デーモーナクスの生涯
[解説] この小品が含む単語が示しているのは、『ディオニューソス』『ヘーラクレース』『琥珀、あるいは、白鳥』と同じく、講演ないし講演集の序文だということである。(A. M. Harmon) 訳出にあたっては、近藤司郎氏の訳を下敷きにさせていただいた。多謝。 "t".1 [1] ところで、アレクサンドロスがキュドノス河で水浴することを欲したのは、その河が美しく、透明、深さも安全、流速もゆるやかにして、泳ぐに快適、夏の季節に冷たいのを見たからで、その結果、それのせいで罹った病気を予見したとしても、彼が水浴をさしひかえたとは、わたしには思われない。他方、ひとが邸宅を見て、大きさは最大、美しさは最美、光に輝きわたり、黄金にきらめきわたり、諸々の絵画に咲きほこりきわまっているのを〔目に〕して、その場で言葉〔文章〕を発表し、たまたまそれ〔言葉〕にかかわって暇つぶししてきたのなら、好評を博し、自慢し、叫び声で満たし、その場にいるかぎりは、自分自身もその美の一部になりたいと欲するのではなく、入念に見まわして、驚嘆するだけで、立ち去る者がいるであろうか。口の利けない言葉なき者として自分を後に残して。まるで、はっきり発音できぬ者とか、妬みから沈黙を決心した者のように、話しかけることもつきあうこともせずに。[2] ヘーラクレース〔とんでもない!〕。それは一種の愛美家や、最も器量のよいものらを恋する人の所業でないのはもちろん、はなはだ野卑で、美に疎く、なおそのうえに非音楽的〔所業〕ですらあるのは、最も快適なものらを自分には価値なきものとみなし、最美なものらを遠ざけ、素人と教育を受けた者たちとでは、観賞物に関して同じ仕来りがあるのではないということを理解しないことである。いや、前者にとっては、この普通のこと 見て、眺めまわして、両眼を周囲に巡らせ、天井に仰向き、手振りで〔称讃〕し、静かに喜ぶのは、眺められたものの何か価値あることを云うことができないのではないかという恐れからである。が、教育を受けた者なら、美しいものらを目にすれば誰でも、思うに、目だけで愉悦を収穫することを歓愛せず、美の声なき観賞者となることも我慢せず、可能なかぎりその場で暇つぶしもし、観賞に言葉で応えようと試みることであろう。[3] しかし、返報は邸宅の称讃にのみとどまるのではない たしかに、それはあの島人の少年にはふさわしかった。メネラーオスの館に驚倒し、それの象牙や黄金を、天上の美しきものらに譬えたのは(Od.4.71)、地上でほかに美しいものを見たことのなかった〔少年にはふさわしかった〕 ここで云うこと、より善き人たちを集めて、言葉の演示(ejpivdeixiV)を遂行すること、これもまた称讃の一部であろう。 無上に愉快なこととは、思うに、邸宅のなかの最美の〔邸宅〕が、言葉の接待のために開け放たれ、称讃と祝言とに満たされ、それ〔邸宅〕そのものも、あたかも洞穴のように、反響し、言われたことに付き随い、声の語尾を引き延ばしながら,最後の言葉に逡巡する。むしろ、善学の聞き手のように、述べられた事柄をよく憶え、話し手を称讃しつつ、それ〔述べられた事柄〕に応じた無粋ならざる財産の交換ajntivdosiVを申し入れて。何か、羊飼いたちの吹奏に合わせて、楽音が反響によって跳ね返ってきて、それ〔楽音〕自身の方に返ってきくるとき、見張り台〔の岩〕が笛の伴奏をすることになるように。ただし、素人たちは、歌う者たちとか叫ぶ者たちに返報する処女のようなものが、どこか断崖の真ん中あたりに住んでいて、岩の中からしゃべっているのだと考えるのであるが。 [4] とにかく、わたしに思われるのは、話者の想念が邸宅の豪華さに触発されもし、言葉〔雄弁〕へと目覚めさせられもする。あたかも、観賞が何かをそそのかしたように。