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back.gif『ポリテイア』のトラシュマコス(2/3)


長尾龍一

『ポリテイア』のトラシュマコス

古代ギリシャにおける政治的シニシズムの一考察

(3/3)







(1)かかるトラシュマコス的ペシミズムを克服することこそプラトン哲学の中心的課題の一つであった。古き良き時代に青春を送ったソクラテスが正義の勝利というオプティミズムを幼な児のような純真さで信じていたのに対し、戦乱の渦中に育ったプラトンの世代にとっては、正義の勝利に対するペシミズムはいわば世代共通の病(やまい)だったのである[45]。かつてソクラテスはいった。

《神の定め給うた法を踏み踰える者は必ず罰をうけるのであって、人の定めた法律に背いた者が屡々これを隠すことにより、あるいは暴力に訴えることによって罰を遁れるのと異なり、神の法に背いた罰を遁れる方法は人間にはない[46]。》

 そしてこれがエスキュロスやソフォクレスを導いた信仰であり[47]、またペルシャに対するギリシャの勝利をペルシャの驕慢に対する神罰と解し、それ故正義の実現として讃えたヘロドトスの信念でもあった[48]

 しかるに一世代の長きに亘るペロポネソス戦争がいかに人心を荒廃させ、かかる信仰をいかに深刻に揺るがしたかは、トゥキュディデスの鮮烈に描き出すところである。紀元前430年にアテナイを襲った烈しい疫病のもたらした道徳的頽廃について彼はいう。

《人々は、以前には好むままになすことを慎しみ、人目を避けてなしたことどもを平然と行なうようになった。栄えし者の須臾にして没し、無一物の者がその遺産を承継するのをみたからである。彼等は命も富も束の間のものであるとなして、宵越しの銭をもたず快楽にうつつをぬかそうとした。嘗て讃えられた不撓の努力はもはや何人も顧みなくなった。それが目的を達するまで保たれるかどうかが確実でなかったからである。目先の快楽とそれに役立つ一切のものが尊ばれ有益なものとされた。神への畏れも人の法への怖れも彼等を抑制しえなかった。神々に関していえば、人々はそれを敬っても敬わなくても同じことだと判断した。皆が分け隔てなく死んでいくのを見たからである。また人の法に関していえは、その罪が裁きにかけられるまで生きのびるというあてもなかったのである。人々ほ、既に一層恐ろしい判決が万人に対し下されており、彼等の頭上に懸っているのを感じていたのであって、それが落ちかかって来るまでの間些かでも楽しみをもつ方が賢明だと感じていたのであった。》(II-53.)

 戦乱とそれに伴う都市の内紛が伝統的価値を根底から覆えしていく過程についてトゥキュディデスはいう。

《革命が都市にもたらした苦悩は多大な、そして恐るべきものであった。かかることは人間性が同一である限り、過去においても未来においても常に生ずるところのものである。もとより個々の事情に応じてその形状があるいは甚だしく、あるいは穏和となるであろうが。平和と繁栄の時期においては、突然有無をいわさぬ窮乏に迫られることがないから、国家も個人もよき心情をもつのであるが、戦時には.日々の必需品さえ容易にえられなくなる。誠に戦争は酷薄なる主人であって、殆んどの人間の性格をその事態と同化してしまう。かくして革命は都市から都市に伝わり、最後に伝わった都市は、以前になされたところを聞き知っているだけに、その企みの狡猾さとその復讐の残忍さにおいて一層度外れた方法を考え出すのである。言葉はその通常の意義を変じ、新たな意義を与えられる。向うみずの大胆さこそ忠実なる味方の勇気であり、思慮ある躊躇は体(てい)のよい臆病だということになる。中庸は男らしからぬことの偽装であるとみなされ、問題を色々な側面から検討する能力は万事への非行動の態度であるとされる。常規を逸した狼籍が男らしさとなり、周到なる計画は護身の口実なりとされた。極端な手段を主張する者が常に信用され、それに反対する者は疑惑をうけた。陰謀に成功する者は賢明であり、陰謀を予知する者は一層賢明である。しかるにそれらの禍根を除去しようとする者は分裂主義者であり、敵を怖れる者であるとされた。要するに犯罪の企図において先んじ、それを出し抜く者とか、犯罪と無縁なところで犯罪をなすことを思いつくことなどが推奨された。そして血のつながりは党派のつながりより弱いものとなってしまったのである。》(III-82.)

