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Lysias弁論集






[解説]3 アテナイの訴訟体系



 アテナイの訴訟制度においては、すべての訴訟が、利害当事者の訴追をもって初めて発効する。しかし、アテナイ人にとっては、「市民であること、市民生活を送ること」と「為政者であること、政治をすること」とは同義であった。つまり、そのいずれをも(politeuein)というギリシア語で表し、言葉の上で区別する必要を認めなかった彼らにとっては、市民であることそのことが、国事に関して利害当事者であるということであり、したがって、各市民が直接に告訴権を有していたのである(民衆訴追主義)。公権力がこれを代行するというのは、むしろ例外にすぎない。

 もちろん、アテナイ人たちも公訴(demosia dike)と私訴(idia dike) とを区別していたが、これを現代のわれわれの感覚で受け取っては、大きく過つであろう。むしろ、公訴と私訴との違いは、訴訟手続きの違いであり、したがって、同一の非違に対して、二種の訴訟手続きが可能であったのだと解した方が、わかりやすい。例えば、殺人は、被害当事者(もちろん、既に死んでいたら、その近親者)が訴え出なければ、裁判として成立し得ない私訴、つまりは私事であった。しかし、同じ殺人事件を、国家(polis) 構成員(polites) に対する攻撃として、したがって、国家反逆罪として公訴することも、少なくとも理屈の上からは可能だったのである。

 殺人事件はバシレウスに提訴する。殺人は不敬涜神的行為であり、これの管掌はバシレウスにあるからである。また、家族や相続に関する訴えは筆頭アルコン、居留民に関するものはポレマルコス、市民権詐称の訴えはテスモテタイが受理する。それぞれの役職にある者は、現代でいう起訴状に該当する宣誓供述書(apographe) を作成し、予審を行ったのち、法廷に回付した。

 財産に関する私訴の場合は、各部族から4人ずつ選ばれる審判人団「四十人(hoi tettarakonta)」に提訴。係争額10ドラクマ以下の場合は、「四十人」が裁いた。係争額が10ドラクマを越えると、「四十人」は、60歳に達した市民の中から抽選した「調停人(diaitetes) 」の調停に付する。調停が不調に終わった場合は、調停人はみずからの裁定を付して、「四十人」に差し戻し、「四十人」はこれを法廷に回付する。法廷は、係争額が1000ドラクマ以下の場合は、201 人の裁判官、これ以上の係争額の場合は、401 人以上の裁判官で構成される。

 盗み・誘拐・追い剥ぎなどの現行犯については、「十一人(hoi hendeka) 」が逮捕・連行・起訴までの権能を有し、これをアパゴーゲーapagoge といった。もしも犯人が「十一人」の審判に服する意向を示せば、「十一人」はこれを断罪することもできたが、そうでなければ、法廷に回付しなければならなかった。

 しかし、アテナイの法制度において、とりわけ注目に価するのは、公職者に対する重層的・網羅的な監視体制である。役人の任期は一年で、しかも重任・再任は原則として許されず、さらには、すべての職務は必ず複数(たいていの場合、十部族に対応する十人)の同僚団によって運営されるようにし、権力が個人に集中することを抑制していた。また、役人に就任する時には資格審査(dokimasia) を受け、各プリュタネイアの主要民会ごとに信任を挙手採決で問われ、任期満了に際しては、任期中の公務の内容について執務報告を行い、執務審査(euthynai)を受けなければならない。資格審査も執務審査も、それ自体は訴訟の対象ではなかったが、訴訟の前段をなすものであった。

 そればかりか、公職者には、随時その非違をただす訴訟手続きが用意されており、その中でも、政治の中枢にある人物を容赦なく法廷に引きずり出し、彼らの政治上の責任を厳しく追及し、ついには処刑にまで導く弾劾裁判(eisangelia)の制度は、アテナイの訴訟制度を際立たせていた。あたかも、アテナイ人たちは、権力に近づこうとする人間を、まったく信用していなかったかのようである。

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