の風化を取り返そうとするかのように、弁者は、ディオニュソドロスの最期の模様を感傷的に描写し、他方、そのような悲劇的な目に遭わせたのが、いかに卑しい奴隷であったかを示すために、アゴラトス本人ではなく、彼の兄弟の所業を引き合いに出す。いささかアンフェアな手段だが、アテナイ人にとっては、家(oikos) あってこその個人であるから、それは彼らの訴訟の常套手段でもあった。 アゴラトスの生の軌跡を考える時、われわれは、告発者とはまったく異なったふうに思い描くこともできる。もしかしたら、彼は根っからの民主派だったのではないのか……。民主派にしろ、寡頭派にしろ、勢力拡大のために、都合のいい口約束を多々していた事実がある。奴隷には解放を約束した。しかし、口約束が守られたためしはない。トラシュブウロスは、帰還後、自分を初めから支持した者たち全員に、民主制回復の功労者として市民権を与えるよう民会提案した。しかしそれは、アルキノスの反対にあって否決された。そこには奴隷も含まれていたから、その否決は当然と、アリストテレスは、反対者の政治的手腕を評価している(『アテナイ人の国制』第40章)。しかし、密告者に対する殺意に満ちた白眼視に耐えながら、それでも戦列を離れようとはしなかったアゴラトス、――その心中を語る資料は何もない。 |