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back.gif第5弁論


Lysias弁論集



第6弁論

アンドキデスに対して 涜神罪で






[解説]



 話は、16年前(BC 415)にさかのぼる。

 当時、アテナイは、国運を賭してのシケリア大遠征の準備に騒然としていた。そんな中で、ある不可解な、しかしアテナイ史上最大のスキャンダルに発展する事件が起こった。

 アテナイ市内には、市民の家の入り口や聖域や街角に、四角の石柱の上にヘルメス神の頭部を刻んだヘルメス石柱像が数多く建てられていた。石柱の中ほどには、勃起した男根が突起していて、その意味でも、それは日本の道祖神に似ていた。この石柱像の一部分が、一夜にして、ことごとく毀たれたのである。いわゆる「ヘルメス神像毀損事件」である。

 犯人はもちろん、その意図さえもわからない。それは、酒に酔っぱらった若者たちの単なる悪ふざけにすぎなかったのかもしれない。あるいはまた、かなり信憑性のあるところでは、政治的野心に燃える若者たちが秘密結社に類したものをつくっていたが、その一つの「革命ごっこ」程度のことだったのかもしれない。しかし、ペロポンネソス戦争の大きな転回点を迎えて、漠然とした不安を増大させていたアテナイ市民に与えた衝撃の大きさは、計り知れないものがあった。ここに目を付けたのが、新進のアルキビアデスにシケリア遠征軍の将軍という栄職を攫われて切歯扼腕していた政敵たちであった。彼らはこの事件を最大限、利用しようとした。

 さっそく、評議会に真相究明委員会(zetetai)が設置された。そこには、ペイサンドロス、カリクレスなど、後にアテナイの国家体制を根底から揺らがすことになる者たちが名を連ねている。多額の賞金が犯人の首にかけられたが、他にも何らかの不敬涜神の行為がなされた事実を知っている者は、市民、他国人、奴隷の別を問わず、これをすすんで密告した場合には、罰を受けないという附加決議がなされた。主眼は、むしろ、後者にあったというべきであろう。さっそく、奴隷や居留民の密告者が現れ、以前、酒に酔った若者たちが神像にふざけて破損させたこと、また、彼らは私邸内で秘儀の祭礼を真似て愚弄したこと、その責任の一端はアルキビアデスにあることを証言した。普段から乱行に及ぶことの多かったアルキビアデスならば、さもありなんと思われる内容である。

 しかしアルキビアデスは、民衆の支持を背景に、これに真っ向から対決する姿勢を示した。恐れをなした政敵たちは、方針を切り替えて、真相究明は後にして、彼を早くシケリアに送り出そうと画策した。こうして、BC 415年夏、シケリア遠征隊は予定どおりペイライエウスを出港した。

 秘儀の模倣という不敬冒涜事件と、ヘルメス神像毀損事件とは、もともと、別々の存在であったはずが、いつの間にか混同されるようになっていた。しかも、後者は民主制国家転覆の陰謀として位置づけられ、その追及は苛烈をきわめた。アテナイ法においては、本来、市民に対する拷問は禁止されていた。にもかかわらず、真相究明のためにこれを認める決議もなされた。奴隷、居留民、女性といった、市民階層からは疎外されている者たちから次々と寄せられる密告。拷問とその恐怖心とによって得られる供述……。何が真実で何が虚偽かの判別もつかず、もはや事件は収拾のつかないものとなっていった。

 密告者ディオクレイデスは(彼は市民であったが)、自分は犯人たちが集合しているところを目撃した、その数三百人である、と証言し、謀議の中心人物として四十二人の名を挙げた。この中に、アンドキデスとその親類縁者10名が含まれていた。

 アンドキデスは、その系譜を前6世紀の中期までたどれる名門貴族の生まれである。その一族壊滅の危機に瀕し、身内の者にも勧められ、ついに真相を白状する決心をした。その真実とは、自分の属していた政治結社の団結をはかるために(どこかで聞いたような話だ)、エウピレトスなる者が提案し、自分を除く仲間が実行したものであり、その仲間とは、ほとんどの者が密告者テウクロスによって既に名前が挙げられているとし、ただ、そこから漏れている者4名を追加供述したのである。密告と処刑という、とめどもない広がりに恐慌状態に陥っていたアテナイ市民は、アンドキデスの「真実」を喜んで受け入れ、即刻、彼を釈放し、彼が名を挙げた者たちを処刑し、逮捕勾引できなかった者たちは欠席裁判で死刑判決をくだし、これを殺害した者には賞金を与える旨を公示したのである。

 他方、遠征軍を率いて既にシケリアに渡っていたアルキビアデスには召還命令が下り、危険を察知した彼は、そのまま亡命した。そこで、アテナイ本国では、欠席裁判のまま、彼に死刑の判決を下した。虚実つきまぜて、ついに政敵たちは、アルキビアデスの失脚に成功したのである。

 さて、密告の代償に身の安全保証を得たアンドキデスであったが、彼のせいで将来有望な若者たちを多く失ったことに対する恨みは強く、イソティミデスの提案に成る決議によって、アンドキデスはアテナイに居づらくなる。以後、彼は祖国を逃れ、貿易商人として生計を立てながら、祖国復帰の機会を待ち続けた。BC 411年、「四百人」政権が樹立した際に復帰を試みるが失敗。BC 403年、「三十人」僣主の倒壊による大赦令の発効によって帰国を許された。

 帰国後、彼はアテナイ政界に進出するために精力的に活動する。だが、それは同時にまた敵をつくるということでもあった。先ず、アンドキデスが参入する前から、談合によって利益を独占していた契約官(poletes)たちの組織と衝突した。第二に、横領の旧悪を告発して恨みをかった。そして、相続をめぐって身内の者と対立した時、仇敵たちは、ここぞとばかりに結託して、アンドキデスを不敬涜神罪で告訴したのである。

 上記の解説にみるごとく、告訴事由そのもの(「秘儀の期間に、嘆願者の枝を祭壇の上に置いた」)は捏造であったが、16年前の事件が蒸し返されることになる。つまり、(1)アンドキデスは密告によって罪なき者を死に至らせた不敬涜神の犯罪者であるのか。(2)しかりとすれば、大赦令は彼に適用されるのかどうか。有罪となれば、死刑は免れない。

 これに対するアンドキデス自身の弁明「秘儀について」が現存している。冗長な弁論ではあるが、論点を微妙にずらせながら、ついには自分に都合のよい結論に持ってゆくには、その冗長さが絶大な効果を発揮している見本のような弁明であるといってよい。告発者たちは、相手の弱点を効果的に衝けなかったのみならず、裁判官たちもまた、もはや16年も前の事件は思い出したくもなかったし、帰国後3年間のアンドキデスの公的な働きには好意的な人たちも多かった。それゆえ、無罪放免。

 本弁論は、おそらく、アンドキデスの「秘儀について」を見て書かれたパンフレットだと考えられる。話題の配列のまずさ、重要な事実に対する曖昧で舌足らずな言及、問題の的確な把握を逃していることを隠すための気取った物言い……これがリュシアスの手に成るものであるはずがない、という点で、研究者たちの大方の意見は一致している。

 裁判から8年後、アンドキデスは、コリントス戦争停戦交渉のための使節団の一員としてスパルタに派遣される。公職に就きたいという念願がかなったわけである。が、アテナイ人たちが和約を拒否したため、再び祖国から追放される。この記録を最後に、われわれは二度と彼の名を眼にすることはない。

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