およそ、美なるものは、眼を通して魂に流れ込み、みずからを飾らんがために言葉を送り出すのであるから。それとも、われわれはアキッレウスを信じる 〔彼は〕武具を見ることで、プリュギア人たちに対する怒りを増幅し、試みにこれを着用するや、ぴったり合い、戦いの欲求へと翼の生えたごとくである(Il.19,16;384)ことを〔信じる〕のに、言葉の真剣さの方は、その場の美しさに比して増幅しなかったと〔信じるのか〕。実際のところ、ソークラテースにとっては、よく育ったプラタナス、生い茂った草生え、イリッソス川にほど近い澄んだ泉で充分であった。そこに坐って、ミュッリヌウス区のパイドロスをからかい、ケパロスの子リュシアスの言葉を吟味し、ムーサたちに呼びかけた。そして、彼女たちがひとけのない場所にやって来て、恋に関する言葉〔議論〕に参加するだろうと信じていたし、老いた人間として、少年愛の歌を合唱するために処女たちを呼び寄せることを恥ともしなかった(Plato,Phaedrus,229 seq)。しかし、それほど美しい場所へなら、彼女らは呼ばれなくてもやって来るとわれわれは思うのではないか。 [5] まして、接待(uJpodochv)は、単なる木陰の比でないのはもちろん、プラタナスの美しさの比でもない。たとえ、あなたが、イリッソス川のほとりのそれ〔プラタナス〕を放置して、王の黄金のそれ〔プラタナス〕(Herod.7.27)を言っているとしてもである。というのは、それの驚くべき点は、ただ高価さにあるだけで、術知とか、美しさとか、愉悦とか、均斉とか、釣り合いのよさとかが協働しておらず、黄金に融合されてもおらず、この観賞物は、非ギリシア的で、単なる財貨にすぎず、見る者たちの嫉視と、所持する者たちの幸福視の的にすぎない。称讃はどこにも付け加わらない。というのは、アルサケス朝の人たちには、美しいものらには関心もなく、愉悦のために演示をすることもせず、観賞者たちがびっくりすること以外には、称讃するかどうかは気にもならなかったのである。なぜなら、愛美家ではなく、愛銭家であることが、非ギリシア人なのだから。[6] これに反し、この邸宅の美しさは、一種非ギリシア人的な目の及ぶとろこでないのはもちろん、ペルシア人の法螺とか王の自慢の及ぶとろこでもなく、必要とするのは、単に貧乏人どころではなく、良稟の観賞者である。何びとであれ判定が視覚にあるのではなく、人も思量も眺められるものらに付き随う人が〔必要である〕。 例えば、1日の最美な方角に向いていること 初めこそ、最美にして最も焦がれるものなのだから つまり、太陽が現れ出るや、すぐに〔陽の光を〕迎え入れ、開け放たれた扉〔を通して〕あふれるまでに光に満ちること[神殿もこの方角に向かうのを昔の人々は造ったものだ]、長さと幅、両者と高さの比は釣り合いがとれ、窓の開放性は、どの季節にも都合がよいこと、これらすべてがどうして、快適で、称賛に価しないことがあろうか。 [7] さらにまた、天井の器量のよさに過剰ならぬことや、秩序よさに尽きないことや、黄金の適切な対称性にひとは驚嘆するであろう。ただし、必要以上に嫌味を惹き起こすことなく、まさしく慎み深くて美しい婦人にとって、その美しさをより際立ったものとして制作するに充分なだけの限度内で 頸まわりのとても華奢な首飾りとか、指まわりの着けやすい指輪とか、両耳の耳飾りとか一種の衣留めとか、乱れ髪を束ねる鉢巻きとかが、紫〔の縁飾り〕が衣裳に〔付け加わる〕だけ、器量のよさに付け加わっているだけである。ところが、遊女たちは、とりわけ不器量な遊女たちはといえば、衣裳全体を紫に、頸を黄金のようにしてしまう。惹きつける力を高価さに追い求め、美の欠如をば、外的な愉悦の付加によって慰めるためである。