第31弁論
[解説]ハリカルナッソスのディオニュシオスは、アウグストス治下のローマの文芸批評家にして歴史家であった。数多くの論文を、母語であるギリシア語で書いたが、そのおかげで、貴重な作品のいくつかが散逸をまぬがれた。以下にあげる第32弁論、第33弁論、第34弁論の三編も、彼の『リュシアス』によって伝存したものである。 第32弁論は、練達した法廷弁論の実例として引用されているものだが、そこには次のような梗概が付されている。―― [ディオドトスは、トラシュロスといっしょにペロポンネソス戦争の際に選抜登録された人たちの一人であるが、グラウキッポスが執政の時〔BC 410/409〕にアジアへ外征しようとしたが、幼い子どもを持っていたので、取り決めを結び、彼らに後見人として自分の弟のディオゲイトン、すなわち子どもたちの叔父にして母方の祖父を残した。ところが本人はエペソスで闘って死んだ〔BC 409〕。すると、ディオゲイトンは孤児たちの全財産を手中にして、きわめて多くの財産の中からまだ残っている額を何ら彼らに明示しなかったので、青年たちの一人が〔壮丁の〕資格審査を受けた時に、悪しき後見の罪で告発された。そこで彼に対する私訴を、あの者の孫娘にして青年たちの妹の夫が語る。] アテナイにおいては、行政の基本的単位をなすものが区(demos) であることは、すでに初めに述べたが、この区を構成するのは、家(oikos) であって、個々の人間ではなかったことに留意する必要がある。つまり、アテナイ人の意識の現実からいえば、個々の人間が集まって家を形成したのではなく、家が在って初めて個々の市民が誕生したのであって、市民は私人とは違うのである。 そうであってみれば、家の存続ということが、ポリスの(したがって、市民polites の)重大な関心事となる。家の存続とは、具体的には、家産の維持ということと、その相続ということである。アテナイ人の男性の婚期が比較的遅く、しかも、結婚しても複合家族を形成する傾向にあったのは、前者がその起因の一つをなしていよう。また、後者についていえば、女相続人(epikleros) に関するこまごました規定は、要するに、父の家産を真の後継者に受け継がせる仲立ちの役割を果たさせるためのものにすぎなかった。後見人の制度もまたしかりである。 正規の相続人が未成年の場合、しかるべき親族の男子が後見人となり、家産をみずから運用するか、あるいは、入札によって第三者にこれを最も有利に活用させるかしなければならなかった。それは義務でも権利でもあったが、そこに不正のつけいる余地も存したのである。 本弁論の年代は、BC 400年と考えられる。 |