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群小ソフィストの正義論



Kallikles抄集



*底本はバーネット校本(J. Burnet, Platonis Opera vol.vi, Oxford Classical Texts)、および、H.Diels-W.Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, Dublin/Zurich,1966。
*〔〕は訳者の補足。


A.人物について


1.Gorg.495D
 さあ、それでは、これらのことを記憶しておくことにしよう。つまり、アカルナイ区民カリクレスは、快と善とは同じものであるが、知識と勇気とは、相互とも、また、善とも別物である、と主張したということを。


2.Gorg.487B
 なぜなら、あなたが充分に教育を受けてきたということは、アテナイ人たちの多くが認めるところであるし、また、あなたはわたしに対して好意的でもある。何を証拠としてか? わたしがあなたに言おう。わたしは知っているのです、おお、カリクレス、あなたがたが4人で、知恵の共同体をつくったということを。あなたと、アピドナイ区民テイサンドロスと、アンドロティオンの子アンドロンと、コラルゴス区民ナウシキュデスとで。そして、いつだったか、あなたがたが、どれくらいまで知恵を修練すべきかについて相談しているのをわたしは耳にし、そして、あなたがたの間で次のような思いが勝ちをしめたのをわたしは知っているのです。あまりに厳密に愛知に熱中すぎないようにしよう、むしろ、知らず知らずのうちに必要以上に賢くなって、駄目になってしまわないように用心しようと、あなたがたはお互いに慫慂しあったのです。


3.Gorg.515A
 しかし、今は、おお、世にも最も善き人よ、あなた自身は最近になって、国事に従事し始めたところであり、また、わたしを慫慂して、わたしがそれをしないからと言って罵るのだから、わたしたちはお互いに考察すべきではありませんか、――「さあ、カリクレスは今までに市民たちの中の誰をより善き人となしたのか? 以前は邪悪、つまり、不正・放縦・無思慮であったが、カリクレスのおかげで善美な人になったような者が誰かいるのか、外国人であれ、町衆であれ、あるいは、奴隷であれ、自由人であれ」と。


4.〔補説1〕カリクレスの実在性について
 カリクレスについては、その実在性を否定する学者のほか、以下の人物の仮名とする説もある〔()内は提唱者〕。 1)アリスティッポス(Schleiermacher)
2)クリティアス(Cron, Menzel)
3)〔「三十人」僭主の一人〕カリクレス(Bergk, Th.Gomperz, Deummler, Maier)
4)アルキビアデス(Apelt)
5)イソクラテス(Sudhaus)
6)ポリュクラテス(Humbert) 7)テラメネス(Draheim)
が、おおむね、実在実名説が有力なようである。




B.主張


1.Gorg.483A-484A
 すなわち、自然(physis)の上では、より醜いのは、〔醜いばかりか〕より悪くもあるものみながそうであって、それはすなわち不正されることなのだが、法習(nomos)の上では、不正することがそうなのだ。なぜなら、そんな受難――不正されるなどということは、男の甘受することでは決してなく、生きているよりは死んでいる方がまさっている奴隷のようなやつの甘受することである。不正され顔に泥を塗られながら、自分で自分を助けられないのはもちろん、まして自分が親身にしている他者など助けようもないようなやつのね。

 むしろ、思うに、諸々の法習を制定するのは弱い人間、つまり、多衆である。だから、自分たちのため、自分たちにとっての有利さのために諸々の法習を制定して、賞讃をし、咎めを加える。人間たちの中の、より強くより有力な者たちが、より多く取ること(pleon echein)を〔多衆は〕脅迫して、自分たちよりも彼らの方がより多く取ることのないようにさせ、より多く取ること(=強欲 pleonektein)は醜く不正である、そしてこれこそが――つまり他人よりもより多く取ることを求めることこそが不正することだと彼らは言うのである。要は、思うに、彼らは自分たちがつまらぬ連中であるため、平等を得れば歓んでいるのである。

 こういう次第で、法習の上では、多衆よりもより多くを取ること――このことが不正で醜いことだと言われるのであり、また、それが不正することだと彼らは呼ぶのである。ところが、思うに、自然そのものが立証しているのは、次のことである。すなわち、より善い者がより劣悪な者よりも、また、より有力な者がより無力な者よりもより多く取るのが正だということを。そして、それがそのとおりであるということを〔自然は〕いたるところで明らかにしている――他の生き物の間においても、また、人間たちのあらゆる国家や種族間においても、そういうふうに、強者が劣者を支配し、より多く取るのが正と決定されているのを〔明らかにしている〕。はたして、いかなる正義をかかげて、クセルクセスはヘラスに出兵したのか? あるいは、彼の父親はスキュティアに? あるいは、他に無数のこれに類したことを人は言うことができよう。むしろ、思うに、この人たちがなしているのは、自然――つまり正義の自然にしたがってである。しかり、神に誓って、法習――自然の法習だが――にさえしたがっているのであるが、おそらくは、われわれが制定するところのそれにしたがっているのではない。われわれがなしていることといえば、われわれ自身の中の最善最強の人たちを、若いころから受け取って、あたかもライオンに対するように、呪いをかけ、魔法にかけて隷従させているのである――平等を取らねばならない、それこそが美であり正であると言って。だが、思うに、十全な自然を持った人士が現れたなら、それらすべてを振り払い、噛み破り、すり抜けて、われわれの法規や奇術や呪いや法習や――自然に反するその一切を踏みしだき、謀反を起こして、奴隷がわれわれの主人として立ち現れ、じつにここにおいて、自然の正義が輝き出ることになろう。


