title.gifBarbaroi!
back.gif


ルゥキアーノスとその作品

サートゥルナーリア

Ta; pro;V Krovnon
(Saturnalia)





[解説]
 クロノスと、クロノスの神官を装ったルゥキアーノスとの対話が、サートゥルナーリア祭(クロノス当人の祭典)主宰の立法へと導く。クロノスとルゥキアーノス、クロノスと富者との文通が、実際的問題の幾つかを片づける。(K. Kilburn)


クロノスに寄せる祭典

クロノスとの対話

神官
 [1] おお、クロノスよ、御身は、どうやら、今まさに支配者であるらしく、供犠は御身のためになされ、われわれからの生贄が吉兆を呈するからには、生贄を根拠に希求すれば、わたしは御身からいったい何を得られるのでしょうか。

クロノス
 それは、そなた自身が、そなたにとって何が祈願されるべきかを考察するのが美しい。もしも、支配者が同時に占い師でもあることをそなたが望まず、何を希求するのがそなたにとって快いことかを知りたいと望むのでないなら。わしとしては、可能なかぎりは、その祈りを拒むことはない。

神官
 もちろんわたしはとっくに考え済みです。というのは、わたしが恋い焦がれるのは、ごく普通の、手近にあるものら — 富や、たくさんの黄金や、地所の主人になることやたくさんの奴隷人足を所有することや、華やかで柔らかい衣裳や、銀子や、象牙や、その他、高価なものをみな〔所有すること〕なのですから。こういったものらの中から、おお、最善のクロノスよ、わたしに与えてください。わたし自身も御身の支配を享受し、わたし自身がひとり全生涯を通じて分け前に与らない者などにならないですむよう。

クロノス
 [2] やれやれ。そなたが願っておるものは、わしの管轄にないのじゃよ。そういったものらを分配するのはわしのすることではないからのう。じゃから、それらを得損なっても、腹を立ててはならぬ、むしろ、ゼウスに希求するがよい。少しして、やつに支配がめぐったときにな。わしとしては、決まりに従って権力を引き継ごうぞ。〔わしの〕全統治期間は7日間で、その任期が切れたら、わしはただちに私人となり、きっと多くの民衆のひとりとなろう。しかしこの7日間には、真面目なことは何も、公的なことさえも経営しないことがわしによって同意されたが、飲むこと、酩酊すること、叫ぶこと、遊ぶこと、賭け事をすること、〔お祭りの〕主宰者たちを任命すること、従僕たちに御馳走すること、裸で歌うこと、かすかに震えながら拍手すること、時には、顔を煤だらけにして、冷たい水の中に頭から突っこみさえすること、こういったことをすることがわしに許されておる。しかし、富とか黄金とか、そういった大きなことは、ゼウスが自分の好きな相手に分け与えるのじゃ。

神官
 [3] いや、あの方も、おお、クロノスよ、〔分け与え方が〕気易く即座にってわけではありません。とにかくわたしはこれまで大声で希求してきましたが、あの方は全然耳をかすことなく、神楯をゆすり、雷霆を揮い、鋭く睨みながら、面倒な者たちを仰天させるのです。かつて首肯するとか富裕にしたものがいたら、そこには見る眼のなさが多分にあって、時として、善人で聡明な者たちを放置して、彼は、極悪で無知な者たちに富を注ぎこむのです。彼らの大部分は、笞刑の必要なやつとか男女であるのに。ところがあなたにできることといったら、それが何かわたしは知りたいのです。

