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back.gifアナカルシス書簡集

犬儒派作品集成

クラテース書簡集






[解説]

 ディオゲネース・ライエルティオス(6.98)は、紀元後3世紀の報告として、テーバイのクラテース〔盛時、紀元前4世紀〕 — シノーペーのディオゲネースの弟子で、顕著な影響を与えた犬儒派哲学者 — の書いた書簡集が存在するという。この書簡集が、哲学的内容ならびに文体からみて、クラテースの名でここに収められている36編の書簡と同じでないことは、久しい以前から認められている。

 現存する書簡集の作者が偽名であるとして、その作者と作成時期は、クラテースとディオゲネースそれぞれに帰せられる書簡集の間のさまざまな類似点を基に答えられてきた。クラテース第6書簡とディオゲネース第30書簡2との類似、クラテース第8書簡とディオゲネース第9書簡との類似が最初に考察された。後には、もっと多くが気づかれ、最終的には、クラテースの書簡第24と第25が、言葉遣いにしろ内容にしろ、ディオゲネースの書簡1篇ないしそれ以上に関係づけられなかった。

 初め、この類似の説明として、同じ作者が両方の書簡集を書いたとされたが、しかし後の研究者たちは等しく両書簡集の違いに気づいた。例えば、クラテース第19書簡とディオゲネース第7書簡および第34書簡における、オデュッセウスに対する見解の対立が、先の説明を否定し、文学的典拠、とりわけクラテースの書簡集がディオゲネースの書簡集を典拠とすることに反対した。さらに、この説明によって、成立年代の問題は部分的に解けた。つまり、クラテース書簡集はディオゲネース書簡集よりおそいということ、そしてこのことは、クラテース書簡集の成立年代は、紀元後1世紀ないし2世紀の初めに位置づけられることを意味したのである。

 さらに、クラテース書簡集の間でも、ここの書簡の間に数多くの相違点が観察され、このことが、作者問題を複雑にした。クラテース第35書簡は、犬儒派的であるよりはストア派的とみなされ、その他の書簡から切り離された最初であり、またさまざまな見解が、物乞いに関する書簡類の中に見出された。逆に、Capelleは、書簡27と書簡32が主題と扱い方の点で書簡26と書簡30との間にそれぞれ類似を見出し、同じ作者によって書かれたとして、前者は後者を基にした弁論的演習であることを示唆した。結局、彼は3人の作者を数え上げた。一人は、書簡1から26、28、(29?)、30、31、33、(34?)、(36?)。もう一人は、書簡27,32、三人目は、書簡35である。Olivieriの数え上げは極端で、6人だろうとした。クラテースの書簡はすべて警句的であるが、ただし書簡20と34は物語風、書簡7、24、25は毒舌である。

 これらの結論は、一般的に受け入れられているが、調査研究は、ディオゲネースとクラテースの書簡集の間の文学的関係を越えて進める必要がある。両書簡集の間の類似点の多くは印象的で意味深長であるが、他の多くはそうではない。典拠批判の方法は、これらの書簡集と、他の犬儒派の作品との「伝統的歴史的」研究によって補足されなければならない。このような研究は、作者と成立年代についての諸問題をもっとはっきりさせることができようし、この書簡集のよりよき理解に確実に寄与するであろう。

(Ronald F. Hock)




[底本]
TLG 0623
CRATETIS EPISTULAE
(Incertum)
Cf. et CRATES Poet. Phil. (0336).
1 1
0623 001
Epistulae, ed. R. Hercher, Epistolographi Graeci. Paris: Didot,
1873 (repr. Amsterdam: Hakkert, 1965): 208-217.
(Cod: 3,124; Epist.)





書簡集(Epistulae)

1.1."t"
ヒッパルキアに
1.1.1
 急いで帰りたまえ。ディオゲネースの死に目に会うことがまだできる(というのは、すでに臨終に近く、現に昨日、すんでのところで息を引き取るところだったのだから)。そうすれば、最期の挨拶を彼とかわし、最も恐るべき境遇のなかでどれくらい哲学が可能なのかを貴女は知ることになるだろう。

2.1."t"
同志たちに

2.1.1
 誰に対してでも必需品をねだってよいわけではなく、誰からでも与えられたものを受け取ってよいわけではありません(徳が悪によって養われるのは神法にかなうことではないからです)。ただ、哲学の手ほどきを受けた者たちに対してのみ、〔哲学の手ほどきを受けた〕者たちのみから、そうしなさい。そうすれば、あなたたちは、自分のものを取りもどし、他人のものをねだっていると思われないであることが、できます。