 正義の勝利への信仰は事実によってくりかえし反証される。都市のレヴェルにおいてもかのメロス島事件の如き悲惨な例があるが、個人のレヴェルにおいて同様に悲惨なのがアテナイの将軍ニキアスの生涯である。ニキアスはアルキビアデスの唱えるシシリー遠征を無謀の挙としてこれに極力反対するが(VI-9~23.)、多数決の結果に従って将軍としてシシリーに赴く(VI-25.)。しかるに戦況はアテナイに利あらず、敗色が濃厚となる。ニキアス自身も腎臓病に悩み(VII-15.)、一時は将軍職の辞任を申し出るがアテナイはこれを許さない(VII-16.)。かくて彼はアテナイ軍の壊滅に至るまで病身をおして指揮をとり続ける。彼は敗北に意気阻喪した軍勢に対し次のような言葉をもって激励する。

《私は今まで神への義務を充分はたし、また人に対しても正義をもって臨み、罪を犯したことはない。それ故私は未だ将来に強き望みを抱いているのだ。我等を襲った諸々の不運も私にはそれ程恐怖をひきおこさない。否、我等は今や不運が軽減することをこそ望みうるのではあるまいか。敵はもはや充分にその好運を得てしまっているのだから。我等の遠征が神々のうちの誰かの怒りを買ったとしても、もうその罰は充分にうけてしまったではないか。》(VII-77.)

 しかしアテナイ軍は完全に壊滅し、ニキアスは捕虜となる。彼は「我身は如何ともせよ、兵士の殺戮はこれを止むべし」とスパルタ人に説き(VII-85.)、自らは処刑される。トゥキュディデスは彼の運命を慨嘆して曰く。

《彼の全生涯は徳を窮行することのために厳しく律されていた。それ故現代のギリシャ人のうちで彼こそかかる運命に遭遇するに最もふさわしからざる人物であった。》(VII-86.)

(2)プラトンは428/7七年にアテナイの名門の家に生まれ[49]、幼にして父を失い[50]、戦乱と内訌の時代に成長した。彼が当時として最高の教育をうけたことは彼の該博な知識と深い学術への造詣より察せられるところである。彼は青年時代において、かかる家門の青年の常として政治に志し、彼の叔父クリティアスのひきいる405年の寡頭政権への参加の勧誘をうけたのであるが、最初「不正な生活を正しき在り方に導く」であろうと信じたこの政権の現実に幻滅を感じ、参加を断念する(Epistl. vii, 324 b〜325 a.)。三十人専制の崩壊とともに再び政治参与への意志が頭をもた げはじめるが(325 a.)、399年に「当時随一の正義の人」(324 e.)、「当時において叡知と正義に最もすぐれた人物」(Phaidon, 118 a.)ソクラテスが死刑に処されるのを見て一層はげしい失意に沈む。

《始めは私も公事に携わる情熱にみちていたのであるが、かかる状態、かかる混乱の一切を眼にしてめまいさえ感じた。私はもとよりかかる事態や全国家生活を改革する方策について思いをめぐらせ続けたのであるが、実践に足を踏み入れることは好機の至るまで待つことにした。》(325 e〜326 a.)