クロノス
 [4] 全支配の力(duvnamiV)と比べて評価しても、総じて小さいことでないのはもちろん、まったく取るに足りぬことでもない — 骰子遊びをする者が勝利すること、他の者たちには1の目を出す骰子が、そなたには、いつも6の目が上に現れるということが、少なくともそなたに、小さいことと思われるならば話は別だが。とにかく、こういうことのおかげで多衆が飽きるほど大盤振る舞いに与れるのは、好意的で多産な骰子が彼らに頷くからなのだ。逆に、ある者たちは、骰子というかくも小さな暗礁をめぐって、船が砕け散り、裸で泳ぎもどる。さらにはまた、最高の美酒を飲み、酒宴の席で他の者よりも音楽的に歌うと評判され、給仕する者たちのうち、他の者たちは水の中に突き落とされるが — それが不器用な給仕の罰だから — 、そなたは優勝者として布令られ、褒賞として腸詰めを獲得する — 善きことがこれほどであるのををそなたは目にするか。なおそのうえに、距骨〔=賽子〕遊びの優勝者はみな人の上に立つただひとりの王となり、その結果、そなたは滑稽な言いつけを言いつけられることもなく、そなた自身が、ある者には自分について何か恥ずかしいことを叫ぶよう、ある者には裸になって踊り、笛吹き女をつかまえて、屋敷のまわりを三度回るよう、言いつけることができる — これもわしの大度量の証拠でないことがどうしてあろう。しかし、さような王制など本当のものでないのはもちろん、継続するものでないとそなたが批判するなら、少しの間支配権を持って、これらを分け与えるわし自身を見て、馬鹿にすることになろう。そういう次第で、これら、骰子を振ること、支配すること、歌うこと、わしが数えあげた事どもうち、何でもわしにできることを勇んで要求するがよい。わしは、わけもなく神楯や稲妻でそなたを恐れさせるようなことはせんから。

神官
 [5] いや、おお、ティーターンたちの中で最善の方よ、わたしが必要としているのはそういうことではなく、わたしが最も知りたいと渇望していること、これをわたしに答えてくださることなのです。そして、それをわたしに云ってくださったら、それは供犠に対する充分なお返しをなさったことになり、以後、わたしはあなたの負債を免除します。

クロノス
 まぁ、問うがよい。答えてくれようから、ひょっとしてわしが知っているようなら。

神官
 先ず第一にあのことを。御身についてわれわれが耳にすることは本当かどうか。つまり、レアーによって生まれた子らを食らいつくしたが、あの女はゼウスをくすね、石を嬰児にすりかえて、呑みくだすよう御身に与え、彼〔ゼウス〕の方は成人すると、戦争に勝って御身を支配から追放し、次いでタルタロスに連行し、御身と、御身の側に味方したかぎりの共闘者に足枷をつけて投げこんだ、というのですが。

クロノス
 こいつめ、祝祭の期間でないなら、また、酔っぱらって、主人に言いたい放題悪罵することが許されているのでないなら、怒ることがもちろんわしに許されているということをそなたは知っただろうよ。こんなことを訊ねて、かくも灰色髪の年長の神を畏れぬとはな。

神官
 わたしだってこのことは、おお、クロノスよ、自分から謂うことはなく、〔謂っているのは〕ヘーシオドスやホメーロスですよ。他の人間どももほとんどみな御身についてこのことを信じていると言うのは憚られますが。

クロノス
 [6] いったい、あの羊飼い、あの法螺吹きが、わしについて何か健全なことを知っているとそなたは思うのか。では、こういうふうに考察せよ。誰にせよ、人間にして(神とはいわぬ)みずから自発的にわが子をむさぼり食うことに耐えられる者がいようか。不敬な兄弟(アトレウス)に出くわしたがために喰う羽目になったテュエステースのような人は別にしてだが。そしてこれが狂気だとすれば、嬰児の代わりに石を食べていると気づかないことがどうしてあろうか。歯に痛みを感じないことがないかぎり。いや、われらは戦争したのでもなく、ゼウスが暴力で支配を掌握したのでもない。わしが自発的に彼に譲り、〔支配を〕断念したのだから。いったい、足枷をかけられたのでもなく、タルタロスにいるのでもないことは、そなた自身も目にしていると思う、ホメーロスのような盲でないかぎりは。

