クリティアス論草稿(2/3)
三(1)寡頭制(oligarchia)とは文字通り「少数者(オリゴス)の支配(アルキア)」を意味するが、この「少数者」の構成原理については、世襲的寡頭制(aristocracy)・金権的寡頭制(plutocracy)・能力的寡頭制(meritocracy)及び権力を求める一定の徒党・派閥の支配(tyranny)などが区別される[26]。アリストテレスの『アテナイの国制』によれば、ドラコン以前の国制においては官職は「名門と富裕者の間から」任ぜられたとされ(Arist. Ath. Pol., iii, 1)、世襲制より金権制への過渡的形態を示しているが、ドラコンの立法は財産の階等に基づいて参政権の階等を定めた金権制であり(iv, 1)[27]、ソロンやクレイステネスの改革は金権制から全自由民の参政へと移行していく過程を示す。プラトンやアリストテレスは寡頭制を富裕者の支配と定義している(Plat. Politeia 550c, Arist. Politica III, vii, 5)が、もはや彼等はこのような寡頭制の正当性を承認していない。富裕であることは親が富裕であったことか自らが営利能力を有していることを証明するにすぎず、財産が統治能力の徴表である(Arist. Pol. IV, viii, 3)とは限らない。少くとも大衆説得力や軍事的統帥力は財産の多寡と殆んど無関係な要因であり、これらの要素が貴重性を増すに従って金権制もその正当惟を奪われる。ソフィスト達が「徳」(arete)の教師として登場するのはこのような新たな実力主義の秩序において実力を授けようとしたものであり、プラトン中期の対話篇『ゴルギアス』に登場するカリクレスの実力者支配の理論などはそれを極端な形で主張したものである[28]。このような「能力」のうちでデマゴーグとしての能力が重要な地位を占めていたことはカリクレスがアテナイの民衆(デモス)に「恋をしている」ことからも推測され(Gorg. 513e)、またアルキビアデスが権力を承握するためにまず民衆を 弁論によって籠絡しようとしたところからも推測される。ソクラテスは統治もまた一つの専門的能力であることを力説してやまなかったし(Xen. Mem. III, ix, 10, Plat. Prot. 319c etc.)。プラトンの意図した寡頭制も世襲制や金権制ではなく、神秘的な「叡知」(epistem)の具有という、先天的ではあるが一代限りの能力である(Politicos, 292c)。しかし能力を客観的に判定する国家試験のようなものがあるわけではないから、能力ありと標榜する者は自ら実力によって政権を獲得することによってそれを証明する他ない。 こうして政権を狙う徒党が簇出し、陰謀や大衆工作が年中行事化し、その中で運と厚顔無恥さにおいて優る者が政権を承握する[29]。こうして成立した寡頭政府は世襲的・金権的・能力的エリート集団の支配ではなく、ただ寡頭支配を目指す者の集団による支配である[30]。 ペロポネソス戦時におけるアテナィの寡頭派及び寡頭政権の実態については不明確な点が多いが、411年の寡頭政権の首脳が概して名門出身者であることは否定できないにせよ(Arist. Ath. Pol., xxxii, 2)、彼等が長期に亘って反民主制運動に携ってきた者であって多少の陰謀家的性格を有することは否定し難く(Thucydides, History of the Peloponnesian War. VIII 68, 90)、彼等のうちの有力者の一人であるフリュ二コスは恐らく名門の出身者ではなく[31]、アルキビアデスとの敵対関係から俄か仕立てに寡頭派に馳せ参じた者のように思われる。アリストテレスもフリュニコスを煽動によって勢力を得た者の例にあげている(Arist. Pol. V, vi, 6)。404年の政権に関しては、先にものべたようにアリストテレスが亡命寡頭主義者と国内復古主義者の連合政権として両者を区別しており(Arist. Ath. Pol. xxiv, 3)、この対比は徒党的寡頭制論者と世襲的乃至金権的寡頭制論者の対比にほぼ対応するものと思われる。この政権においては前者の首領クリティアスが支配権を掌握したのであるが、彼等は「財産・門地・名声」に秀でた人々を次々に刑場に送ったとされており(xxxv, 4)、この政権が世襲的・金権的・能力的寡頭制の何れにも敵対的であったことを象徴している[32]。 (2)このようなクリティアスの寡頭支配と彼の断片二十五とを結びつける最も直線的説明は「ニヒリズム」という単純にして複雑な一語であろうが[33]、一層仔細にみるならば、この断片自体が神を捏造する賢明な人物と愚かにもそれを信ずる善良なる市民の寡頭的社会構造を前提としていることに注意を惹かれる。