2.Gorg.491E-492C
 はたして、相手が何ものであれ、これに隷従している人間が、どうして幸福でありえようか。いや、自然にしたがっての美や正とは、これをわたしは今あなたに率直に言おうとしているのだが、適切に生きようとする人のなすべきは、諸々の欲望――自分自身の欲望をできるかぎり大いままなように、抑制しないように放置し、それがいかほど大きかろうとこれに勇気と思慮を尽くして奉仕し、その欲望が何に対して起ころうとそのつど充足させるに充分な者たることである。しかし、こんなことは、思うに、多衆にできることではない。そこで、〔多衆は〕恥ずかしさから、そういった人たちを咎め立てし、自分たちの無能を包み隠して、放縦は醜いと主張するのである。先の箇所でわたしの言ったところであるが、自然の上で最善の人間を隷従させ、自分たちは諸々の快楽に充足を提供できないものだから、おのれの怯懦ゆえに慎みや正義を賞讃するのである。はたして、初めから王の息子に生まれついているとか、あるいは、自分自身が自然の上で、僭主とか権門とか、何らかの権職を手に入れるに充分な者として生まれついているような、そういう人間にとって、真実のところ、慎みや正義よりもより醜く悪しきことが何かあるであろうか――善きことどもを享受することができ、これを邪魔だてする何ものもないのに、多衆の法習や言説や咎めだてを自分の主人として自分から迎え入れるようでは。むしろ、正義や慎みの美によってみじめになっているということがないはずがあろうか。敵たちによりも、自分の友たちに何もより多く分かち与えられない、それも、自国内において支配しながらそうだとしたら。むしろ、真実には、おお、ソクラテス、これをあなたは追求していると主張しているのだが、次のとおりである。つまり、贅沢や放縦や自由は、もしも後ろ盾を持つならば、これこそが徳であり幸福であるが、それ以外のものは綺麗事であり、自然に反する人間どもの契約であり、戯言であり、無価値なのである。


3.〔補説2〕
 「法は弱者=大衆が自己防衛のために結んだ取り決め〔契約 syntheke〕にすぎない」とする考え方は、当時の流行思潮でもあった。

◇Lycophron (Arist. Pol. III 9. 8 1280b)

 ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということは明らかである。………もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。(山本光雄訳)


◇Critias, fr. 25


◇Platon, Rep. II 358E-359A〔ソクラテスに対するグラウコンの発言〕

 さて、ひとびとはこう言っているのです。――本来、不正することは善、不正されることは悪であり、しかも、不正されることの悪さたるや、不正することの善さよりも、はるかに遠くかけ離れている。したがって、お互いに不正したり不正されたりして両方を味わうとき、一方を避け他方をつかむことのできないひとびとにとっては、不正し不正されないようお互いに契約することが得であると思われる。実にここからして、法律を定め、お互いの契約を結び始める。そして法律による命令を合法的で正しいことと呼ぶ。実にこれが正義の生成と実体なのであって、それは最善であること(不正しても罰せられない場合)と、最悪であること(不正されても復讐することができない場合)との中間にある。で、正はこれら両者の中間にあるから、善としてではなく、不正する力の無さゆえに尊重されるものとして歓愛される。なぜなら、それをなすことのできるひと、すなわち、真の男は決して誰とも、不正し不正されないことを契約しないであろうから。〔かれがもしそんなことをすれば〕狂っているのであろうから――と。まことに正義の自然本性とは、おおソクラテス、これであり、このようなものなのです、そして正義の生じ来たった起源もこのようなものなのです、この言葉によれば。(金松賢諒訳)


◇立場は異なるが、発想を同じくするのとしては、Antiphon, fr. 44 (Oxyrh. Pap. xi n.1364 Hunt編)

