第24弁論
[1] あなたがたに対しては、おお裁判官諸君、こういった言説に耳を傾け、過去の出来事を思い起こして、市内に留まっていた者たち全員に対して、等しく怒りをいだいたとしても、私はいくらでも容認できる。だが、告発者たちに対しては、彼らはみずからのことはなおざりにして、他人事の世話を焼く連中であるが、何ら不正していない人たちと、多くの過ちを犯した人たちとを、はっきり承知していながら、私たち全員について、あなたがたがその考えを持つように説得することを求める場合には、私は驚くのである。 [2] そこで、もし、「三十人」のせいで国家に生じたかぎりのことで、私を告発し終えたと彼らが思っているなら、彼らは語るに不能な者たちだと私は思う。なぜなら、あの者たちによって為されたことの、ほんの一部分も彼らは述べていないからである。だが、もし、それについて何か私に責任があるように言説を為しているのなら、この連中はあらゆる点で虚言しているのであり、それに対して私の方は、ペイライエウスからの人たちのうち、最善の人が市内に留まっていたら、振る舞ったであろうように振る舞った――そういう者であることを証明しよう。 [3] では、あなたがたにお願いする、おお裁判官諸君、告訴屋たちと同じ考えを持たないようにと。なぜなら、この連中の仕事は、何ら過ちを犯したことのない者たちまで罪に落とすことであるが(それによって大いに金儲けできるであろうから)、あなたがたの仕事は、何ら不正していない人たちを、等しく国政に参加させることだからである。そういうふうにすれば、あなたがたは現体制に対して、最多の同盟者を得られるであろうから。 [4] そこで私は主張する、おお裁判官諸君、いやしくも、私には何らの災禍の責任もなく、国家に対して多くの善きことを、身体の上でも金品の上でも、もたらしてきたことが判明したら、とにかく次のことが、つまり、善くしてきた人たちのみならず、何ら不正していない人たちも与かるのが義しいことが、あなたがたから私に付与されるようにと。 [5] そこで、これには大きな論拠があると私は思う。つまり、いやしくも、私が私的に不正なることを、告発者たちが糾明することが可能であれば、彼らは「三十人」の過ちを根拠に、私を告発するということは可能でなかったろうし、あの者たちによって為されたことを根拠に、別な人たちを中傷しなければならない、とも思わなかったであろう。むしろ、不正者たち本人に報復すべきだと〔思ったことであろう〕。ところが実際は、あの者たちに対する怒りは、何ら悪いことを働いていない者たちをまで、破滅させるに充分であると彼らは信じているのである。 [6] だが、私は、義しいことだとは考えない、――国家にとって多くの善事の原因となった人たちがいても、この人たちのせいで、他の人たちがあなたがたから名誉や恩恵を受けるというのも、また、多くの悪事を働いた者たちがいても、この者たちのせいで、何ら不正していない人たちが、当然のごとく、非難や中傷を浴びるというのも。なぜなら、国家にとって現存する敵たちは充分多く、彼らはまた不正に中傷を浴びている者たちの存在を、大きな利得だとみなしているからである。 [7] それでは、あなたがたに説明すべく努めてみよう、――市民たちの中で、誰が寡頭制を、誰が民主制を、欲求するにふさわしいと私が考えているかを。なぜなら、このことから、あなたがたも判断されるであろうし、私も自分について弁明を為すつもりだからである。民主制下においても、寡頭制下においても、私のしてきたことから、あなたがた大衆に悪意があったということは、私にとって何らふさわしいことではない、ということを明らかにした上で。 [8] そこで、先ず第一に、次のことに思いを致していただきたい。すなわち、人間たちのうち誰一人、自然本性的に、寡頭制的な者も民主制的な者もおらず、いかなる国制であれ、各人に益するもの、これの樹立に熱中するのだということである。したがって、どれだけ多くの人たちが今現存する体制を欲求するかは、大部分あなたがた次第なのである。これがこのとおりであることは、先に起こった出来事から、あなたがたは難なく学べるであろう。 [9] すなわち、あなたがたは考察されたであろう、おお裁判官諸君、両方の国家体制の先導者たちが、いったい何度変節したかを。プリュニコスやペイサンドロスや、彼らといっしょの民衆指導者たちは、あなたがたに対して多くの点で過ちを犯したために、これへの報復を恐れて、先の寡頭制を樹立したが、「四百人」の多くはペイライエウスからの人たちといっしょに帰還し、彼らを追放した者たちのうちの何人かは、みずから今度は「三十人」の一員となったのではなかったか。また、エレウシス攻撃に登録した人たちの中には、あなたがたといっしょに出撃して、自分たちの仲間を攻囲した者たちもいる。 [10] だから、判断するのは困難ではないのだ、おお裁判官諸君、相互の違いは、国家体制にあるのではなく、私的に各人にもたらされる利益にあるのだということを。そこで、あなたがたは次の点で市民たちを資格審査すべきなのである。――民主制下において、いかに市民生活を送ってきたかを考察し、体制の変化によって、彼らに利益のようなものが生じたかどうかを究明して。そういうふうにすれば、彼らについて最も義しい判決をあなたがたは下せるであろうから。 [11] そこで、私の考えでは、民主制下において、執務報告を提出しなかったからにせよ、財産を奪ったからにせよ、他の何かそういった災禍を招来したからにせよ、市民権剥奪されたかぎりの者たちは、別な国家体制を欲求するのが彼らにはふさわしい。それは、その変革によって、何らかの利益が自分たちに生じることを希望するからだ。これに反して、民衆に対して多くの善きことをもたらし、未だかつて何ら悪行を働いたことがなく、あなたがたから自分たちに恩恵を受けることの方が、為されたことの償いをすることよりも得であるかぎりの人たちは、自分たちに対する中傷を受け入れるいわれはない。たとえ、国事に携わる人たちすべてが、自分たちを寡頭制的なやつらだと称してもである。 [12] そこで、私には、おお裁判官諸君、私的にも公的にも、あの当時に何らの災禍も生じたことがなく、そのおかげで、目前の諸々の害悪から解放されることに一生懸命で、別の体制を欲求していた。すなわち、三段櫂船奉仕者となること五回、海戦に出ること四回、戦時には何度も臨時財産税を寄付し、他にも市民たちの誰にも劣らぬほど公共奉仕をしてきた。 [13] もちろん、国家によって下命された以上を私が出費してきた所以は、あなたがたからより善き者と信じられるためであり、万一、私に何か災禍が降りかかっても、私がより善く争訟しうるためである。そのすべてを、寡頭制下に、私は奪い去られた。すなわち、大衆にとって何か善いことの原因となっていた者たちに対して、あの者たちは自分たちからの恩恵に与かるよう要望するのではなく、あなたがたに対して最も多くの悪事を働いてきた者たちを栄職に就けたのである。あたかも、その信任を私たちから受けたかのようにして。こういったことに万人は思いを致して、この連中の言説を信じるのではなく、各人によってまさしく為された所業を基に考察すべきである。 [14] すなわち、私は、おお裁判官諸君、「四百人」の一員でもなかったのである。それとも、告発者たちの中で望む者あらば、進み出て糾明させるがよい。さらにまた、「三十人」が就任してからも、誰一人私が評議員になったとも、何らかの役職に就いたとも証明し得まい。しかるに、公職に就くことが任意であるにもかかわらず、私が望まなかったのなら、あなたがたによって、今、報復されるのは義しくないのである。まして、あの時に権職にあった者たちが、私に対して体制に参加することを要求しなかったのなら、どうして、これ以上明白に、告発者たちが虚言していることを証明し得ようか。 [15] それでは、さらに、おお裁判官諸君、その他、私によって為されたことからも考察すべきである。すなわち、私は国家の災禍に際して、自分を次のような者として、つまり、もし万人が私と同じ考えを持ったとしたら、あなたがたの中の誰一人として、何らの災禍にも見舞われなかったであろうような者として、提示したのである。というのは、明らかになるであろうが、寡頭制下、私のせいで誰一人略式起訴された者もなく、敵たちのうち誰一人報復された者もおらず、 [16] 友たちのうち善く蒙った者もいない(これも驚くに当たらない。あの時代に、善くすることは困難であり、過ちを犯すことは、望む者にとっては容易だったのだから)。さらにまた、明らかになるであろうが、アテナイ人たちの誰をも登録簿に私は選抜登録せず、誰に対しても仲裁の裁定を獲得したこともなく、あなたがたの災禍のおかげでより裕福になったこともないからである。言うまでもなく、もし、生じた諸々の害悪の責任者たちにあなたがたが怒るのなら、何ら過ちを犯したことのない人たちも、あなたがたによってより善い人と信じられるのは当然である。 [17] そればかりか、おお裁判官諸君、私自身に関して言えば、民主制に最大の信頼を持ってきたと私は考えている。なぜなら、かつて、かくも多大な任意が与えられながら、何ら過ちを犯さなかったような人物として、今は、もちろん、私は有為の士であることを切実に熱望しようとしているからである。もし私が不正なら、必ずや、ただちに償いをするつもりである。とにかく、一貫してそういう考えを持っているので、寡頭制下においては他人のものを欲求せず、民主制下においては財産をあなたがたのために熱心に消費するのである。 [18] そこで、私が考えるに、おお裁判官諸君、義しいのは、あなたがたは大衆に対して過ちを犯した者たちに怒ることができるにもかかわらず、寡頭制下において何ら害悪を蒙らなかった人たちを憎むことではなく、亡命しなかった者たちを敵としてみなすことでもなく、あなたがたを追い出した者たちをそうすべきであり、自分たちの財産を救うことに熱心な者たちをではなく、他人の財産をくすねた者たちをであり、自分たち自身を救うために市内に留まった者たちではなく、別な人たちを破滅させることを望んで、体制に参加した者たちをそうすべきである。これに反して、もしも、あの者たちが不正し残した人たちを、あなたがたが破滅させなければならないと、あなたがたが思っているのなら、市民たちの誰一人残留しなくなるであろう。 [19] さらに、以下のことからも考察すべきである、おお裁判官諸君。すなわち、あなたがた皆さんがご存知のとおり、以前の民主制下にあっては、国事に携わる者たちの多くは、公金を横領し、一部の者たちは、あなたがたのものを目当てに収賄し、ある者たちは、告訴屋となって同盟者たちを離反させたのである。したがって、もし「三十人」がこの連中にだけ報復したのなら、あなたがたも彼らを善き人とみなしたであろう。ところが実際は、あの連中によって犯された過ちのせいで、大衆に対して悪く為すよう主張したので、あなたがたは憤慨した。それは、わずかな連中の不正事が、国家全体の共通事となるのは、恐るべきことだと考えたからである。 [20] したがって、重要なのは、あなたがたが目にされたあの者たちの犯した過ちを、あなたがたが繰り返すことではなく、あなたがたがひどい目に遭っている時には、不正事を蒙っていると信じたことを、あなたがたが別な人たちに為す場合には、義しい事と考えるのでもなく、あなたがた自身に関して、亡命中に持っていたのと同じ考えを、帰還してからも別な人たち関して持つことである。このことによってこそ、あなたがたは同心をも最多とすることができようし、国家も最大となるであろうし、敵たちに最も厄介なことをあなたがたは票決できるだろうから。 [21] では、おお裁判官諸君、「三十人」時代に起こったことにも思いを致すべきである。それは、敵たちの過ちが、あなたがた自身のことについて、あなたがたがより善く評議するようにさせるためにである。というのは、市内にいる人たちが、同じ考えを持っていると、あなたがたが聞き知った時には、あなたがたが持った帰還の望みはかすかであった。それは、私たちの同心が、あなたがたの亡命にとっては最大の害悪であると考えたからである。 [22] だが、三千人が党争を起こし、その他の市民たちは市内から追放宣告を受け、「三十人」は同じ考えを持っておらず、あなたがたを恐れる者たちの方が、あなたがたに敵対する者たちよりも多くなったと聞き知った時、この時すでに、帰還することも敵たちに償いをさせることもあなたがたは予期した。というのは、あなたがたが神々に祈願していたのは、このこと――あの者たちが為すのをあなたがたが目にした当のことであったのだ。それは、亡命者たちの力が原因で帰還するよりは、むしろ、「三十人」の邪悪さが原因で救われるだろうと考えたからである。 [23] それゆえ、為すべきは、おお裁判官諸君、かつての出来事を手本として、将来のことに関して評議すること、そして、次のような人たちを、最も民主制的な人間と考えることである。――あなたがたが同心することを望んで、宣誓と協定を遵守し、これが国家にとっても最高の救いであり、敵たちへの最大の報復であると信ずる人たちこそが。なぜなら、私たちが体制に参加するのを聞き知り、市民たちがお互いに何らの訴訟沙汰もないような状態にあるのを感知すること、彼らにとってこのことよりも難儀なことは何もないであろうから。 [24] そこで、知るべきである、おお裁判官諸君、亡命者たちは、その他の市民たちのできるかぎり多く、中傷されたり市民権剥奪されたりすることを望むのである、――あなたがたによって不正された人たちが、自分たちの同盟者となるだろうと希望し、これに反し、告訴屋たちが、あなたがたのもとで好評を博し、国内において大きな権力を握ることを歓迎するだろう。なぜなら、連中の邪悪さを、自分たちの救いと考えるからである。 [25] さらに、「四百人」の後の事態をも思い起こすべきである。すなわち、よくご存知のとおり、連中の忠告することが、あなたがたに役立ったことは未だかつてないが、私の勧告することは、どちらの国家体制にも常に寄与したのである。すなわち、あなたがたは、エピゲネスやデモパネスやクレイステネスが、私的には国家の災禍から収穫をあげ、公的には最大の悪事の責任者であることを知っている。 [26] つまり、彼らはあなたがたを説得して、ある人たちに対しては裁判なしに死刑の有罪票決をさせ、多くの人たちの財産を不正に没収させ、市民たちのある者たちを追放や市民権剥奪させたのである。なぜなら、連中は、過ちを犯してきた者たちを、金品を受け取って放免し、何ら不正したことのない者たちを、あなたがたの前に出頭して破滅させたほどの者たちだったのである。そして、国家を党争と最大の災禍に落とし入れ、自分たちは貧乏人から富裕者になり果てるまではやめなかったのである。 [27] だが、あなたがたがそういう状態に陥ったので、あなたがたは亡命者たちを迎え入れ、市民権剥奪された者たちを名誉回復させ、その他の者たちとは同心の誓いを立てた。そして、最終的には、民主制下における告訴屋たちの方を、寡頭制下に公職に就いた者たちよりも、喜んで報復するはずであった。じつに当然なのである、おお裁判官諸君。なぜなら、すでに万人に明らかなとおり、寡頭制下に不正に為政された人たちによって民主制は生まれ、民主制下における告訴屋連中によって寡頭制が二度、樹立したのである。したがって、聴従した人たちに一度も役に立たなかったような連中を、忠告者として用いるのは無意味である。 [28] そこで、考察すべきである、――ペイライエウスからの人たちのうち、最大の評判を持っている人たちも、危険きわまりない状況に挺身してきた人たちも、あなたがたに最多の善事をしとげてきた人たちも、すでに何度も、あなたがた大衆に、宣誓も協定も遵守するようにと呼びかけてきたということを。それが民主制の守護であると考えるからである。すなわち、市内からの人たちには、過ぎ去った過去の事に免罪をかなえ、ペイライエウスからの人たちには、かくも久しい間国制が持続するだろうと考えて。 [29] この人たちの方を、あなたがたは信じるのがより義しいであろう。――亡命中は別の人たちのおかげで救われ、帰還後は告訴屋稼業を手がけるような連中よりは。そこで、私は考えるのである、おお裁判官諸君、市内に留まっていた人たちのうち、私と同じ考えを持っている人たちは、寡頭制下においても民主制下においても、いかなる種類の市民であるかが明白となったと。 [30] これに反して、この連中は驚嘆に価する、――もし連中が「三十人」の一員となるのを許す者がいれば、何をしでかすことやら。連中は、今の民主制下にあって、あの者たちと同じことを実行しているのであって、たちまち貧乏人から富裕者となり、多くの公職に就きながら何一つ執務報告を提出せず、同心の代わりにお互いの間に猜疑心を生み出し、平和の代わりに宣戦を布告し、この連中のせいで、あなたがたはヘラス人たちにとって信頼に足らぬ者となってしまったのである。 [31] そして、これほどの悪事と、他にも多くのことの張本人であり、また「三十人」と異なるところは何もない、――ただし、後者は寡頭制の時にこの者たちと同じことを欲求したが、前者は民主制の時も、あの者たちと同じものを欲求しているということは別にして。にもかかわらず、連中は思っているのである、――誰であれ望む相手に易々と悪く為さねばならない、あたかも、他の者たちは不正者であるが、その中で自分たちは最善な者であるかのように [32] (いや、驚くべきはこの連中ではなく、あなたがたである。民主制下にあるとあなたがたは思っている一方、何でもこの連中の望むことが起こっているのであり、あなたがた大衆に不正する者たちがではなく、自分たち自身のものを与えない者たちが償いをしているのだから)。そして、連中は受け入れるであろう、――国家が他の人たちのおかげて大きく且つ自由であるよりは、むしろ小さいことを。 [33] それは、今は、ペイライエウスでの危難のおかげで、自分たちは何でも望むことを為すことができるが、将来、別な人たちのおかげで、あなたがたに救済が生じた場合には、自分たちは解体され、別な人たちがより大きな権力を握ると考えるからである。それゆえ、連中は皆が一致して邪魔をするのである、――何か善きものが、他の人たちによってあなたがたに明らかになる場合には。 [34] ところで、これに気づくことは、望む者には難しいことではない。というのは、彼らはみずからが気づかれないように欲するのでなく、邪悪だと思われないことを恥じ、あなたがたは、ある部分はみずから目撃し、ある部分は別な多くの人たちから耳にするからである。さらに、私たちは、おお裁判官諸君、市民たちが協定と宣誓を遵守することは、あなたがたすべてにとっての義務であると考えるが、 [35] にもかかわらず、諸々の害悪の責任者たちが、償いをさせられるのを目にする場合には、あなたがたの身にかつて起こったことを思い起こして容認するが、しかし、何の責任もない人たちを、あなたがたが不正者と等しく報復することが明らかになる場合には、同じ票でもって、あなたがたはわたしたちすべてを猜疑に落とし入れるであろう…… |