というのも、彼女たちは思いなすのである 自分たちの腕は、金とともに輝き出るとき、よりきらきら輝くように見え、足のみばえのよくないところは、黄金のサンダルで気づかれまいし、顔自体も、光り輝くものといっしょに見られたら、より愛らしくなるだろうと。いや、そういうふうなのが、彼女たちなのである。ところが、慎み深い女性は、黄金は、充分で必要なだけを用いるのみで、自分の美しさは、思うに、裸で示すときでも、恥じることをしないだろう。 [8] そういうわけで、この邸宅の天井 というよりは、むしろ頭 も、それ自体でも美顔ではあるが、黄金に飾られている程度たるや、天もまた、夜、星辰に〔飾られている〕ほどまでに、空間に光りわたり、あたりに火の花を咲かせている。だが、全体が火だったとしたら、美しいどころか、わたしたちには恐怖に思われることであろうが。で、ひとは眼にするであろう ここでは金が働きをしていないということもなく、愉悦させるために自余の飾りといっしょにばらまかれているのみならず、一種快い輝きを放ち、邸宅全体を紅色に染めている。というのは、光が黄金に衝突し、つかまえ、混ざりあっては、共同で閃光を放ち、紅色の二倍のきらめきを出現させるからである。 [9] まさしく、高所つまり邸宅の絶頂は、以上のごとくで、一種の称讃者としてホメーロスを必要とする。これを、ヘレネーの奥間のように天井を高い張った(Il.3.423; Od.4.121)とか、オリュムポス山のように光り輝く(Il.1.532; 13.243; Od.20.103)と云うためには。さらに、その他の装飾、壁面の絵画、諸々の美しい色彩、それぞれの鮮明さ、精確さ、真実性は、春の光景と花咲き乱れる牧草地に譬えるのが美しいであろう。ただし、後者の方は、花凋み、衰弱し、変化し、その美しさを失うのに対し、前者は、永遠の春、衰微することなき牧草地、不死の花である。視覚のみで触れ、視られるものらから快を摘み取るのみであるからには。 [10] いったい、これほどのものら、このようなものらを眺めて、快としない者がいるであろうか。あるいは、視られたものらを置き去りにするのは恥ずべきことと知っていながら、そこにおいて力を超えて言うべく熱心に願うことをしない者があろうか。というのは、美しいものらを視ることが一種最高に魅力的なのは、ひとり人間にとってのみならず、馬も、やわらかい下り坂の平野を、思うに、嬉々として走るであろう。それは〔平野が〕足運びをやさしく受けとめ、足におとなしく屈し、蹄に衝撃を与えないからである。とにかく、このとき、全力疾走して、自分をすっかりスピード委ね、平野の美しさとも競走するのである。[11] さらにクジャクも、春になると、とある野原にやってきて、花々もより愛らしく咲き出るばかりでなく、ひとが云いならわすとおり、より花盛りに、染まり具合もより清浄に〔咲き出る〕とき、その時こそこれ〔クジャク〕も羽根を押し拡げ、日に掲げ、尾をもたげて、自分をすっぽりとくるんで、自分の花と羽根の春とを演示するのである。まるで、草原が自分を競い合いに挑発しているかのように。とにかく、身をよじり、歩きまわって、美しさを自慢する。まさしくこの時、もっと驚嘆すべきことが見られるのは、〔日の〕輝きのもと、彼〔クジャク〕の色が移り行き、徐々に変化し、別種の器量のよさへと成り終わるときである。しかし、これをもうむるのはとくに、羽根の先端に有する輪 その各々を取り囲む一種の虹の輪の上である。つまり、クジャクはそもそも銅色であるが、それが、少し〔身を〕傾けると黄金に見え、また、太陽の下で鮮やかな青であったのが、日陰になると、鮮やかな緑になる。このように、光につれて羽根が様変わりするのである。[12] もちろん、海も、凪の際には、挑発し欲求へと引き離すに充分に見えることは、あなたがたの知ってのとおりであり、わたしも云いますまい。