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長尾龍一

『ポリテイア』のトラシュマコス

古代ギリシャにおける政治的シニシズムの一考察

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(1)アレクサンドリアのクレメンスはトラシュマコスの言葉として次の断片を伝えている。

《我等はアルケラオスに隷従すべきか、ヘレネスがパルバロイに。》(Diels-Kranz, 85 B 2.)

 アルケラオスは紀元前413年から399年まで在位したマケドニアの君主であり、簒奪者であって対話篇『ゴルギアス』においてポロスが、不正をなしながら幸福である者の例としてあげる人物である(470 d-471 e.)。このトラシュマコスの言葉はマケドニアへの隷従の危機に瀕していたテッサリアのラリサス市民に対し奮起をよびかけたものと考えられる。

 トラシュマコスの政治的立場を推測する手懸りとして最も重要な史料はディオニシウスの伝える演説である。

《アテナイ市民諸君、私はかの古き時代の人であればよかったと思う。当時は若者は公の場で演説をなすような必要もなく、長老たちが国事を正しく運営し、それ故若者たちは黙っていても構わなかったのである。だがダイモンは我々をかかる末の世に送り出した。我々は国事に関して他人の支配をうけねばならぬにもかかわらず、そのもたらす不幸は我身に受けなければならないのだ。しかもかかる不幸のうちの最悪のものは神々の御業でもなければ、偶然のなせる業でもなく、支配者のせいなのだといわざるを得ない。なぜなら自らをこれ以上他人の過誤のなすがままにさせ、しかも他者の罪のもたらす欺瞞や悪は我身に受けようとするのであれば、それは愚かなことであり、我慢強いにも程があるといわなければならない。否、もうこれで沢山だ。暗まさに平時より戦時に入り、現在に至るまで間断なく危険にさらされている。かくして我々は過去を念うをよろこびとし、来たるべきものを恐れている。また市民は協調(homonoia)をすてて敵対と抗争をこととし、他の人々は多くの善事を驕慢と内乱に変ぜしめた。そして我等は幸せの時代に有していた思慮を不幸の時代に失ない、正気を逸したのである。不幸においてこそ思慮を もつのが通常であるのに。然らば現在の情況を憂い、かゝる情況への匡救策を知ると自負する者が何故発言を躊躇しなければならないのか。そこでまず私が明らかにしたいのは、相争う弁論家やその他の人々が、思慮のない好争家の争いと同様の争いを展開しているということである。なぜなら彼等は互いに相反することをいいあっているように思いながら、実は同一のことをなしていること、敵の主張が自らの主張に含まれているということに気がつかないのであるから。然るに両者が目指しているものが何であるかを再考してみれば、第一に「父祖の国制」(patrios politeia)の概念に混乱があることがわかるであろう。しかしこれは極めて容易に知りうることであり、すべての市民の共有するところである。しかしもしそれが我々の知識の彼方のものであるならば、過去の言葉から学べばよい。また現存の老人が体験したところであるならばそれを見聞した者からきけばよいではないか……。》(Diels-Kranz, 85 B 1.)

 この演説は軍事的危機に直面しつつなお内訌に明け暮れるペロポネソス戦争末期のアテナイを背景としているもの と推測され、「悲愴で老苦や貧苦にひきずりこむような語調」をもち「群衆を興奮させ、また興奮した群衆を言葉を もって鎮静しえた」といわれる(Phaidros, 267 c.)雄弁家トラシュマコスの面目を窺わせる[35]。ここでトラシュマコスは現代の政治家への強い不信を表明し、過去の協和の時代を懐かしむとともに、若き世代の政事参与を促し、「父祖の国制」の概念の解釈統一によって内訌を収拾しようとしているのである。

(2)へラス世界におけるアテナイ対スパルタ、アテナイ市における民主派対寡頭派の熾烈なイデオロギー的闘争の 中でトラシュマコスはいかなる立場にたっていたか。このことを残存する史料のみから確実に断定することは不可能 である。しかし多くの人々はトラシュマコスを寡頭派のデマゴーグとして性格づけようとする。そしてこの演説は「寡頭制の綱領」(oligarchical manifesto)であり[36]、寡頭派のmot d'ordreに訴えようとしたものであるとされる[37]。その論拠とされるのは恐らく、(イ)「父祖の国制」という標語が寡頭派のものであること、(ロ)当時の世代対立が旧世代の民主主義に対する支配階級青年層の寡頭主義の対立という形をとっていたと推測されること、(ハ)トラシュマ コスとクリティアスとの思想的親近性などであろう。