3.1."t"
同じ人たちに
3.1.1
 あなたがたの魂を気遣いなさい。身体には、必然なだけ、しかし外面的なものには、〔必然な〕だけも〔気遣う〕要はありません。というのは、幸福は快楽ではなく、外的なものらを使うのはそれ〔快楽〕のためですが、徳は外的なものらの何によっても成就しないからです。

4.1."t"
ヘルマイスコスに
4.1.1
 労苦が選ぶべきものであろうと、避けるべきものであろうと、労苦しなさい。労苦しないためにです。というのは、労苦しないために労苦が避けられるのではなく、むしろ逆に、〔労苦は〕求められさえするからです。

5.1."t"
同志たちに
5.1.1
 法は美しいが、哲学よりまさっているわけではありません。というのは、前者は、不正しないよう強いられるが、後者は〔不正しないよう〕教えるからです。強制によって何かを為すことは、自発的に〔為すこと〕よりも劣っているだけ、それだけ法習もまた哲学よりも〔劣っています〕。それゆえに、あなたがたは哲学にたずさわるべきであって、政治にたずさわるべきではありません。なぜなら、義を為すよう人間どもが教えられる方法を知ることの方が、不正しないよう強制される方法を〔知ること〕よりもまさっているからです。

6.1."t"
同じ人たちに
6.1.1
 呼吸するよりも頻繁に、哲学にたずさわりなさい(なぜなら、善く生きること — それは哲学をすること — は、〔ただ単に〕生きること — それは呼吸すること — よりも、選ぶべきだからです)。しかも、他の人たちのようにではなく、アンティステネースが創始し、ディオゲネースが完成したように〔哲学にたずさわりなさい〕。しかし、そういうふうに哲学することが不快であるなら、それはむしろより近道なのです。だから、ディオゲネースが言っていたように、幸福めざして、火の中を通ってでも、歩むべきなのです。

7.1."t"
富者たちに
7.1.1
 くたばれ! ハウチワマメや、干し無花果や、水や、メガラ製の上衣を所持していながら、交易にたずさわり、広大な畑を耕し、裏切り、僭主支配し、人殺しをし、おとなしくするべきなのに、その他そういったことどもを為しているとは。しかし、わたしたちはといえば、シノーペーのディオゲネースのおかげで、あらゆる悪から自由なので、完全に平穏な生活を送り、何ひとつ所持しないけれど、あらゆるものを所持しているのに、あなたがたはといえば、あらゆるものを所持していながら、愛勝、嫉妬、恐怖、虚栄のゆえに、何ひとつ所持していないのである。

8.1."t"
ディオゲネースに
8.1.1
 まさしく富からは、すでにわたしたちは自由ですが、名声は今もなおまだわたしたちを隷属状態から解き放ってはいません。ヘーラクレースにかけて、わたしたちはそれから解き放たれるべく、あらゆることを実行したにもかかわらずです。しかし何はさておき、この女主人からわたし自身を身請けして、アテーナイへとわたしは船出します。貴男からの言葉がわたしたちを向かわせた自由の代わりに、あらゆる所有物にまさる贈り物としてわたしをあなたにもたらすために。

9.1."t"
ムナソスに
9.1.1
 最美の飾り(kovsmoV)を差し控えてはなりません。むしろ、日々、あなた自身を飾りなさい。あなたが際立つように。最美の飾りとは、最美に飾る人(kosmw:n)のことであり、最美に飾るのは、最も端正な行為(kosmiwtavth)を為す人であり、最も端正な行為を為すのは、端正さ(kosmiovthV)です。ペーネロペーもアルケースティスも、それ〔端正さ〕によって飾られており、今もなお徳をたたえられ、尊敬されているようにわたしに思われます。だから、貴女もそのような女性たちに匹敵する者となるために、このような忠告に固執するようにしなさい。

10.1."t"
リュシスに
10.1.1
 わたしは耳にしました — 貴君は、おお、リュシスよ、エレトリアでの競い合い以来、のべつまくなしに酩酊していると。それが真実なら、知者ホメーロスが言っていることを貴君は軽視すべきではない。すなわち、彼は謂っています、