このとき、大陸人や船旅に無経験な者がいかほどいようとも、どこであろうと、自分も乗船して、周航し、陸地からはるか遠ざかることを望むであろう。とりわけ、そよ風が亜麻布〔帆〕を軽くふくらませ、舟が、穏やかで滑らかに、波の峰をゆっくり滑りゆくのを眼にする場合には。 [13] さればこそ、この邸宅の美しさもまた、言葉〔雄弁〕へとそそのかすにも、語り手を呼び覚ますにも、あらゆる仕方で好評を博す気にさせるにも充分なのである。わたしはといえば、それらを信じ、すでに頼りとして、言葉〔雄弁〕のために、この邸宅にやってきた。あたかも、イユンクスとかセイレーンのせいで、美に引き寄せられたかのように。それは、小さからぬ希望を持っているからである。これまでのわたしたちの言葉が、たとえ不器量だったとしても、美しい衣裳で飾られたように、みずから美しいものに見えるだろうという〔希望を〕。 [14] しかるに、別種の、生まれ卑しからぬ、本人の謂うには、きわめて高貴な言葉(lovgoV)というものがあって、わたしが言っている最中に、話の腰を折って、中断させようとし、わたしが話を止めると、これらのことにおいてわたしが真実を言っていないと謂うのである。絵画や黄金で飾られた邸宅の美が、言葉の演示のためにより重要であるとわたしが謂うのに驚いている。なぜなら、それはきっと正反対の結果になろう、と。よろしければ、むしろ、言葉(lovgoV)本人が登場して、あなたがた裁判員諸君の前でのように、本人自身のために云ってもらおう。どうして邸宅の高価さと器量のよさが話し手にとってより利すると考えるのかを。わたしが言うことは、あなたがたはすでに聞き終わったので、同じことを二度云う必要は何もない。彼をして、もはや登場して言わしめよ。そうすれば、わたしは沈黙して、少しの間、彼と交替しよう。 [15] それでは、裁判員諸君、と言葉(lovgoV)は謂う、先に云った弁論家は、多くの大きなことでこの邸宅を称讃し、自身の言葉で飾ったが、わたしの方は、これの欠点を詳述することからはほど遠く、むしろ、あの人によって省略された諸点を付け加えるのがわたしによいと思われる。さもなければ、われわれにとってより美しく見えれば見えるほど、話者の要請とは逆のものとして示されるだろうから。 そこで、先ず第一に、あの人が女性たちや飾りや黄金に言及したのであるから、わたしにも、例を用いることを容赦していただきたい。すなわち、わたしは謂う 美しい女性たちにとっても、より器量のよいものの方へと援助するようにではなく、反対のことさえするのが、数多の飾りである。出会った人々のめいめいが、黄金や高価な宝石のせいで呆然となり、肌とか、まなざしとか、頸とか、腕とか、指とかではなく、相手がこれらは放置して、紅玉髄とか、スマラグドス石とか、首飾りとか、腕輪とかを凝視している場合に、その結果、飾りのせいで無視されたと憤慨するのは当然であろう。観賞者たちは、彼女を称讃することに暇なく、本人を観賞することを片手間にしているのだから。[16] これこそ、思うに、このように美しい諸作品のなかで言葉〔雄弁〕を披露する者がこうむるのが必然のことである。なぜなら、美しいものらの重大さの中で、言われたことは気づかれず、おぼろになり、奪い去られて、あたかも、ひとが灯火を大きな火のなかに投げ込む場合、あるいは、象やラクダの上にいる蟻を示す場合のように。そこで、これに対して語り手は防御しなければならないとともに、なおそのうえに、このように声の通りがよくて鳴り響く邸宅でもの言う場合は、声そのものも乱されないようにしなければならない。というのは、〔声そのものが〕反響し、応答し、反対し、むしろ、叫び声を覆いかくすからである。