第2弁論・解説
[1] もしも私が、おお、葬儀参列者諸君、ここに横たわれる勇士たちの徳を言葉によって顕彰することができると考えていたなら、わずかしか日数がたっていないのに演説するよう布告した者たちに不平を鳴らしたことであろう。だが、いかなる人間にも、いかに時間があっても、この人たちの業績に見合った演説を準備するに充分でないから、それゆえ国家も、思うに、ここで演説するものたちのことを見越して、日ならずして日取りを決めたのは、かくすれば彼らが聴衆から大いなる容赦を得られると考えてのことであろう。 [2] ともあれ、私の演説は、この人たちに関するものではあるが、この競演はこの人たちの業績に対してではなく、この人たちのためにさきほどから弁じきたった人たちに対してのものである。何となれば、この人たちの徳は、詩作するに有能な人たちにも弁舌を望んだ人たちにも、おびただしい素材を準備してくれた結果、そのおかげで、多くの美しいことが先行者たちによってこれらの人たちについてこれまで弁じたてられてきたのであるが、その人たちによってさえ多くのことが言い漏らされており、これから生まれきたる子孫たちにも、弁じることのできることが十二分にあるのである。なぜなら、陸も海も彼らの経験せざるところは何一つなく、至る所で、ありとあらゆる人間のいる場で、自分たちの害悪を悲嘆する人たちには、これらの人たちの徳を賛美しているからである。 [3] そこで、先ず第一に、先祖たちの昔の危難を私は詳述しよう。伝説から記憶を呼び戻して。あの人たちについても記憶にとどめることは、万人にとっての務めだからである。歌のなかで賛美し、善き人たちの記念碑の前で演説し、こういった機会に誉めたたえ、死者たちの業績によって生者たちを教導して。 [4] さて、昔、アレスの娘たるアマゾンたちは、テルモドン河のほとりに住んでいたが、彼女たちの周囲の人間たちのなかで彼女たちだけが鉄で武装し、万人のなかで初めて馬に騎乗し、これがために、わけもなく、敵対者たちというものに無経験であったために、逃げんとする者たちを追いかけ、追いかけるものたちを置き去りにしたものであった。そして、彼女たちは生まれついての女であるよりは、勇敢さゆえに男であると信じていた。すなわち、姿の上では後れをとっても、魂の上では男たちよりもはるかにぬきんでていると彼女たちは思っていたのである。 [5] そこで多くの民族を支配し、行動によっては自分たちの周りの民族を奴隷化し、言葉によっては、当地〔アテナイ〕について評判の大きいことを耳にして、多大な名声と大きな野望のために、最も好戦的な民族と組んで、当国に向けて出征したのである。だが、善き戦士たちに遭遇するや、生まれつきに等しい魂となって、それまでの評判とは反対の評判を得て、身体によってよりはむしろ危難が原因で、女だと思われたのである。 [6] しかしながら、彼女たちだけは、過ちから学んで爾余のことについてより善く議するということができず、家郷へ引き返して、自分たち自分の不運と、われわれの祖先たちの徳とを、報告することもできなかった。すなわち、当地で死ぬことで、無謀の償いをしたがために、当国の徳のおかげでもって記憶を不死となしたとはいえ、自分たちの祖国は当地での災禍のせいで無名のままとしたのである。とにかく、彼女たちは他人の国家を不正に欲求したがために、自分たちの国家を義しくも破滅させたのであった。 [7] さらに、アドラトスとポリュネイケスとがテーバイに向けて出征して闘いに敗れ、その屍体の埋葬をカドモスの子らが許さなかった時、アテナイ人たちは、あの者たちが何らかの点で不正したとしても、死んで最大の償いをしたのであり、地下の神々が自分たちのもの〔アルゴス七将の屍体〕を受領せず、神域がけがされれば天上の神々が涜されると考え、先ず初めに伝令使を送って、屍体の収容を許すよう彼らに要求したが、 [8] それは、敵が生きているときにこれに報復するのは善き戦士のやることだが、死者の身体に勇敢さを見せびらかせるのは、自分自身に自信のない者たちのやることだと信じるからである。