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back.gif情炎物語


プルタルコス

女たちの勇徳

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Plutarchus : Mulierum virtutes [Sp.] 242e-263c
底本は、THESAURUS LINGUAE GRAECAE CD-ROM #D



 女たちの徳性について、おお、クレア*よ、わたしたちはトゥキュディデスと考え を同じくするものではない。なぜなら、彼は、非難はもとより、称讃の言葉でさえ、 外部の男たちの口にのぼることの決してない女こそ最善と表明しているのであるが、 それは、善き女は、その身と同じくその名前さえも、閉じこめられて外にもれてはな らないと彼は思っているからである**。これに反してわたしたちには、ゴルギアス ***の方がより魅力的に思える。というのは、女性の姿形ではなくてその評判は、多 くの人たちに周知さるべしと言っているからである。また、ローマ人たちの法習が最 善と思われるのは、男たちと同様、女たちにも、その死後、相応の称讃が授けられる からである。それゆえ、あの最善の女性レオンティス****が亡くなったとき、すぐに わたしたちは、かつて、愛知者にとっての励ましに欠けるところなき長々しい対話を あなたと持ったことがあるのであり、今もまた、あなたの望みによって、男と女の徳 性は一つであって同じであるということについて、言い漏らされたことをあなたのた めにわたしは書きあげた。〔ここに書かれている話は〕歴史的明証性を有していて、 聞くことの快さには適合していないが、実例というものが有する自然本性によって、 説得的な話に面白さまでが具わるなら、明証性に役立つものを取り逃がすということ はなく、まして、エウリピデスが言うように、「ムーサたちにカリス(「優美」)た ちをこきまぜて、最美の縁組みを」〔『狂えるヘラクレス』673〕羞じらうこともな い。〔話が〕信憑性をつなぎとめられるのは、もっぱら魂に固有の愛美精神によって こそなのだからである。
  *デルポイの女神官でプルタルコスの女友だち。
  **『戦史』第2巻45章。ペロポンネソス戦争初年のペリクレスによる戦没者追悼 演説。「この度、夫を失うこととなった人々に、婦徳について私から言うべきことは ただ一つ、これにすべてのすすめを託したい。女たるの本性に悖らぬことが最大のほ まれ、褒貶いずれの噂をも男の口にされぬことを己の誇りとするがよい」。(久保正彰訳)
  ***シケリアのレオンティノイ出身の弁論家、ソフィスト。前480頃-380年。
  ****不詳の女性。

 では、はたしてどうか――わたしたちが、男たちと女たちとの描き方は同じことだ と言って、アペッレース*やゼウクシス**やニコマコス***が後世に残したのと同じよ うな絵画を提示したからといって、いったい誰がわたしたちを非難しえようか――わ たしたちの狙いが説得にあるのではなくして、楽しませ魅了することにあるなどと言 って? わたしとしては、そうは思えないのである。
  *前330頃活躍、ギリシアの大画家。
  **前435-390頃活躍、南イタリアのヘラクレイア出身の画家。
  ***前4世紀中期のギリシアの傑出した画家。

 また、どうか? 今度は詩作術や占卜術を、男たちのそれと女たちのそれとは別々 ではなくて、同じ術知であると表明して、サッポー*の抒情詩をアナクレオン**のそ れに、あるいは、シビュッラ***の予言をバキス****のそれに対峙させたからといっ て、その例証をとがめだてすることのできる権利を誰が持っているであろうか――〔 予言というものは〕喜ばせたり面白がらせたりすることで聞き手に信用する気を起こ させるのだなどと言って? このこともまた、あなたは言いつのることはできまい。
  *前620頃生、ギリシア第一の閨秀詩人。
  **前6世紀、テオス出身の抒情詩人。
  ***神秘的な女予言者の通称で、各地にその名で呼ばれる予言者についての伝承があった。ここでは、アエネアス伝説で有名なイタリア中部の町クマエのシビュッラをさす。
  ****神がかり的な予言者あるいは占者で、古典期に引用された託宣の作者とされる。