ちょうど、喇叭が、笛の伴奏をする場合に、笛に対してするように、あるいは、海が甲板長に対して、波の響きに抗して、漕ぎ手のために音頭を取る〔甲板長に〕、するように。というのは、大音声は、小さなものを圧倒し、黙りこませるからである。 [17] さらに、論争相手が謂った次のこと、つまり、美しい邸宅は語り手を目覚めさせ、もっとやる気にさせるというのも、反対のことをするようにわたしには思われる。すなわち、呆然とさせ、恐怖させ、思考を混乱させ、器量のよい場所で、不似合いな言葉〔雄弁〕に見られるのは、何よりも醜いことだと思案している者をより臆病な者に仕立てあげるからである。というのは、これこそが、吟味の中の最も明白なものだからで、それはちょうど、ひとが美しい完全武装をまといながら、次にはその他の人々から逃亡するようなもので、武具のおかげ臆病者であることがいっそう目立つからである。このことは、ホメーロスのあの弁論家〔オデュッセウス〕も思案したからこそ、器量のよさの最低を知慮し、むしろ、完全に知恵の足りない人間にさえ似せた(Il.3.219)のは、不器量さとの比較検査によって、言葉〔雄弁〕の美は自分にとってより意想外なものに見えるためであったようにわたしには思われる。まして、まったく必然なのは、話し手本人の精神(divanoia)ともなれば、観ることに忙しく、知慮(frontivV)の精確さを妨害する。視覚が打ち勝ち、自分の方へと呼び寄せ、言葉に留意することを許さないからである。その結果、自分が完全に劣ったことを述べないようにするいかなる工夫があろうか。視られているものらの称讃に魂が暇つぶししているときに。 [18] わたしはこう言うことをさしひかえよう つまり、居合わせる人たち自身も、聴講に招かれた人たちでさえ、このような邸宅に到着するや、聴衆ではなく観賞者に成りはて、話し手がデーモドコスとか、ペーミオスとか、タミュリスとか、アムピオーンとか、オルペウスのようなひとであっても、彼ら〔聴衆〕の精神を観賞から引き離すまでにはいたらない。それどころか、めいめいが敷居をまたいだだけで、たちまち、群がる美に殺到されて、あの言葉〔雄弁〕とか他の傾聴の端緒さえ、耳には入らぬ人に似ているが(Il.23.430)、視られているものらには、全身が向かっているのである。たまたま盲目であるとか、あるいは、夜間に、アレイオパゴスの評議会のように、聴聞するというのでないかぎりは。[19] なぜなら、言葉〔弁論〕の力は、視覚と抗争するに足るちからをもっていないということは、セイレーンたちの神話がゴルゴーンたちのそれと比較されても教えるであろう。というのは、前者は、歌い媚びをうり、そばを航行する者たちを歌で魅了し、舟で下ろうとする者たちを長らく引き留めた。要するに、彼女たちの仕事は、一種の暇つぶしを要求したが、きっと、彼女たちのそばを航行し過ぎた者も、歌を聞き流した者もいよう。これに反し、ゴルゴーンたちの美しさは、強力このうえないとともに、魂の中枢と交わるものであるので、視る者たちの正気を即座に失わせ、声なき者にした。神話が意図し、言われているところでは、彼らは驚きのせいで石と化したという。そういうわけで、少し前に、あなたがたに向かって、クジャクにかこつけて彼が云った言葉も、当のわたしのために述べられたのだとわたしはみなします。というのは、あのひとの愉悦(to; terpnovn)も、視覚の中にあって、音声の中にはないのだから。人あって、夜鶯とか白鳥を〔諸君の〕前に立たせて、歌うよう命じたとしても、歌っている最中に、沈黙したクジャクを並べて示すなら、わたしはよく知っている 魂は、前者の歌には永の別れを告げて、後者の方へ移るだろうということを。このように、どうやら、一種無敵なのが、視覚を通しての快楽であるらしい。