クレオメネース
[略伝]
ドニエプル河の河口の町ボリュステネース〔別名オルビア〕の出身(c. 335-c. 245 BC)。大衆的な哲学者。人生の初期に関する彼の説明(Diog.Laert.IV_46-7)は問題である。彼のいかがわしい両親(母親はもと売春婦、父親は塩魚を商っていた解放奴隷)の話は、馬鹿正直の度を超している。父親が金銭上の問題で市民権を失い、彼自身も奴隷として売られた話は、犬儒派ディオゲネースの経歴を思い起こさせる。
ビオーンは、前315年頃アテナイにたどりつき、ディオゲネス・ライエルティオス(IV_46-58)によればアカデメイア学園に通ったとあるが、あそらくはアカデメイア学園のクセノクラテース〔カルケドーンの。c. 395-314 BC〕や犬儒派のクラテース、キュレネーのテオドーロス〔幾何学者〕、逍遙学派のテオプラストス〔c. 370-286 BC〕などと交流したのであろう。
その後、ギリシア世界を放浪しながら、金銭を受け取っての公開講義や公開教授をした。
歳をとってから、マケドニアの君主アンティゴノス・ゴナタス〔c. 320-239 BC〕お抱えの哲学者となった。芝居じみた振る舞い、辛辣な機知、論理、文学的な文体、伝統的教育の廃棄、倫理学を除くあらゆる哲学の拒否、そしてその倫理学説において、彼はまぎれもなく犬儒派であった。にもかかわらず、ビオーンはキュレネー学派に従い、異なった社会や政治的役割(王を含む)の妥当性を受け入れ、「現に存在するものを用いる」という紋切り型引用語句を、金持ちたちやその富に適用した。
彼の「真面目-滑稽な」作品――このうちのいくつかの重要な断片を、テレースやディオゲネース・ライエルティオスが伝えている――は、diatribh/の伝統やホラティウスの諷刺作品に大きな影響を与えた。
R. Heinze, De Horatio Bionis imitatore (1889);
O. hense, Teletis Reliquiae, 2nd edn. (1909);
J. F. Kindstrand, Bion of Borysthenes (1976).
(OCD, J. L. Mo.)
[底本]
TLG 1224
BION Phil.
(3 B.C.: Borysthenius)
1 1
1224 001
Fragmenta, ed. J.F. Kindstrand, Bion of Borysthenes. Uppsala:
Uppsala University Press, 1976: 113-130.
frr. 1-32, 34-43b, 45-68, 70-71, 73-81.
5
frr. 26a-26b: P. Herc. 1055.
Dup. partim 1224 002 (frr. 227-228).
(Pap: 3,575: Parod., Phil.)
2 1
1224 002
Fragmenta, ed. H. Lloyd-Jones and P. Parsons, Supplementum
Hellenisticum. Berlin: De Gruyter, 1983: 86.
frr. 227-228.
5
Dup. partim 1224 001 (frr. 7, 15).
(Q: 33: Parod.)
※D.L.の訳は、一部、加来彰俊訳を拝借した。
断片集1(Fragmenta )
"1a"."n"
Diogenes Laertius 4.46_47
"1a".1
[46] ビオーンは生まれはボリュステネースの人であった。彼の両親がどんな人であったか、またどんな事情によって哲学にたずさわることになったかは、彼自身がアンティゴノス(王)に明らかにしている。つまり、アンティゴノス注1)が彼に、
おまえはどんな人間で、どこから来たのか。おまえの国はどこで、両親は誰か。〔Od. 1.170 etc.〕
と訊ねたとき、彼は自分が王に中傷されているのだということに気づいて、王に向かってこう答えたからである。「わたしの父は解放奴隷で、腕で鼻をぬぐっていた人間です」――そういう言い方で、彼は父親が塩魚を商っていた者であることを示したわけであるが――「なお父は、ボリュステネースの生まれの者で、人に見せるほどの顔はもっていませんでしたが、主人が残酷であったことの徴となる文字を顔の上にもっていました。また母、そのような父でも娶ることのができたような女で、女郎屋にいた者です。その後父は、収入の一部をくすねたために、わたしも含めて家族全体が売られてしまったのです。その頃、わたしはまだ若くて、魅力がないこともなかったものですから、ある弁論家が買い取ってくれました。そしてその弁論家は死んだときに、彼の持っていたもの全部をわたしに残してくれたのです」。
[47] 「そこでわたしは、彼の書物は焼き払い、何もかもまとめて屑として捨てた上で、アテナイに出て来て哲学者となったのです。
われこそはこのような生まれ、このような血筋の者なり。〔IL. 6.211 etc.〕 というわけなのです。
わたしのことは以上のとおりです。ですから、ペルサイオス注2)やピロニデスがわたしのことを詮索しているのをやめさせてください。そしてわたしのことはわたし自身によってご判断下さい」と。
"1b"."n"
Suda,「腕(A)gkw/n)」249の項。
"1b".1
諺にもなっている、「腕で鼻を拭う者」と。哲学者ビオーンは謂う、「わたしの父は解放奴隷で、腕で鼻をぬぐっていた人間です」。これで彼は〔父親が〕塩魚を商っていた者であることを示したのである。
"1c"."n"