酒はケンタウロスの、音に聞こえたエウリュティオーンさえ過たせた。〔Od. xxi. 295〕

そしてまた、大きさでも強さでも人間に超絶したキュクロープスをも〔過たせたの〕です。ですから、われわれよりも強くて大きな者たちを悪しき状態にするのであれば、それがわれわれをどんな状態にすると貴君は思いますか。もちろん、惨めな状態にだとわたしは思います。ですから、それによって何ものも煩わしいことことが生じないよう、10.1.10 それの有効な用い方を学ぶことをわたしは貴君に勧めます。
10.2.1
 どれほど奇妙なことであろうか、撥が、これを美しく用いる人たちの分別をなくさせるからと、これに身を任せるべきでないと思い、他方、酒には身を任せ、これを用いるべきだと思うのは(それとも、撥はそれほどまでに大きなことを結果するのであろうか。そうだとすれば、これには気をつけなければならないが)。そこで、自制力のある人たちと交際して、これを自制的に用いるすべを学ぶよう努めたまえ。そうすれば、神のまさしく賜物は、侮る貴君の頭に宿ることはないけれど、尊重する〔貴君〕には、12.2.10 それから生じる後悔されることのない諸々の快楽と益が備わるであろう。とりわけ、あらゆる人〔?〕が、〔快楽を〕制限された克己〔心〕をもって貴君が品位を保って、義しく生きるようさせる — つまり、生における品位なきことやつまらぬことを何ひとつ遂行することなく、あらゆる義しいことを言ったり為したりして〔生きるようさせる〕 — 場合にはね。
10.3.1
 これらが備わることで、人間どもが三倍幸福な人になると言われるのは、その人たちの生に善が3倍に増加するからです。というのは、魂に関する〔諸善〕が克己的な状態にあり、身体に関する〔諸善〕が健全な状態にあり、所有に関する〔諸善〕が自足的な状態にある人たちが、どうして三倍幸福でないことがあろうか。ですから、これらの諸善を貴君が享受できるよう、書き送られた内容を軽視することのないよう、わたしは貴君に勧めるのです。

11.1."t"
同志たちに
11.1.1
 わずかなものしか必要としないことを修練しなさい(それこそが最も神に近く、反対は最も遠いことなのですから)、そうすれば、あなたがたは神々と言葉なき動物との中間者なのですから、よりすぐれた種族、つまり、劣悪でない〔種族〕に類似し者たちとなることができるのです。

12.1."t"
オーリオーンに
12.1.1
 田舎が真面目な者たちを作るのではなく、町が劣悪な者たちを〔作る〕のでもなく、〔劣悪な者たちを作るのは〕善事と悪事と共に暇つぶしすることである。したがって、あなたの子どもたちが善人になって、悪人にはならないことを望むなら、田舎ではなく哲学者のもとに送りなさい。そこは、わたしたち自身も赴いて、美しい事を学んだところだ。それは、徳は修練されるものであって、性悪とは異なり、自発的に魂に植えつけられるものではないのだからです。

13.1."t"
エウモルポスに
13.1.1
 ディオゲネースの着物は不名誉なものですが、しかしながら安全であり、これを着用する人は、カルケードーン人たちのそれをまとう者たちよりも信用に足ります。そしてその生は質素ですが、しかしながらペルシア人の〔生〕よりも健全です。またその生き方(diagwghv)は、労苦に満ちたものですが、しかしながらサルダナパッロスの〔生き方〕よりも自由なものです。したがって、安全がカルケードーン人の着物よりも、健康が輝かしい生よりも、自由が非難さるべき生き方よりもまさっているなら、それらを作る哲学もまた、何にもましてまさっているのであり、他の人たちの奉ずる哲学がそうでないとするなら、幸福に至る短路を発見したディオゲネースの奉ずる〔哲学〕こそが、13.1.10 それなのです。

14.1."t"
若者たちに
14.1.1
 マーザを食べ、水を飲むことを習慣とし、魚や酒は味わわないようにしたまえ。なぜなら、それらは、老人たちを、キルケーの調合した薬のように獣にし、若者たちを女々しくするのだから。

15.1."t"
同志たちに
15.1.1
 究極の悪 — 不正(ajdikiva)と放縦(ajkrasiva) — のみならず、その作因 — 快楽(hJdonhv)をも避けよ。なぜなら、あなたがたが見据えるのは、これら〔諸々の快楽〕のみであって、他の何ものでもないのですから。そして、究極の善 — 節制(ejgkravteia)と堅忍(karteriva) — のみならず、その作因 — 労苦 — をも追い求めなさい、そして、過酷だという理由でそれを避けてはなりません。なぜなら、何か大きなものにすぐれたもの[劣ったもの]を代えることはなく、黄金〔製品〕の代わりに銅〔製品〕を代えるように、労苦の代わりに徳に至るのですから。