[20] そこで、わたしとしては、あなたがたが望むなら、あなたがたの前に知恵ある人を証人として立てよう。この人物は、聞かれるものらよりも視られるものらの方がはるかに有力であるということを、わたしのためにたちどころに証言してくれるであろう。そこで、わたしのために、君、触れ役君、彼、ハリカルナッソス出身リュクソスの子ヘーロドトスを召喚してくれたまえ。彼が親切にも〔美しく為して〕聞き入れてくれたので、進み出て、証言せしめよ。彼は、あなたがたに向かってイオニア訛で言うであろうが、彼にとって習いであるので、容赦していただきたい。 言葉(lovgoV)が諸兄になしたる話は真なるべし、裁判員諸君、故に聞くことよりも視ることを重んじ、すべからく彼の言辞を信じるべし。耳は眼ほどには信ずるに足らざればなり。(最後の1節のみ Herod.I.8.3) 証人の謂うことを聞きたまえるや? 一等賞を視覚に授けた、と。尤もなことである。なぜなら、言辞には羽根があり、口から出ると同時に飛び去るが、視られるものらの愉悦は、いつもそばにいて、とどまり、観賞者を必ず歓迎するのだから。 [21] されば、このように美しく、衆目の的たる邸宅が、どうして、話し手にとって難儀な競争相手でないことがあろうか。いや、むしろ、最大のことをわたしはまだ謂っていない。というのは、あなたがた裁判員諸君自身が、わたしたちが言っている最中にも、天井を眺め、壁に驚嘆し、絵画の方によそ見をして、それらを精査していたのだ。何ら恥じるに及ばない。一種人間的な情態になるのは、とりわけこのように美しく、多彩な素材を前にした場合には、宥恕があるのだから。というのは、術知の精確さ、好古趣味をともなう探究の有益さは真に誘惑的であり、かつ、教育の完成された観賞者を必要とするのである。そして、諸君がわれわれを置き去りにして、もっぱらそちらの方によそ見をすることのないよう、いざ、できるかぎり、それをあなたがたのために言葉で描くことにしよう。というのは、思うに、諸君が視もして驚嘆するものらを、聞けば喜ばれようから。そして、おそらくは、そのことによってもわたしを称讃し、論争相手よりも名誉を優先なさることであろう。彼と同様に演示し、諸君の快楽を二倍にしたといって。しかし、この敢行の困難さは、諸君の視るとおりである。色彩も形態も場所もなしに、あれほどの似像を組み立てるのは。なぜなら、言葉〔弁論〕の絵画は、裸なのだから。 [22] それでは、〔あなたが〕入って右に、アルゴリスの神話にエチオピアの物語が混ぜあわされている。ペルセウスが怪獣を殺し、アンドロメダーをひき降ろす。そして少し後で結婚することになるのだが、彼女を連れて立ち去る。これは、ゴルゴーン退治への飛翔の片手間仕事である。短かい時間のなかに多くの出来事をこの術知者は模倣した。処女の羞恥、恐怖 というのは、彼女は岩の上から戦いを眺めている 、若者の恋情的敢行、野獣の抗いがたいみてくれ。片や、棘を逆立て、大口で威嚇しながら襲いかかり、片や、ペルセウスは、左手にはゴルゴーンを掲げ、右手には剣をもって撃ちかかっている。そして、怪獣の、メドゥーサを見た部分はすでに石になっているが、まだ生命のある部分は、三日月刀で切りつけられている。 [23] この似像に続いて、別の最も義しい功業が描かれているが、これの元型を、画家はエウリピデースとかソポクレースから採ったようにわたしには思われる。というのは、あの人たちは、等しい似像を描いたからである。若者の同志、ポーキスのピュラデースとオレステース(すでに死んだと思われている)の二人が、ひそかに王宮にやってきて、二人してアイギストスを殺害しようとしている。