Suda,「徴(Su/mbolon)」1377の項。
"1c".1
徴(Su/mbolon)。ビオーンの父親について、「人に見せるほどの顔はもっていませんでしたが、主人が残酷であったことの徴となる文字を顔の上にもっていました。また母、そのような父でも娶ることのができたような女で、女郎屋にいた者です」。
2."n"
Stobaeus, Florilegium〔『精華集』〕4.29a.13
2.1
アンティゴノス王は、生まれの卑しさを中傷されている哲学者ビオーンに訊ねた。
おまえはどんな人間で、どこから来たのか。おまえの国はどこで、両親は誰か。〔Od. 1.170 etc.〕
するとくだんの男は云った。「まことにもって陛下は正しいと愚考いたします、おお、王よ、弓兵たちを用いようとなさる場合、生まれは問わず、最善の射手たちを得ようと狙いを定められるのは。そのように、友たちについても、どこから来たかではなく、何者であるかを詮索してください」。
3."n"
PS_Plutarchus, De liberis educandis〔子どもたちの教育〕 10.7 C_D
3.1
哲学者ビオーンも、次のようにしゃれたことを(a)stei/wj)言っている。ペーネロペーに近づくことができなかった求婚者たちが、彼女の侍女たちと交わったように、哲学の目的に達することのできない連中も、何の価値もない他の教育に憂き身をやつしている、と。
4."n"
Diogenes Laertius 4.49
4.1
ロドス島において、アテナイ人たちは弁論術に精を出していたのに、彼は哲学を教えていた。そこで、このことをある人が咎めたところ、「わたしは小麦を運んできたのに、大麦を売るのかね」と彼は答えた。
"5a"."n"
Stobaeus, Florilegium 3.4.52
"5a".1
ビオーンは言った、――文献学者たちはオデュッセウスの漂泊について探究しているのに、自分の漂泊については吟味せず、見抜くこともしていない。まさしくその点において、彼らは何の役にも立たぬことに労苦して漂泊しているのだからと。
"5b"."n"
Gnomologium Parisinum 320
"5b".1
ビオーンは言った、――文献学者たちはオデュッセウスの漂泊について探究しているのに、自分の漂泊については見抜いていない。まさしくその点においてこそ、彼らは何の役にも立たぬことに労苦して漂泊しているのだからと。
6."n"
Stobaeus, Eclogae〔『抜粋集』〕2.1.20
6.1
ビオーンは言った、――天文学者たちは滑稽きわまりない連中だ。彼らは、海辺にいる魚たちを見ることなく、天上にいる〔魚たち〕を知っていると主張するのだからと。
7."n"
Diogenes Laertius 4.52(Wachsmuth, pp.201_202)
7.1
彼は他人の詩句をもじることにかけても恵まれた才能をもっていたからである。次にあげるものもその一例である。
おお、やさしきアルキュタスよ、琴弾きに生まれ、汝(な)が技に自惚れている仕合わせ者よ。
低音の弦をめぐる争いには、世の誰よりも心得ありとて。
8."n"
Diogenes Laertius 4.53
8.1
そして概していえば、彼は音楽も幾何学も嘲笑していたのである。
"9a"."n"
Olympiodorus, In Platonis Phaedonem commentaria p.158.1_5 Norvin (Plutarchus, fr. 216f. Sandbach)
"9a".1
ビオーンが虚偽について行き詰まったのは、想起(a)na/mnhsij)のさいに、それもまた、対立物として〔想起される〕のか否か、ということであった。いったい、この不合理(a)logi/a)はどうか? むしろ、こう云うべきである。これも真実の影像(ei!dwlon)として生じる。ところで、影像とは、ひとがこれを真実と認めることができないのは、どのようにか真実を知っている場合のみである。
"9b"."n"
Olympiodorus, In Platonis Phaedonem commentaria p.211.14_17 Norvin
"9b".1
虚偽にも想起はあるのかどうか、これがビオーンの行き詰まったところである。むしろ、錯綜した観念や、さらにまた転倒した〔観念〕において、これもまた想起と共存するのである。生まれついての盲人は、色についてだまされることはないのだから。
10."n"
Plutarchus, De Pythiae oraculis 5.396E
10.1
というのは、どうやら、寝転がっている馬を描くよう注文を受けながら、走っている〔馬〕を描いたらしい。そこで、注文主が立腹したところ、パウソーンは画板をひっくり返して、下部が上にされると、今度は、走っているのではなくて寝転がっている馬に見えた。ビオーンは謂う、これこそが、いくつかの言葉〔議論〕に起こっていることだ、あべこべにしたときに、と。
"11a"."n"
Stobaeus, Florilegium 3.2.38
"11a".1
ビオーンは謂う。善き家僕たちは自由人であるが、これに反し、悪しき自由人たちは、数多の欲望の奴隷である、と。
"11b"."n"
Stobaeus, Florilegium 4.19.42
"11b".1
ビオーンは謂う。善き家僕たちは自由人であるが、悪しき自由人たちは、数多の欲望の奴隷である、と。
"12a"."n"
Diogenes Laertius 4.51
"12a".1