 名門の家に生まれ、稀有の才能に恵まれ、また最高の教育をうけ、人一倍の権力意志をも具有していたプラトンはかかる幻滅と挫折によって一応現実に背を向けたのである。心理学的にみて当然のことであるが、プラトンはかかる挫折の補償(compensation)として現実の価値を強く否定し、現実を支配する価値基準と全く異なった価値基準を樹立し、自らをその価値体系の頂点におくことによってその心理的優越性を保持しようとしたのである。彼は「すべての国で悪政が行なわれている」(Epistl. vii, 326 a.)。「現存の国制のうち哲学的本性に適するものは一つもない」(Politeia, 497 b.)、「この国には政治家としてすぐれた者も一人も居なかった」(Gorg. 517 a.)といい、更に自らの心境をのべて曰く。

《……野獣の仲間に陥込みながら、一緒になって不正行為をなすことも欲せず、また(国家や味方に尽さぬうちに益なく我身や他人の身を滅ばすことになるであろうから)単身でかかる野蛮な者どもに抗(あらが)う訳にもいかず、これら一切のことを胸裡に秘めて閑居し、……他者が不正にみちているのに対し少なくとも自分は不正や不敬虔なる所為を離れてかかる生活を送ることに悦びをもつ。そしてこの生活(=人生)を離れるにあたっても希望をもち心安らかに安心して去るのである。》(Politeia, 496 d〜e.)

 しかしプラトンがかかる閑居に甘んじた訳ではもとよりない。彼はかかる悪しき現実に対立する価値体系としてのイデア論に基く理想国家を描き、自らをその哲人支配者に擬し、終生かかる理想国家の実現を待ち望んでいたのである。しかもプラトンの現実否定の烈しさに対応して、彼のもたらそうと欲した改革もまた苛烈にして仮借なきもので あった[51]

《遂に私は現代の一切の国家が悪しく治められており、僥倖をえて破天荒な手段をとらなければ、法制は治癒不能な状態にあると確信するに至った。かくて私は真の哲学を讃えつつ次のようにいわなければならなかった。
 「政治的正義も個人的正義もすべて哲学の見地から見下ろさなけれはならない。真の正しき哲学者が国家の支配の座につくか、国家の支配者達が何らかの神的摂理によって真の哲学に従事するようになるまでは、人類は諸悪より脱却することはできないであろう」と。》(Epistl. vii, 326 a〜b.)

 この「理想国」における支配者と被支配者との関係は医師と患者、危難時における船長と乗客[52]、更には牧夫と家畜[53]に喩えられる。これによって支配者が被支配者の意志を一切無視することが正当化されるのである。

《臣民が好むか好まないかというようなことは何の相違ももたらさない。彼等の支配は法によってもよいしよらなくてもよい。……ちょうど医師の場合と同様である。医師が我々を切り、焼きその他痛い目にあわせることにつき、我々が好もうと好むまいと医師の評価にかかわりはない。また予めきまった療法によろうとよるまいと医師は医師である[54]。》(Politeia, 293 a〜b.)

 プラトンはまたその支配者を「国家を神的原型(theion paradigma)に則って描く画家」に喩え、その画家は人間の心をまず純白にして根本から人間をつくり直そうとするのだという(Politeia, 500 e〜501 a.)。この改革[55]がいかに仮借なきものであるかは、国家による虚偽の独占(Politeia, 389 b.)、詩や歌謡の統制(392 b et seq.)[56]、婦人の共有、「品種改良」のためのsynkoinêsisの国家統制[57]、そのために用いる虚偽の籤(Politeia, 459 d et seq.)、国家による秘密嬰児殺(461 c.)、更には人民の理性を麻痺させるためのアルコール使用(Nomoi, 666 a.)等をプラトンが提案しているところからも察知しうる。やや滑稽ではあるが笑う訳にいかないのは次の下りである。

《彼等はまたgelôs愛好者であってはならない。なぜならひとが強度のgelôsにかられると、大抵の場合同じ位強度の変化を求めるものであるから。》(Politeia, 388 e.)

 この「理想国」を危うくするところのgelôsなるものは何か。日本語に訳せば「笑い」である。かくてホメロスの以下の一節は「理想国」の検閲官によって削除を命ぜられる。

《かくて生ず無量の笑声、
 至福なる神々のうち、
 ヘバイストスの息はずみつつ、
 屋の内をありくを見れば[58]。》(Politeia, 389 a.)