しかるに、その要求がいれられなかったため、彼らに向けて出征したが、カドモスの子らに対してそれまでに何ら仲違いがあったからではなく、アルゴス人たちの生き残りに恩を着せるためでもなく、 [9] 戦争で死んだものたちがしきたりに与ることを要請して、双方に対して次の二つのことのために身を危険にさらしたのである。つまり、前者のためには、死者たちに罪過を犯してもはやこれ以上神々に対して凌辱しすぎないようにと、そして後者のためには、自分たちの国へと退却を早まって、祖国の名誉を得損ない、ヘラスの法習を喪失して共有の希望から外れてしまわないようにと。 [10] こういったことに心を留めて、また戦時の運命は万人に共通と確信して、敵国人たちの数は多かったが、正義を味方に闘って勝利したのである。その幸運に思い上がってカドモスの末裔により大きな報復を求めることなく、彼らには涜神の代わりに自分たちの徳を示し、自分たちは到来の目的であった褒賞つまりアルゴス人たちの屍体を手にいれて、自分たちの地エレウシスに埋葬したのである。とにかく、テーバイへ向かった七将の死者たちに対しては、このようなふるまいに及んだのであった。 [11] さらに、その後、ヘラクレスが人間界から姿を消し、彼の子どもたちはエウリュステウスの手を逃れたが、全ヘラス人たちに追い払われた。ヘラス人たちは自分たちの行いを恥じたが、エウリュステウスの権力に恐れをなしたからである。かくして、この〔アテナイの〕国にやってきて、嘆願者として祭壇にすがった。 [12] その彼らをエウリュステウスが引き渡し要求したとき、アテナイ人たちは引き渡しを拒否し、自分たちの危険を恐れるよりは、ヘラクレスの徳のほうを畏怖し、正義とともにより弱い者たちのために闘い抜くことのほうを尊んだのである。権力者たちに恩を着せるために、彼らに不正されているものたちを引き渡すことよりも。 [13] そこでエウリュステウスが、当時ペロポンネソスを領有していたものたちといっしょになって攻め寄せてきたとき、恐るべき事態が近づいても変節することなく、終始変わらぬ同じ考えを持ち続けたが、それは、彼らの父親のおかげで私的に何ら善いことを被ったわけではなく、また彼らが将来成人した暁にどういう人物になるか知っていたからでもない。 [14] それが義しいことだと信じたからであって、エウリュステウスに対して以前から敵意があったわけでも、善い評判以外に利得がかかっていたわけでもないのに、これほどの危険を彼らのために引き受けたのは、不正されるものたちを哀れみ、凌辱者たちを憎み、そして後者は妨害せんと企て、前者は援助することを貴び、何をも意に反してなさざることこそ自由の徴、不正されるものたちを助けることこそ正義の徴、これら両方のために、もしも必要とあらば、闘って死ぬことこそ勇敢さの徴だと考えるからである。 [15] しかも、双方ともに血気盛んなあまりに、エウリュステウス一味のほうは、相手が自分からすることには何の価値も見い出そうとせず、アテナイ人たちのほうは、エウリュステウス自身が嘆願者となったとしても、自分たちの所に来た嘆願者たちを拉致することを認めようとはしないほどであった。かくして戦闘配置について、ペロポンネソス全島から出撃してきた軍勢と独力で闘って勝利し、ヘラクレスの子どもたちの身柄を免罪とし、恐怖から解放して魂をも自由とし、父親の徳に報いるために自分たちの危難を賭して彼らに花冠をかぶせたのである。 [16] かくして、子どもでありながら、かくまでも父親よりも幸運に恵まれたのである。なぜなら父親のほうは、なるほど、万人にとって多くの善いことの原因となり、労苦と勝利愛と名誉愛とのために、自分の人生を捧げて他の不正者たちを懲らしめたが、エウリュステウスや敵対者や自分に向かって過ちを犯したものに報復することはできなかった。これに反して彼の子どもたちのほうは、この国のおかげで、同じ日に、自分たちの救済と敵たちへの報復とを同時に目にしたのである。 [17] さて、多くの場合、私たちの祖先の特性は、一つの考えをもって正義のために闘い抜くというところにあった。なぜなら、誕生の初めからして義しいからである。すなわち、多くの人たちとは違い、ありとあらゆる場所から集まって、他の人たちを放逐して、他人の土地に住みついたというのではなく、生え抜きであって、母をも祖国をも同じものを所有してきたのである。 [18] また、あの時代に、自分たちのもとなる権勢者たち(dynasteia)を放逐して、民主制を樹立した唯一最初のものとなったのは、万人の自由こそ最大の同心であると考えたからであるが、危難から生まれる希望をお互い共有して、 [19] 法習によって善人たちを称え悪人たちを懲らして、自由な魂によって為政したのは、お互いに力で制圧されるのは動物のすることだが、人間たちには、法習によって正義を定め、言葉によって説得し、行動によってこれらに仕えるのがふさわしいと考えたからである。法習によっては王支配されるが、言葉によっては教導されるものたちならば。 [20] かくして、生まれも美しく育ちも同様であるがゆえに、多くの美しく驚嘆すべきことを、ここに横たわれる人たちの祖先は仕遂げてきたのであるが、彼らから生まれた後裔は、千歳青史に残る大きな勝利牌を、それも至る所に、自分たちの徳によって残したのである。何となれば、彼らのみが、ヘラス全体のために無量数の異邦人相手に危険に身を挺したからである。 [21] すなわち、アジアの王は、手元にある善きものでは満足せず、エウロペをも隷従させようと望んで、五十万の軍勢を差し向けたのである。そして、この国を自発的な友邦とするなり、心ならずも服従させるなりしたなら、その他のヘラス人たちを支配するのは容易であろうと考えて、マラトンに上陸したが、かくすれば、来襲者たちをいかなる仕方で防ぐかヘラスがまだ党争している間に、危機に陥ったら、同盟者たちから孤立無援になると信じたからであり、 [22] さらにまた、彼らには、国家に関する従来の行動から推して、次のように思い至ったからである。つまり、もしも先に他の国に矛先を向ければ、その国人たちとともにアテナイ人たちとも戦争することになろう(不正されているものたちを助けんと懸命に駆けつけるであろうから)。だが、ここを最初に攻撃すれば、ヘラス人たちの中には仲間を救うことで、そのためにあのもの〔ペルシア人〕たちに対する敵意を公然化させるようなまねを敢えてするものは、他には誰もいまい、と。 [23] とにかく、彼らはそういうことを考えた。だが私たちの祖先は、戦争の危難を計量するのではなく、栄光の死は善き人たちの間に不死なる伝承を残すと信じ、敵対者の多さを恐れるのではなく、自分たちの徳をむしろ信じたのである。そして、異邦人たちが自分たちの領地にいるということを恥じて、同盟者たちが聞き知ることを待たず、その来援をも待たず、また救済を感謝すべきは仲間に対してではなく、自分たちにこそ他のヘラス人たちが〔感謝すべき〕だと思ったのである。 [24] 以上の点で一致して、彼らはみな無勢で多勢に立ち向かったのである。なぜなら、死ぬことは自分たちにとって、いついかなるときにもふさわしいが、善き人〔勇士〕である機会は滅多になく、魂は死によって他人のものとなるが、危難から生じた記憶は個人のものとして残ると信じたのである。そこで彼らは願った、自分たちだけでは勝てなかった相手に、同盟者たちといっしょなら勝てたというようなことのないように、そして敗れるならわずかでも他の人たちに先立ち、勝利するなら他の人たちをも自由にするように、と。 [25] かくして、彼らは善き人となり、身体を捧げ、徳のために身命を惜しまず、敵たちに対面する危険を恐れるよりは、むしろ自分たちのもとにある法習の前に恥じる心をもって、ヘラスのために異邦人たちに対する勝利牌を打ち立てたのである。金品目当てに、自分たちの国から出て、土地の境界を越えて、他国に侵入した異邦人たちに対する。 [26] そうして、彼らがあまりに迅速に危険を引き受けた結果、異邦人たちの当地への来襲と祖先たちの勝利とを他の人たちに報告したのが、同一人物になってしまったほどであった。というのも、他の人たちは誰一人として、差し迫った危険を恐れたものはおらず、後で聞いて自分たちの自由を喜んだのである。したがって、何ら驚くべきことではないのである、――この偉業は昔起こったことにもかかわらず、あたかも新しいことのように、今もなお彼らの徳が万人によって羨望されているとしても。 [27] さて、その後、アジアの王クセルクセスは、ヘラスを侮り、野望に偽られ、生じた結果に面目を失って、災禍に憤慨し、張本人たちに怒り、害悪に蒙昧で善き人たちに無経験なため、十年目に戦備を整えて1000と200艘の艦船を擁して来襲し、率いた陸上部隊のほうはあまりに無量数なため、彼に追従した民族でさえ数え上げるのはたいへんな仕事であったろう。 [28] だが、数の多さを示す最大の徴はこうである。すなわち、1000艘の艦船でもって、ヘレスポントスの最も狭隘な地点を、アジアからヘレスポントスへと陸上部隊を渡すことが彼にはできたのに、それを拒んだのであるが、それは、自分にとってたいへんな暇つぶしになると考えたからである。 [29] むしろ、自然の産物をも神的な摂理をも人間的な精神をも見くびって、海の中に道路を作らせ、大地の上に航路を出現させたのである。ヘレスポントスを軛で繋ぎ、アトスを掘り抜いて。逆らうものは誰もおらず、あるものは意に反して服したが、あるものは喜んで裏切り者となったからである。何となれば、前者は自衛するに充分ではなく、後者は金品によって堕落させられたからである。要は、彼らを説得したのは、利得と恐怖、この二つであったのだ。 [30] これに反して、アテナイ人たちは、ヘラスがかくのごとき状態であったにもかかわらず、みずからは艦船に乗り組んでアルテミシオンに救援に赴き、ラケダイモン人たちと、同盟者たちの中の何人かは、テルモピュライへと迎撃に赴いた。土地の狭さゆえに侵入を守り抜けると考えたのである。 [31] かくして、時を同じくして危機〔戦闘状態〕に陥り、アテナイ人たちは海戦に勝利したが、ラケダイモン人たちは、魂に欠けるところがあったゆえではなく、守備につくと思っていた人数も、〔自分たちが〕危機に身を挺さんと臨んだ相手の人数も、ともに数に偽られたために全滅し、敵対者に敗れてではなく、闘うべく戦闘配置されたその場で死んだのである。 [32] さて、かかる次第で〔ペルシア勢の〕一方は不運に見舞われたが、他方は侵入路を制したので、後者はこの國に向けて進軍したが、わたしたちの祖先はラケダイモン人たちの身に起こった災禍を聞き知り、身に迫った事態に窮し、といって、陸上で異邦人たちを迎撃すれば、1000艘の艦船で来航した者たちが本国を孤立させるであろうし、三段櫂船に乗り組めば、陸上部隊に圧倒されることはわかっていたので、したがって自衛することと充分な守備隊を残すことと、両方は可能ではなく、それゆえ課せられたことは二つに一つ、 [33] つまり、祖国を見捨てるべきか、あるいは、異邦人たちといっしょになってヘラス人たちを隷従させるべきか、どちらかであったので、汚名と富裕をともなって祖国が奴隷状態にあることよりも、徳と貧しさと亡命状態に陥ってでも自由であることのほうが勝っていると考えて、ヘラスのために国を見捨てることにしたが、それは両方の勢力に対して同時にではなく、一つずつ順番に危険に身を挺さんとしたからであった。 [34] そこで子どもたちや女たちを落ちのびさせた上で、他の同盟者たちの艦船もサラミスに集結したのである。かくて、日ならずして、異邦人たちの陸上部隊も海上部隊も襲来したが、これを目にして恐れなかったものが誰かいるであろうか、――この國にとって、いかに大きな恐るべき危険が、ヘラス人たちの自由を賭して争われるかを。 [35] さらに、彼の艦船に乗り組んでいる者たちを目にした人たちは、自分たちの救いも来るべき危険も信じられずに、いかなる考えを持ったことであろうか。あるいは、友邦のためにサラミスでの褒賞を賭して海戦せんとする者たちは〔いかなる考えを持ったことであろうか〕。 [36] 敵国人たちの多勢がこれほど至る所に取り囲んだ結果、彼らにとって自分たちの死を予見することは目下の諸悪の中で最小のものであり、最大の災禍は、異邦人たちが幸運に恵まれた時に、避難しているものたちが何をされるかを予測することであった。 [37] 定めし、目前の困窮ゆえに何度も彼らは相互に握手を交わし、当然ながら、自分たちの身を嘆いたことであろう。自分たちの艦船の少なさを知り、敵の艦船の多さを目にしたからである。