クリティアス論草稿(1/3)
二(1)ポティダイアの戦闘から帰国したばかりのソクラテスの無事を祝って旧知の人々が彼を取り囲む。プラトンの初期の対話篇『カルミデス』はこのような場面での対話として描かれている。クリティアスはこの旧知の人々の一人として登場するのであるが、既に成人した人物として、また一ぱしの詩人・思想家として描かれている(Plat. Charm. 155d, 162c)。この対話の時期は恐らく430年前後であろうから、これから逆算するとクリティアスの生年は460−450年、恐らくはその前半に属するものと思われる。彼の父親はカライスクロス、祖父は同名のクリティアス、曾祖父はドロビデスとよばれ、そのドロビデスの父はクリティアス、祖父はドロビデスとよばれた(Charm. 157e, Timaios, 20e)[14]。この家系はアテナイの名門であって、我がクリティアスより五代前のドロゼデスはソロンの親族にして親友であったとされ(Tim. 20e)、この家系はアナクレオンやソロンの詩において讃美されたものといわれる(Charm. 157e)。 クリティアスはかかる名門の子の常として広範囲に亘って当時最高の教育をうけ[15]、当時の代表的な思想家や教育者と接触をもった。彼の青年期はプロタゴラスやゴルギアスの壮年(アクメー)期にあたり、プロディコスやゴルギアスとの人的接触もあった模様である[16]。もっとも彼がこのようなソフィストの門下に入ったという形跡はなく、ただソクラテスのサークルには一時期属していた。クセノフォンによれば彼がソクラテスに接近した目的は「思慮」を得るところにはなく、ただ政治家として立身するための言論の能力を得るところにあったとされ、ソクラテスより得るべきものを得 てしまったとみるやそのもとを離れて政界に身を投じたとされる(Xen. Memorabilia, I, ii, 15b〜6)。プラトンの『カルミデス』において少年カルミデスが「幼い頃ソクラテスとクリティアスが交際していたのを記憶している」と過去形で述べているところをみると(Charm. 156a)、こうして政界に身を投じたのはポティダイア戦争より前のことであったと思われる[17]。 (2)然るにクリティアスの政治行動についてはその後二十年近くに亘って何も知られていず、彼が政治史上の史料に初めて姿を現わすのは「ヘルメス事件」(415年)である。この二十年間の雌伏ぶりは性急に功を求める彼の性格からみても(cf. Charm. 162c)不可解であって、シュミットは「民衆への怖れの故に自らの政見を公けにせず、寡頭派内で既存の国制に対する憎悪を育みつづけた」ものと推測する[18]。しかし彼がそれ程一貫した寡頭主義者であったか否かは後にのべるように疑問であり、彼の性格もそのような大星由良之助的行動様式とは結びつかないもののように思われる。恐らくこの期間には、彼の遊蕩的で気まぐれな性格からみて、何らかの道草を喰言いたものと推測され、場合によっては兵役に服していたものとも考えられる[19]。そして道草を余儀なくされた理由としては、ペロポネソス戦争の前半期にはなお政界に一応の秩序があり、単なる口舌の徒が一挙に権力中枢に接近する機会がなかったというような事情も考えられよう[20]。 (3)クリティアスが最初に政治史上の史料に登場する機縁となった「ヘルメス事件」とは、名門出身の少壮政治家アルキビアデス[21]が老練の将軍ニキアスの慎重論を押し切ってシシリーへの大軍派遣を民衆に説得し、その艦隊がいざ出発しょうとする直前に生じた不祥事であって、一夜のうちに市内に多数祀られていたへルメス神像の顔が大部分削り取られたという涜神事件である。事の真相は不明であるが[22]、反アルキビアデス派は嫌疑をアルキビアデスに向け、結局アルキビアデスは敵国スパルタに亡命して、対アテナイ戦略を指導するに至る。クリティアスはこの事件に際し嫌疑を受けて投獄され、知人の宣誓によって出獄したものと伝えられる(A5)。これは恐らく彼がアルキビアデス一派と見做されていたからであって、そのことは後の彼の行動からも裏付けられる[23]。 ところでこのアルキビアデス派の政治的性格を一概に論断することは不可能である。彼は民衆派の名門に生れ、父親の死後は民衆派の指導者ペリクレスがその後見人となっていた(Xen. Mem. I. ii, 40, Plutarchos, Alcibiades, 1)。しかし彼は「その美貌の故に大勢の身分のよい婦人たちに追いまわされ、アテナイ及び盟邦都市における勢力のゆえに多くの有力者たちに甘やかされ、民衆に甘やかされて容易に第一人者となり、かくて、あたかも運動競技に楽々と勝利を博した選手が練習をおろそかにするごとく、彼もまた自らの訓練を留守にした」(Xen. Mem. I, ii, 24)。こうして政界に登場した彼は権力慾と保身の権化であり、デマゴーグとして民衆を籠絡し、あるいは亡命してスパルタと結び、転じてペルシャ帝国と結びつつ帰国を画策し、自らの唱えたシシリー遠征の失敗によって危地に陥ったアテナイに対しペルシャの武力をもって民主制の廃棄を迫り、後に再び民衆派に迎えられて帰国して将軍となり、ここで軍事的失敗の責任を遁れて再び亡命するという変転ぶりである。クリティアスはこのアルキビアデスとともにソクラテスの門下生の一人であり、後にはアルキビアデス帰国許可の議案の提案者となり(fr. 5)、アルキビアデスの政敵フリュニコスの死後その屍体を国外に廃棄すべきことを求めた議案をも提出したとされ(A7)、彼のテッサリア亡命もアルキビアデスの再亡命に連座したものの如くである[24]。クリティアスの「アルキビアデス的無節操」は411年の寡頭政権においてフリュニコス一派の親スパルタ政策に与(くみ)してエエティオネア塁壁の構築に協力しつつ(A6)、同政権崩壊後死したるフリュニコスの名誉剥奪を唱えていることからも(A7)、また寡頭政権の首領となる直前にテッサリアで農奴をその主人達と争わせて民主制を樹立しようと画っていることからも裏書きされる(Xen. Hel. II, iii, 36)[25]。 |