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back.gif第1弁論


Lysias弁論集



第2弁論

葬送演説 コリントス人たちの救援に赴ける者たちに寄せる






[解説]



 27年の長きに及んだペロポンネソス戦争は、最終的にアテナイの敗北をもって幕を閉じた〔前404 年〕。その後、小アジアに散在するギリシア植民市の帰趨をめぐって、スパルタとペルシアが対立、ペルシアは巧妙な外交戦術によって、反スパルタ勢力の形成に努めた。かくして、テーバイ、コリントス、アルゴス、およびアテナイの同盟関係が生まれ、スパルタと戦争状態に陥る(前395 年)。戦争は以後、7年間、コリントスの地を戦場と化して続く。いわゆるコリントス戦争である。

 戦争が始まった次の年(BC 394)、スパルタはネメアとコロネイアにおいて反スパルタ軍を破るが、クニドス沖でアテナイのコノン率いるペルシア艦隊に惨敗した。コノンはこの功績によって、ペルシアの援助を受けて、破壊されていたアテナイの長壁を再建し(BC 393)、敗戦国アテナイは急速に復興してゆく。BC 392/391年、スパルタはコリントスにおける幾つかの作戦に成功するが、前390 年、スパルタの重装歩兵は、アテナイの将軍イピクラテスの用兵によってコリントス近くで撃破される。……

 当時の戦争において、戦死者の遺骸の収容を相手側に申し出ることは、敗北を認めることに等しかった。しかし、収容しないことは、屈辱よりはもっと大きな危険ーー指揮官自身の身命にかかわる問題であった。ペロポンネソス戦争も末期のBC 406年、 アルギヌウサイ沖海戦で、アテナイの艦隊はスパルタを撃ちやぶり、船の残骸に取りすがって波浪に漂う戦友はもちろん、戦死者の遺骸を収容しようと努めたが、おりからの嵐に妨げられて果たさなかった。このため、将軍団は、その責任を問われて死刑となった。ソクラテスが激しく非難したことで有名なこの事件も、彼が容認できなかったのは、将軍たちを一括して審理するという手続き上の非違であって、遺体を収容できなかったことを擁護しようとしたのではなかったのである。

 収容された遺骸は、国家の手によって丁重に埋葬される。ペロポンネソス戦争初年度(BC 431)の国葬の模様を、トゥキュディデスが次のように記録している(『戦史』2巻34節) 。

 葬儀の二日以前に、式幕を張った霊壇に戦死者の遺骨をまつり、遺族が心ゆく捧げものを供える。埋葬の時が来ると、戦死者の遺骸は、部族ごとに糸杉の霊棺十棺に納められ、十台の車に載せられて曳かれてゆく。被いのかけられた霊棺は、海戦などで行方不明となって、屍体の収容されなかった者のための空の棺である。葬儀の行列には、市民、他国人の別なく参加し、遺族の女たちは墓地に集まって追悼の嘆きをあげる。国家の墓地は、アクロポリスの西北、ケラメイコス区の城壁の外に隣接し、そこはエレウシスに向かう聖道のそばにあって、アテナイの郊外でもとりわけ美しい場所であったという。ここには、戦いのたびに国のために命を捧げた者たちが埋葬されていたのである。さて、霊棺が土に被われると、戦死者にふさわしい讃辞が述べられるのが習わしであったが、その役は、「識見一きわすぐれ、市民の高い尊敬を受けている者のなかから、ポリスがえらんだ人間に与えられる」。これが終わると、会衆は帰ってゆく。

 このような儀式が、国葬のたびに行われたことをトゥキュディデスは証言している。ただ、BC 431年の国葬が特記に価したのは、この時の弔辞者に選ばれたのが、あのペリクレスであり、その演説内容が、後世に語り伝えられるほどに高尚であったからである。国葬演説の中で、ペリクレスは、アテナイ市民は自由にして平等であり、しかもそれは悪平等に陥ることなく、個人はその能力に応じて社会的栄誉を享けると、アテナイ民主制の理想を高くかかげ、ポリス市民の徳とはいかにあるべきかを雄弁に説いたのであった。

 リュシアスの第2弁論は、長壁の再建に言及しているところから、おそらく、BC 392/91 のコリントスにおける作戦のいずれかで戦死した者たちのための国葬演説であろう。ペリクレスの演説から約40年近くが経過しているが、儀式の内容はほとんどわっていないと考えてよい。しかし、リュシアスは居留民であったから、自分が直接国葬演説する資格はなく、したがって第2弁論は、アテナイの有力市民の依頼によってか、あるいは、演示的演説の手本として、起草されたものであろう。

 国葬が行われるのは、戦闘も自然に休戦状態になる冬季であった。トゥキュディデスには言及されていないが、この時、壮丁の武装競走や松明競走、そして戦没者を誉めたたえる演説の競演によって、にぎにぎしく開催されたものと考えられる。古代ギリシアにおいては、祭礼行事は、たいてい、葬礼の儀式から発展したものだった。葬礼は祭礼であると同時に、公的教育機関を持たなかったポリスにとって、戦没者国葬は、国家の最もすぐれた歴史教育、政治教育の場でもあった。第2弁論において、リュシアスも、コリントス戦争の意義を、遠く神話時代からのアテナイの歴史の文脈の中に位置づけようと試みている。あたかも、大義名分なくしては、死者もまた安らぐことが叶わぬかのようであった。それが葬礼演説の定式にほかならなかった。

 しかしながら、アテナイ人たちは、心の底では、戦争を動かせるものが大義名分だなどとは、決して考えていなかった。ペロポンネソス戦争に中立を保とうとしたメロス島住人に対して、アテナイはそれを許さなかった。メロス島住人が、それは正義に悖ると抗議した時、アテナイの使節は冷ややかに言い放った。〃正義云々は実力伯仲した者の間で論ずべきこと。かくも実力に差がある者の間にあるのは、服従か死のみである〃と。アテナイ人たちの意識の深層には、かくも冷厳たる現実認識があるゆえに、彼らは精緻な大義名分論を展開することに駆りたてられるのかもしれない。

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