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back.gif『ポリテイア』のトラシュマコス


長尾龍一

クリティアス論草稿

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[出典]

『社会科学紀要』(東京大学)16(1967.3.)





(1)クリティアスの*思想史上*の重要性はその断片二十五にある。曰く、

《昔は人々の生活に秩序がなく、獣界の如く実力の支配をうけていた。そこには善行者への報賞も、悪しき者への罰もなかった。そこで人々は制裁の法を定め、正義を支配者、無道を奴隷となして、罪を犯した者を処罰することにしたものと思われる。しかるに法の抑止したのは公然たる犯罪であり、人々は隠れて罪を犯しはじめた。そこである賢明な男が隠秘な言動や思いを威嚇すべく、方便たるべき畏れを案出した。即ち彼は宗教(to theion)を導入して曰く、
 「ダイモンありて不死に栄え、その理性(ヌース)もて万象を見聞きし、その思いは万象に及び、万象を配慮している。その本性たるや神的であり、人々の言動の一切を探知しうる。汝等が如何なる企てをなそうと、このダイモンを逃れることはできない。彼等は超絶した知性を有する故に。」
 このように語って、彼は真実を虚偽で覆うところの、極めて好都合な教説を導入したのだ。また彼は、神々の住まい給うところとして、畏れの源にしてまた労苦への報酬の源であるが故に、それを口にすれば人々が最も畏怖する所をあげた。即ちそこにおいて稲妻を見、雷鳴をきき、すぐれた工匠(たくみ)である時(クロノス)のもたらした麗わしき刺繍たる星屑をみ、また陽光や雨の源たる天空を。彼はかかる恐怖によって人々をとらえ、かかる論議によって神性をしかるべき場所におき、かくて人間界の不法を絶えさせたのである……。》(fr. 25 多少意訳)

 ここに説かれている宗教理論は次のような特色をもっている。
 (イ)神は本来存在しない(無神論[1])。
 (ロ)神は人間が捏造した。
 (ハ)神を捏造した目的は社会秩序の推持である。
 (ニ)従って宗教の本質は「有益な虚偽」である。


 この主張は当時の合理主義的・涜神的な雰囲気の中でもなお際立って大胆なものである。牛馬や獅子が神を描くならば各々自らに似た神を描くであろうといい、エティオピア人の神は獅子鼻でトラキア人の神は紅毛だと嘲ったクセノファネス(frr. 15, 16)」も、かかる偶像的信仰を超えた超越神を求めたものであったし(fr. 23)、宗教に対して不可知論的であったプロタゴラスさえ(fr. 4)、プラトンの対話篇においては人間は神によって神性を分与されている故に、全被造物中人間のみが神を敬うものと説いている(Platon, Ptot. 322a[2])。デモクリトスは古人が雷鳴や日月蝕を怖れて神に帰したと説いたと伝えられるが(A 75)、これとて低次の信仰の批判ではありえても宗教一般の批判ではない[3]。ソフィストのプロディコスはエジプト人がナイルを神とするように、古人は日月や自然現象のうち人生に利益をもたらすものをもって神と崇めたとなして(fr. 5)クリティアスに直接の影響を及ぼしているもののようであるが、クリティアスにおいては素朴な人心が*自然*的に神の表象を生み出したのではなく、かか人心を操る賢明な人物が*作為*によって神の表象を捏造したのである。エリク・ヴォルフはこの断片の思想をもって「公然の極端な不可知論」(einoffener, radikaler Agnostizismus)であるとなし[4]、ネストレは彼を「ソフィストの極左派」(der äusserste linke Flügel der Sophistik)であるとなす[5]。この主張は君主に虚偽と知ってなお宗教心を鼓吹すべきことを説いたマキャベリや、宗教を僧侶の捏造であるとなすドルバック等の啓蒙思想家たち、さらにはフォイエルバッハのキリスト教批判やデュルケームの宗教社会学等の先駆をなすものである[6]