さらに、国が荒廃させられ、土地が荒されて異邦人たちに充たされているのを知り、また、神殿は焼かれ、あらゆる恐るべきことが近づいている、時を同じくして耳にしたのは、 [38] ヘラス人の突喊歌と異邦人たちの突喊歌とが混じり合い、両軍の掛け声、絶命するものたちの悲鳴、また海は屍体に充ち、友邦のも敵国のも、おびただしい船の残骸がぶつかり合い、長い間、海戦は拮抗状態にあって、ある時は勝利して救われたと思い、ある時は負けて破滅したと思われた。 [39] 定めし、目前の恐怖ゆえに、見たこともないことを多く見、聞いたこともないことを多く聞いたと彼らは思ったことであろう。神々への嘆願とか供犠の思いつきとか、生じなかったようなものがあろうか。子どもたちへの哀れみと女たちへの恋慕、父たちや母たちの悲嘆、不運に見舞われたときの来るべき諸悪の推測があったのではないか。 [40] 神々のうち誰が、危険の大きさゆえに彼らを哀れまないでいられたであろうか。あるいは、人間たちのうち誰が涙せずにいられたであろうか。あるいは、彼らの大胆さに驚嘆しなかったものが誰かいようか。たしかに、彼らは徳の点で、評議に際しても戦争の危難に際しても、いかなる人間たちよりも格段に卓越していたので、国を見捨てて、艦船に乗り組み、自分たちの人員は少なかったが、アジアの多勢に対置した。 [41] そして海戦に勝利して万人に証明したのである、――わずかな人数ででも自由のために危険に身を挺するほうが、王制支配されている多勢とともに自分たちの奴隷状態を競い合うよりも勝っているということを。 [42] さらに、彼らは最多にして最美なものをヘラス人たちの自由のために分担したのである。つまり、判断力も実行力も十二分なテミストクレスを将軍として。他の全同盟者たちよりも多い艦船を。最も経験豊かな戦士たちを。というのも、他のヘラス人たちのうち判断力、数、徳の点で誰が彼らに匹敵しえたであろうか。 [43] かくして、ヘラスから異論の余地なき海戦の武勲を得たのは義しく、危難に相当する幸運〔繁栄〕を所有したのは当然であり、アジアから来襲した異邦人たちに向かって、自分たちの徳が嫡出にして生え抜きのものたることを証明したのである。 [44] さて、海戦において自分たちをそのようなものとして提示し、危難に最も多く参加して、私的な徳によって他の人たちにも共通なものとして自由を彼らは所有したのである。しかるに、後になって、ペロポンネソス半島の人たちはイストモスに防壁を築き、救済に満足し、海上の危険からは解放されたと信じ、他のヘラス人たちが異邦人たちの手に落ちたのを見過ごしにしようと考えていたとき、アテナイ人たちは怒って彼らに忠告した。 [45] ――そんな考えを持つなら、ペロポンネソス半島全周に城壁を巡らすがいい。なぜなら、自分たちがヘラス人たちに売り渡されて異邦人たちの側につくようなことになれば、あのものたちに1000艘の艦船も必要はなく、こちらにはイストモスにある城壁も役に立つまいから。海の支配権は危なげなく王のものとなるであろうから、と。 [46] そこで、そう教えられ、自分たちは不正事を為し悪く評議しているが、アテナイ人たちは義しいことを言い自分たちにとって最善なことを勧めてくれていると信じたので、プラタイアへと救援に赴いたのである。だが、ほとんどの同盟者たちが、敵国人たちの多さに、持ち場を捨てて夜陰にまぎれて逃走したのであるが、ラケダイモン人たちとテゲア人たちは異邦人たちを陽動し、アテナイ人たちとプラタイア人たちは、自由をあきらめて奴隷状態に甘んじていたヘラス人たち全員と闘って勝利したのである。 [47] その日こそ、それまでの危難に最美の結末をつけて、エウロペに自由を確実なものにしとげ、あらゆる危難のなかで自分たちの徳を試金石に掛け、自分たちだけでも、また、他の人たちといっしょでも、陸戦においても海戦においても、異邦人たちに対してもヘラス人たちに対しても、万人によって、ともに危険に身を挺した人たちからも、戦った相手からも、ヘラスの指導者となるよう要請されたのである。 [48] しかるに、程なく、過去の事績に対する羨望と業績に対する嫉妬が原因で、ヘラスの戦争が起こったとき、皆の気持ちは尊大だが、各々が訴訟を求めること少なく、アテナイ人たちとアイミナ人たちおよびその同盟者たちとの間に海戦が起こったとき、彼らの三段櫂船70艘を捕獲したのである。 [49] さらに、時を同じくして、アイミュプトスとアイミナを攻囲し、壮丁層は艦船にあるいは陸軍に出払って不在であったとき、コリントス人たちと彼らの同盟者たちは、領土を孤立無援に陥れられるかアイミナから軍を引かせるかしようと考えて、総出で出陣してゲラネイアの丘陵を占拠した。 [50] だがアテナイ人たちは、一方のものたちは出払っており、他方のものたちは接近していたが、誰をも敢えて呼び戻さなかった。そして、自分たちの員数を信じ攻撃してくるものたちを見くびって、老年者たちと年端のいかぬものたちとが自分たちだけで危険に身を挺することを要請したのである。 [51] 前者は経験の点で、後者は自然本性の点で、徳を所有していたから。また、前者はみずからが多くの戦場で善き戦士となり、後者は前者を見習い、年長者たちは指揮の仕方を知り、若者たちは下命されたことを実行することが可能なものたちであるから。 [52] かくして、ミュロニデスが将軍となって、彼らはみずからメガラに向かって撃って出て闘い、相手の全線で勝利したのである。すでに引退したものたちと、まだ力のないものたちとで、自分たちの土地に侵入しようとしたものたちを、他国に迎え撃ったものたちが、 [53] 自分たちにとっては最美の、だが敵国人たちにとっては屈辱きわまりない、仕事の勝利脾を打ち立て、一方は身体的にもはや無理なものたち、他方はまだ無理なものたちだが、魂の点では両者とも勝ったものとなり、最美の名声をともなって自分たちの国に凱旋し、一方はふたたび教育を受け、他方はし残していたことについて評議したのである。 [54] さて、多くの人たちによって経験された危難を一つずつ一人で述べるのは容易ではなく、また全時間にわたってなされたことが一日で顕彰されることもまた然りである。はたして、いかなる言葉、時間、弁論家が、ここに横たわれる勇士たちの徳を告げるに十分であろうか。 [55] 何となれば、最多の労苦と明々白々の闘争と最美の危難によってヘラスを自由と為し、自分たちの祖国を最大のものと立証したのである。70年にわたって海を支配し、同盟者たちを内紛なきものとして提示し、 [56] 寡勢でもって多勢を隷従させることを要求してではなく、すべての国家が平等であるように強いて、同盟者たちを脆弱にするのでもなく、それらをも強力なものに確定して、そして自分たちの力をそれほどのものとして証明した結果、大王はもはや他者のものを欲求せず、自分のもののなかから与え、余分なものについて恐れるようになり、 [57] またあの時代に三段櫂船をアジアから出航させることもなく、僣主がヘラス人たちのなかに就任することもなく、ヘラスの国が異邦人たちによって奴隷人足にされることもなかった。これほどの慎みと畏怖とをこれらの人たちの徳が万人にもたらしたのである。これがゆえに、彼らのみがヘラス人たちの保護者とも国々の指導者ともならねばならないのである。 [58] また、不運に際しても彼らは自分たちの徳を証明した。すなわち、艦船が、指導者たちの悪さによってのにせよ神々の思し召しによってにせよ、ヘレスポントスで破滅し、彼の最大の国難が、不運に見舞われたわれわれにも他のヘラス人たちにも生じたとき、久しからずして明らかとなったのは、わが国の力がヘラスの救いであるということであった。 [59] なぜなら、他の指導者たちが現れたときには、海戦してヘラス人たちに勝利したのは、それまで海に乗り出したことのないもの〔ペルシア人〕たちであり、彼らはエウロペに遠征し、ヘラス人たちの国々を隷従させ、〔ギリシア諸都市に〕僣主たちが、あるものはわれわれの国難の後に、あるものは異邦人たちの勝利の後に、君臨したのである。 [60] それゆえに、かつて、この墓標の上で、髪を切って、ここに横たわれるものたちを哀悼したのはヘラスにとってふさわしいことであった。自分たちの自由がこれらの人たちの徳といっしょに葬られたのだから。不運なるかな、ヘラス、――このような勇士たちの孤児となるとは。幸運なるかな、アジアの王、――相手に対する指導力を掌握するとは。なぜなら、前者には、この人たちを奪われて隷従状態が帰結し、後者には、他のものたちが支配することになったので、先祖の計略に対する羨望が内生しているのだから。 [61] いや、以上のことは、ヘラス全体を嘆くあまりに横道しすぎた。