[解説]1 リュシアスについて
[解説]2 アテナイの国制周知のとおり、アテナイは直接民主制国家であった。この国家体制の行政の基本的単位をなしていたのは、区(demos) である。これは、在来のアッティカ各地の村落を基に設定されたもので、その数130 余に及んだという。このデーモスが、市域・沿岸・内陸の三地域に分けられ、それぞれがさらに10の区域に分割される。こうしてできた合計30の区域は、それぞれトリッテュス(trittys 「三分の一」の意)と呼ばれ、これを市部・沿岸部・内陸部からそれぞれ一つずつ選んで、合して一つの部族(phyle)を構成する。こうしてできた十部族が、アテナイの国制の根幹をなした。 アテナイ市民の家に生まれた嫡出の男子は、18歳になると、その家が属する区の区民総会で成人の資格審査(dokimasia ton ephebon) を受けて、初めて市民(porites) として登録され、2年の守備隊勤務の後、民会(ekklesia)への出席を認められる。民会は国の最高議決機関であり、市民たる者すべて民会への出席権すなわち参政権を有するわけで、ここに、アテナイが直接民主制たる所以が存する。 通常の実務処理に当たるのは評議会(boule) であったが、これも、30歳以上の完全市民の希望者の中から、各部族50人が抽選され、合計500 人から構成された。各々の部族から選ばれた50人は同僚団を構設し、計10組が交代で、1年の10分の一を一期(prytaneia) として、当番評議員(prytaneis) の役を勤めた。この評議会は、民会での審議事項を先議し、かつ独自の司法・行政上の権能を有し、アテナイ民主制運営の機軸をなすものであった。 評議員経験者の中で希望する者は、さらに厳しい資格審査を経て、執政官(archon)として、これも各部族持ちまわりで抽選された。筆頭執政官(archon eponumos「紀年のアルコン」とも言い、アテナイの年号は、この執政官の名前で呼ばれる) 、バシレウス(basileus 「王」の意) 、ポレマルコス(polemarhos 「軍令官」の意) 、6人のテスモテタイ(hoi tesmothetai「立法者たち」の意) の、計九人である。名称からもうかがえるとおり、その由緒は古く、国家の最高職として格式は高かったが、しかし、祭祀や家産や市民生活にかかわる問題を処理するだけで、国政の実権はまったく持っていなかった。 裁判官(dikastes)も各部族の30歳以上の希望者の中から抽選で選ばれた。その数は、各部族600 人、計6000人の多きをなした。訴訟の内容や事件の規模によって、一定数の裁判官が選ばれ、私訴の場合は 200人の裁判官、公訴の場合は 500人の裁判官をもって一法廷となし、問題の大きさに応じて二法廷あるいは三法廷が合同する形をとった。 このように、民会・評議会・民衆法廷(dikasterion) というアテナイ民主制の根幹をなす機関が、すべて十部族制に基づいて形設されていた。軍隊も部族を単位とし、将軍(strategos) も、もともとは、部族指揮官として(これのみは抽選ではなく)挙手選出された。もっとも、後には(少なくとも前4世紀)、部族を離れて民会での直接の挙手選出となり、それだけ重要度を増すこととなる。といっても、それは相対的な意味においてにすぎない。アテナイ民主制の絶頂期、このような国家体制において、おそらく、望み得る最高の権力を握ったあのペリクレスでさえ、裁きの庭に容赦なく引きずり出されたのである。 |