(2) クリティアスの*政治史*上の重要性は404年の寡頭政権の領袖としての活動にある。一世代に亘ってギリシャ世界を戦争と内紛の坩堝と化さしめたペロポネソス戦争はアイゴスポタモイの海戦におけるアテナイ海軍の壊滅によって幕を閉じた。かくてアテナイの運命は戦勝国側の裁量に委ねられ、戦後処理会議において強硬派のコリント・テバイ等はアテナイの絶滅乃至奴隷化を唱えたのであるが(Xenophon, Hellenica, II, ii, 19)、盟主スパルタはペルシャ戦争におけるギリシャ匡救の功績の故に[7]それに与(くみ)せず、城壁の撤去[8]・艦船の没収・親スパルタ派亡命政客の帰国許可・スパルタの指導権の承認などの条件のもとで、アテナイとの講和を締結する道を選んだ(II, ii, 20)。クリティアスはこうして帰国した亡命政客の一人である。

 ここにアテナイは親スパルタ的寡頭政権のもとに「父祖の国制」(patrios politeia)に復帰して再出発することを余儀なくされ、リュサンドロスの率いるスパルタの艦隊が外港に碇泊するという状態のもとで、「父祖の法」[9]に則った憲法を制定するための起草委員三十名を選出した。この「三十人政権」(triachonta)はアリストテレスによれば寡頭制論者の亡命政客と、国内に在った復古派とによって構成されていたものとされ(Aristoteles, Ath. Pol. xxxiv, 3)、前者を率いた者がクリティアス、後者を率いた者がテラメネスであった。最初は彼等は協調し(Xen. Hel. II, iii, 15)、幾つかの内政改革の手をうったのであって(Arist. Ath. Pol. xxxv, 2)、青年プラトンも最初はポリスを不正から正義へと導くであろうと期待したが(Epistl. vii, 321d)、憲法の起草を遷延し、自ら国家の最高決定機関たる評議会の議員やその他の諸要職の担当者を選任し(Xen. Hel. II. iii. 11[10])、治安警察機関を掌握して(Arist. Ath. Poi. xxxv. 11)、政敵の弾圧と粛清に乗り出した。このために武装スパルタ兵が市内に導入され(Xen. Hel. II, iii, 13)、その威嚇のもとで民衆派の代表的人物はもとより、単なる敵意や更には財産没収目的のためにも多くの処刑が行なわれた(II, iii, 21)。クセノフォンが一兵士の言として伝えるところによると、こうして殺害された者の数は過去十年の戦役において戦死したアテナイ人の数を越える程であったといわれる(II, iv, 21)。このような過激な手段の推進者がクリティアスであって、クセノフォンはこれを「民衆(デモス)に追放されたことへの復讐」であると説明している(II, iii, 15)。

 テラメネスはやがてこれに反対するに至り、政権内部において対立が生ずるが、クリティアスは「この種の政体変革に際しては人命の損失が生ずるのは当然である」と答えて(II, iii, 32)、逆にテラメネスの変節[11]を咎め(II, iii, 33)、評議会(ブーレ)を武力で威嚇しつつ(II, iii, 50)、脱法的手段を用いて議場でテラメネスに死刑を宣し(II, iii, 51)、逮捕する(II, iii, 55)辿捕する。テラメネスは「かかる行為は人に対して不正の極たるのみならず、神々に対しても不敬虔の極みである」と叫ぶが(II, iii, 53)、結局毒杯を仰ぐ(II, iii, 56)。

 かかる政権が永続しないことは当然であって、僅か八カ月で崩壊し、クリティアスは叛乱軍との戦闘において戦死する。ここにアテナイにおいて民主制が復活し、その後の八十年に亘って同市においては組織的反民主制運動は影をひそめたのであって、プラトンの如き反民主制論者はアテナイの政治に背を向け、その思想の販路を外に求めることを余儀なくされたのである。ケムブリッジの言葉を用いるならば、このクリティアスの政権の功績はただ「寡頭政治を永久的に不評判なものにした」ところにあったといっても過言ではなかろう[12]

       *           *           *

 クリティアスの思想と行動は啓蒙的合理主義のニヒリズムと破壊的な性格を説く人々の格好の攻撃対象であり、そのような主張の最適の例証であるようにみえる[13]。本稿の意図はこの種の主張の正当性を一応認容しつつ、啓蒙的合理主義が如何なる条件のもとで、如何なる論理的・因果的連鎖を辿ってかかる実践へと導かれたかを、クリティアスの事例に即して検討しようとするものである。

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