16.1."t"
同志たちに
16.1.1
 犬儒哲学とは、ディオゲネースの〔哲学の〕ことであり、犬〔儒〕とは、その〔哲学〕にしたがって労苦する人のことであり、犬儒であることは、熱心哲学すること(to; suntovnwV filosofei:n)です。したがって、この名称を恐れてはならず、それゆえに、襤褸外套と頭陀袋 — 神々の武器 — を避けてもいけません。なぜなら、それら〔襤褸外套と頭陀袋〕は、性格を尊敬される人たちによって熱心に(suntovnwV)携行されるものだからです。だから、〔あなたがたが〕善き人たちであるなら、悪人と言われても、心痛することがないように、そのように今も、熱心に哲学することも「犬のようである」と言われ、そういうふうに哲学する人も、「犬」〔と言われ〕、その哲学も「犬的〔哲学〕」〔と言われる〕とき、〔心痛することは〕ありません。なぜなら、それはすべてが臆念〔あるいは、名誉〕(dovxa)だからです。そして臆念〔あるいは、名誉〕や 16.1.10 不名誉(ajdoxiva)に隷従すること、それも、名称に — 諺にいう、影に — 隷従することは、何にもまして厄介なことだからです。ですから、これらも、類似したものらも、軽蔑するよう努めなさい。

17.1."t"
同じ人たちに
17.1.1
 医者たちは、胃の症状の一つを書き、消化不良を起こすと言ったが、ディオゲネースは別の〔症状〕として、飢えを起こすと言った。しかしながら、前者の〔症状の〕ために、医者たちに薬をねだることは不名誉なことではないが、別の〔症状の〕ために〔薬を要求するのは、不名誉なことである〕。したがって、この理由で、このような恥ずかしくて不名誉なことを言う者たちを軽蔑し、飲み薬に等しくマーザをねだりなさい。なぜなら、恥ずかしいのは、ねだることではなくて、与えられるものにふさわしい者として自身を提示できないことだからです。飢えのためではなくて消化不良のために〔要求する〕ことは、〔不徳な者たちの特徴である???〕。なぜなら、後者は性悪に由来する 17.1.10 大食に起因するが、前者は貧窮に由来する欠乏に起因するからです。

18.1."t"
若者たちに
18.1.1
 冷水で沐浴し、水を飲み、額に汗せずして食することをせず、襤褸外套をまとい、地上で過ごすことを習慣としなさい。そうすれば、風呂屋はあなたたちにけっして閉ざされていることはないであろうが、葡萄の木や家畜は不毛となり、魚屋や寝床屋は貧しくなるであろう。ちょうど、温水で沐浴し、葡萄酒を飲み、労苦することなく食し、紫衣をまとい、寝椅子の上でやすむことを学んできた者たちにとってそうであるように。

19.1."t"
パトロクレースに
19.1.1
 オデュッセウスは、全同志たちの中で最も柔弱な者であり、何にもまして快楽を優先した者であるが、彼はかつて犬の身なりをしたことがあるからといって、彼を犬儒〔哲学〕の父と言ってはならない。なぜなら、着物が犬〔儒〕を作るのではなく、犬〔儒〕が着物を〔作るの〕ですが、オデュッセウスはそれには当たらず、彼はいつも眠りに負け、食べ物に負け、快適な生を賞讃して、いつ何時も神と僥倖なしには何事も為しえず、どんな人たちに対しても — 謙虚な人たちに対してさえねだり、ひとが恵む物なら何でも受け取るからです。これに反し、ディオゲネースをこそ〔犬儒〔哲学〕の父と〕言いなさい。彼が犬儒の着物に身を包んだのは 19.1.10 一度きりではなくて全生涯を通してであり、労苦においても快楽においてもまさっており、ねだった〔しかし犬儒哲学ではajpaitevw「返還要求する」意〕が、謙虚なひとからはせず、あらゆる必需品を放棄し、自分自身を確信し、栄誉を受けるのは、憐れまれる者としてでは断じてなく、尊敬される者としてであることを祈り、言葉(lovgoV)には信を置くが、狡さはもちろん弓にも〔信を置か〕ず、死に臨んで堅忍不抜であるのみならず、徳の修練に臨んでも男らしい〔ディオゲネースをこそ、犬儒〔哲学〕の父と言いなさい〕。そしてあなたにふさわしいのは、オデュッセウスとではなく、ディオゲネースと張り合うことなのです。生きているときも、そして死んでからも、わたしたちに遺してくれた言葉によって、多くの人たちを性悪から徳へと救い出している19.1.20〔ディオゲネース〕と。

