第34弁論
[解説]第35弁論は、プラトンの『パイドロス』の中に、「当代最も有能な文人」(228A)リュシアスの作品として、そっくり引用されているものである。これがはたしてリュシアスの真作であるのか、偽作なのか、はたまた、「殆んど真作といってもよい程よくできている模作」(三井浩)であるのか、学者たちの論議の的となっている。 論議の的といえば、『パイドロス』そのものの成立年代も、これをどこに置くかによって、この思想家の内面史のまったく異なった像が生まれるとして、プラトン学者たちを悩ませているらしい。ある者はプラトンの処女作説を採り、ある者はアカデメイ学園建立〔BC 387頃〕趣意書と看做し――以上の二つの説に従えば、リュシアス存命中の作品ということになる――、さらに有力な説は、制作年代をプラトンの老年期にまで引き下げる――この場合には、リュシアス亡きあと既に十五年くらい経過していることになる。 『パイドロス』の劇年代(dramatic age)からいえば、リュシアスがアテナイに帰ったBC 412年以降、BC 404年の受難以前であることに間違いはない。リュシアスの本格的活躍は、「三十人」僣主打倒後のことであるが、それ以前からすでに、本弁論のような「見せびらかし的」弁論作家として名を馳せていたのかも知れない。 プラトン学者は、「模作」などという持って回った言い方をするのであるが、そもそも、「模作」とはどういう意味であるのか。リュシアスの手に成る作品というものがあって、これにプラトンが(どの程度にか)手を加えたという意味なのか。それとも、リュシアスの手法を模倣してプラトンが自分で創作したという意味なのか。後者の場合には、しかし、プラトンに対する侮辱になることに、ほかならぬプラトン学者当人が気づいていない。なぜなら、自分が勝手に創った作品に、実在のリュシアスの名を冠し、その拙劣さを批判し、創り直してみせていることになるからである。 本弁論は、「愛童は、自分を恋している愛者にではなく、恋していない愛者に懇ろにすべきである」という命題を立証してみせる。この逆説的な命題は、恋する者の狂気、恋しない者の正気という対比を前提にしている。なぜ狂気を排し、正気を尊ぶべきなのか。議論の表面には出てこないが、前者は一時的であるのに対して、後者は永続的だからである。それでは、永遠の愛は不可能なのか。永遠の愛というが、愛が永遠なのか、それとも、永遠なるものを愛するがゆえに永遠の愛であるのか。永遠なるものとは何か。また、それはいかに愛されるのか……。 リュシアスの意図を超えて、その弁論は、プラトンに『パイドロス』一編を書かせるほど、彼の思索を刺激してやまぬ魅力を秘めていたと考えたい。とにかく、同時代人とプラトンとの思想的交流を考える上で、重要な作品と言えよう。 |