 じっさいのところ、女の徳性と男の徳性との等しさと違いは、偉大な術知による作 品と同様、人生を人生に、行為に行為を並べ置いて考察するよりほかには、よりよく 理解することはできないのである――セミラミス*の大行はセソーストリス**のそれ と同じ性格と型式を有しているのかどうか、あるいは、タナキュッリス***の識見は セルウイオス*(4)王のそれと、あるいは、ポルキア*(5)の心意気はブルウトス*(6)の それと、また、ペロピダス*(7)のそれにはティモクレイア*(8)のそれと、最も大事な 協同性と影響力の点で〔同じかどうか〕、と。諸々の徳性というものは、個々の色合 いと同様、その自然本性によって一種異なった相違性を有してはいるが、また、周囲 の習慣や身体の調合〔=体質〕や養育や暮らし向きに相似してもいるからである。す なわち、男らしさの点で、アキッレウスとアイアスは違っている。また、オデュッセ ウスの慎重さもネストールのそれと等しくなく、カトー*(9)とアゲーシラ オスの義しさも同様ではなく、エイレーネー*(10)が夫を愛するのもアルケースティ ス*(11)と同様ではなく、コルネーリア*(12)の気品もオリュムピアス*(13)と同様で はない。とはいえ、そうであるにもかかわらず、諸々の勇ましさや諸々の慎重さや諸 々の義しさが、多種多様にして相異なっているとは、われわれはみなさないでおこう ――個々の話における不等性が、その固有の話が有する徳性を一つでも排除しないか ぎりは。
  *アッシリアの伝説的な女王。
  **前14世紀のエジプトの王。ヘロドトス『歴史』第2巻102-111参照。
  ***5世紀のローマ皇帝タルクイニウス・プリスクスの妻。
  *(4)Tullius Servius(578-535)。ローマの6代目の王。
  *(5)1世紀、小カトーCato Uticensisの娘、Burutusの妻。
  *(6)Decimus Iunius Brutus Albinus。Gaius Julius Caesarが最も信頼を置いた親友。後、Caesarに対する謀反に加わり、43年、アントニーの命令で処刑される。
  *(7)有名なテーバイの将軍にして政治家。c.410-364。第24話参照。
  *(8)テーバイ人テアゲネスの妹。第24話に詳しい。
  *(9)大カトーMarcus Porcius Cato Censorius、ローマの政治家・文人。前234-149。
  *(10)Ptolemy Philadelphusの兄弟Ptolemyの婦人。
  *(11)ペリアースとアナクシビアーの娘。ペライ王アドメートスの妻。
  *(12)2世紀、大スキピオの娘。グラックス兄弟の母。
  *(13)マケドニア王ピリッポスの妻、アレクサンドロス大王の母。

 けれども、あまりに喧伝されすぎている事例や、あなたが他の書物の中で遭遇して、すでに確実な情報と知識を持っているとわたしの思う事例は、省略しよう。ただ し、世間周知の公表された事例で、聞くに値することでありながら、わたしたちより前の編纂者たちに見逃されてきたようなことは例外である。それでは、語るに値する多くのことが、共同によってにしろ一個人によってにしろ、女たちによって成し遂げられてきたので、万民周知のことのうち、短いのを先に物語るのは、まずいことではない。




〔第1話〕トロイア女たち

 イリオン*の陥落を免れた者たちのうち、大多数は嵐に見舞われ、さらには、航海の不慣れと海を知らないために、イタリアに流され、テュムブリス河**の近くで、やむをえない投錨地と停泊地にかろうじて逃げ込み、男たちは案内人を求めてその地をさまよっていたが、女たちには、善くかつ美しく為す人間たちには、どんな定住地であれ、いかなる流浪や船旅よりもましである、それに、自分たちは失った祖国を取り戻すことができないからには、それを作らなければならないとの考えに想到した。そこで、心を一にして、舟艇を焼き払ったのであるが、その中の1艘は、伝えられるところでは、ローメー〔ローマ〕と呼ばれる先導船であった。そして、これを実行したところに、〔船を〕助けるために海に駆けつけた男たちと行き合わせたので、その怒りを恐れて、ある女たちはその夫を、ある女たちはその家族を抱擁し、しきりに接吻して、親愛の情をこめたしぐさでなだめすかした。これが、自分と生まれを同じくする者たちに接吻して喜ばせるという習慣が、ローマの女たちに生まれ、今もなお存続 している所以である。
  *トロイアのこと。
  **イタリア中部の河、テベレ河。

