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back.gif第19弁論


Lysias弁論集



第20弁論

ポリュストラトスのために 民主制解体容疑で 弁明






[解説]



 国運を賭してのシケリア遠征は、2年に及ぶ戦闘のはてに、アテナイ軍の全滅という予想だにしない結果を招いた(BC 413 秋) 。シケリア遠征に参加したアテナイの兵船は計 160艘、1艘につき士官、漕員あわせて200 名とすれば、32000 名の乗組員が一挙に奪われたことになる。しかも、「失われた兵は国内いずこにもかけがえのない第一線の壮年者ばかりであり、それだけでも悲嘆にあまりある事態であった」(トゥキュディデス『戦史』第8巻 第1章) 。

 だが、アテナイの立ち直りは早かった。当面の窮状に対処するための施策を次々と打ちだし、現事態の必要性に応じて適切な対策を立案提議する年長経験者からなる先議委員(probouloi)10 名を選出した。しかしながら、アテナイ軍敗北の報が伝わるや、同盟諸市は離反を企て、スパルタはパルシアと手を組んで、アテナイの息の根をとめようとはかった。

 状況の混迷は、しかし、野心をいだく者たちにとっては、野心を満たす絶好の機会にほかならない。寡頭派各派の動きが活発となる。彼らはアテナイに寡頭制を樹立し、そうすればペルシアとも手を組むことができると考えた。そんな中で頭角を現すのが、ヘルメス神像毀損事件の真相究明委員会で辣腕をふるったペイサンドロスであり、彼の背後にあって、政変のシナリオを書いた弁論家のアンティポンであった。

 アテナイにテロが横行していた。そして、民主派の最高指導者アンドロクレスが暗殺された。民主派は四分五裂し、お互いに抜きがたい不信感に陥っていた。評議会も民会も消極的に口を閉ざした。そんな中で、先議委員10人に加えて、40歳以上の者から20名を選び、これらの者たちは、ポリスが採るべき最善の政治形態について、具申書を一定期日までに上程するよう民会決議した。定めの日が来ると、寡頭派は先ず弾劾法の廃止を決議し、その上で次の提案を行った。――従来の制度はすべて廃止する。代わりに統領(prohedoros)として5人の市民を選出する。この5人が改めて100 名の市民を選出し、この100 名が各自の判断で市民の中から各々3名ずつ選ぶ。こうして選ばれた計400 名が評議所に会し、政治を行う全権を持つ。参政権は、身体・財力ともに国家に奉仕するに最も有能な人々5000人に与える。この5000人は、各部族から選ばれた40歳以上の十人が登録する。

 この提案が可決され、「四百人」が選ばれると、民会は解体された。そして、新たに選ばれた「四百人」は、ふところに短剣をしのばせ、秘密結社の若者20人を従えて評議会場に赴き、そこに留まっていた評議委員たちに、任期満了までの給料を受け取って出てゆくように命じた。こうして、評議会も解体し、違法と合法とをつきまぜた策略によって、「四百人」寡頭派政権が樹立したのである(BC 411 初夏)。

 しかし、対外政策は一向に好転の兆しを見せず、寡頭派の首謀者の一人プリュニコスが何者かに暗殺されて、「四百人」政権は4か月も経たないうちに内部分裂を来した。「四百人」弾劾の主導権を握ったのは、同じ「四百人」政権首謀者の一人テラメネスとアリストクラテスであった。〃やらなければ、やられる〃との想いが彼らを動機づけていたと考えられる。形勢不利とみたペイサンドロスその他の「四百人」の一派は、デケレイアにあるスパルタ軍の要塞に逃亡し、ここから討って出て、アテナイの近郊を蹂躙している。この「デケレイアへの亡命者」に対するアテナイ人たちの怒りは深甚で、有罪判決を下し、名前を石碑に記録し、BC 405年秋に成立した、パトロクレイデスの決議においてさえ、市民権回復者の対象から除外されている。

 「四百人」政権は、中産階級ともいうべき五千人に引き継がれ、これとテラメネス派との連携で「四百人」狩りが展開されたが、BC 410年夏、「アテナイの民主制を解体するか、解体後、官職に就く者は、アテナイ人の敵として支障なく処刑さるべし」とのデモパントスの決議が可決されるとともに、完全民主制が復活したと見られる。これ以後、アテナイの破局(BC 405)に至るまでは、いわば「民主派革命」の時代であって、テラメネス一派の出る幕はなくなる。

 このような時代の激動に翻弄されたのが、穏和な老市民ポリュストラトスであったといってよい。彼は既に齢70を越え、もはや政治的野心があったわけではないが、今まで多くの官職の経験者であったことから、心ならずも「四百人」に選ばれたものとみえる。そして、「四百人」内部の権力争いは、おそらく執務審査において、テラメネス派に与していなかった彼を、重い罰金刑に処した。彼はこれに服した。ところが、デモパントスの決議によって、彼は再び法廷に立たされることとなった。告訴事由は、たった八日間しか列席しなかった「四百人」の成員であったということである。

 第20弁論は、被告ポリュストラトスのために、おそらく二人の人物が弁護していると考えられる。一人は、弁論の初めの部分を受け持っており、ポリュストラトスを一貫して「あの人(houtos)」と呼んでいる。名前不詳の友人であろう。それ以降は、一貫して「父」と呼び、弁論内容から、被告の次男であることがわかる。

 この弁論の作成時期は、BC 410年のデモパントスの決議の成立後と考えられる。(堀井健一「四百人処罰とアテナイ内政動向」参照)

 この時期に、リュシアスが法廷弁論作家として活動していたのか。彼は法廷弁論作家となる以前から、弁論家として活動していたという伝承もあるが、伝存する作品がほとんどBC403 年以降に偏しているため、本弁論をリュシアスの真作とする意見は少ない。

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