20.1."t"
メートロクレースに
20.1.1
 貴君がわたしたちと別れて家に帰ってから、わたしは青年たちの相撲場に下って行き、塗油して、走りました。するとわたしを青年たちが見て、笑いましたが、わたしは、鍛錬を中断しないために、もっと速度を上げて、こう言って自分を励ましました。
 「クラテースよ、おまえが労苦するのは、眼のため、頭のため、耳のため、脚のためなのだ」。
 すると連中は、わたしがそういうのを聞いて、もはや笑うことなく、〔競走に〕とりかかり、自分たちも走りはじめました。しかもその時以来、もはや塗油しないだけでなく、鍛錬をつづけ、そのおかげで、以前と違って 20.1.10 病気に罹ることなく、わたしのおかげで健康になったと感謝し、ほっておかず、どこなりとわたしの行くところについてくるようになりました。わたしの言ったりしたりすることの聴従者、模倣者となってね。

 以上のことをわたしが貴君に書き送るのは、貴君もまた一人で走るのではなく、青年たち — 彼らのことをわたしたちは何らかの点で先慮しなければならないのですが — 暇つぶしをしているまさにそのところで、貴君が走るためです。というのは、行動は言葉よりも速く堅忍を教え、その〔行動〕はディオゲネースの哲学の中にのみあるのですから。

21.1."t"
犬儒メートロクレースに
21.1.1
 貴君が犬〔儒という呼び名〕を恐れているかぎり、わたしはそ〔の呼び名〕で呼ぶことにしよう。これまで明らかに君は恐れているようだ。貴君自身も、わたしたちに手紙を書く際、犬〔儒〕と書き添えているのに。こういうふうに、恐れない習慣、ただ単に議論をするだけでない習慣をつければ、他の事柄でも仕方を学ぶだろう。なぜなら、言葉を通して幸福に至る道は長いが、日々の行動を通しての手当て(melevth)は短いのだから。しかるに多衆は、犬〔儒〕たちと同じことをめざして進みながら、その困難に目をとめるや、呼びかける者たちを避けるのです。いや、この道を通って犬〔儒〕になるのではなく、21.1.10〔犬儒として〕誕生すべきなのだ。なぜなら、手当て(melevth)は、自然本性的に、この道よりも効果的なのだから。

22.1."t"
メートロクレースに
22.1.1
 ねだる相手は、誰でもいいのではなく、ふさわしい者たちに対してであり、受け取ってよいのは、誰からでも等しい物を受け取ってよいのではなく、3オボロスは思慮深い人たちから、1ムナは度し難い者たちから、である。なぜなら、慎み深い人たちと異なり、連中はかくも浪費するので、連中からは二度と受け取れないのですから。

23.1."t"
ガニュメーデースに
23.1.1
 襤褸外套や頭陀袋や杖や長髪を恐れ、しかし紫衣や贅沢三昧は愛しているかぎり、愛者たちをたぶらかすことをやめないのは、あたかもペーネロペーが求婚者たちに対するがごとくである。したがって、このような人たちが貴君にとって嫌でないなら、自分が選び取った生をすごすがよい。しかしもし、わたしが説いているように、〔嫌〕であり、しかも小さなものでないなら、その他の助っ人たち — これの助けで、貴君は連中を自分の中から追い払おうとしばしば試みたのだが、力及ばなかった — には別れを告げ、ディオゲネースの武器 — あの人もこれを身につけて策謀者たちを追い払った — 23.1.10 で身を包み、愛者たちの誰一人ももはや貴君に近づくことはないと確信するがよい。なぜなら、この〔武器〕は、このような敵を打倒し、それらと公然と争うことを好まぬ者を、あたかもハーデースの隠れ兜が、これを身につけた者を〔隠す〕ように隠すことにかけて、恐るべきものだからである。

24.1."t"
テッサリア人たちに
24.1.1
 人間たちは、馬のために生まれたのではなく、馬たちが人間たちのために〔生まれたの〕だ。したがって、馬たちの世話をするよりは、あなたがたの世話をするようにしなさい。というのは、よく知りなさい、あなたがたは多大な価値ある馬を所持しようとするのだから。自分たち自身はほとんど価値なき者たちだというのに。