 (イ)「父祖の国制」という標語は内外の行きづまりに直面したアテナイにおいて、ペリクレス時代以来もたらされた伝統の弛緩にその没落の源泉を求め、それ以前の状態に復帰することを主張する者によって唱えられたものである。この標語の担い手についてはある者は過激寡頭派及び穏健寡頭派であるとなし[38]、他の者は穏健保守派と民主派であるとなす[39]。しかしこの点に関しては恐らくモロウの次のような見解が正当であろうと考えられる。

《現存史料の示す限りにおいては、「父祖の国制」(patrios politeia)復元の主張はペロポネソス戦争の終末近くにはじめてあらわれ、たちまち民主派及び穏健保守派の標語となった。そして恐らくは過激寡頭派の標語ともなったようである。これらの諸党派はもとより各々独自の解釈をこの標語に加えた。……この父祖の国制の立法者は誰か。四世紀においてほそれは一般に「ソロン及びクレイステネスの国制」と考えられていたようである。……五世紀中ずっとクレイステネスは一般にアテナイ民主主義の創造者とみなされてきた。……ソロンの名は穏健保守派の党略によってはじめてもちこまれたものの如くである。……それに対し極端保守派、頑迷固陋派はソロンもクレイステネスも受入れず、ドラコンをもって父祖の国制の創造者とみなした[40]。》

 従って「父祖の国制」という用語から直ちにトラシュマコスの政治的立場を寡頭派に位置づけることは不当である。むしろその中で説かれている「協和」(homonoia)の理念はソロンの思想と結びつくものであろう。ヴォルフはいう。

《彼の演説のうち残存する僅かの冒頭の部分において、トラシュマコスはアテナイ市民の前に責任感ある政治家(politicos)として登場する。彼はソロンの伝統に従って政治の基本価値を連帯感・協和・思慮にありとなし、ポリスの救済を健全なる過去の生活形式のうちにみいだしたのである[41]。》

 更にこの演説に手懸りを求めるならば、その末尾の部分で「現在の老人がそれを体験したところであるならば」とのべているのは、トラシュマコスのいう「父祖の国制」が現存の老人が体験しうる程新しい時代のものであることを示唆するものであって、具体的にはクレイステネスの立法を意味するものであることを推測させる。

 (ロ)若き世代が寡頭制を求めたことを示すものとしてトゥキュディデスはシラクサの民主派の領袖アテナゴラスの演説を伝えている。

《ある者はいう、民主主義は賢明でもなければ衡平でもない、財力ある者こそ支配に最適なる者であると。それに対し私はいおう、第一にデモス即ち民衆という言葉は全ポリスを包摂するものであるのに対し、寡頭制はその一部を包摂するにすぎなない。第二に富者は財産の管理には最適であるにしても、最善の助言者は賢者であり、それを聴取し決する者として多数者に及ぶものはない。民主制においてはこれら一切の能力が、各々、また全体としても、その正当な位置を与えられる。それに対し寡頭制は多数者にその危険を頒ちつつ、利益は最大の部分を貪ってなお満足せず、そのすべてを着服するのである。そしてこれこそ汝等のうちの若き有力者の求めるところである。》(VI-39.)

 ほぼ同様なことがアテナイにおいても生じていたことは411年、及び405年の寡頭政権の中心人物の顔ぶれからも察せられるところであり、415年にシシリー遠征をめぐってなされたニキアスとアルキビアデスの論争は(ニキアスが決然たる民主主義者であったか否かは別としても)かかる世代対立を象徴するものである(VI-8〜18.)。従って長老達が政治を正しく処理し、若者は黙していてもよかった古き良き時代は去ったとして、青年の政治参与をよびかけるトラシュマコスの演説は、若き寡頭主義者による「刷新運動」の一翼を担うものであると推測する余地がない訳ではない。しかしもとより青年には特権階級の子弟のみならず、名もなき民衆の子弟もまた多数存在した筈であり、既成政治家への不信感の理由も無数に存したことであろうからかかる推測は可能なものではあっても必然ではない。

 (ハ)クリティアスとトラシュマコスの思想的親近性は否定できない。クリティアスもまた正義の実現に関する深いペシミズムから実定法秩序への不信感を導き出していた。

《ああ今の世代にはいかなる正義も生きていない。》(Diels-Kranz, 88 B 12.)
《……法律は弁論家が舌先三寸をもって上へ下へと曳きずりまわし、しばしば恥かしめさえするのだ。》(Diels-Kranz, 88 B 22.)