神官
 [7] それではどんな受難に遭ったのですか、おお、クロノスよ、支配を放棄なさったとは。

クロノス
 わしがそなたに謂ってやろう。要するに、すでに年老い、時の経過のせいで痛風になった。それゆえわしが足枷につけられたと多衆は想像したのじゃ。というのは、現世の者らのかくも数多の不正を持ちこたえることができず、雷霆を構えて、偽証者どもとか、神殿荒らしどもとか、暴漢どもとかを焼き払うため、上へ下へと駆けまわらねばならなんだ。これこそは、まったく骨の折れる、若者向けの仕事じゃな。そこで、これ幸いとゼウスにまかせたわけじゃ。なかんずく、わしに美しく思われたのは、支配を子どもら〔ゼウス、ポセイドーン、ハーデース〕に分け与えて、自分はたいてい静かに饗応されることじゃ。祈る者らに託宣することもなく、反対のことを懇願するものらに悩まされることもなく、雷鳴をとどろかせたり吉兆を示したり、時には霰を降らせるよう強制されることもなく。それどころか、わしはこの老人の一種最高に快い生を過ごしておる。生(き)の酒を飲み、イーアペトスやその他の若者たちと語らいながら。だが、あれ〔ゼウス〕の方は、無量の事件をかかえながら支配するのじゃ。ただし、わしが云ったこのわずかな日々の間は、除外するのがよいとわしに思われ、支配を取りもどすのは、わが治世の生活ががいかなるものか、人間どもが思い出すために。あの時代は、播かず耕さずともあらゆるものが自分たちのために生い出でるのが常であった、麦の穂ではなく、焼かれたパンと調理された肉が……、そして酒は河のごとく、蜂蜜と乳の泉も流れておった。これこそ、わしのこの権力統治の短さの理由であり、だからこそまた、至るところに拍手喝采と歌曲と遊戯と、万人に同権があるゆえんじゃ。奴隷たちにも自由人たちにもな。なにしろ、わが治世に奴隷はひとりもおらなんだのじゃから。

神官
 [8] わたしとしては、おお、クロノスよ、奴隷や足枷くずれ〔ろくでなしの奴隷〕たちに対する人間愛こそ、あの神話から推して、同じ目に遭った連中を御身に重んじさせるのだと推測しました。ご自身奴隷となり、足枷を記憶なさっているのですから。

クロノス
 いったい、そんなおしゃべりをやめないつもりか。

神官
 その言やよし。やめますとも。ただし、次のことをわたしにもっと答えてくださったらね。将棋は、御身の世の人間どもの習わしだったのですか。

クロノス
 もちろんじゃ。ただし、そなたらのように、何タラントも何万〔ドラクマ〕も賭けるのではなく、最大でドングリを賭けたのは、負けても嘆くことはなく、他の者たちの中でひとり食事にありつけなくて涙を流すこともないようにするためじゃ。

神官
 あの人たちの何としあわせなことよ。自分たち自身が金無垢であるのに、いったい何のために将棋なんかしたのですか。わたしとしては、御身が言われている間にも、思いを致していたのですが、それは次のようなことです。もし誰かが、あの金延べの人たちの中のひとりを、わたしたちのこの生に連れて来て多衆に示したら、その惨めな人は連中にどんな目に遭わされたか。わかりきったことですが、寄ってたかって彼らは彼を引き裂くでしょう、あたかも、ペンテウスをマイナスたちが、あるいは、トラキア女たちがオルペウスを、あるいは、アクタイオーンを犬たちが〔襲って〕、より大きな部分を運び去ることを、めいめいがお互いに争うように。少なくとも彼らは、祝祭を催すことさえ、利得愛にほかならず、多衆は祝祭を収入〔の機会〕にするのです。さらに、ある者たちは酒宴の席で友たちから追い剥ぎをして立ち去り、ある者たちは御身を何の必要もないと悪罵し、骰子を、自分たちにとって自発的に為すことの責めを帰して粉々にするのです。
 [9] とはいえ、わたしのために次のことも云ってください。御身はかくも心優しい、年老いた方であるにもかかわらず、一体全体どうして、最も喜びのない季節を選んで、雪があらゆるものの上に拡がり、北風激しく、冷たさに凍らざるもの何もなく、樹木は乾燥し、裸で、葉もなく、野は影もなく、花咲かず、人間どもはまったく年老いた者たちのようにかがみ、多くは炉の周りにいるとき、こんな時に祝祭を催されるのですか。この時期は少なくとも年寄り向きではなく、贅沢な暮らしをする者たちにふさわしくもないですのに。

クロノス
 こやつめ、わしに多くのことを尋問しよる、すでに飲むべきときじゃのに。事実、わしの祝祭から少なからぬ時を奪い去りおった。こんな、まったく必要もないことでわしに哲学論議をふっかけて。じゃから、もう御馳走にして、拍手喝采し、もう自由気ままに生きようぞ。それから、昔の流儀でドングリを賭けて賽子遊びをして、王たちを挙手で決め、これに服従しようぞ。そうすれば、歳とれば二度目の子どもいう諺の真実なることを証明してやろうゆえ。