思慮(fro/nhsij)がその他の徳にまさっている程度たるや、視覚が他の感覚に〔まさっている〕のと同じほどである。
"12b"."n"
Codex Parisinus Graecus 1168 no.16, p.413 Freudnthal (Corpus Parisinum 377 Elter Favorinus fr.123 Barigazzi)
"12b".1
思慮(fro/nhsij)が自余の徳にまさっている程度たるや、と彼は言った、視覚が他の感覚に〔まさっている〕のと同じほどである。
13."n"
Gnomologium Vaticanum 162
13.1
同じ人が、思慮とは、と謂った、諸々の善の万屋(pantopw/lion)であるが、慎み(swfrosu/nh)は、舗装道路(stratouri/a)である、と。
14."n"
Athenaeus 10.421E_F
14.1
それゆえ、ボリュステネス人ビオーンは美しくも言ったのだ、諸々の快楽は食卓からではなく、思慮することから引き出すべきである、と。
15."n"
Plutarchus, Quomodo quis suos in virtute sentiat profectus 11.82E
15.1
実際のところ、ビオーンとピュッローンとが云っていることを、ひとは進歩の〔徴〕ではなく、より大きな心の情態や、より進んだ完徳の徴とみなすことができよう。というのは、前者は、悪罵する連中が次のように言っているかのように聞くとき、知己たちは進歩したのだと主張しているからである。
おお、異邦のかたよ、悪人でもうつけ者でもないとお見受けいたしますが。〔Od. 6.187〕
めでたい、ほんにご機嫌よく、神様がたが福徳をお授けあるよう。〔Od. 24.402〕
"16a"."n"
Teles,(Peri_ au)tarkei/aj) ap. Stobaeum, Florilegium 3.1.98 (fr. II, pp.5.2_6.8 Hense)
"16a".1
善き俳優は、何であれ、詩人が演じさせる当の役を美しく競い合わねばならないように、善き人も、何であれ運命(tu/xh)が演じさせる〔当の役を美しく競い合わねばならない〕。というのも、これ〔運命〕は、とビオーンは謂う、女流詩人のように、時には主役の、時には脇役の、役を演じさせ、また時には王の、時には浮浪者の〔役を演じさせる〕からである。だから、脇役でありながら主役を望んではならない。さもなければ、あなたはひどく不似合いなことをすることになろう。あなたは美しく支配するが、わたしは支配される、と彼は謂う、また、あなたは多衆の、しかしわたしはこのひとりの人の家庭教師(paidagwgo/j)である、またあなたは羽振りがよいから自由に与えるが、わたしはあなたから喜び勇んで受け取る、へりくだることなく、生まれ卑しい者としてでもなく、愚痴っぽい者としてでもなく。あなたは多くのものらを美しく用立ててきたが、わたしは少数のものらを〔用立ててきた〕。〔以下2行、文意不明〕
"16b"."n"
Arsenius, Violetum p.150 Walz
"16b".1
同じ人が言った、運命は女流詩人のように、時には主役の、時には脇役の役を演じさせ、また時には王の、時には浮浪者の〔役を演じさせる〕、と。
17."n"
Teles,(Peri_ au)tarkei/aj) ap. Stobaeum, Florilegium 3.1.98 (fr. II, pp.6.8_8.6 Hense)
17.1
それゆえ、ビオーンが謂うには、諸々の事物が、わたしたちが〔もっている〕のと同じように、声をもっていて、釈明ができるとしても、彼が謂うには、家僕が神聖な場に座って、その主人に向かって釈明するようには云うことができまい。「どうして、わしと争いなさるのか? お前さんに何ぞ隠し事をしたことなどあるまい? お前さんからいいつけられたことはみなしたのではないか? 年貢もきちんとお前さんに払ってではないか?」。すると「貧しさ」が、訴える者に向かって云うであろう。「どうして、わたしと争うのか? わたしのせいで何か美しいものを失ったというのではあるまい? 慎みを〔失った〕というのではあるまい? 義しさを〔失った〕というのではあるまい? 勇気を〔失った〕というのではあるまい? いや、必要なものらを欠いているわけではあるまい? むしろ、道々は草に満ち、泉は水をたたえているのではないか? 証拠なら、大地が〔提示できる〕かぎりのものをわたしはあなたに提示できるのではないか? 敷き布団の木の葉をも〔わたしは提供できるでしょう〕? あるいは、わたしといっしょに愉しむことができるのではありませんか? あるいは、老女が菓子を食べながら鼻歌を歌っているのをあなたは眼にするのではありませんか? あるいは、あなたが飢えたとき、無料の質素な副食をわたしが用意するのではありませんか? あるいは、飢えた人が食事をすることは最も快適であり、副食を必要とすること最も少ないのではありませんか? また、渇した人も、飲むことは最も快適であり、手許にない飲み物を期待することは最も少ないですね? あるいは、平菓子に飢え、雪に渇く人がいるでしょうか? しかし、それらを人間どもが求めるのは贅沢ゆえではないですか? あるいは、わたしはあなたに住居という恩恵を提供するのではありませんか、冬は風呂桶を、夏は神域を。というのは、ディオゲネースの謂うには、夏の間、どんな住まいがあるでしょうか、わたしにとって、涼しくて高価な、このパルテノーン〔神殿〕があるような、そんな住まいが」。
