title.gifBarbaroi!
back.gif第18弁論


Lysias弁論集



第19弁論

アリストパネスの財産に関して 執達吏に対して






[解説]



 アテナイにとって、戦後復興の第一の功労者はコノンであった。

 アルキビアデスの失脚(BC 407)後、エーゲ海方面筆頭司令官となったコノンは、アルギヌウサイの海戦のおり(BC 406)には、別のスパルタ艦隊に包囲されていたため、たまたま現場に居合わせなかった。おかげで、弾劾裁判を免れ、他の6人の将軍のようには処刑されないですんだ。BC 405年のアイゴス・ポタモイでのアテナイ艦隊壊滅のおりには、逸速く危機を察し、彼のみが脱出した。しかし、弾劾裁判を恐れて、キュプロス島のサラミス王エウアゴラスのもとに逃げこんだ。エウアゴラスは、ペルシアに面従しつつ、心中ひそかにキュプロス島の統合を狙っていたのである。

 スパルタとペルシアとの蜜月が、王位を狙った小キュロスの野望とともについえた後、コノンはエウアゴラスの後押しで、ペルシアの太守パルナバゾスの準備した艦隊の指揮を執ることになった(BC 397)。幾多の戦いの後、ついにBC 394年、クニドス沖でスパルタ艦隊を壊滅させ、エーゲ海におけるスパルタの制海権を終息させた。この功績と、破壊された長壁再建の資金を手土産に、意気揚々、アテナイに帰還した(BC 393)。

 しかし、我が身の安泰を図るためには、もう一つやっておかなければならないことがあった。それは、アイゴス・ポタモイの敗戦の責任処理であった。

 アイゴス・ポタモイの海戦のおり、敵将リュサンドロスは、アテナイの将軍を含む3000ないし4000人を捕虜にし、将軍の一人アデイマントスを除いて、ことごとく殺害した。アデイマントスが処刑を免れたのは、かつてアテナイ民会が、敵の捕虜は二度と武器をとれないように、その右手を切断すべしとの決議を採択しようとした時、これに反対した一人であったことが知られていたからであった。彼は、身代金を払ってか、リュサンドロスの威光によってか、アテナイにもどっていた。

 今や、敗戦の責任を負うべき生き残りは、このアデイマントスとコノンの二人しかいなかった。十年ぶりにアテナイに帰国したコノンのやるべきことは、二人共倒れするか、あるいは、どちらかが助かるか、いずれかしかない。コノンは迷わずアデイマントスを弾劾裁判に告訴した。アイゴス・ポタモイの戦いで、将軍の一人でありながら、敵を買収して一人生き残った――売国の罪状によってである。もちろん、アデイマントスは断罪された(BC 393/392)。

 こうして、コノンはアテナイ政界における地位を不動のものとした。

 だが、国際情勢は動いていた。形勢不利とみたスパルタは、パルナバゾスとは対立するもう一人のペルシアのリュディア太守ティリバゾスに接近し、サルディスで和平会議を開くよう働きかけていた。その地でコノンは逮捕され、何とか逃げたものの、間もなく没した(BC 392)。

 コノン麾下の有能な指揮官の中に、ニコペモスがいた。彼は、コノンとともに、幾多の対スパルタ海戦を勝ち抜いて、アテナイが再び国際政治の舞台に復帰するための足がかりを作った功労者であった。しかし、コノンにしろ、ニコペモスにしろ、彼らは、拠点をキュプロスに置き、間断なく軍事作戦行動に従事するという、半ば職業軍人化した姿を呈している。その点で、市民=為政者=戦士という図式が、徐々に崩れつつあることを感知させられる。コノンには、後にやはり将軍として活躍することになるティモテオスという息子があり、ニコペモスには、本弁論で問題になるアリストパネスという息子がいたが、彼らはいずれも息子たちアテナイ本国に残し、そこでの教育を受けさせている。

 さて、ニコペモスの息子アリストパネスは、父親と同様、国事に奔走することを生き甲斐とするようなタイプの男であったようだ。BC 393年には、コノンの指示を受けて、シケリア島シュラクサイに赴き、僣主ディオニュシオスに対して、スパルタとの友好関係を廃し、キュプロス島のエウアゴラス王と友好関係を結ぶよう説得を試みた。

 BC 390年、ニコペモスとアリストパネス父子は、ついにペルシアに反旗を翻したエウアゴラス支援のために、キュプロスに遠征するが、これは失敗する。そればかりか、コリントス戦争を戦っている最中のアテナイにとって、ペルシアを刺激することは国策に反することであった。弾劾裁判にかけられ、父ニコペモスは裁判の前に死んだが、息子アリストパネスは死刑、財産は没収、屍体は埋葬もされず遺棄された。この厳しさは、国家反逆罪で有罪となった者に対しては一般的であった。

 ところが、没収された財産が、予想されていたよりもはるかに少なかったために、アリストパネスの岳父が、財産の一部を隠匿したのではないかとの嫌疑をかけられ、告発される。岳父は、アリストパネスの妻(つまり、自分の娘)と三人の子ども(つまり、自分の孫たち)とを、アリストパネスの死後、後見人として引き取っていたのである。

 この後見人は、裁判以前に死亡したため、彼の一人息子が代わりに、財産の一部隠匿は事実無根であるとの弁明を行う。それが本弁論である。

 この裁判の年代は、将軍ディオティモスへの言及があるところから、BC 388/387年。法廷を管掌するのは、没収財産裁定委員会(syndikoi)であったと考えられる。これは、本来は、国を対象とした訴訟において、国側の意見を代表する代理人の役を務める機関であったが、BC 403年、「三十人」政権倒壊後、没収財産に関する訴訟を受理する機関に変わったものである。

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