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back.gif第6弁論


Lysias弁論集



第7弁論

アレイオス・パゴス評議会において 聖木に関する弁明






[解説]



 神々の昔、アクロポリスの丘の上で、女神アテナと海神ポセイドンとが、アッティカ地方の主神の地位をめぐって争ったとき、各々が人間たちに最善の贈り物をすることで決めることにした。そこで、ポセイドンは三叉の戟で大地を打って、アクロポリス山上に海水を噴き出させたのに対し、アテナはオリーブの樹を芽生えさせた。神々の審判の結果、軍配はアテナに上がり、アッティカは彼女のものとなったという。

 オリーブ樹は、キュプロス島を含む地中海東部沿岸地方が原産で、ここから産地がエーゲ海沿岸に拡大したと見られている。この地方は、彫刻・建造物の傑作を後世に遺すこととなる良質の大理石の産地にほかならないが、だからこそ、表土層も薄く、大樹の成育にはきわめて不利な地質であった。したがって、このような地質をむしろ好むオリーブ樹は、古代ギリシア人にとって貴重な存在であった。しかも、オリーブ樹の栽培が盛んとなり、アッティカの主要作物となるにおよんで、オリーブは、数少ない輸出作物の一つとなった。文字どおり、金の成る樹となったわけである。

 ポセイドンが噴き出させたという塩水の井戸と、アテナが芽生えさせたという神聖なオリーブ樹とは、歴史時代に入ってからも、アクロポリスのエレクティオン神殿の境内に伝存していた。クセルクセルの軍勢がアテナイを完全に占領してアクロポリスを焼き払ったとき、オリーブの聖樹も神殿とともに消失したが、翌日には、1ペキュス〔約44.4cm〕ほどの芽が幹から生じていたと、ヘロドトスの『歴史』はわざわざ一節を割いて書き留めている(第8巻55)。彼らが、オリーブ樹をいかに神聖視していたかがうかがえる。

 アッティカのオリーブ樹は、アクロポリスの聖木を親株として株分けされたと伝えられ、それは国家共有の財産として認識されていた。私有のオリーブ樹といえども、1年間に2本以上は勝手に掘り除けてはならず、これに違反すると処罰されたという。したがって、国家による監視は厳重をきわめ、果実の収穫は、契約官たち(poletai) が請負人を任命し、規定量を国家に納付していた。また、刑罰も厳しく、聖なるオリーブ樹(moria) を伐り倒したり掘り抜いたりした者は、アレイオス・パゴス評議会において死刑を宣告された。この厳しさは、おそらく、それが涜神罪の一種と考えられていたからであろう。

 ところが、時代とともに、オリーブ樹の法的性格は変化してゆく。特に、ペロポンネソス戦争が大きな転機をなした。

 オリーブ樹は、樹齢がきわめて長く、長期にわたって収穫できる利点がある反面、実を結ぶまでに長時間を要する。オリーブの収穫が一応の水準に達するのは、樹齢40年ころからだといわれている。結実までにこのような長時間を要する貴重な果樹であるために、外国の軍隊が侵入しても、これを伐採することはなかった。むしろ、伐り倒すと見せかけて、相手を平野におびき出す作戦を採るのが通例だったという。つまり、農民が子々孫々のために丹精こめた作物に手をかけないというのが、敵同士とはいいながら、同じギリシア人同士の国際慣例であった。そういえば、当時の軍隊の中核をなす重装歩兵は、みな、自営農民層の出身者であったのだ。

 ところが、このような「美風」が失われたのが、ペロポンネソス戦争にほかならなかった。歴史家トゥキュディデスが予感したとおり、〃戦争を継続するだけの経済力があるかぎり、戦争は戦争の論理にしたがって展開する〃ことを立証したのが、ペロポンネソス戦争にほかならなかった。敵国に侵入した軍隊は、もはや何の斟酌することもなく、掠奪し、耕地を踏みにじり、果樹を伐採し、火を放ってすべてを焼き払った。戦争は、要するに、相手の息の根をとめて、相手をこの世から抹殺することだ、という本義に目覚めたのである。

 アテナイ人たちは、焼け残った聖なるオリーブ樹のうち、旧株に新芽を生じたものに柵をめぐらせ、これをsekos と呼んで保護に努めた。〔もっとも、sekos とは、幹にウロのできるほど古い株のことだという解釈もある〕。

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』第60章の記述によれば、聖なるオリーブ樹の扱いは、ペロポンネソス戦争期をはさんで、「神聖オリーブ樹の果実の納入」から、「神聖オリーブ樹一株あたりのオリーブ油の納入」へ、さらには、「土地の単位面積から一定量のオリーブ油を納入」へと変化してゆく。この最後の段階では、国家はもはや聖なるオリーブ樹の果実もしくは株数を掌握し得ていなかったことが想像される。これにともない、刑罰も、「死刑」から、「財産没収、国外追放」へ、さらには「法律はあっても裁判は行われない」状態へと変化する。第7弁論からわかることは、これがちょうど過渡期――納入は果実である、しかし、刑罰は財産没収・追放刑――にあるらしいということである。年代は、BC 397/6年から何年か後である。

 アテナイの訴訟制度においては、民衆訴追が原則であった。しかも、裁判には常に危険が伴った。アテナイ人にとって、「危険(kindynos)」という語はまた「争訟」をも意味していたほどである。したがって、金品をやって告訴人に告訴を取り下げさせるという手段が盛んに用いられたようである。ここに目をつけたのが、アテナイの名物ともいわれた「告訴屋(sykophantes) 」の跳梁跋扈であった。第7弁論の被告は、告訴屋たちに目をつけられるに充分なほど富裕な市民であったようだ。しかし、彼は敢然と裁判に立ち向かった。謙虚な人柄をうかがわせながらも、原告に浴びせる皮肉は痛烈である。

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