もしも、「貧しさ」がそう云ったら、あなたは何と反論できようか? というのは、わたしなら、一言もないと思えるから。
18."n"
Dio Prusaensis 66.26
18.1
多衆は、平菓子(plakou~j)になるか、タソス人にならないかぎり、満足することができないとビオーンには思われた。たわけたことだとわたしには思われる。
19."n"
Stobaeus, Florilegium 3.4.87
19.1
ビオーンは、愚(a!noia)とは何かと尋ねられて、「進歩の邪魔」と云った。
20."n"
Diogenes Laertius 4.50
20.1
自惚れ(oi!hsij)は、と彼は言った、進歩の障害(prokoph~j e)gkoph/)、と。
21."n"
Teles,(Peri_ au)tarkei/aj) ap. Stobaeum, Florilegium 3.1.98 (fr. II, p.9.2_8 Hense)
21.1
ビオーンが謂うには、獣の咬み傷はつかまえたときに生じるのであって、蛇の真ん中をつかむと、咬まれるが、頸を〔つかまえると〕何の害も受けない。そのように、彼の謂うには、事象についても、苦悩(o)du/nh)は受けとめ方で生じるのであって、ソークラテースのように、それら〔事象〕をあなたが受けとめれば、苦悩しないであろうが、違った仕方で〔うけとめれば〕、悩むであろう。それは事象のせいではなく、自分の仕方や虚偽の思いのせいである。
22."n"
Diogenes Laertius 4.48
22.1
名声は苦悩の母である。
23."n"
Diogenes Laertius 4.48
23.1
大きな悪とは、悪を堪え忍ぶことができないということである。
24."n"
Diogenes Laertius 4.48
24.1
あるとき、誰が人一倍悩んでいるかと訊ねられて、彼は謂った、「それは最大の繁栄を望んでいる者だ」と。
25."n"
Diogenes Laertius 2.117 (fr.177 Doing)
25.1
さらに、クラテスが彼〔スティルポン〕に、神々は尊崇されたり祈願されたりするのをよろこばれるだろうかと訊ねたとき、「愚か者め、そんなことを人通りのする往来で訊く奴があるか。それはぼく一人がいるときに訊くもんだよ」と答えたという話もある。しかしビオーンもまた、神々は存在するかどうかと訊ねられたときに、
まず、わたしからこの人だかりを追い払ってくれませんか、数々の難儀な目にあわれたご老人よ。
と、同じような答えをしたと伝えられている。
"26a"."n"
Demetrius Lacon Pap. Herc. 1055 col.18.1_13, p.75 De Falco (p.31 Croert)
"26a".1
……〔約8行、わたしの力では訳せず〕。すなわち、その推論(e)pixei/rhma)はこうである。「生き物たちのあらゆる種は」とわたしたちは主張する、「その固有の種のなかに、固有の型(morfh/)を有している」。
"26b"."n1"
Demetrius Lacon Pap. Herc. 1055 col.22.1_12, pp.78_79 De Falco (p.31 Croert)
"26b".1
……〔約5行、わたしの力では訳せず〕。生き物たちのそれぞれの種は、その固有の種のなかに固有の型を有するゆえに、〔約1行、文意不明〕、同じことが、感覚されるものらにも、言葉によって観照されるものらにも、結果する。
27."n"
Plutarchus, De sera numinis vindicta 19.561C
27.1
じっさい、ビオーンは謂っている、邪悪者たちの子どもを罰する神は、祖父や父の病気のために、孫とか子に薬を処方する医者よりも滑稽な存在である、と。
28."n"
Diogenes Laertius 4.50
28.1
また彼は言った、ハデースの〔館〕に〔住む〕者たちは、完全な無疵の容器で水運びをするよりもひどい罰を受けるであろう、と。
29."n"
Clemens Alexandrinus, Protrepticus 4.56.1
29.1
あなたがたのこれらの神々は偶像、影、かてて加えて、あの「片輪」で、「やぶにらみの眼をした、しわくちゃ婆」、神の娘たちというよりはテルシテースのリテーたち、だから、ビオーンがこう謂っているのはすばらしいとわたしには思われる。「人間どもは、どうして、ゼウスにそむいて当然のごとく子宝を要求できるのか。それを自分で手に入れる力もないくせに」。
30."n"
Plutarchus, De superstitione 7.168D
30.1
〔迷信深い男は〕袋地の粗服を着て、あるいは、きたない布切れを身にまとって、屋外に座り、またしばしば裸になって泥土の中を転げまわりながら、これこれのものを喰ったとか、飲んだとか、精霊的なものが許さない道を歩いたとかいって、自分のあれこれの罪や過失を告白する。しかし、しごく仕合わせで、おだやかな迷信と共にいるときは、屋内に座って身を燻蒸し拭って、ビオーンの謂うには、何であれ老婆たちが自分のところへ持ってきたものを、あたかも杭に〔結びつける〕ように、自分の身に結びつけてぶらさげるという。
"31a"."n"
Clemens Alexandrinus, Stromata 7.4.24.5
"31a".1
「いったい、どうして驚くべきことであろうか」とビオーンは謂う、「ネズミが、何か喰うものがなくて、袋をかじったといって。アルケシラオスが戯れに論じ立ててみたように、ネズミを袋がむさぼり食ったとしたら、それこそ驚くべきことであろうが」。