だがあの勇士たちのことに言及するのは、私的にも公的にも価値あることである。彼らは隷従を逃れ、正義のために闘い、民主制のために党争を起こして、あらゆる人たちを敵としながらもペイライエウスへと帰還したが、それは法によって強制されたゆえではなく、自然本性に説得されて、新しい危難に際して先祖たちの古来の徳をまねて、 [62] 自分たちの魂を代償に国家を他の人たちにも共通のものとして所有しようとして、自由と共なる死のほうを、隷従と共なる生よりも選んで、敵対者たちに怒るのに劣らず国難を恥じるがごとく、自分たちの国で死ぬことのほうを、他国に住みながら生きることよりもむしろ望んで、同盟者としては誓約と協定を、敵としては以前からの既成の敵と自分たちの同市民を持って。 [63] にもかかわらず、反対者たちの多さを恐れることなく、自分たちの身を賭して危険を冒し、敵国人たちに対する勝利牌を打ち立てたが、自分たちの徳の証人としてこの記念碑の近くにあるラケダイモン人たちの墓を提示しているのである。というのも、彼らは国家を小国ではなく大国と立証し、党争のかわりに同心していると判明させ、城壁を取り壊された場に再建したのである。 [64] 彼らのうち帰還者たちは、決議事項をここに横たわれる人たちの業績と兄弟として示し、敵たちに対する報復ではなく国の救済をめざし、劣等者になることもできないが、自分たちがより多くを取得することを要求もせず、自分たちの自由には、隷従を望むものたちにまで参加させ、あのものたちの隷従には自分たちが参加することを断った。 [65] そして最大最美の業績によって弁明したのである。――かつて国家が不運に見舞われたのは、自分たちの悪徳によってではなく、敵国人たちの徳によってでもないということを。なぜなら、もし、お互いに力で党争しながら、ペロポンネソス人たちやその他の敵たちが居合わせるなかを、自分たちの国に帰還することができたからには、明らかに、同心さえすれば彼らと戦うことは容易なことだからである。 [66] さて、彼らはペイライエウスの危難ゆえに万人に羨望されている。だが、ここに横たわれる外国人たちも称賛に価する。彼らは大衆を助け、私たちの救済のためにも闘い、徳こそ祖国とみなして、このような人生の終わりを迎えたのである。そのかわり、国は彼らを哀悼もし国葬もして、市人と同じ名誉を永遠に持つことを彼らに認めたのである。 [67] さて、今日、埋葬される人たちは、コリントス人たちが旧来の友邦によって不正されたので、新しい同盟者にすぎないけれども、救援に赴き、ラケダイモン人たちと同じ考えを持ってではなく(後者は彼らの諸善を妬むが、この人たちは彼らが不正されているのを哀れみ、以前からの敵意を忘れて、現在の友愛を重んずるのだから)万人に自分たちの徳を公然と証明した人々である。 [68] すなわち、この人たちこそは、ヘラスを大国となして、自分たちの救済のために敢えて危険に身を挺したばかりか、敵国人たちの自由のためにも敢えて死んだのである。なぜなら、彼らの自由を賭してラケダイモン人たちの同盟者たちと闘ったからである。 [69] というのは、勝てば彼らに同じ権利を認めたであろうが、不運に見舞われればペロポンネソス半島の人たちに隷従を確実なものとして残すことになるのだから。だから、こういう状態にある彼らにとって生は嘆かわしく死は願わしい。だが、この人たちは生きている間も死んでからも羨ましいのであって、先ず、先祖の諸善によって教育され、成人してからは彼らの評判を保持し、自分たちの徳を証明するのである。 [70] というのは、自分たちの祖国にとって多くの美しいことの原因となって、他のものたちのせいで見舞われた不運を矯正し、自分たちの国からははるか遠くで戦争を起こしたのだから。 かくして彼らは生を終えたのである。あたかも善き人たちは死なねばならないかのように。すなわち、祖国には養育費を返済し、養育者たちには苦痛を残して。 [71] したがって、生者にとっての務めは、これらの人たちを慕い、自分たち自身を嘆き、彼らの親類を残された余生ゆえに哀れむことである。いったい、いかなる快楽が、彼らになお残されているであろうか、このような勇士たちが埋葬された後に。