(3)不正が利益であり正義が不利益であること、あるいは正義よりも正義らしく*見える*ことの方が有利であり、陰徳を積むことなどは愚者のなすところであること、また不正をなして罰されないのが一番得な生き方であること、このような主張に対して正義が真の幸福をもたらすこと、正義が窮極においては勝利することを示すことがプラトン哲学のライトモティーフの一つであった。プラトンはこの主題をくりかえし扱ったが、中でも代表的なものが『ゴルギアス』篇と『ポリテイア』篇である。プラトンはこれらの中でポロス、カリクレス、トラシュマコス、グラウコンなどに徹底したシニシズムの言葉を語らせた上で、劇中のソクラテスを通じてそれを反駁しようとするのである。そして『ゴルギアス』においても『ポリテイア』においてもその反駁は「此岸的論証」と「彼岸的論証」の二段構えになっている。

 そもそも現実を悪として糾弾するプラトン哲学が此岸的世界における正義の勝利を説こうとするところに固有の困難が伏在する。プラトンがその「此岸的論証」においていかに悪しき者が不節制によって自滅すること、また悪しき者の集団が内部分裂によって自壊することを説いても、現実を支配しているのはかかる「悪しき者」なのであって、古き良き制度を壊し、ソクラテスを殺した人々が現実の勝利者なのである[59]。プラトン自身も現実を支配するものは 「向悪の法則」であり、放置すれば良貨駆逐の傾向が生じていくことを指摘している。『ポリテイア』の第八・九巻は理想国が最悪の政体にまで没落していく過程を画いているが、その発端において曰く。

《このように組織された国家を動揺させることは困難である。しかし成者必滅の理(ことわり)どおり、このように組織された国家も永久にそのままであり続けることはできない。いずれは滅びることになる。》(Politeia, 546 a.)

 従ってプラトンの「此岸的論証」はプラトン哲学の構造自体からしても決して完結的ではありえない[60]。それ故ソクラテスの死の弁神論の試みである『ファイドン』が霊魂の不滅と来世における応報を主題としているのは当然である[61]。『ゴルギアス』[62]も『ポリティア』[63]も「此岸的論証」を先行させつつも来世における応報の物語によって完結している[64]

 このピュタゴラス的霊魂信仰がプラトンのシシリー旅行によってプラトン哲学にもたらされたものであるとするならば[65]、「此岸的論証」と「彼岸的論証」はプラトン哲学の発展段階の相違に対応するものとも解しうる。そしてこのような解釈は『ポリテイア』第一巻が初期の独立の対話篇であるとなす学説と結びつきうるものである。ヴィラモヴィッツ等は第一巻の内容的完結性と、他の部分との異質性を理由として第一巻を(おそらくは『トラシュマコス』と題するところの)初期の独立の対話篇であり、それは未刊のまま約二〇年放置された後に第二巻以下を書き加えて現在の『ポリティア』として刊行されたとなすのである[66]。放置された理由としては、トラシュマコスの主張を説得的に反駁することを困難と認めたからだと憶測することもできよう[67]。かかる憶測の正当性については専門家の判断をまたなければならないが、少くとも指摘さるぺきは、第一巻においては「味方には益、敵には害」という正義観が、味方であれ敵であれ、これを害することは正義に背くという、いわば山上の垂訓的なモラルによって否定されている(335 d〜e.)のに対し、続く第二巻においては「理想国」の軍人には「犬」の如き性格が求められ、「同胞には柔和、敵には苛酷たるべし」と説かれていることである(375 c.)。前者が普遍人類的な「開いたモラル」であるのに対し、後者は団体エゴイズムに立つ「閉じたモラル」であることは明瞭であり、変り身早い日本知識層なら兎も角、プラトンにおいてかかる変化が一朝一夕に生じたとは、筆者には信じ難い。