"31b"."n"
Theodoretus, Graecarum affectionum curatio 6.19
"31b".1
ビオーンから云われたこともこれに似ている。というのも、あの人は、次のようなことを笑いながら謂った。「何で驚くべきことであろうか、ネズミが、何か喰うものがなくて、袋をかじったからといって。アルケシラオスが戯れに論じ立ててみたように、ネズミを袋がむさぼり食ったとしたら、それこそ驚くべきことであろうが」。
32."n"
Diogenes Laertius 2.135
32.1
またビオーンが占い師たちをしつこく追いつめていたとき、ビオーンは死者をもう一度殺すつもりだね、と彼〔メネデーモス〕は言った。
33
欠番
34."n"
Teles ap. Stobaeum, Florilegium 4.33.31 (fr. IV a, p.39.1_7 Hense)
34.1
ひとが、欠如(e)ndei/a)や欠乏(spa/nij)によって破滅するとか、他の人を破滅させることを、たとえ望んだにしても、自分に金銭を求めてはならない。なぜなら、ビオーンの謂うところでは、ひとが水腫症患者の渇きを止めようと望んでも、水腫症を治すのではなく、泉や川を彼にあてがうようなものだからである。すなわち、前者は、渇きを止めるよりも先に飲むことを取り去るのに反し、後者は、飽くことを知らぬ者、悪名に渇いた者、迷信深い者だから、満足することはけっしてないからである。
"35a"."n"
Stobaeus, Florilegium 3.10.37
"35a".1
ソフィストのビオーンは、愛銭はあらゆる悪の母市である、と言った。
"35b"."n"
Theon Rhetor, Progymnasmata 5, p.99.17_19 Spengel II
"35b".1
教訓としてではあるが、例えばソフィストのビオーンは、愛銭はあらゆる悪の母市である、と言った。
"35c"."n"
Theon Rhetor, Progymnasmata 5, p.105.6_9 Spengel II
"35c".1
この虚偽――愛銭は悪の母市であるとビオーンが言ったのは真実ではないということ――から、むしろ無思慮(a)frosu/nh) が〔悪の母市〕である。
36."n"
Diogenes Laertius 4.50
36.1
けちん坊の金持ちに向かって、「この男が財産をもっているのではなくて、財産がこの男を持っているのだ」と彼は謂った。
37."n"
Diogenes Laertius 4.50
37.1
けちん坊は一般に、財産を自分のものとして気づかいながらも、それがまるで他人のものであるかのように、そこからは少しも利益を受けることのないものだとも言った。
"38a"."n"
Stobaeus, Florilegium 4.31c.87
"38a".1
ビオーンは言った、富のことに一生懸命になる連中は嘲笑されべきである、それは、運命が提供し、不自由が守り、有用性が取り上げるものなのだから、と。
"38b"."n"
Arsenius, Violetum p.149 Walz
"38b".1
ボレイステネス人ビオーンは言った、富のことに一生懸命になる連中は嘲笑されべきである、それは、運命が提供し、不自由が守り、有用性が取り上げるものなのだから、と。
"38c"."n"
Maximus Confessor, Loci communes Sermo 12 (PG, 91 col. 800C)
"38c".1
ビオーンは、嘲笑されべきである、と言った、富のことに一生懸命になる連中は。それは、運命が提供し、不自由が守り、有用性が取り上げるものなのだから、と。
"39a"."n"
Favorinus, Florilegium ap. Cod. Par. Gr. 1168 no. 6 p.412 Freudenthal (Corpus Parisinum 367 Elter fr. 115 Barigazzi)
"39a".1
逍遙学派のビオーンは、「財産は」と謂った、「金持ちたちに与えられたものではなくて、貸し付けられたものだ」。
"39b"."n"
Stobaeus, Florilegium 4.41.56
"39b".1
ビオーンは謂った、「財産は、金持ちたちに運命が与えものではなくて、貸し付けたものである」。
"39c"."n"
Gnomologium Vaticanum 161
"39c".1
逍遙学派のビオーンは、「財産は」と謂った、「金持ちたちに運命が与えたものではなくて、貸し付けたものだ」。
"39d"."n"
Arsenius, Violetum p.150 Walz
"39d".1
同じ人が謂った、「財産は、金持ちたちに運命が与えものではなくて、貸し付けたものである」。
"40a"."n"
Diogenes Laertius 2.77 (fr. 68A Mannebach)
"40a".1
また彼〔アリスティッポス〕の従僕が銀貨を運んでいて、その途中重くて困っていると――これはビオーン派の人たちが『講義集(diatribai~)』のなかで述べていることであるが――「多すぎる分は捨てて、運べるだけもって行け」と〔アリスティッポスが〕言ったとのことである。
"40b"."n"
Arsenius, Violetum p.116 Walz
"40b".1
同じ人〔アリスティッポス〕が、従僕が銀貨を運んでいて、その途中重くて困っていると――これはビオーン派の人たちが『講義集』のなかで述べていることであるが――「多すぎる分は捨てて」と〔アリスティッポスが〕謂った、「運べるだけもって行け」。
