title.gifBarbaroi!
back.gifLysias弁論集・目次


Lysias弁論集






[解説]1 リュシアスについて



 リュシアスは、前5世紀後半から前4世紀の前半にかけてのアッティカを代表する弁論家の一人である。特に法廷弁論の代作者(logographos) として名声を博した。

 父親ケパロスは、シケリア島シュラクサイの盾製作所の富裕な経営者で、BC 470年頃、ペリクレスの勧めでアテナイの外港ペイライエウスに定住した寄留民(metoikos) であった。黄金期アテナイの最高指導者ペリクレスという強力な後ろ盾のもと、ペロポンネソス戦争という軍需景気にも幸いされて、知らぬ人とてない蓄財家の一人となった。それでいて信仰心も篤く、教養ある紳士でもあって、彼の邸宅は当時の知識人たちの「サロン」の様相を呈していたと考えられる。すでに老境に達したこの寄留民の姿が、プラトンの『国家』第1巻に活写されている。

 ケパロスには三人の息子がいた。長男ポレマルコス、次男エウチュデモス、そして三男のリュシアスである。リュシアスはBC 458/7年頃に生まれたと伝えられている。彼ら兄弟は、最も恵まれた家庭の中で、アテナイ黄金期の、おそらくは望み得る最高の時代精神を、存分に呼吸しながら成長してゆく。リュシアスは父親の死後(BC 440 頃) 、片方ないし両方の兄とともに、南イタリアの新興都市トゥリオイに渡った。そして、シケリア派弁論術の創始者(の一人と目される)テイシアスの門に入り、弁論術を修得し、裕福な生活を送り、政治的な活動にも従事したものと考えられる。当時、トゥリオイは、他のいずれの都市とも同じく、民主派と寡頭派との対立・抗争が激しかったが、リュシアスは、終始、民主派の熱心な支持者であり続けた。

 ところが、アテナイのシケリア遠征は、2年の戦いの後、BC 413年、アテナイ軍の全滅という形で終わる。この影響はトゥリオイにも及び、政権が民主派から親スパルタ寡頭派へと移行する政変となって現れる。このため、リュシアス兄弟はその地に留まることができず、アテナイへと引き揚げた。

 しかし、アテナイもまた平穏ではなかった。デケレイアに砦を築いたスパルタ軍は、アテナイの領地を間断なく蹂躙していた。シケリア遠征の敗北によって、同盟国は次々と離反していた。このような中で、BC 412年、アテナイに寡頭派の「四百人」政権が樹立した。これはわずか4か月で倒壊したが、それに続く民主派革命の後、BC 405年、ヘレスポントスにおいて、アテナイはスパルタ海軍によって致命的な敗北を喫し、翌BC 404年、27年に及ぶペロポンネソス戦争は、アテナイの無条件降伏という形で幕を閉じた。そしてスパルタの後押しで「三十人」寡頭派の傀儡政権が樹立するや、アテナイは恐怖政治の暗雲に覆いつくされた。特に富裕な居留民に対する迫害が甚だしく、リュシアス兄弟も財産を没収され、ポレマルコスは「三十人」によって殺害され、リュシアスは身ひとつでメガラに亡命した。

 このとき、テバイにおいて民主派の抵抗を糾合していたトゥラシュブウロスを支持し、翌BC 403年、「三十人」打倒後のアテナイに凱旋する民主派の一員として、リュシアスも帰還した。この功により、トゥラシュブロウスは、リュシアスを含めた支持者全員にアテナイ市民権を与えるよう民会に提案したが、これは否決され、リュシアスはついに終生メトイコス身分に留まった。しかも、没収された財産は回復すべくもなく、困窮した結果、法廷弁論の代作者となって生計を立てた。弁論家としての彼の名声は、後半生におけるこの活動から生まれたものである。

 BC 403年の無条件降伏にもかかわらず、ギリシアの覇権を握ったスパルタとペルシアの対立という国際情勢を利用し、アテナイはパルシアの援助を取りつけて急速に国力を回復する。ここに、アテナイとコリントスとの同盟という新たな構図のもと、BC 395年、対スパルタとの間にコリントス戦争が起こる。

 リュシアスの没年は、伝承ではBC 380年頃とされている。ペルシアの介入によってコリントス戦争が終結し、ギリシア世界の凋落が誰の眼にも明らかとなった年(BC 386 大王の和約)から8年後、リュシアス80歳のことである。リュシアスの死後、ギリシアではテバイが台頭し、なお内紛をやめなかったが、新興国マケドニアによって、ついにギリシアの諸都市国家が、すべて、真の意味での独立を失うカイロネイアの戦い(BC 338)までには、なお40年間を残していたのである。

 彼はおびただしい数(200 編以上)の弁論を書いたと伝えられるが、リュシアスの名前で伝存しているものは35編にすぎない。そのうち、4編(第2、第33、第34、第35弁論)は、前5世紀のソフィストたちによって発展させられた演示的(=見せびらかし的)弁論の典型である。残りの31編のうち、5編(第6、第8、第11、第15、第20弁論)は、リュシアスの手に成るものでないことは、ほぼ確実である。しかしながら、偽作をも含めて、絶頂期を過ぎたアテナイが、長い衰退期へと差しかかる当時の社会と政治を知るうえで、第1級の史料であることに間違いはない。

book.gifリュシアス伝参照

forward.gif[解説]2 アテナイの国制
back.gifLysias弁論集・目次