 どうやら、トロイアの男たちは、やむを得ないと知っていたようであるし、同時にまた、先住民たちが好意的に人情深く受け入れてくれるのを体験して、女たちにされたことを歓ぶようになり、その地のラティオン人*たちといっしょに居住することになっ たのである。
  *ラティウム地方の住民、すなわちラテン民族。




〔第2話〕ポーキス女たち

 ポーキス*女たちのことは、有名な歴史編纂者の注意を引くことはなかったが、勇徳の点で女たちの誰ひとりにも劣ることはなく、そのことは、ヒュアンポリス**近辺ではポーキス人たちが今もなお開催して盛大な犠牲祭と、往古の名声とが証拠立てており、このことの行為の一々は、『ダイパントス伝』の中でも記述されているが、女たちのことは次のごとくである。
  *ギリシア中部地方、ボイオティアの西方、パルナッソス山麓の地方で、デルポイの神託所を有する。
  **ケピソス河の東、ポーキスの北東部の町。

 テッタリア人たちとポーキス人たちとの間に、情け容赦のない戦争が起こった。す なわち、ある日、後者は前者の支配者たちや僭主たちを、ポーキスの諸都市内で殺害 し、対して前者は、後者の人質250人を虐殺した。かくて、〔テッタリア人たちは〕 全軍でもってロクリス人たちの領土を抜けて侵攻してきた。成人はひとりも容赦せ ず、子どもや女たちは奴隷人足にするとの決議をした上である。そこで、バテュリオ スの子で、3人の支配者の1人であったダイパントスは、ポーキス人たちを説得し、 自分たちは迎撃に出てテッタリア人たちと戦闘する一方、女たちは生子もろとも、ポ ーキス全土からとある一カ所に集まり、まわりに薪を積み上げ、番人を残して、自分 たちが敗北したとわかったら、すみやかに薪に火をつけ、その身を焼き捨てるように との命令を与えておくようにしようとした。そして、このことを他の者たちが決議し ようとしていたとき、1人の男が立って、このことは女たちもいっしょに決めるのが 義しい、さもなければ、〔女たちは〕拒否して、強制されることはあるまい、と主張 した。この話が女たちに伝えられると、彼女たちは自分たちだけで集合し、同じ事柄 を決議し、また、ポーキスにとって最善のことを提議したとして、ダイパントスを讃 えたのである。さらに、子どもたちも私的に総会を開いて、同じことを賛成決議した と伝えられている。

 そして、これらのことが実行された後、ポーキス人たちはヒュアンポリスのクレオナ イ近辺で激突して勝利した。そこで、ポーキス人たちのこの決議を「死に物狂い (Aponoia)」とヘラス人たちは名づけた。また、あらゆる祭りの中で最大の祝祭であ るアルテミス女神のためのElaphebolia(「鹿撃ち祭」)は、ヒュアンポリスにおけ るかの勝利を祝って今に至るもなお彼らは執り行っているのである。




〔第3話〕キオス*女たち

 キオス人たちがレウコーニア**に移住したのは、次のような理由による。キオスで 周知と思われている人たちの1人が結婚しようとした。そして、花嫁が2頭立ての馬 車で導かれているとき、王のヒッポクロス――花婿の親友であり、他の友人たちと同 様に陪席していた――が、酩酊し大笑いしながら、馬車の上に飛び乗った。何ら暴行 を働こうとしてではなく、普通の習慣と冗談のつもりであった。だが、花婿の友人た ちは彼を殺害してしまった。
  *Chios。イオーニア沿岸の、サモス島とレスボス島との間の、大きくて豊かな島。
  **小アジア西岸の町、キオス島対岸の半島と考えられている。

 やがて、キオス人たちに祟りがあらわれ、ヒッポクロスを亡き者にした者たちを亡 き者にすべしと神が命じたとき、全員がヒッポクロスを亡き者にしたと主張した。そ こで、ふたたび神が、もしも全員がその凶行にかかわっているなら、全員が都市を後 にするようにと命じた。じつにこういうふうにして、責任者たちは、殺人に関与した 者たちも、とにかく賛同した者たちも、その数は少なからず、権勢もなくはない人た ちが、レウコーニアに移り住んだ。ここは、かつて彼らがコローナイ人たちから略取 し、エリュトライ*人たちとともに所有していたところであった。
  *キオスの対岸にあるイオーニア都市。