25.1."t"
アテーナイ人たちに
25.1.1
 あなたがたが金銭に困窮していると聞きました。ならば、馬たちを売り払いなさい、そうすれば、金回りがよくなるでしょう。しかし、馬には必要性があるのならば、驢馬は馬であると挙手採決しなさい。それこそが、万事においてあなたがたの慣例だからです、必要性に応じて行動するのではなく、挙手採決するということが。もしも、それが大事なことにおいては非現実的で、それでも必要性を台無しにしないのなら、小さなことにおいても期待してはならない。したがって、そういう理由で、わたしに聴従しなさい、そして、馬たちを、銀子が必要で、ほかには抜け道がない場合には、売り払いなさい、25.1.10 だが必要な場合には、驢馬を、馬だと挙手採決しなさい。

26.1."t"
同じ人たちに
26.1.1
 ディオゲネースが、あらゆるものは真面目なひとのものだと言って、そばに来て、あなたがたに頼むのではなく、取り返したとしても、驚いてはなりません。なぜなら、あらゆるものが神のものだということを、あなたがたは驚かず、むしろ同意するでしょう — 夢でひとがあなたがたに近づいてきて、供儀するよういいつけても、あなたは彼のために供儀し、ヘーリオスがあなたがたに懇請したとはあなたがたは言わず、自分のものを取りもどしたのだと。真面目なひとに場合も同じことです。あなたがたは言うのです — あらゆるものは神のものであり、友たちのものは共有であり、26.1.10 真面目な人のみが神の友である、と。しかるに、あなたがたの誰かから1オボロスを取りもどす場合には、あなたがたはあたかも自分のものを手放す人たちのように嘆き悲しむのです。

27.1."t"
同じ人たちに
27.1.1
 犬〔儒〕ディオゲネースは言っていました — あらゆるものは神のものであり、友たちのものは共有である、したがって、あらゆるものは真面目な人のものである、そして、この言葉(lovgoV)からでてくる諸命題のいずれかを否定する人は、アカイア人たちやトローイ人たちとの契約をではなく、生の〔契約〕を破ることだ、したがって、この言葉に聴従して、真面目な人たちから3オボロスをねだられたからとて、不機嫌になってはなりません。自分たちのものをではなく、その人たちのものを返すだけのことなのですから、と。

28.1."t"
ヒッパルキアに
28.1.1
 女たちが男たちよりも、劣悪なものとして生まれついているということはない。じっさい、あれほどの偉業を修練したアマゾーンたちは、いかなる点においても男たちに及ばないということはなかった。だから、このことを貴女が想起するなら、これを等閑にしてはならない。というのは、貴女が自分の〔家〕で懦弱になっているということを、わたしたちに信じさせることはできないだろうから。かてて加えて、戸口でも、富の点でも、夫とともに犬〔儒生活〕を始めたことで勇名を馳せながら、今心変わりして、道程の真ん中から引き返すのは、恥ずべきことです。

29.1."t"
同女に
29.1.1
 われわれの哲学を犬儒〔哲学〕と〔人々が〕呼んだのは、万事に無関心だからではなく、柔弱さや臆念(malakiva h] dovxa)のせいで他の人たちには耐えられないことに、たくましく耐えるからであり、したがって、われわれを犬と呼んだのは、この〔後者の理由〕によってであって、第1の〔理由〕によってではない。だから、踏みとどまって、共に犬であれ(というのは、貴女はわれわれ〔男〕より劣った者として生まれついているのではないから。29.1.6 つまり、牝犬は雄犬より〔劣ったものとして〕生まれついているのではないから)。それは、自然〔本性〕からさえ自由となることが貴女にできるためです。万人は、法習から、あるいは、性悪によって、隷属しているのですから。

30.1."t"
同女に
30.1.1
 貴女に上衣(ejxwmivV)を送り〔返し〕ます。これは貴女がわたしのために織って、送ってくれたものですが、堅忍にたずさわる者たちにとっては、こういうものを身にまとうことは禁じられているからですし、また、この仕事に多大な真面目さでうつつを抜かし、その結果、夫を愛する女のようなものに多くの人たちに思われることになる — そういう仕事を貴女に思いとどまらせるためでもあります。わたしとしては、もしもそういう理由で貴女を娶ったのなら、貴女はまったくよくやっているし、それ〔夫を愛すること〕もそういう理由でわたしには明白です。しかし、貴女自身も追究している哲学のためなら、そういった人間的関心事(spouvdasma)には別れを告げなさい、そして人間どもの生にすぐれて益することを試みなさい。30.1.10 これこそが、わたしからもディオゲネースからも貴女の学んだことだからです。