 それではプラトンはかかる「彼岸的論証」によって真に安心立命を得ていたのであろうか。恐らく否であろう。来世信仰は現世における願望の成就を断念した諦観の思想であるが[68]、彼はなお「理想国」を此岸に実現せんとする強力な意志に燃えていたのであって、「ふさわしき国制」(tychôn politeia)が彼を迎えることに望みを託していたのである(Poriteia, 497 a.)。(恐らくは彼の同性愛の対象でもあった)シラクサのディオン[69]を通じて彼の理想の実現の機会を得ようとしていたことは『第七書簡』によっても窺われるところであり[70]、またアカデメイアには各国の政治家志望の子弟を集め、直接間接に諸国の立法や政治に影響力を有するに至っていたことが推測される。屡々諸都市から立法の依嘱をうけ、プラトンが立法や助言のためにその弟子を派遣したことも一再ではない[71]。そしてプラトン自身はアカデメイアという小社会において青年集団を支配する神秘的支配者たろうと努めていたのである。プラトンがアカデメイアにおいて青年の絶対服従を獲得するための正当化にいかに腐心していたかは、『ノモイ』において「未熟な青年」の「老人の叡智」に対する服従義務を、脈略を無視してまで、事ある毎にくりかえしていることによっても察知される。

 しからばプラトンは「向悪の法則」の支配する此岸において、「理想国」が実現する可能性をどこに求めていたのか。先に引用した『第七書簡』の一節を再び想い起こしてみよう。

《遂に私は現代の一切の国家が悪しく治められており、僥倖をえて(meta tychôn)、破天荒な手段をとらなければ、法制は治癒不能な状態にあると確信するに至った。》(326 a.)

 「僥倖をえて」あるいは「偶然によって」はじめて実現しうるものだというのである。これがプラトンの晩年の思想であったということを一層よく示すのは『ノモイ』の次の一節である。

《……立法をなすのは人間ではない。あらゆる態様の偶然(tychê)と運命(symphorâ)こそ我等に法を与えるのだ。あるいは戦争が、あるいは極度の窮迫が国制を破壊し、法制を改革した。また屡々疫病が我等を襲い、また永年に亘って凶作が続いて 改革を余儀なくさせた。……死すべき者は決して立法をなさない。殆ど一切の人事は偶然である。……神が、否神とともに偶然(tychê)や時の運(kairos)が人事の一切を操っているのだ。》(709 a〜b.)

 ついにプラトンは現実に失望し、現実を呪い、カタストローフを待望したのである。更に『第十一書簡』においてもプラトンは「大戦争等の事件のあとに」卓越した人物が登場し、権力を承握して、良き秩序を創造するという(359 b.)。この書簡への註釈においてアペルトはいう。

《かくて巨大なカタストローフのみが汝等を救済しうる。かかるカタストローフこそ根本的な治療の前提をなすものである。ひとはここで、プラトンがその『ポリテイア』や『ノモイ』において繰り返し提示した、最善なるものを志向する強力なる僭主の登場の可能性を想起するであろう。この僭主は善なるものを貫徹せしめるために、まず既成の秩序、あるいは無秩序を除去するのであった。プラトンにとってはこれこそ彼の国家理想の実現の唯一の希望の光だったのである[72]。》

(4)プラトンはもとよりこのような奇蹟の到来を確信していた訳ではない。それこそ万に一つの希望であり、プラトン哲学全体は深いペシミズムをその基調としている。従って「正義の勝利」への信仰をトラシュマコス的懐疑から守りぬくことの困難は依然として合理的思惟をもってしては越え難き障碍をなしている。そしていくばくかの権力を手にした老いたる神秘主義者プラトンはもはや合理的思惟をもって討論の場にたつかつてのプラトンではなかった。かくて老プラトンはいう。

《予がもし立法者であるならば、詩人及び全人民にこのように(即ち「正しき者は幸福であり、不正なる者は不幸である」ということ――筆者)唱えることを強制するであろう。また悪しくしてなお幸福なる者があるとか、有利有益であることと正義に適うということとは別物であるとかと抜かす輩が国内に居たならば厳罰に処するであろう。》(Nomoi, 662 b〜c.)

 なぜなら、

《快と正、善と美を異ならないものとなす説は、他の点はともかくとして、少なくともひとに敬虔にして正しき生活を営ましめ るという点で説得力をもっている。それ故立法者にとってはそれがそうでないなどと唱える説ほど憎むぺき、敵対的な説はないのだ。》(663 a〜b.)