 ところが、後日、エリュトライ人たちと彼らとの間に戦争が起こり〔ヘロドトス『 歴史』第1巻18章〕、当時、〔エリュトライは〕イオーニアの最大勢力であって、その 彼らがレウコーニアに出征したために、持ちこたえることかなわず、撤退に同意し た。その条件は、各人が外套(chlaina)と上着(himation)を1着、他には何も持たずに というものであった。しかし、女たちが、武器を置いて裸で敵たちの中を撤退するつ もりかと、男たちの臆病をなじった。対して、〔男たちが〕誓約してしまったのだか らと主張すると、〔女たちは〕男たちに命じて、武器を後に残すことのないよう、そ して、敵たちに向かっては、気概のある男にとって、長柄こそが外套(chlaina)、楯 こそが下着(chiton)と言うようにさせた。そこで、キオスの男たちはこれに聴従し て、エリュトライ人たちに向かって直言して、武器を見せつけたところ、エリュトラ イ人たちは彼らの向こう意気を恐れ、誰ひとりとして近づく者なく、まして〔撤退 を〕妨害するどころか、退去するのを歓迎したのである。かくして、この男たちは女 たちに勇気を教えてもらい、そのおかげで助かったのである。

 ところで、多くの時代を経た後世になっても、勇徳の点でこれと何ら後れをとらぬ 働きが、キオスの女たちによって実行されたのは、デーメートリオス〔2世、在位、 前239-229年〕の子ピリッポス*がこの都市を攻囲して〔前201年?〕、野蛮・不遜な布令を回したときであった。〔その布令は〕家僕たちは離反してわが方につくべし、 解放と女所有者との結婚とを条件に、というもので、そうやって、彼は家僕たちを主 人たちの妻たちと同棲させるつもりであった。ところが、女たちは恐ろしいほどのす さまじい気概を持って、家僕たちともども――彼らもいっしょになって憤慨し加勢し ていた――城壁の上に駆け登り、投石をも飛び道具をも浴びせかけ、戦っている男た ちを督励し、あれこれ指図して、ついには、自衛して敵国人たちに飛び道具攻撃を掛 け、ピリッポスを撃退したが、離反して彼の方についた奴隷もまったくいなかったの である。
  *ピリッポス5世、マケドニア王、在位、前221-179年。




〔第4話〕アルゴス女たち*

 女たちによって共同で成し遂げられた業績のうち、いずれにも劣らず有名なのは、 アルゴスをめぐってのクレオメネス**との争いであるが、これは、女詩人テレシッラ の使嗾によって争われたものである。言い伝えでは、彼女は有名な家柄の出身であっ たが、病身であったため、健康について神に〔お伺いを立てる使者を〕遣わした。す ると、ムーサ女神たちに仕えるべしとの託宣が彼女に下されたので、神に聴従して、歌 (ode)と音楽に専念したところ、たちまちにして受苦から解放されるとともに、その 作詩術ゆえに女たちから驚嘆されるにいたったという。
  *ヘロドトス『歴史』第6巻76以下参照。
  **クレオメネス1世。アレクサンドリダスの子、スパルタのアギス家の王。在位、前525頃-488年。