神官
 いや、渇いていても飲むことはできっこありませんよ、おお、クロノス、御身の言うことが快適でない者には。だから、飲みましょう。第一番目でも答えは充分ですから。そしてわたしによいと思われるのは、わたしたちのこの交流 — わたし自身が質問し、これに御身が親切にも答えられたことを本に書いて、友たちに読むよう提供することです。少なくとも御身の言葉を傾聴するに値するかぎりの者たちに。


クロノソローン

 

 [10] これを言うはクロノソローン — クロノスの神官にして預言者、祝祭をめぐる〔諸法〕の立法者。

 貧しき者たちが為すべき事柄は、他の書に余が書き込んで、あの者たち本人のに送付し、余のよく知れるところであるが、あの者たちもこれらの法を遵守し、さもなくんば、ただちに、不服従者たちに規定された大いなる罰に処せられるはずである。

 しかるに汝らは、おお、富める者たちよ、目にするとおり、違法することなく、聞き流すこともしないということが、どうしてあろうか。何びとであれ、そういうふうにしない者、この者は知るべし、その者が蔑ろにするのは、立法者たる余ではなくして、クロノスその者であることを。祝祭のために余が立法することを彼が選んだのは、夢の中に現れてではなく、最近、目覚めている間に、はっきり姿を現してである。ただし、肖像画家たちが、詩人たちのお喋りから受け継いで示したのと違い、足枷をつけられていないのはもちろん、汚れまみれでもなく、研ぎすまされた大鎌はもっていたが、その他の点では光輝にみち、頑強で、王者の風格を備えていた。風采は余にかくのごとく見えたが、云っていること、これもまたまったく神々しく、汝らに前触れされるに値する内容である。

 [11] すなわち、余が陰気に、物思いに沈んで歩いているの目にしたまい、神として当然ながら、ただちに、余の苦しみの理由が何であるか、つまり、季節外れにも下衣1枚で、その貧しさに余が腹を立てていることを見抜かれた。というのも、北風も激しく、氷も雪も冷たいのに、余はそれらをほとんど防ぎえず、祝祭も間近に近づき、他の者たちは供犠や饗応の用意をしているのを目にするのに、余自身はほとんど祝祭気分どころではなかったからである。それ〔見抜かれた〕どころか、後ろから近づいて、余の耳を引っ張って揺すりながら(余に話しかけられるいつものやり方なのだ)、
 「これはどうしたことじゃ」と謂われた、「おお、クロノソローンよ、意気消沈した者のふうであるのは?」
 「いったい、当然なことではないでしょう」と余は謂った、「おお、主よ、忌まわしい者たちや汚れた連中は、桁外れの富者になり、連中ばかりが贅沢をしている一方、わたし自身や、教育に与ってきた他のおびただしい者たちは、貧窮と無術(ajmhcaniva)と同居しているのを目にするというのは。とはいえ、しかし、御身も、おお、主よ、これをやめさせ、変更して平等にすることは望まれないでしょう」
 「他のことでは」と彼が謂われた、「クロートーやその他のモイラたちからそなたが被っているかぎりのことを変えるのは容易ではないが、祝祭にかかわることは、そなたらのために貧窮を矯正してやろう。で、その矯正はかくあらしめよう。行け、おお、クロノソローンよ、そしてわしのために、祝祭の期間に何を為すべきか、一種の法を起草するがよい。そうすれば、富者たちは自分たちだけで祝祭を催すことなく、善きものらをそなたらと共有するであろう」
 「しかしわたしは知りません」とわたしは謂った。
 [12]「わしが」と彼はいった、「そなたに教えてやろう」。
 そうしてそれから始めて、教えてくださった。次いで、余がすべてを学び知ると、
 「それでは、彼らに云え」と謂われた、「これを為さざれば、わしはこの鋭い大鎌をいたずらに持っているわけではない、さもなければ、父ウーラノスを去勢したにもかかわらず、違法なる富者どもを去勢して、バケーロスたちとなって、笛やシンバルを持って母〔キュベレー〕のために集めるさせないとすれば、滑稽だろうよ」
 彼は以上の脅しをかけられた。それゆえ、掟にそむかぬことは汝らにとって美しいのである。