 従ってこの説を信じさせるためにこれを歌につくって、全国民を合唱団に組織してくりかえし唱わせなければならない(664 a.)。そして老人は分別がつきすぎて唱うことを躊躇する怖れがあるから、自制心を麻痺させるために、国家は(他の場合には禁止されている)アルコールを用いる(666 a.)。こうしてプラトンは正義の勝利に対する一切の懐疑を(そしてプラトン自身に終生対決を迫った彼の内心の懐疑をも)圧殺してしまったのである。来世信仰とカタストローフ の待望、そしてかかる仮借なき「理性の供犠」(sacrificium intellectus)、これがプラトンのトラシュマコスへの回答であった。それ故この「理性の供犠」の制度化である異端迫害をプラトンが唱えた(Nomoi, 907 d et seq.)としても不思議はない。これに対し現代のカソリック思想家の一人はいう。

《プラトンは彼の師もまた異端裁判の犠牲となったのだということを全く忘れてしまったかのようにみえる。プラトンの神権政治は神の子たることへの決断を自由に、責任感をもってなした者よりなる神の国ではない。それはその基礎を、現世的厳罰をもって臨む国家法への服従においている。このことは更にプラトンが超現世的応報を固く信ずるものではなかったということを示唆するのである[73]。》



あとがき

 本稿は筆者が1963年に東京大学法学部に「助手論文」の補助論文として提出した『ヘラクレイトスとトラシュマコス』(未刊)の後半部を書き改めたものである。前半部を書き改めたものは『ヘラクレイトス哲学における闘争と摂理』の題目のもとに、本誌前号に掲載した。旧稿『ヘラクレイトスとトラシュマコス』は、第二次大戦後における「自然法再生」の主張の基礎をなす 「法実証主義」論、及び「力と法」の関係に関する見解の批判的検討を意図したものであって、ヘラクレイトスやトラシュマコスは一の思考類型として選ばれたものに過ぎず、ギリシャ思想史の研究自体を目的とするものではなかった。即ち実定法への呪縛を説き、「力は法なり」と唱える「強者の権利」の思想と結びつくものとされるところの「法実証主義」の基礎をなすものは (自然法論者達がそれに帰するところの)「実証主義」の哲学ではなく、闘争の帰結に神意や「世界精神」の顕現をみるところの神学・形而上学であることを示そうとする試みであった。そしてその立場自体は書き改めた二論文においても全く変っていない。これを書き改めた理由はギリシャ思想に*即した*興味がその後の筆者を幾分なりとも導いたからである。

 なお本稿において「シニシズム」という言葉は「アンティステネス一派の哲学」を意味する哲学史的概念としてではなく、全く現代的・通俗的な用語(contempt for finer feelings of others)として用いられている。かかるシニシズムは必ずしもニヒリズムを意味するものではなく、多くの場合現実と異なった価値観に基く支配的価値観への批判の表現であり、その実践的帰結も価値観の多様性に応じて多様である。このことに対する殆んど普遍的な誤解に対し、シニシズムの政治思想としての意義の再認識を求めようとするのが本稿の意図である。

 筆者はもとより正統的な古典学の見地よりすれば一介のパルバロイにすぎず、語学力・文献・蓄積等の一切においてエレメンタリーなものさえ欠いている。従って筆者の「資格」の見地から本稿を批判されるならば一言もなく引退る他ない。しかし少くとも本稿もメンツェル・ケルゼン・フェアドロス・ヴォルフ等正統的古典学者に知られていない法思想家達のギリシャ思想史論 を紹介するという最低限の意義は持ちうるであろう。

 本稿の成立にあたって最も感謝しなければならないのはプラトンの全対話篇・書簡の翻訳を世に贈られた岡田正三先生である。筆者如き門外漢をプラトンに惹きつけ、プラトン哲学の全貌に接することを可能ならしめたのはこの御労作によるところが極めて大きい。本稿の引用文が先生のものによっていないのはひとえに対話という日常的用語法と論文という勿体ぶった用語法との間の不調和を考慮した文体上の理由によるにすぎない。なお文献等に関し色々御教示を給わった真方忠道氏にも併せて感謝の意を捧げたい。

(1966・1・8)

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