 ところが、スパルタ人たちの王クレオメネスが〔アルゴス人たちの〕多数を殺害して(むろん、7000人に加えること777人というのは、一部の人たちの作り話にすぎないにしても)この都市に侵攻してきたとき、年ごろの女たちに、祖国のために敵から自衛しようという霊的な衝動と大胆さとがわき起こった。そして、テレシッラの嚮導のもと、武器を執って、胸壁のたもとに位置を占めて、ぐるりと周壁〔の上〕を取り巻き、敵たちを驚かせることになった。かくして、多くの味方が斃れたものの、クレオメネスは撃退した。また、もう一人の王デマラトス*の方も、ソクラテス**の主張 では〔FHG IV p.497〕、進入して、パムピュリアコンを占拠していたのを駆逐した。このようにして、国が復活すると、女たちのうち戦いで斃れた者たちは、アルゴス街道のほとりに埋葬する一方、この救国の女性たちには、最も善勇の女性の記念として、エニュアリオスの像を建てるという恩典を与えたのである。ところで、この戦いが起こったのは、ある人たちは月の初めの7日目と言い、ある人たちは月初めと言うが、その月とは、今でいう第4月、しかし昔は、アルゴス人たちのいうヘルメス月で、この日には、今に至るも彼らはヒュブリス祭を執り行っていて、女たちは男性用の着物(chiton)と騎乗服(chlamys)を、男たちは女性用の着物(peplos)と被り物を身にまとうのである。
  *スパルタのエウリュウポン家の王。在位、前515頃-491年。
  **歴史家、アルゴス史を書いたが伝存せず。

 ところで、男日照(oligandori)りを回復するために、ヘロドトスが記録しているように〔VI 83〕、奴隷たちと〔同棲させる〕のではなく、周住民(ペリオイコス)たちのうちの最善な者たちを市民となして、〔これを〕女たちと同棲させた。しかし、 それでも〔女たちは〕その相手を下賤なりとして軽蔑し、性交渉に冷淡であるように 思われた。そのため、彼らは法律を制定したが、それは、髭をたくわえた既婚婦人は、その夫と共寝すべし、と命ずるものであった*。
  *既婚婦人といえど髭が生えるわけではないから、結局は、この法律は婦人たちの行動を黙認することになる。




〔第5話〕ペルシア女たち

 ペルシア人たちを、王アステュアゲス*とそのメディア人たちから離反させようとしたものの、戦いに敗北したのはキュロス**であった。そのため、ペルシア人たちは都市に逃げ込もうとし、敵たちがこれに殺到しようとしてすぐ近くに迫っていると き、女たちが都市の前に待ち受けていて、着物(ペプロス)の裾をたくし上げると、「おまえたちはそんなに急いでどこに行くつもりか」と言い放った、「おお、人の世にもたぐいなき臆病者たちよ。ここはおまえたちが生まれ出てきたところ――逃げたとて、この秘所にはもぐりこむことはできまいに」。その光景と、同時にまた言いぐさとに、ペルシア人たちは恥じ入って、臆病をみずからなじって、方向転換する と、再度突撃して敵たちを背走させた。このことから法習ができた――王が都市に入場するときは、女は各人金貨をもらうというもので、これはキュロスの制定したものである。ところが、言い伝えでは、オコス〔アルタクセルクセス3世〕は、そのほかの点でも邪悪で、王たちの中でもとりわけ強欲であったので、都市をしじゅう見回り、ただで通り過ぎることはなく、贈り物を女たちからせしめたという。これに反してアレクサンドロスは、二度も入場して、孕み女たちに2倍を与えたのであった。
  *キュアクセレスの子、メディアの最後の王。キュロス2世によって打倒される、前559年。
  **キュロス2世、ペルシア語ではクル。アカイメネス朝ペルシア帝国初代帝王。




〔第6話〕ケルタイ*女たち

 ケルタイ人たちは、アルプス山脈を越え、現在領土を占めているイタリアに定住する以前、恐るべき絶え間ない党争に見舞われ、ついに内戦にまで陥った。しかし、女たちは、干戈のただ中に分けて入り、争点を文句のないように仲裁し、裁定を下したので、諸都市においても諸々の家においても、全体に対する全体の驚くべき友愛を実 現した。こういう次第で、戦争と和平について彼らは女たちに相談するのみならず、 同盟者たちとの間の異議申し立ても、彼女たちによって決着をつけてきた。とにかく、アンニバス〔ハンニバル〕との協定の中に書いている。――ケルタイ人たちがカルケドン〔カルタゴ〕人たちを訴える場合には、イベリアにあるカルケドン人たちの統治者ないし将軍たちが裁判官たること、逆に、カルケドン人たちがケルタイ人たちを訴える場合には、ケルタイの女たちが〔裁判官たること〕、と。
  *ヨーロッパ中西部に住んだ勇猛な民族、ケルト民族。




