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back.gif[解説]4 審理の実際


Lysias弁論集



第一弁論

エラトステネス殺害容疑のための弁明






[解説]



 アテナイの成文法は、紀元前 620年ころ、ドラコンの立法をもって嚆矢とする。この法律は「血で書かれた」と称されるほど、些細な犯罪にも死刑を課するという過酷なものであった。前 594年、ソロンはアテナイの改革にとりかかり、ドラコンの法もそのほとんどすべてを廃止したが、ただ、殺人に関する部分だけは残したと伝えられている(『アテナイ人の国制』第7章)。そして、これが、前 4世紀まで、アテナイの現行法であった。

 アテナイの現行法において、人を殺しても殺人罪に問われない場合がいくつかあった。戦闘中誤って味方を殺したとき、競技中の過失致死、強盗に対する正当防衛などであるが、もう一つ、当人の妻・母・姉妹や、嫡子を得るための妾と通じている姦夫を現場で殺したときがある。法文上は一点の紛らわしいところもないようだが、現実の事件となると、そうはいかない。

 エウピレトスなる人物が、自分の妻と同衾中の姦夫エラトステネスなる者を殺害した。ところが、〃エウピレトスは、かねてよりエラトステネスと金銭上の利害関係があり、策をめぐらしてこれを路上より邸内に引きずりこんで、助命嘆願するのも構わず殺害に及んだ〃として、謀殺のかどをもってエラトステネスの親族によって訴えられたのである。これに対する被告エウピレトスの弁明が、以下の弁論である。

 被告には不利な点がいくつかあった。姦通現場を目撃して、激情に駆られて即座に殺害したというのではなく、助っ人多数を糾合したという点が、その第一である。第二に、現行法は確かに姦夫殺害を容認していたが、これが義務であるとは規定していなかった。それゆえ、姦通は金銭で解決されるのが当時の風潮であり、被告自身もこの事実を認めている。風潮といえば、われわれはアリストパネスの猥雑ともいえる喜劇を知っている。妻の姦通に戦々恐々となっている男たちと、そんな男たちをからかうような、女たちのおおらかな姦通賛歌とを(特に『女だけの祭』を見よ)。このような風潮は、被告にとっては明らかに不利に作用したであろう。

 しかし、だからと言って、姦通があたかも当時のアテナイの風潮であったかのごとく想うのは間違いである。むしろ、姦通を一つの武器とした「女性総反乱」のイメージ(例えば『女の平和』)こそ、女性を抑圧しているという想いが、男性の意識の深層に生んだ恐怖心の反映ではなかったか。つまりは、女性の抵抗が、あり得る道理としてではなく、単なる哄笑の対象でしかなかったところに、女性がまったく閉塞的状況におかれていたアテナイの現実があったと言ってよい。姦夫殺害は義務ではなかったが、姦通した妻を離縁することは間違いなく義務であった。離縁しなければ、夫の方が市民権を剥奪されたのである。そして姦婦の方は、離縁されるばかりでなく、公共の神事に参加することを禁じられ、参加した場合には、死以外のどんな仕打を受けても、お構いなしとされた(デモテステネス、弁論第59番87節)。これが現実だったのである。

 にもかかわらず、姦通は起こった。そして、本弁論の被告は、導入部分において、ほかならぬ男の裁き手たちに、姦通罪に対する怒りの普遍性を思い出させ、本論においては、自分がいかに善良で良識的な夫であったかを言い立て、姦夫殺害が計画的なものではなかったことの証明と、古めかしい法文の重要性について力説する。この訴訟がいつ行われたのか、年代決定の決め手に欠けるが、被告の姦夫殺害という行為は、「父祖の国制に帰れ!」が合言葉であった当時の時代風潮を反映したか、あるいは、利用したものであることに間違いはあるまい。

 原告が、被告と被害者との間に存したという利害関係を、どのように言い立てたかはわからないが、被告の方は、妻を寝取られた哀れな(だが、幾分かは間抜けで滑稽な)亭主の役を演じきる法廷戦術を採用した。それがいかにも説得的であればあるほど、それではなぜ殺害に及んだのか、かえって疑いたくなる。姦通事件の裏に、何か大掛かりな陰謀でもあったような気がしてくるのは、どうしたことであろうか。

 事件は、被害者の親族によってバシレウスに提起され、バシレウスはこれを予審した上で、裁判所に回付する。法廷は、アクロポリスの東方にあるデルピニオンの神域において白日の下に開かれる(アリストテレス『アテナイ人の国制』第57章参照)。この法廷に屋根がないのは、殺人の汚れに伝染しないためと伝えられている。裁判官はephetai と呼ばれ、五十歳以上の五十一人で構成されていたと言われるが、これには疑問もある。もしも有罪となれば被告人は死刑。判決が下る前に国外に逃亡すれば、国外追放を宣告され、財産は没収される。だが、残念ながら、いかなる判決が下されたかは不明である。

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