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back.gif第27弁論


Lysias弁論集



第28弁論

エルゴクレスに対して 補足






[解説]



 アテナイ民主制は、二度、転覆の憂き目を見ている。一度目は、BC 411年の「四百人」寡頭派政権の樹立によって。二度目は、BC 404年の「三十人」僣主制の樹立によってである。

 一度目、民主派の拠点となったのは、サモス島に駐留していたアテナイ艦隊であった。彼らは、寡頭派に傾いていた指揮者層を更迭し、代わって、志操堅固な民主派の指揮者を選びなおして、自分たちの体勢固めをした。この時、選ばれたのが、三段櫂船奉仕者(=指揮者)として参加していたステイリア区民リュコスの子トラシュブウロスであり、重装歩兵として参加していたトラシュロスであった。トラシュブウロスは熱心に兵士たちを説き伏せて、ティッサペルネスのもとに身を寄せていたアルキビアデスを指揮官として迎えることを納得させた。アルキビアデスを通じてティッサペルネスを味方につける以外、自分たちの助かる途はないと判断したのである。このような、サモス島のアテナイ艦隊とアルキビアデスとの接近を知って、「四百人」政権は内部分裂をきたし、わずか4か月で倒壊してしまったのである。

 不思議なことだが、トラシュブウロスは、終始、アルキビアデスの支持者であった。BC 410年、キュジコスの海戦では、アルキビアデスの勝利を助けている。BC 407年、アルキビアデスの失脚によって、トラシュブウロスも将軍に選出されなかった。そのおかげで、BC 406年のアルギヌウサイの海戦には、三段櫂船指揮者として参加し、例の将軍弾劾を免れている。しかし、将軍の一人であったトラシュロスは処刑された。

 「三十人」僣主制下には、トラシュブウロスはテバイに退いた。ここで民主派の抵抗を糾合し、70人の支持者とともにピュレの要塞を占拠した。これによって、民主派の勢力は燎原の火のように広がっていったのである。帰還後、支持者の全員(リュシアスも含めて)に市民権を賦与しようと試みたが、反対に遭って失敗した。

 まさしく、彼こそは、アテナイ民主制の守護者といってよかった。しかし、いくら資料を読んでも、彼が強烈な個性を発揮して、人々を引っ張っていったというようには見えない。彼は常に民主化闘争の渦中にいた。だからといって、そこに特に誰といって英雄の相貌が浮かびあがってくるわけではない。それこそが、アテナイ民主制の本当のすごさなのかも知れない。

 トラシュブウロスは、民主制回復後も、民主派の卓越した指導者でありつづけ、テバイとの同盟と、スパルタに対するコリントス戦争の支持者であった。そのコリントス戦争期、コノンの働きによるアテナイの制海権の回復に続いて、トラシュブウロスは、諸都市にアテナイの権威を高からしめ、そこから貢納金を取り立ててくるよう命を受けた(BC 390/389)。彼は、先ず、ヘレスポントスに行き、トラキアの諸都市から金品を徴収し、セウテス王子と友情を確かめた。そして、本国から帰還命令が出ているにもかかわらず、さらにビュザンティオンに航行し、市を占領して民主制を復活させ、アテナイの同盟国とならせた。さらに、小アジアの沿岸に沿って航行を続け、諸都市から資金を調達しようとした。ついに、パンピュリアにあるアスペンドス市に至り、すでに貢納金を受け取ったにもかかわらず、部下の者が掠奪を働いた。怒ったアスペンドン市民は、夜陰に乗じてトラシュブウロスの部隊を襲い、彼とその部下の何人かを殺害した。これが彼の最期であった。

 彼が遠征によって次々とあげる戦果の報告に、アテナイ人たちは明らかに満足していた。しかし、一方では、同盟諸市に対する強圧的対応と、貢納金着服の噂が、しきりに本国にもたらされていた。そんな時も時、彼の不名誉な死のしらせが入ったのである。本国政府は、ただちに艦隊の帰還を命じた。そして、40艘の強力艦隊であったはずのものが、今はその残存部隊が、見る影もなく傷つき疲弊して、本国にたどり着いたのを目にして、アテナイ人たちはやり場のない怒りにとらわれた。

 この怒りは、トラシュブウロスと同じ年〔BC 390/389〕の将軍団に選ばれていたエルゴクレスに向けられた。告訴人の言い分によれば、エルゴクレスの告訴事由は、1)ケルネソス半島を敵の手に渡し、アテナイにとっての生命線ともいうべきヘレスポントスを失った、2)また、ハリカルナッソスから独断で金を徴集し、3)それを横領し、4)また収賄もした、というものであった。

 エルゴクレスは、「三十人」政権打倒のために戦った民主派の一員であったが、それによって情状酌量するほど、アテナイ人たちは寛容ではなかった。彼は処刑され、財産は没収された(BC 388) 。

※        ※

 この時期のアテナイ軍に何が起こっていたのか? 戦争の様相が様変わりしていたのである。コリントス戦争(BC 395-387)は、もはや市民が戦士となって戦うのではなく、双方に雇われた傭兵同士の戦いであった。また、従来、威力を発揮してきた重装歩兵による密集部隊の戦法は、重装歩兵と軽盾兵との連係という機動力を活かした戦法によって打ち破られた(特に、BC 390年、イピクラテスの用兵による、スパルタ重装歩兵軍団の撃破)。しかも、国庫は底をついていて、傭兵たちに払う給料はなかった。結局、徴収した貢納金は傭兵たちの給料に消えるか、さもなければ、傭兵たちは自分で自分の給料を調達するしかなかった。すなわち掠奪である。いずれにしても、本国に帰れば弾劾は免れない。掠奪しながらの遠征――志操堅固な人物であっただけに、トラシュブウロスの惨めな死にざまは、ひときわ憐れをさそう。

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