31.1."t"
同女に
31.1.1
 言葉(lovgoV)は魂の導師、美しき仕事、人間どもにとっての最大の善。だから、いかなる仕方でそれを獲得できるか追究しなさい。なぜなら、幸福な生と所有を堅持できるでしょうから。そして知者を追究しなさい。地の果てに至らねばならないとしても。

32.1."t"
同女に
32.1.1
 ある人たちが、貴女のところから新しい上衣を携えてきました。これは、冬の季節の間わたしが着られるよう、貴女が作ったものだと彼らは謂っていました。しかしわたしは、貴女がわたしを気遣っている点では、貴女を歓迎しますが、しかし、貴女がなお私人として生き、わたしが貴女を育てようとした哲学者として生きていないという点で、非難します。だから、貴女にとって本当に気にかかり、これを美化するのでないなら、今はもう〔こういう行為は〕やめなさい。そして、わたしたちが結婚していっしょになることを欲した所以のこと、これを為すことに熱心になりなさい。だが、羊毛を紡ぐという小さな益は、貴女と同じことには何ひとつ手を出さない女たちにさせておきなさい。

33.1."t"
同女に
33.1.1
 貴女が子を産んだこと、それも安産だったことを伝え聞きました。というのは、貴女はわたしたちに何ひとつ明かしてくれなかったからですが、神と貴女に感謝します。もしかすると、労苦することは労苦しないことの基だと信じておられるのでしょう。というのは、妊娠中、競争者のように労苦しなかったら、かくも安産にはならなかっただろうから。しかるに多くの女たちは、妊娠するや、弱くなるのです。さらに、出産すると、救命されることになった女性たちは、病弱な幼児を産むのです。しかしながら、来るべきことがやってきたら、それを示して、わたしたちのこの犬ころに貴女の心を砕きなさい。33.1.10 しかし貴女は気遣うでしょう。あなた自身とほとんど同じに安全に〔子育てに〕たずさわるならば。

33.2.1
 したがって、沐浴は冷水でしなさい、襤褸外套でくるみなさい、食糧は、母乳を満腹しない程度に、揺りかごは亀の甲羅でこしらえた中に入れなさい。これこそが、幼児の病気に対しても秀抜だと言われているからです。さて、しゃべったり歩いたりするようになったら、これを、アイトラーがテーセウスをそうしたのとは異なり、剣ではなくて杖と襤褸外套と頭陀袋で — 剣よりもこれらの方が人間どもを守ることができるから — 飾り、アテーナイに送りなさい。その他の事柄は、わたしたちは自分たちの老齢のために、犬の代わりにコウノトリ育てるよう 33.2.10 心がけよう。

34.1."t"
メートロクレースに
34.1.1
 わかってください — ディオゲネースが海賊に捕らわれたと伝え聞いて、わたしは我が身の災厄を歎き、もしも捕虜の一人が解放されて、アテーナイにやってこなかったとしたら、今もなお同じ情態に陥っていたことであろう。ところが今は、その人物がやって来てわたしを癒したのです、「彼〔ディオゲネース〕は災厄を柔和に耐えました、したがって、わたしたちを軽視した海賊たちに、こう言いさえしたことがあるのです。『おお、君たち、いったいなぜなのだ。豚を取引のために引っ立てる場合は、売るときより多くの銀子を君たちにもたらすよう、その世話をするであろう。ところがわたしたちには、これも豚のように売る 34.1.10 つもりなのに、君たちは気に留めない。34.2.1 それとも、君たちは思わないのか — われわれも、太っていると見られれば、高値を呼ぶだろうが、痩せていては、安値になるだろうと。人間は食べられることがないから、人間までそういうふうに世話する必要はないと君たちは思っているのではないか。いや、よく知りたまえ — 人足を商う連中はみな、身体が太っていて大きいかどうかという、この一点に注目するということを。その理由も君たちに告げてあげよう — つまり、彼らが人間まで商うのは、身体の有用性のゆえであって、魂の〔有用性のゆえ〕ではないということだよ』。この時以来、海賊たちはもはやわたしたちをおろそかにすることなく、この件では、わたしたちもまた 34.2.10 あの人に感謝しているのです。

34.3.1
 さて、とある都市にわたしたちが着いたとき、そこはわたしたちが彼らのために貨幣を生み出すことのできるところなのですが、彼らはわたしたちを市場に引き立て、次いでわたしたちは立ちつくしたまま涙を流していたのですが、あの人はといえば、パンを手に入れて食べ、わたしたちにも差し出したのです。だが、わたしたちが受け取ることを断ると、彼は謂いました、