 このクリティアスは宗教を実定法秩序を維持するために賢明なる支配者の捏造した欺罔だと解する。

《狡猾にして賢明な男が人間のために神への恐怖を発明した。それは人間が隠れて何かをなし、語り、思考しても、なお不法行為者を威嚇するための手段である。彼はまたかかる考慮から神的なるものを導入した。曰く、
「……人間仲間で語りあっているすべてのことをきき、人々のなす一切の行為をみうるところのダイモンが存在する。お前が口に出さずに悪しきことを企てても、神々にまで隠しておくことはできない。神々の理性はずっと強力なものだから」と。
 彼はこうして虚偽をもって真実を覆うところの、最も魅惑的な教説を導入したのだ。》(Diels-Kranz, 88 B 25.)

 このクリティアスが祖国アテナイの敗戦に乗じ、亡命先より帰国してスパルタの傀儡政権を指導し、僅かの期間に過去十年間の戦死者以上の数の政敵の生命を奪ったのであって、このことがかかるペシミズム・シニシズムのもつ政治的危険性を示して余りあるものとされるのは当然であろう[42]

 政治的シニシズムが「真の正義」の実現へのペシミズムと「いわゆる正義」たる実定法秩序への否定的態度の結合したものであることは先にのべた。かかる思想の持ち主は「理想は理想、現実は現実」というシニシズムから、現実界において行動するにあたり一切の既成の規範を無視したマキャヴェリスト的行動に走る可能性をもつ。そして実定法秩序が崩壊に瀕しその「真の正義」の実現の可能性が生ずるようにみえる場合にもなお、現実との妥協を一切拒否し、目的のためには手段を選ばぬという革命家的行動様式という形で現実化することが多い。しかもクリティアスの場合にはこの「真の正義」がスパルタ的階級国家・軍事国家の理念であつた(Diels-Kranz, 88 B 6, 32~37.)。スパルタは階級国家維持のために手段を選ばず、戦争に功労あった奴隷は解放すると約して、名乗りをあげさせ、花の冠をいただいて行進させた上で、それに参加した二千名ばかりの者を危険分子としてすべて殺戮したといわれる(Thucydides, IV-80.)。かくてクリティアスにおいてはギリシャ的啓蒙の極限と、最も極端な伝統主義とがかかる仮借なさにおいて合流する。

(3)しかしトラシュマコスが親スパルタ主義者であったと断定すべき根拠はなく、むしろ政治的立場が民主派であったことを推測させるいくつかの傍証がある。第一に先に引用した断片がラリサス市民に対しマケドニアへの抵抗をよびかけているのであるが、ラリサスはペロボネソス戦争中アテナイの盟邦であった。レオンティノイの民主政権を代表してアテナイの援助を求める交渉にあたったゴルギアスは、寡頭派のクーデタのあとこのラリサスに永く滞在していたのであって[43]、トラシュマコスがここに赴いたのもゴルギアスとの関係であったことが推測される。それに対しマケドニアは概して反アテナイ的態度をとり、屡々干戈を交えさえしたのであって(Thucydides, IV-80.)、トラシュ マコスの断片は専制君主国マケドニアに対する民主国ラリサスの抵抗を促しているものと解される。ヴォルフもいう。

《恐らく彼はこの警告を通じて非ギリシャ人(彼はマケドニア人もそうだと考えた)に対する共同防衛をよぴかけたのであろう。これはまさしく。ヘルシャ戦争以来の政治的伝統に添うものである。更にはここにアテナイの民主的原理(少なくとも。ペリクレス以前の)への帰依さえ見ることができる。なぜならトラシュマコスはここで自由なギリシャ人がアジア的支配型態の君主のもとに立つことを奴隷になることと同一視しているからである[44]。》

 更にトラシュマコスがクリティアス型の専制支配の信奉者でないことは、『ポリテイア』において僭主制が最も痛 烈な皮肉をもって扱われていることからも推測しうる。それは「最も完全な不正」であり、「一切のものを一挙に」、 「狡智や暴力をもって」我がものとするのであり、「市民の財産のみならず市民自体をも支配し屈従せしめるもの」 であって、世人はそれを「幸せ者、祝福された者」だとよぶというのである。これはトラシュマコスの「真の正義」 から判断すれば最大の詐欺師、最大の強盗だということになるのであろう。

 トラシュマコスは人間の人間に対する支配を堪え難しとなす心情に発しつつも、一切の権力を否定し、あるいは既成のものとは全く異なった基礎にたつ権力を樹立しようとする革命か的行動様式をとらず、世論によって権力のもたらす弊害を矯正することによる次善の解決を試みたのである。そして相争う諸党派に対し「父祖の国制」という共通の場にもどるべきことをよびかけているのである。トラシュマコスの立場はあらゆる幻滅にも拘わらず、なお現実を直視し現実にとどまろうとする者の立場である。

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