41."n"
Teles ap. Stobaeum, Florilegium 4.33.31 (fr. IVa, p.36.6_9 Hense)
41.1
いったいどうしてこの連中は、自分たちが持っている当のものを欠いているのか?――それなら、両替屋たちは、とビオーンが謂う、金銭を持っていながら、それを〔欠いている〕のか? なぜなら、彼らは自分たちの財産を持っているのではなく、連中も自分たちの〔ものを持っているのでは〕ないからである。
"42a"."n"
Stobaeus, Florilegium 4.31a.33
"42a".1
ビオーンが言った、――財布の安物は、何の価値もないけれど、その中に貨幣が入っていればいるほど、価値がある。そのように、金持ちたちも、何の価値もない連中だが、何を所有しているかによって、価値を収穫する。
"42b"."n"
Arsenius, Violetum p.149 Walz
"42b".1
同じ人が言った。財布の安物は、何の価値もないけれど、その中に貨幣が入っていればいるほど、価値がある。そのように、金持ちたちも、何の価値もない連中だが、何を所有しているかによって、価値を収穫する。
"43a"."n"
Stobaeus, Florilegium 4.5.23
"43a".1
ビオーンが謂った、善き支配者とは、支配をやめて、より富裕にではなく、より尊敬される者となるもののことである、と。
"43b"."n"
Arsenius, Violetum p.150 Walz
"43b".1
同じ人が言った、支配者は、支配をやめて、より富裕にではなく、より尊敬される者となるべきである、と。
44
欠番
45."n"
Diogenes Laertius 4.48
45.1
先祖代々の土地を食いつぶした人に対しては、「大地がアンピアラオスを飲みこんだが、おまえは大地を飲みこんだのだ」と彼は言った。
46."n"
Diogenes Laertius 4.48
46.1
富は事業の腱」。
"47a"."n"
Stobaeus, Florilegium 3.38.50
"47a".1
ソフィストのビオーンは、ある嫉妬深い人がひどくうなだれているのを見て、云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕だ」。
"47b"."n"
Gnomologium Vaticanum 158
"47b".1
同じ人が、ある嫉妬深い人がひどくがっかりしているのを見て、「不可能だ」と云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕以外は」。
"47c"."n"
Gnomologium Parisinum 242
"47c".1
ビオーンは、ある嫉妬深い人がひどくうなだれているのを見て、云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕だ」。
"47d"."n"
Arsenius, Violetum p.150 Walz
"47d".1
同じ人が、ある嫉妬深い人がひどくうなだれているのを見て、云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕だ」。
"47e"."n"
Antonius Melissa, Loci communes I Sermo 62 (PG, 136 col. 969B)
"47e".1
ソフィストのビオーンが、ある嫉妬深い人がひどくうなだれているのを見て、云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕だ」。
"47f"."n"
Maximus Confessor, Loci communes Sermo 54(PG, 91 col.962B)
"47f".1
ソフィストのビオーンは、ある嫉妬深い人がひどくうなだれているのを見て、云った、「この人に大きな悪が結果したか、それとも、他の人に大きな善が〔結果したか〕だ」。
48."n"
Diogenes Laertius 4.51
48.1
陰気な顔をして邪視している者に向かって、「わしにはわからん」と謂った、「おまえに悪が生じたか、他人に善が〔生じた〕かのいずれかだ」。
49."n"
Diogenes Laertius 4.51
49.1
われわれは友だちがどんな人間であるかを注意深く見守らなければならない、悪い連中とつき合っているのだとか、善い人たちを避けているのだとかと思われないようにするためには。
50."n"
Plutarchus, Quomodo ab amico internoscatur 16.59A
50.1
ビオーンの云うことはお目出たい戯言である。「もしも、ほめたたえることで、畑を多産で実りゆたかなものにしようとするぐらいなら、それをなして過ちを犯していると思われるよりも、掘って苦労する方がましである。されば、ひとを称讃するのが不都合でないのは、称讃する人々にとって有益であらゆる〔徳〕を産みだす者である場合のみである」。しかし、畑が称讃されることでより悪くなることはない。人間どもを傲り高ぶらせ破滅させるのは、偽りによって、価値に反して称讃する人々である。
51."n"
Plutarchus, De vitioso pudore 18.536A
51.1
両耳を追従者たちに貸す者たち……それゆえ、ビオーンも、こういう連中を、両耳(取っ手)で易々と運ばれる壺(a)mforeu/j)になぞらえた。