1.第1の法

 [13] 祝祭の期間中、何びとも何らアゴラに関することも私的なことも為すべからず。ただし、遊戯、贅沢、娯楽に関することはこのかぎりにあらず。料理人、菓子職人たちのみは就労すべし。  奴隷であれ、自由人であれ、貧者であれ富者であれ、万人に同権あるべし。  何びとに対しても立腹せず、憤慨せず、脅迫せざること。  サートゥルナーリア執行者たちから会計検査すること、これもあるべからず。  祝祭の間、何びとも銀や衣裳を調べるべからず、登録もすべからず、サートゥルナーリア祭の間、体操競技もすべからず、演説の実施や演示もすべからず。ただし、都人や上機嫌な者たちが、滑稽なことや巫山戯たことを表現することは除く。

2.第2の法

 [14] 祝祭のはるか以前から、富者たちは友たちのめいめいの名前を書板に書き、さらにまた、毎年の歳入の1/10に相当する銀子を準備金として、また、持てる財の余分な衣服、自分たちには粗大に過ぎる調度、少なからぬ銀を保持すべし。これらは、手もとに用意されてあらしめよ。

 祝祭の前日には、清祓の犠牲獣をして運びめぐられ、彼らによって狭量(mikrologiva)、愛銭(filarguriva)、愛利(filokerdiva)、その他のそういった、彼らの大多数と同居しているものらは、屋敷から追放されてあるべし。
 さて、屋敷を清浄にしおわらば、ゼウス・プルゥトドテース〔富を授けるゼウス〕、ヘルメース・ドートール〔善福を授けるヘルメース〕、アポッローン・メガロドーロス〔大きな贈り物を授けるアポッローン〕に供犠せしめよ。
 次いで、午後遅く、あの友の〔名を書き付けた〕書板を自分たちのために読みあげるべし。
 [15] そして自分で、友たちの各人に、その価値に応じて〔贈り物〕を分配し、日没の前に送るべし。配達する者たちは、3人ないし4人をこえてはならない。従僕たちの中で最も忠実な、すでに老年に達している者たること。また、送られるものが何であり、いかほどの数量であるかは、書き付けに記入さるべし。それは、〔送る者、送られる者〕双方が、運ぶ者たちを猜疑しなくてすむためである。また当の家僕たちは、めいめいが酒杯1杯を飲んで駈け出すが、それ以上のものは何も要求せざるべし。教育のある者たちには、いかなるものも2杯が送らるべし。2倍の分け前に与る価値があるからである。贈り物に上書きされる内容は、できるかぎり控え目にして簡潔たるべし。何びとも何ら負担になる内容を〔贈物と〕いっしょに告げられてはならず、何が送られるかを称賛すべからず。
 富者は富者に何物をも送るべからず、また、サートゥルナーリア祭の間、富者は同権者を饗応すべからず。送られることにあらかじめ決定したものは、何ひとつ除けて置かるべからず、贈り物について心変わりあるべからず。
 もしひとが前年に出郷して、そのために分け前に与れなかった場合には、それをも受け取るべし。
 また、富者たちは、貧しい友たちに代わって負債をも、彼らが賃借料を負いながら、それをも支払い得ない場合は、借家料をも返済すべし。総じて、彼らにとって何が最も必要かを知るべく、はるか前から気遣うべし。

 [16] 他方、受け取る者たちの不平も放棄さるべし、そして送られたものは、いかなるものであれ、大いなるものと思わるべし。葡萄酒の壺(ajmforeuvV)、あるいは兎、あるいは太った鳥は、サートゥルナーリア祭の贈り物と思われるべからず、サートゥルナーリア祭の贈り物を笑いものにするべからず。
 また、貧者は富者にお返しをすべし。教育を受けたる者は、古人たちの書を、何らか縁起のよい、酒宴にふさわしいもの、あるいは、自分の可能なかぎりの書き物を。そして富者はこれを、まったく上機嫌の顔で受け取るべし。そして受け取ったら、すぐに読みあげるべし。逆に、断ったり、投げ捨てたりしたら、ふさわしいものを送ったとしても、大鎌の脅威に服すものとすべし。自余の〔貧しい受取人〕たちは、ある者は花冠を、ある者は乳香の粒を送るべし。
 また、貧者が衣服とか銀とか金とかを、力をこえて富者に送る場合、送られた物は公有財とし、売却されて、クロノスの宝庫に収めらるべし。貧者の方は、翌日、富者から、オオウイキョウ〔の茎の笞〕で、両手に250回に劣らぬ打擲を受けるべし。

