第17弁論
[解説]ニキアスは、ペリクレス亡き後、アテナイを代表する将軍として、ペロポンネソス戦争を闘った。穏健な思想の持ち主で、外交政策の重要性をよく認識し、主戦民主派のクレオンと対立した。しかし、激動するアテナイ政界にあっては、彼の穏健さは単なる愚鈍さと映ったことであろう。にもかかわらず、ペロポンネソス戦争が始まって十年目のこと(BC 421)、平和条約の締結に尽力して、休戦にこぎつけるという働きもした。この休戦は、彼の名を冠して「ニキアスの和平」とも呼ばれている。 その後、アルキビアデスの台頭により、ニキアスは精いっぱいの反対をしたにもかかわらず、アテナイはシケリア遠征を決定し、心ならずも彼はその責任者に任ぜられる(BC 415)。遠征の主唱者アルキビアデスは、ヘルメス神像毀損事件の嫌疑で、祖国に召還される途中逃亡。もう一人の将軍ラマコスは翌年戦死。作戦遂行の責任は彼一人の肩に掛かることになった。 しかし、形勢は一向に好転する気配もなく、要請によってデモステネス麾下の救援部隊が投入された時には、もはや奈何ともしがたいありさまであった。早急に撤退すべきであるとのデモステネスの進言を、月食(BC 413年8月27日)を理由に退けたため、脱出の好機を失った。このため、悪意ある歴史家は、彼を迷信家なりとの一言で片付けようとする。脱出の最後の機会を失ったため、アテナイ艦隊は、シュラクサイの港内で壊滅。陸路による撤退を試みたが、アッシナロス河畔で全滅した。ニキアスは捕らえられて処刑され、アテナイ軍全滅の将として、千歳青史に名を残す結果となったのである。 ニキアスはまた富裕者としても知られ、ラウレイオン鉱山では1000人の奴隷を使役していたと伝えられ、その規模が想像できる。 彼には二人の兄弟、エウクラテスとディオグネトスとがいた。前者は、BC 404年、「三十人」によって反逆罪のかどで殺害された。後者は、BC 403年、民主派といっしょに帰還した英雄であったが、帰還後、間もなく死去した。 コリントス戦争に先立つ比較的平和な時期に、エウクラテスの二人の息子は設人し、富裕者が果たすべき公共奉仕をし得る年齢に達した。この時、おそらくBC 396年ころ、彼らの父祖伝来の財産を没収すべしとのポリオコスなる人物の訴追を受ける。この訴追は二度目で、一度目は既に民主制回復後間もなく、彼らがまだ子どもであった時になされたが、その時は勝訴した。 告訴事由は、おそらく、彼らの父親(エウクラテス)の公金横領か運用上の欠損を指弾されたものであろうが、陳述部が欠けているので、詳細は不明である。 |