『髪うるわしきニオベーでさえ、食べ物のことを思い出し』〔Il. XXIV. 602〕

それも、冗談めかして笑って云いながら、
 『あなたがたは』と彼は謂いました、『海賊たちに捉えられる以前は、あたかも自由人であって奴隷ではない — 34.3.10 少なくともつまらぬ主人をもった奴隷などではないかのようなふりをして、来るべき隷属を思って泣くことをやめるのではないか。なぜなら、今こそ、あなたがたの腐敗堕落の原因たる贅沢を切除してくれ、堅忍と節制 — 最も価値ある善 — を植えつけてくれる、おそらくは程よい主人を割り当てられるのだろうから』。
34.4.1
 さて、こういったことを縷々述べていると、買い主たちが立ちどまって、これの言葉に耳を傾け、彼の不動心(ajpaqeiva)に驚嘆して、さらにまた幾人かの人たちは、彼が何らかの知識を持っているかどうか質問しさえしました。すると彼は、人間どもを支配する知識を持っていると言った、『したがって、おぬしらの中に主を必要とする者がいるなら、来たりて、売り主たちと契約を交わすがよい』。
 するとその連中は、彼のことを大笑いして、『いったい誰が』と彼らは謂いました、『自由人であるのに、主を必要とする者があろうか』。
 『あらゆるものが』と彼は云いました、『つまらぬ者たちや、快楽を尊び、労苦を尊ばぬ者たち、34.4.10〔つまり〕諸悪の最大の誘因が〔必要としている〕』。

34.5.1
 こういうわけで、ディオゲネースは競合の的となり、もはや売却されることなく、海賊たちは彼を〔立ち台の〕石から降ろして、自分たちの屋敷に連れ帰りました。売られるときに知っていると言ったことの何かを自分たちに示してくれるなら、解放しようと約束してね』。

 こういう次第で、わたし自身は身代金を準備するために家に帰ることもなく、準備するよう貴君に書き送りもしなかったのです。いや、貴君も喜んでくれたまえ。海賊の手に捕らわれたが彼が生きていること、そして、多衆にとってはあるとは信じられないことが現実にあったということを。

35.1."t"
アペレースに。善く為すこと〔「仕合わせであること」〕
35.1.1
 古の人たちの格言「必然事を逃げるな(ta; ajnagkai:a mh; feuvgein)」は、おお、最も尊敬する貴君よ、あらゆる状況に対して簡潔で適切なことを謂ったものです。なぜなら、逃れられないことを逃げる人は不仕合わせであり、不可能なことを求める人は、それを得損なうのは必然だからです。ですから、おそらくは、わたしがしつこくて衒学的だと貴君に思われるあろう。その点については、わたしは言い訳しません。けれども、よければ、わたしを咎めてもかまいませんが、ただ、古の人たちには心を向けなさい。というのは、わたしは自分の経験から証言します — われわれ人間がすり潰されるのは、危険に囲まれない生を生きようとする、35.1.10 そのときなのだと 。
35.2.1
 しかし、そんなことは詮無いことです。なぜなら、一方では、身体と共に生きることが必然であり、他方では、人間どもと共に〔生きること〕も必然だからであり、たいていの状況は、共に生きている者たちの無知からと、さらには身体から生じるからです。ですから、知識ある人がこういった〔状況〕に身を処するなら、その人は苦痛なき、混乱なき人、つまり浄福な人(oJ makavrioV ajnhvr)となるのです。逆にまた、こういったことに無知ならば、むなしい希望にすがりつき、諸々の欲望に取り憑かれることをけっしてやめないであろう。ですから、貴君としては、多衆の生に満足するなら、その人たちの忠告を用いなさい。というのも、35.2.10 彼らはこういったことに大いにすり潰された人たちだからです。しかし、貴君をソークラテースやディオゲネースの生が満足させるなら、悲劇作家たちの作品はさの人たちに任せて、あの人たちを目標とした競い合いに一身をささげなさい。

36.1."t"
デイノマコスに
36.1.1
 ディオゲネースは宣明しました — 銀子をねだる人たちの乞食らしさが犬儒らしさであるばかりでなく、〔銀子を〕与える人たちの憐れみをかけやすいこともまた、真面目さであると。したがって、これはご存知のことですが、誰にでも近づいてねだればいいのではありません — もらえるわけではありませんから — 、〔せがんでいい相手は〕真面目な人に対してのみです。この人こそ、幸福な人と〔いわれるのを〕聞くのであって、その他の何びとでもないと、わたしたちは言うのです。

2011.03.22. 訳了。

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