 そこで、証人たちのいるときは、法習を尊重し、証人たちのいないときには、自然の〔規範〕を〔尊重する〕なら、人間は正義を自分に最もよく裨益するように用いることができよう。なぜなら、法習の〔規範〕は付随的なものであるが、自然の〔規範〕は必然的なものである。そして、法習の〔規範〕は同意されたものであって生まれついたものではないが、自然の〔規範〕は生まれついたものであって、同意されたものではない。したがって、規範の方は踏み外しても、もしも同意した人たちに気づかれなければ、恥からも罰からもまぬがれている。が、気づかれたら、そうはいかない。これに反し、自然といっしょに生まれたものたち〔=自然の規範〕の場合は、限度以上に暴行を加えられるなら、たとい万人に気づかれなくても、その悪さは何ら減ずることなく、たとい万人が目撃しようとも、〔その悪さは〕何ら増加することもない。なぜなら、害されるのは思い(doxa)によってではなく、真実(aletheia)によってなのだからである。
 いずれにせよ、何ゆえに、こういったことが考察の対象になるのかといえば、法習における諸々の正義の多くが自然とは敵対関係にあるからにほかならない。なぜなら、立法されている事柄はといえば、眼に対しては、それが見るべきことは何で、見るべからざることは何かということ。また、耳に対しては、それが聞くべきは何で、聞くべからざることは何かということ。また、舌に対しては、それが言うべきことは何で、言うべからざることは何かということ。また、手に対しては、それが為すべきことは何で、為すべからざることは何かということ。また、足に対しては、それが向かうべきはどこで、向かうべからざるところはどこかということ。また、心に対しては、それが欲すべき対象は何で、欲すべからざる対象は何かということ。とにかく、法習が人間たちに何を諌止し、何を勧奨するかといえば、それは自然にとってより親愛なものではなく、まして親(みずか)らのものでは決してないのである。
 ところが、逆に、生きることは自然に属し、死ぬこともそうであって、しかも、生きることは彼ら人間たちにとって裨益するものの中から与えられ、死ぬことは裨益しないものの中から与えられる。しかるに、裨益するものとは、法習によって定められているのは、自然に対する束縛であるが、自然によって〔定められているの〕は自由である。それゆえ、少なくとも正当な道理によれば、苦しみをもたらすものが喜びをもたらすものよりも自然のためになることはない。それゆえ、また、苦痛をもたらすものが快楽をもたらすものよりも裨益するということもない。なぜなら、真に裨益するものは、害するのではなく、益しなければならないからである。


◇同じような立場から、Anonymus Iamblici 6

(1) なぜなら、もしも、人間たちが単独で生きることが不可能なものとして生まれついており、その必然性に従って相互に寄り集まったのであり、そういう彼らによって生活方法のすべてとそのための技術とが発見されたのであり、彼らはお互いに共存しているのであって、無法状態では暮らすことができない(なぜなら、そういうことになれば、単独者のあの暮らしよりもより大きな罰が彼らに加えられようから)とするならば、これら諸々の必然性によって、法習と正義とが彼らを王制支配しているのであって、これを遷し変えることはいかようにもできないであろう。なぜなら、これらは強力なものとして自然(physis)につなぎとめられているからである。

(2) ところで、もしも、初めから次のような自然をもった者が生まれたとするなら、――つまり、肉体が不死身で、無病・無疵・巨大にして、身体も魂も金剛不壊であるような、このような者にとっては、より多く取る〔強欲〕ための力(kratos)さえあれば充分だ(なぜなら、こういう者は、法習に屈服しなくても無罰でいることが可能なのだから)と信ずる人がおそらくいるであろう、が、その人の考えは正しくない。

(3) なぜなら、そういう〔超〕人が――じっさいには生まれ得ないであろうが――、存在するとしても、諸々の法習や正義の同盟者となって、それらを強化し、それらや、それらを補佐する物事のためにその強さ(ischys)を用いるならば、そういうふうにすればそういう人は無事でいられるが、他の仕方ではただではすまないからである。

(4) なぜなら、人間たちはみな、みずからの遵法精神(eunomia)ゆえに、そういう自然に対しては敵対者の立場に立ち、大衆は、術知によってであれ権力(dynamis)によってであれ、そういった男を凌駕し、圧倒するであろうと思われるからである。


◇Platon, Leg. x 889E-890A

  アテナイからの客人 まず神々は、おお、浄福な人よ、この連中の主張によれば、術知によって――つまり、自然によってではなく、何か法習のようなものによって存在するのであり、しかも神々は、それぞれの人間が自分たちで同意しあって立法したものだから、所によって別々である。かくてまた美しいことも、自然においてと法習においてとではそれぞれ異なっているし、正しいことにいたっては、自然においてはまったく存在せず、〔正しさついては人々が〕お互いに論争しつづけており、そのつどそれ〔正しいことの内容〕を変更しているのであるが、しかし何を、何時、変更しようとも、それ〔変更されたこと〕がそれぞれその時の支配的〔正しさ〕である、――〔正しさは〕術知や法習によって生ずるのであって、何らかの自然によって生ずるのではないから、というのである。

 こういったことがすべて、おお、親愛なみなさん、若者たちの間で「知者」とされている人たちのもので、彼らは散文作家や詩人たちなのであるが、何でもひとが力ずくで勝ちとるもの、それこそが最高の正義であると主張しているのである。ここからして、神々は、かく考えるべしと法習が課しているような、そういう存在ではないように思って、涜神的所業が若い人たちにとりつき、そのおかげで党争も起こっているのであるが、それは〔あの連中が若者たちを〕自然にしたがっての正当な生活の方へと誘惑するからなのである。その生活とは、他の人たちを支配して真に生きることであって、法習にしたがって他者に隷従して生きることではないというのであるが。
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