"52a"."n"
Plutarchus, Quomodo adulescens poetas audire debeat 4.22A
"52a".1
また、ビオーンがテオグニスにいったことばもすばらしい。〔つまり、テオグニスが〕「いかな男子も貧乏に征服されて、何か云うこともすることもできぬ。されど舌のみは、彼に結ばれてあり」〔Theognis 177_178〕と言ったのに対し、「ところで、君は、貧乏なくせに、どうしてそんな戯言をいって、われわれをうんざりさせるのか?」。
"52b"."n"
Arsenius, Violetum p.149 Walz
"52b".1
同じ人が、「いかな男子も貧乏に征服されて、何か云うこともすることもできぬ。されど舌のみは、彼に結ばれてあり」と言うテオグニスに向かって、「君は、貧乏なくせに」と謂った、「どうしてそんな戯言をいって、われわれをうんざりさせるのか?」。
53."n"
Diogenes Laertius 4.51
53.1
不敬は、と彼は言った、直言にとって邪悪なる同居人である。なぜなら人を奴隷とさせるからだ、たとえ豪毅の気性の者であったとしても〔Euripides Hipp. 424〕。
54."n"
Diogenes Laertius 4.48
54.1
美は、他人の善。
55."n"
Stobaeus, Florilegium 4.21b.23
55.1
ビオーンは、美は僭主支配すると言う人たちに向かって、「ああ!」と言った、「僭主制が3度転覆しようとも」。
56."n"
Plutarchus Amatorius 24.770B
56.1
もっと下品にではあるが、ソフィストのビオーンは、美しい者たちの〔陰〕毛のことを、ハロモディオスとアリストゲイトーンと呼びならわしていた。〔陰毛が生えると〕同時に、それによって愛者たちは美の僭主制から解放されるからというのである。
57."n"
Diogenes Laertius 4.49
57.1
青春の美は他人に味わせる方が、他人のそれを奪って味わうよりも望ましいことだと彼はつねづね語っていた。というのは、後者は身体にも精神〔魂〕にも害になるからだと。
58."n"
Diogenes Laertius 4.47
58.1
例えば、彼は若者を追いかけないと言って文句をつけられたとき、「やわらかなチーズを釣り針で引き上げることはできないからね」と応じたのであった。
59."n"
Diogenes Laertius 4.49
59.1
彼はまた次のように言って、ソクラテスにも不満をもらしていた。すなわち、もしソクラテスがアルキビアデスに欲望を感じながら、抑制していたのなら、馬鹿な男だったのだし、もしそうでなかったとすれば、彼の行為には何ら異常なところはなかったのだと。
60."n"
Diogenes Laertius 4.19
60.1
彼はアルキビアデスを非難して、あの者は少年の頃には、女たちからその夫を連れ去ったし、青年となってからは、男たちからその妻を連れ去ったのだと言った。
"61a"."n"
Diogenes Laertius 4.48
"61a".1
結婚したものかどうかと相談を受けたときには――というのも、この話はビオーンにも帰せられているからであるが――彼の答えは、「君の結婚相手が醜い女なら、君は殺人償金を支払うことになろうし、また美しい女なら、君だけのものというわけにはいかないだろうから」というのであった。
"61b"."n"
Codex Parisinus Graecus 1168 no. 14, p.413 Freudenthal (Corpus Parisinum 375 Elter Favorinus fr. 122 Barigazzi)
"61b".1
ある人から、結婚したものかどうかと尋ねられて、彼は謂った、「おまえが醜い女と結婚したら、おまえは殺人償金を支払うことになろう。だが、麗しい女と〔結婚〕したら、その女を共有することになろう」。
"62a"."n"
Diogenes Laertius 4.48
"62a".1
老年は、と彼は言った、諸悪の停泊地である。とにかく、そこにすべての諸悪は逃避する、と。
"62b"."n"
Codex Parisinus 1168 no. 15, p.413 Freudentheal (Corpus Parisinum 376 Elter Favorinus fr. 11 Barigazzi)
"62b".1
老年は、と彼は言った、諸悪の停泊地である。とにかく、そこにすべての諸悪は逃避する、と。
63."n"
Diogenes LAertius 4.51
63.1
老年をけなしてはならないと彼は言っていた。老年には、われわれみんなが達することを願っているからだと。
64."n"
Gnomologium Vaticanum 163
64.1
同じ人が謂った、老年は人生の遺物であると。
65."n"
Diogenes LAertius 4.50
65.1
若いときには勇気に走るけれども、老年になれば、思慮の花が咲くことになると彼は言った。
66."n"
Diogenes Laertius 4.49
66.1
ハデスの〔館〕に至る道は平坦だと彼は主張していた。とにかく、そこへは人々は目をつぶって行くのだからと。
67."n"
Gnomologium Vaticanum 160
67.1
ビオーンは言った、死の教えは2つ、誕生以前の時と、夢とである、と。
68."n"