徳よりほかにはあらゆるものを軽んじて自分の生を奪い取られ、妻たちを寡婦とし、自分の子どもたちを孤児として置き去りにし、兄弟も父も母も孤立無援にしたような人たちを。 [72] だが、多くの恐るべきことが現在しているにもかかわらず、彼らの子どもたちを私が羨望する所以は、あまりに若すぎて、それゆえどのような父を奪われたのか知らないからであるが、彼らを生んだ親を私が嘆く所以は、あまりに年長すぎて、それゆえ自分たちの不運を忘れられないからである。 [73] いったい、次のこと以上に辛いことが何かありえようか、――自分たちの子どもを生み、育て、埋葬し、老年になって身体的に不能となってから、あらゆる希望を奪い取られて友なく富なきものとなり、かつては羨望された同じものを今は哀れまれ、生よりも死のほうが自分たちにとって慕わしいということよりも。というのは、善き人であればあるほど、それだけますます残されたものたちにとって悲痛は大きいからである。 [74] はたして、いつになったら苦痛は和らぐことになるのか。いったい、国難に際してか。いや、そのときは彼らのことを他の人たちまでが思い出すのが当然である。それとも、国家共通の幸運に際してか。いや、苦しむに十分である――自分たちの生子は死に、生者はその徳を享楽しているのだから。それとも、私的な危難のために、かつては友であったものたちが自分たちの窮地を見捨て敵たちが彼らの不運のおかげで尊大になっているのを見る場合にか。 [75] 私に思われるところでは、ここに横たわれる人たちにわれわれが感謝の意を表しうるのは、次の場合のみである。つまり、彼らの生みの親たちを、彼らが重んじたと同様に重んじ、子どもたちを、自分が父親であるかのように歓迎し、婦人たちには、彼らが生きていればしたであろうような、そういう援助者として私たち自身を提示する場合のみである。 [76] いったい、ここに横たわれる人たちよりほかに誰を称えるのが当然であろうか。生者たちのなかでは、誰あろう、この人たちの親類を重んじればより義しいであろう。彼らはこの人たちの徳を他の人たちと等しく享受しているが、この人たちが死んだ今、不運に純正に与っているのは彼らのみだからである。 [77] ところで、実際は、こういったことを悲嘆しなければならないのはなぜなのか、私はわからない。なぜなら、私たち自身が死すべき存在であることをまったく忘れているわけではないからである。したがって、以前から予期していたことを被ったからとて、あるいは、自然の災禍にこれほどはなはだしく痛めつけられたからとて、はたして、そのために今憤慨しなければならない理由が何かあろうか。死は劣悪きわまりないものたちにも最善な者たちにも共通であると承知しているのに。すなわち、〔死は〕邪悪な者たちを蔑ろにせず善き人たちにも驚かず、万人に等しくみずからを提示するのである。 [78] すなわち、もしも、戦争の危難を免れた人たちには、将来不死であることができるとしたなら、死者たちをいつまでも哀悼することは、生き残ったものたちにとって価値があったろう。だが実際は、自然は病気にも老年にも劣り、私たちの運命を抽選する精霊は非情きわまりないのである。 [79] したがって、至福な者と考えるのはふさわしいのは次のような人たちである。つまり、最大最美なものを賭して危険に身を挺し、そういうふうにして生を終え、自分たちを運命に委ねるのではなく、自然死を待つのでもなく、最美な死を選び出すような人たちである。そうすれば、彼らの記憶は不老であり、名誉はあらゆる人間たちの羨望の的となるからである。 [80] 彼らはその自然ゆえに死すべきものとして哀悼されるが、その徳ゆえに不死として賛美されるのである。というのも、国葬され、彼らのために体力、知力、富の競技が開催されるのである、――戦没者たちは不死な者たちと同じ名誉で称えられる価値あるものとして。 [81] だから、私は彼らをその死ゆえに浄福視もし羨望もし、人間たちのなかでこの人たちだけには、生まれ出ることが勝っていると私は思うのである。死すべき身体に宿りはしたけれども、はかならぬ自分たちの徳によって不死なる記憶を残したような人たちだけは。とはいえ、古来のしきたりにより、父祖伝来の法習に仕えて、埋葬される人たちを悲嘆するのが必然である。 |