第24弁論
[解説]標題は本弁論の内容と一致していない。民主制解体容疑であれば、それは重大な国事犯であって、弾劾裁判の対象にほかならず、有罪となれば、刑量は極刑である。しかし、弁論の内容には、そのような切迫感はない。 内容的に見て、「三十人」政権下での協同を理由に、公職への就任資格を問われているらしいことから、どうやら、これは、役人の資格審査において、異義申し立てを受けた立候補者の弁明であると見られる。標題を付した者は、おそらく、弁明者が裁判官たちに呼びかけているところから、弾劾裁判だと早合点したものであろう。しかし、第16弁論の解説で述べたとおり、評議員と九執政官以外の役人の資格審査は、民衆法廷で行われたのである。評議会における資格審査は古来より行われた制度であるが、民衆法廷における一般役人の資格審査制度は、「三十人」政権が倒壊したBC 403年以降に確立された制度である。 本弁論の成立年代は、エレウシス攻撃(BC 401)の言及があるところから、そのわずかに後、BC 399年頃と考えられる。BC 401年を境にして、一種の「民主派革命」が進行した。これを、「三十人」政権の時代と同じだと評する弁者の言は、多分に誇張があるにしても、やはり、相当な行き過ぎもあったと考えてよい。 また、BC 403年の回復民主制についても、その実態がいかなるものであったか、おぼろげながら知ることができる。 BC 411年の「四百人」寡頭派政権は、ペイサンドロス、アンティポン、プリュニコスを中心とする勢力と、アリストクラテスやテラメネスらを中心とする勢力に分裂し、後者の前者に対する弾劾という構図をとった。そして、プリュニコスは暗殺され、アンティポンは弾劾裁判によって処刑され、ペイサンドロスはデケレイアにあるスパルタ軍の要塞に逃亡した。また、ある者は他国に亡命し、ある者は市民権を剥奪され、ある者は(テラメネスのように)政界の片隅に居残って、「四百人」狩りの嵐の過ぎるのを、息をひそめて待っていた。 こういった者たちが、あるいは「三十人」僣主制を樹立させ、あるいはペイライエウス派と合流して、エレウシスの寡頭派攻撃にも参加した。これが、回復民主制の本質であったというのである。 誇張もあろうが、多分に実態をついていたと考えられる。何よりも、戦勝国にして今や宗主国スパルタの枠組みの中で、事が運んでいたという事実を見落としてはならない。しかし、スパルタの関心は小アジアに移っていた。その間隙をぬって、アテナイ民主制も、BC 401年を境に、その様相を一変させたのである |