〔第7話〕メーロス*女たち

 メーロス人たちは、広い土地が必要となったので、ニュムパイオス――彼は若くて美しさに抜きんでた男であった――を植民の嚮導者に任じた。また、神が彼らに命ずるところでは、出航して、いずこなりと輸送船を失うところ、そこに定住すべしということであったが、彼らがカリア**に寄港して下船したとき、舟艇が嵐のせいで潰滅するという事態に陥った。そこで、カリア人たちのクリュアッソスの住民は、その窮状を憐れんでか、彼らの大胆さを恐れてか、自分たちの近くに住むよう命じ、土地を分け与えた。やがて、短期間のうちに大いに拡張するのを眼にして、亡き者にしようと謀って、ある宴楽と馳走を準備した。しかし、たまたまカリアの乙女がニュムパイオスに恋をしていたが、他の人には気づかれなかった。彼女はカペネーと呼ばれていた。事情かくのごとくであったので、ニュムパイオスが討ち取られるのを見過ごすことかなわず、彼に同市民たちの野心を漏らした。そこで、クリュアッソス人たちが自分たちを招きにやってきたとき、ニュムパイオスは、夫人の同伴なしに晩餐に出かけるのはヘラス人たちの習慣にないと主張した。これを聞いてカリア人たちは、女たちも同伴するよう命じた。こういうふうにして、〔ニュムパイオスは〕何が起ころうとしているのかをメーロス人たちに話して、自分たちは着物(ヒマティオン)の下は丸腰で出かけるよう、しかし女たちは一人ずつ袂の中に両刃剣を帯びて、自分の夫のそばに座るよう命じた。さて、宴たけなわとなり、カリア人たちに合図が送られ、ヘラス人たちがその時きたれりと察知したときに、女たちは全員がこぞって袂を開き、男 たちは両刃剣をとって異邦人たちに襲いかかってこれを全員こぞって潰滅させた。そして、その領地を所有し、その都市を占領し、別の〔都市〕を建設し、これを新クリュアッソスと名づけた。一方、カペネーはニュムパイオスと結婚し、その功績に相応 する栄誉と謝礼を受けた。だから、歓愛すべきは、女たちの寡黙さと勇ましさと、 そうして、数ある女の中に、怯懦ゆえに臆病者――たとえ心ならずもであろうと― ―になるような女は一人もいないということである。
  *キュクラデス諸島のひとつ。
  **小アジアの南西、リュディアの南、マイアンドロス河からリュキアまでの地 域。




〔第8話〕テュレーノイ*女たち

 また、テュレーノイ人たちがレームノス島**とイムブロス島***とを占領したと き、一方ではブラウロン****からアテナイ人たちの女たちを掠奪したことで、子どもが生まれたが、この子どもたちをアテナイ人たちは半異邦人であるとして島嶼から追放した。そこで彼らはタイナロン*****に上陸し、スパルタ人たちの対隷属民(ヘイロテース)戦争に功を立て、これによって市民権と通婚権を得たにもかかわらず、役人や評議員になることに重きを置かなかったために、革命的意図を持って融合して、現体制を変革しようとしているとの疑惑を招いた。そこで、彼らをラケダイモン人たちは逮捕し、幽閉して、厳重な見張りを立てた。明快・確実な証拠立てによって有罪にするてだてを探そうとしてである。しかし、幽閉された者たちの妻たちは、牢獄に押しかけて、おびただしい嘆願と懇願とによって、夫に別れの挨拶と声をかけることだけを番人たちに認められた。そこで、中に入ると、夫にすみやかに着物(ヒマティオン)を着替え、自分のは彼女たちに残し、彼女たちのは自分が着て、それにくるまって脱出するよう命じた。そして、それがそのとおりになされて、彼女たちの方は、いかなる恐るべきこととも戦う気概でその場に残り、男たちの方は、番人たちが本当の女だと騙されて見逃してしまった。
  *リュディアほか、エーゲ海の多くの地域に居住していたペラスゴイ人。その中で王子テュレーノス(またはテュルセーノス)に率いられた一派は、イタリアに移住してエトルリア人の祖となった。
  **エーゲ海北部の島。
  ***レムノス島の北東の島。
  ****アッティカの東岸の地域。
  *****ラコニアの南端にある岬、ラコニコス湾をはさんで西がマレア岬、東がタイナロンである。