Teles, (Peri_ au)tarkei/aj) ap. Stobaeum, Florilegium 3.1.98 (fr. II, pp.15.11_16.4 Hense)
68.1
あたかも、ビオーンの謂うには、借家人が住み家を持ち運ぶことはなく、扉を取りあげられ、陶器を取りあげられ、井戸をふさがれたら、わたしたちは住居から出て行くように、そのように、彼の謂うには、賃借している自然が、両眼、両耳、両手、両足を取りあげられるなら、わたしならこの身体(swmati/on)からも出て行く。わたしはためらうことなく、何ら嫌がることなく、酒宴から立ち去るように、そのように、時期が来たら、この人生からも、「船の柵を踏み越えよ」。
69
欠番
70."n"
Teles ap. Stobaeum, Florilegium 3.40.8 (fr. III p.30.1_2 Hense)
70.1
しかるに、埋葬に関する憂悶 (a)gwni/a)は、ビオーンの主張では、数多の悲劇をつくったという。
71."n"
Diogenes Laertius 4.48
71.1
人々を(生きたままで)すっかり焼き殺すときには、まるで感覚がないもののように扱いながら、手術で一部を焼くときには、感覚があるもののように扱っている連中を彼は非難していた。
72
欠番
73."n"
Athenaeus 4.162D(fr. 452 SVF 1)
73.1
すなわち、ボリュステネス人ビオーンが魅力的なことを謂っている、彼〔ペルサイオス〕の銅像があって、その上に、「ゼーノーンの徒キティオンのペルサイオス」と刻まれているのを見て、「これを刻んだ者は間違っている」と云った。「なぜなら、『ゼーノーンの家僕ペルサイオス』とあるべきだ」。そういう次第で、ゼーノーンの家僕ということになったのだと、ニカイア人ニキアスが『哲学者史』の中に記録し、アレクサンドレイア人ソーティオーンも『後継者たち』の中に〔記録している〕。
74."n"
Diogenes Laertius 4.50
74.1
彼に援助してくれるようにしつこく求めたお喋りの男に対して、「君に充分なことをしてあげよう」と彼は謂う、「もし君が代理の者たちを寄越して、君自身は来るのでなければね」。
75."n"
Gnomologium Vaticanum 157
75.1
同じ人が、ある人から、自分で自分のことを言うと益にならないのは何ゆえかと尋ねられて、「なぜなら」と彼は云った、「もっとも有益な薬を入れた薬箱も、自分を益することはあるまい」。
76."n"
Plutarchus, De sollertia animalium 7.965 A_B
76.1
というのは、遊びをして愉しもうとする者は、いっしょに遊んで楽しむべきだとわたしは思う。ビオーンの言ったことだが、子どもが遊びで蛙たちをねらって石を投げつけるのは、蛙たちにとってはもはや遊びではなく、真に死だ、というふうにではなく。
77."n"
Gnomologium Vaticanum 159
77.1
同じ人が、場違いな探究が行われているとき、若者が黙っているのを見て、云った。「もし、君が教育を受けた上で黙っているのなら、君は教育がないのだし、教育がないから〔黙っている〕のなら、君は既に教育されたのだ」。
"78a"."n"
Stobaeus, Eclogae 2.31.97
"78a".1
ビオーンは、ヘーシオドスにならって、弟子には、金、銀、銅の3つの種族があると言っていた。金族とは、〔授業料を〕支払って学ぶ者たちの〔種族〕、銀族とは、支払っても学ばない者たちの〔種族〕。銅族とは、学びはするが、支払わない者たちの〔種族〕である。
"78b"."n"
Ioannes Damascenus, Excerptae Florentinae 2.13.97, p.202 Meineke
"78b".1
ビオーンは、ヘーシオドスにならって、弟子には、金、銀、銅の3つの種族があると言っていた。金族とは、〔授業料を〕支払って学ぶ者たちの〔種族〕、銀族とは、支払っても学ばない者たちの〔種族〕。銅族とは、学びはするが、支払わない者たちの〔種族〕である。
79."n"
Diogenes Laertius 4.50
79.1
邪悪な連中といっしょに航海していて、海賊に遭遇した。〔邪悪な〕連中が、「見つかると殺されてしまう」と云うと、「だが、わたしの方は」と謂う、「見つからなければ〔殺される〕」。
80."n"
Gnomologium Vaticanum 156
80.1
ビオーンは、「食事はいつ取るべきか」と尋ねられて、「金持ちたちは望むときに、だが貧乏人たちは、持っているときに」。
81."n"
Hegesander ap. Athenaeum 8.344A (fr. 19 FHG IV p.417)
81.1
ビオーンは、ひとりの男が魚の上側をひったくったとき、自分も、〔その魚を〕ひっくり返して、たらふく喰ってから引用した。
イーノーもまた、反対側から自分の仕事をやりあげた。(Euripides Bacchae 1129)
断片集2(Fragmenta )
227."t"
『アルキュタス』の中で
227.1
おお、やさしきアルキュタスよ、琴弾きに生まれ、汝(な)が技に自惚れている仕合わせ者よ。
低音の弦をめぐる争いには、世の誰よりも心得ありとて。
228.1
おお、異邦のかたよ、悪人でもうつけ者でもないとお見受けいたしますが。〔Od. 6.187〕
めでたい、ほんにご機嫌よく、神様がたが福徳をお授けあるよう。〔Od. 24.402〕
2005.11.08. 訳了。 |