この仁慈的専制君主(benevolent despot) は民衆を真実に目覚めさせる啓蒙者ではなく、民衆を巧みに欺罔して善行に導く教育者である[34]。このRationalism for the few, magic for the many.という合理主義者の寡頭支配の思想は彼の血族[35]プラトンによって一層大々的に展開され、「崇高なる虚偽」や「夜間委員会」の構想を生み出すのである[36][37]。 しかしなお一層仔細にみるならばクリティアスはこの善良なる市民達に対し侮蔑的であるのみならず、この賢明なる人物に対してもなお揶揄的であることが見出だされるであろう。彼が寡頭政権においてとった行軌は復讐心に基づく報復にせよ、スパルタ軍の導入にせよ、財政困難を補う財産没収にせよ、テラメネスをその非党派性の故に処刑したことにせよ、その露骨さ[38]はかの賢明なる人物の行動とは程遠いものであり、彼はその行動の正当化に神や伝統や公共の福祉等、独裁者が常に用いる諸々のイデオロギーを殆んど用いようとしなかったことが注目される。彼の失敗の一つの原因はこの没イデオロギー性に求められるように思われ、このことが或いは彼のイデオロギーへの侮蔑、ある種の合理主義的潔癖さと結びつきうるものであるかも知れない。 (3)合理主義の概念は多義的であるが、特に実践上の合理主義と認識上の合理主義の対立関係の認識は重要である。合理的処世、あるいは成功への合理的道というような意味での合理主義は伝統と変革の調和や、いかなる非合理的信念と雖もそれが現実に支配力を有するものである以上はそれを一定限度容認するという妥協の精神などがその原則となる。それに対し認識上の合理主義はそのような妥協を一切排するものであって、実践において極めて不合理な帰結をもたらすことがある。フランス革命における過激な合理主義者の行動などを想起せよ。更に実践的合理主義は衝動や情念を理性の統制に服せしめるとうい克己心を要請する。そこではそれに則って自らの行動を律すべき価値基準への信念が前提されているのであるが、価値基準の窮極的正当化は理性の外に求められるものであって、一定の価値体系の宗教的・形而上学的正当化が実践的合理主義と屡々結びつく。それに対し徹底した認識上の合理主義のもたらすものは価値相対主義であり、特定の価値体系の絶対的正当化の否定である。かくて認識上の合理主義が実践的合理主義を破壊し、行動原理を理性からでなく欲望や怨恨(ルサンチマン)から汲みとることとなる[39]。 この認識上の合理主義と実践上の合理主義の結合はただ自らを厳しく律しつつなおその行動基準を内面的良心にのみ求めるという自律的個人のうちにおいて成就する。この倫理の内面化は「恥の文化」(shame culture)から「罪の文化」(guilt culture)への転化という歴史的過程と対応するものであり、このような文化的環境のもとにおいてのみ合理主義の担い手が同時に内面的倫理の担い手となりうるのである[40]。クリティアスが両者を結合するに不適格な恥の倫理の持ち主であることを最も雄弁に語るのは次の断片である。曰く、 《我等の愛するものは多種多様である。ある者は栄位を欲し、他の者はそれには構わず多くの財産を求める。……更に他の者は人々より名誉以上に恥ずべき利益を求める。だが私はこれらの何れをも求めない。私の求めるものは名声のみ。》(fr. 15, cf. frr. 20, 24)[41] 現代人の心性が再び内部志向型から外部志向型へと転化しつつあるという仮説が仮に正当であるならば、合理主義は再びニヒリズムの危険をもたらすものと変じつつあることとなるであろう。果たして然るか。理性の破壊力に箍をはめ、再び理性の供犠に身を委ねることが「時代の要請」であるか。 あとがき本稿は研究成果として世に問う論文ではない。筆者の専攻や用いうる文献や能力をみるならば、筆者が古代ギリシャに関して論文の名に値するようなものを著すことは未来においても殆ど絶望的であろう。それにも拘わらず啓蒙的合理主義の運命に関心を寄せる者は、啓蒙思潮の汚点とも見做さるべきクリティアスの思想と生涯を吟味することを避けることはできない。本稿が筆者自身にとっても極めて意に充たぬものとなったことの理由は、時間や文献・能力における制約によるのみならず、クリティアスの行動が彼の合理主義の帰結であったかという問いに対する筆者の態度が最後まで気迷い状態にあったことによる。独裁者の性格等について有益な助言を給わった岩井昭二氏、常に念頭に現われては厳しい近代主義批判をもって筆者を叱責した大久保泰甫氏に深く感謝の意を捧げたい。 (1967.1.11) |