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back.gif第4弁論


Lysias弁論集



第5弁論

カリアスのために 神殿荒らしのための弁明






[解説]



 民主制と奴隷制とは両立しえないというような思いこみは、いったい、どこから来るのだろうか。ルソーなら、端的にこう解答してくれるだろう。――それは、議会制民主主義のもとで、諸君自身がすでに奴隷となりはてているにもかかわらず、それを認めたくないからにすぎない、と。

 「ギリシア人のもとでは、人民のなすべきすべてのことが、人民自身によってなされた。人民は絶えず広場に集会した。ギリシア人は温暖な風土に住み、貪欲ではなかった。労働は奴隷によって行われ、人民の大きな関心事は、自己の自由であった。……何だって! 自由は奴隷の助けがなければ維持されないのか? おそらくそうだろう。両極端は相接する。自然の中に存しないものには、すべて不便がまつわり、市民社会はとくにそうだ。そこには、他人の自由を犠牲にすることなしには自由を保つことができず、市民が完全に自由でありうるためには、奴隷は極端に奴隷的でなければならぬ、というような不幸な状況がある。それがスパルタの状況であった。諸君のような近代人は奴隷を全くもたないけれども、諸君自身が奴隷なのだ。諸君は、諸君の自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ」(ルソー『社会契約論』第3編第15章、桑原・前川訳)

 古代ギリシアにおいては、奴隷制は前世紀の野蛮な残滓などでは全くなくて、まさしく民主制の発展とともに奴隷制もまた完成の域に達したのだという事実を忘れてはならない。奴隷制なくして、アテナイのあの栄光もまたなかった。奴隷制の崩壊は、そのまま民主制の崩壊へとつながる問題であった。そして、奴隷の鉄鎖を断ち切っていったのは、ほかならぬ奴隷自身であった。

 奴隷が解放されるには、次のような場合があった。先ず第一に、逃亡。実に多くの奴隷が逃亡したが、その追求はなかなか厳しく、しかも、逃亡奴隷はもとにもどすという国際慣行が存した。第二に、粒々辛苦の末に、自分で自分の解放を買い取るという方法。これは特に4世紀になって、流通経済の発展とともに増大し、結局はポリス社会の地殻変動を引き起こす契機となった。他に、例外的な場合として、ポリス共同体のために特別な貢献をして、公的に解放を認められることもあった。BC 406年のアルギヌウサイの海戦に参加した奴隷は、戦後解放されている。

 さらには、奴隷身分からの解放を条件に、自分の主人を不敬罪で密告することを奨励された場合もある。本弁論がまさしくそれである。しかし、密告された主人が、自由人身分ではあっても市民からは疎外されている居留民であったところに、真に敵対すべき相手は誰なのかを見抜くことの難しさを感じさせられる。

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