 じつにこういう次第で、彼らはタユゲトン地方*を占拠し、隷属民を離反させてこ れを迎え入れたので、スパルタ人たちは多大な恐怖に陥って、伝令官を送って、彼ら は妻たちを返還してもらい、金銭と船を受け取って出航し、よその地で領土と都市を 手に入れて、ラケダイモンの植民者にして同族と認められるとの条件で和解した。こういったことをペラスゴイ人たちが実行しえたのは、嚮導者としてポッリス、デルポ ス、クラタイイスといったラケダイモン人を受け入れたことによってである。かくて、彼らの一部はメーロス島に居住した**。が、大部分は、ポッリスの一統が引き連れてクレーテーに航行した。予言を実証するためである。すなわち彼らに下されたのは、彼らが女神と錨を失う時に、さすらいをやめ、そこに国を建設すべし、ということであった。かくして、彼らがいわゆる「ケロネーソス(「半島」)」に投錨しているときに、夜、恐慌にも似た騒動が突発し、これに襲われたために算を乱して船に飛び乗った。その地にアルテミスの木像を残したままである。この木像は、ブラウロンからレームノスまで運ばれた彼らの父祖伝来のもので、さらにレームノスからもいつも彼らといっしょに伴われたものである。だから、騒動がおさまってから、航海のためにそれをどうしても必要とし、同時にまた、ポッリスは錨の爪がない(というのは、どうやら、むりやり引っ張られたとき、いつのまにか岩場で引きちぎられたらしい)のに気づいたので、ピュトーの神託が成就されたと主張して、引き返すよう合図を送った。かくして、彼はその地を占領し、敵対者たちとの多くの戦闘でも相手を降して、リュクトス市***を建設し、他にも多くの都市を臣従させた。まさにこういうわけで、彼らは自分たちは生まれの点では母方はアテナイ人たちに帰属するとともに、スパルタ人たちの植民者だとも信じているのである〔アリストテレス『政治学』 第2巻10章〕。
  *ラコニアとメッセニアとの国境をなす山地。
  **ヘロドトス『歴史』第5巻84参照。
  ***東クレタの都市。




〔第9話〕リュキア*女たち

 リュキアで起こったと言われていることは、作り話めいてはいるが、それでも、同じような証言内容を持ったひとつの言い伝えを有している。すなわち、言い伝えによれば、アミソーダロス――これをリュキア人たちはイサラスと呼んでいる――が、ゼレイア**近辺にあるリュキア人たちの植民市から、海賊船を率いてやって来たが、これを嚮導していたのはキマロスで、この男は戦士ではあったが、凶暴・獰猛な男であ った。また彼は、船首には獅子、船尾には龍の飾りのついた船に乗るのを常とし、〔 ……〕リュキア人たちに多大な害悪を働いたために、〔リュキア人たちは〕海を航行することもできず、海の近くの都市は住むことさえできなくなった。そこで、これが 逃げるところをベレロポンテスがペガソスに乗って追跡して殺し、さらにはアマゾン 女人族をも排撃したにもかかわらず、義しい扱いを何ひとつ受けず、それどころか、 〔リュキア王〕イオバテースは彼に対して不正きわまりなかった。それゆえ、彼は海の中に踏み入って、ポセイドン神に対して、この地が不毛・荒蕪地となるようにと心に念じた。そうして、彼が呪詛し終わって出てくると、津波がわき起こって大地を呑みこんだのであるが、空高くに海がつきしたがい、平野を覆い隠す光景は、恐ろしいものだった。かくて、男たちがベレロポンテスにやめてくれるよう頼んだが、聞き入れなかったので、女たちが着物(キトーニスコス)をからげて彼に立ち向かった。そのため、彼は恥じ入って再び後ろに引き下がると、津波もいっしょに退いたと言われ ている。
  *小アジアの南西、カリアとパムピュリアの間、クサントス河流域の山地。
  **小プリュギアのトロイアの北東の都市、アイセポス河口から遠くない。