他方、クリュタイムネーストラーはすでに亡き者にされて、一種の寝床の上に半裸で横たえられ、召し使いたちがみな、この仕業に周章狼狽し、ある者たちはあたかもわめき立て、ある者たちの何人かは、逃げ道を捜しまわっている。この画家はすばらしい工夫を思いついた。つまり、企ての不敬さは暗示するのみで、すでに起こってしまったこととして省略し、姦夫殺害に手間取っている若者を制作しているのである。 [24] その次には、器量のよい神とうるわしい若者、これは一種の恋の戯れである。ブランコスは石に腰をかけ、野ウサギを高く掲げて犬をからかい、犬の方は、どうやら、彼の方に高く跳び上がろうとしているらしく、アポロンがそばに立って、たわむれている少年と、跳躍を試みる犬と、両方を愉しみながら、微笑んでいる。 [25] これらのほかに、ペルセウスがもう一度。怪獣の前の敢行、メドゥーサは首〔頭〕を切り取られ、アテーナーがペルセウスを庇護している。彼は、敢行の方は仕遂げたが、仕事はみていない。ただし、楯に写ったゴルゴーンの似像は別である。じかに見たときの罰を知っているからだ。 [26] 壁の中ほどには、反対側の上部にアテーナーの祠がつくられており、白い〔大理〕石の神像は、戦士の恰好ではなく、戦争の女神が平和な時に現れるような姿をしている。 [27] それから、他のアテーナー。これは石製ではなくて、またしても絵画。ヘーパイストスが恋い焦がれて彼女を追いかけ、彼女は逃げる。この追っかけからエリクトニオスが生まれる。 [28] これに続くのは、またべつの古そうな絵。盲目のオリオンがケーダリオーンを運んでおり、後者は彼の〔肩に〕乗って、光に向かう道を指し示している。[29] するとヘーリオスが現れて、盲目を癒やし、ヘーパイストスがレームノス島からその仕業を眺めている。 [30] その次は、オデュッセウスがいかにも狂っている。アトレウスの後裔〔アガメムノーンとメネラーオス〕といっしょに遠征することを拒もうとしてである。そばにいるのは、すでに命令を伝えおわった使者たち。演技のすべてが説得的である 荷車、軛に繋がれたものら〔驢馬と牛〕の不調和、振る舞いの愚かさ。にもかかわらず、幼児のせいで反駁される。すなわち、ナウプリオスの子パラメーデースは、事情を見抜いて、テーレマコスを取り上げると、抜き身の剣を手に、殺すぞと脅し、狂気の演技に対してこの人物も怒りの演技を仕返したのである。オデュッセウスの方は、その恐怖を前に正気に返る、つまり、父親となって、演技を解くのである。
[31] さいごには、メーデイアが描かれている。嫉妬に身を焦がす彼女は、二人の子どもたちを邪見に眺め、何か恐ろしいことをたくらんでいる。実際、すでに剣を手にしており、他方、あわれな〔子ども〕たちは坐って笑っている。何が起こるか何も知らず、しかも、両手の中の剣を目にしながら。 [32] こうしたものらがみな、おお、裁判員諸君、いかに聞き手を惹きつけ、観賞へとよそ見をさせ、話し手の方は置き去りにするかを、諸君は目にしているのではないか。しかし、わたしがこれを詳述してきたのは、論争相手を大胆不敵なやつだと諸君が受けとめて、かくも難しいことに、自分の身を挺して、故意に突撃するとはと、断罪し、憎み、言葉〔弁論〕にたずさわるままに捨て置くためではなく、むしろもっと彼と共闘し、できるかぎり目を閉じて、言われていることに傾聴するためなのである。事情の困難さを思量しながら。そういうふうにしてこそ、諸君を、裁判員としてではなく、共闘者として用いることで、やっとのことで、この邸宅の高価さにまったく値しない者とみなされなくてもすむからである。論争相手のためにこんなことを要請しても、驚かないでいただきたい。というのは、この邸宅を愛するが故に、この中で言う人をも、それが誰であれ、好評を博することをわたしは望むからである。 //END |