 ところで、一部の人たちは、この話の作り話めいたところを緩和するために、彼が 呪いによって海をけしかけたということを否定し、平野の最も肥沃な部分が、海面よ りも低いところにあった。ところが、海岸に沿って堤が張り出していて、これが海水 を閉め出していたのだが、ベレロポンテスが切り取ったために、猛烈な勢いで海洋が 押し寄せて、平野を覆い隠したとき、男たちが彼に頼んでも何の効もなかったけれども、女たちが群がり集まって、畏れいらせ、彼の怒りを解けさせた、というので ある。

 また、ある人たちの主張では、いわゆるキマイラ山がまったくの日向かい〔=東〕 にあったという。そのため、夏の反射光を耐え難く、灼熱と化し、これが平野に放射 するために、果実はしおれてしまったという。そこで、ベレロポンテスが思案して、 断崖の最も滑らかな部分――反射光を最も強く跳ね返す部分――を破壊した。しか し、感謝を受けることもなく、怒りに駆られて、リュキア人たちに対する報復に転じ たが、女たちによって説得された、というのである。

 しかし、ニュムピスが『ヘラクレイア市について』第4巻の中で述べている理由 (FHG III p.14)は、作り話めいたところは何もない。すなわち、彼の言によれば、野 猪がクサントス*人たちの領地で、家畜をも実りをもだめにしていたのを、ベレロポ ンテスが退治したにもかかわらず、何の報恩にも与らなかった。そこで彼はポセイド ンの名にかけてクサントス人たちを呪詛したところ、平野全体が塩分を吹き出し、 ありとあらゆるものを潰滅させた。大地が塩辛くなったからである。最後には、懇願 する女たちに対する敬意から、怒りを解くようポセイドンに祈った、と言うのであ る。それゆえ、クサントス人たちにとっては、父系ではなく母系の名を名乗るという 法習まであったのである〔ヘロドトス『歴史』第1巻173参照〕。
  *リュキアの河、現在のEschen Tschay。この河畔にクサントス市がある。




〔第10話〕サルマティカ*女たち

 バルカ〔ハミルカル・バルカ〕の子アンニバス〔=ハンニバル〕が、ローマ人たち に向けて出征する前に〔前220頃〕、イベリアの大都市サルマティカに戦争をしかけ たとき、攻囲された者たちは、初めは恐れをなして、課せられたとおり、アンニバス に銀300タラントンと人質300人を差し出すことに合意した。ところが、彼が攻囲を解 くや、心変わりして、同意したことを何ひとつ果たそうとしなかった。そこで、彼は 再び取って返し、将兵たちに、財貨の掠奪目当てにその都市に攻めかかるよう命じた ので、その異邦人たちは吃驚仰天して、自由人たちは着の身着のまま、武器も財貨も 奴隷人足も都市をも後に残して退去することを認めた。しかし女たちは、敵たちは、 男については、おのおのが退去するのを探索するであろうが、自分たち女には手を触 れまいと考えて、両刃剣をとって包み隠し、男たちといっしょに飛び出した。かく て、全員が退去すると、アンニバスは彼らを市外に抑留してマサイシュリオイ人たち 〔アフリカ西部ニュミディアの住民〕に守備を任せ、その他の者たちは、その都市に 雪崩をうって殺到し、掠奪を始めた。そして多くのものが略取されているのを、マサ イシュリオイ人たちは指をくわえて眺めているのを悦ばず、まして、守備に心を注ぐ はずもなく、苛立って、利得に与ろうとするかのように持ち場を離れかかった。ここ において、女たちは男たちを救援し、両刃剣を手渡し、さらには、何人かの女は、自 分たちだけで守備兵たちに襲いかかった。さらに、一人の女にいたっては、通訳官バ ノーンから槍をひったくって、その持ち主本人を一撃しさえした。彼はたまたま胸甲 を身につけていたけれども。その他の者たちについて言えば、〔サルマティカ人たち は〕ある者たちを撃ち倒し、ある者たちを背走させ、女たちと一団となって押し通っ たのである。一方、アンニバスは、聞いて追撃して、取り残された者たちを討ち取っ た。だが、彼らは山地に達し、さしあたっては逃亡したが、後になって嘆願の使者を 遣り、彼〔アンニバス〕のおかげで都市に連れ戻され、免罪と人間的な扱いとに与っ たのである。
  *スペインの都市。現在のサラマンカ。

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