3.酒宴のための法

 [17] 沐浴は、日時計の影が6プースになった時〔あるべし〕、沐浴の前には、ドングリの実と骰子〔遊戯〕あるべし。身分とか生まれとか富とかは、特権にほとんど影響せざるべし。
 皆が同じ葡萄酒を飲むこと、胃痛であれ頭痛であれ、それを理由にひとりより優れた〔葡萄酒〕を飲むことは富者にも口実とならざるべし。
 肉の分け前は皆に平等たること。給仕者たちは、誰に対しても何らの依怙贔屓もせず、鈍重になりすぎもせず、いかほど持ち帰るべきか、彼らによいと思われるまで引き取らせてもならない。ある人には大きなものが、ある人にはとても小さなものが提供されてもならず、ある人には豚の腿肉が、ある人には豚の顎が〔提供されてもなら〕ず、全員に平等たるべし。

 [18] 酌人は、見晴らしのよい所から各人を鋭く、しかし主人にはより少なく見渡し、聞くことは普段よりより鋭くし、酒杯はさまざまあるべし。そして、親愛の盃〔まわし呑み〕は、望む者あらば、さしつかえなしとせよ。万人が、望むならば、万人に先んじて呑むべし、富者が先に呑むとき。呑めない人は、呑むことを無理強いされてはならない。
 酒宴に、舞踏者もキタラ弾きも、学びはじめたばかりの者を、彼らが連れて来ることは、望む者がいても、許されない。
 冗談の程よくて、いかなる場合にも心配のないものは、あるべし。
 賽子遊びは、ドングリの実を賭けてあるべし。銀子を賭けて賽子遊びする者あらば、翌日は食事なしの者たるべし。
 留まるも去るも、各人望みのままたるべし。
 家僕たちをば富者が饗応する場合には、その友たちも彼とともに給仕すべし。

 これらの諸法を、富者たちの各人は、青銅の標柱に刻し、中庭の中央に持し、また読みあげるべし。されど、知るべきは、この標柱そのものが持続するかぎり、飢えもなく疫病もなく、火災もなく、他の困難も何も、自分たちの家に侵入することなしということである。いつか — 左様なことは起こってほしくないが — 〔この標柱が〕引き倒されなば、いかなることが見舞おうとも、除けたまえ。

クロノスの往復書簡

1.余からクロノスに — ご機嫌よう

 [19] わたしがすでに御身に書き送りましたことは、何よりも先ず、わたしがいかなる情況にあり、貧しさのために、御身が公言なさった祝祭の分け前にわたしひとり与れぬ恐れがあることを明らかにし、なおそのうえに次のことも付け加えました — わたしが思い出したからですが — 私どものうちある者たちは、持てる物をより貧しい者たちと共有せず、格段に富み、贅沢をしているのに、ある者たちは飢えで破滅しかかっている、それもクロノス祭が差し迫っているときにというのは、不条理きわまりないということでした。しかし、その時は、私に何の返信もくださらなかったので、再度、御身に同じことを思い起こしていただかなければならないと考えたのです。御身の為すべきは、おお、最善のクロノスよ、この不平等を取り除き、善きものらを全員の真ん中に据えて、次いで祝祭をするよう命じることです。しかるに現状は、諺に謂う「蟻か駱駝か」です。いや、むしろ、悲劇俳優を想像していただきたい。片方の足では、悲劇用半長靴〔を履いた〕ように、高いところを歩み、もう一方〔の足〕は裸足とせよ。さて、こういう状態で歩行すれば、御身は目になさるであろう、どちらの足を踏み出すかによって、彼にとって時には高く、時には低くなるのが必然だということを。わたしたちの人生において、不平等はこれほどのものなのです。すなわち、ある者たちは合唱舞踏団を指揮する運命の半不可靴を履いて、わたしたちに対して偉ぶるが、わたしたち多衆は徒歩で地面を歩行するのです。きっと、わたしたちをも彼らと似たり寄ったりに身ごしらえさせてくれるものがあれば、彼らに全然劣らず俳優として演じ、闊歩することができるのにです。

 [20] 実際のところ、わたしは詩人たちが言っているのを耳にします。往古、御身が一人支配なさっていたとき、人間どもにとって事態はそういうふうではなく、大地は、播かず耕さずとも善きものらを芽生えさせ、食事は飽きるほど用意され、河川は、あるものは葡萄酒を、あるものは牛乳を、また蜂蜜さえ流すものもあった、と。最も重大なことは、言い伝えでは、あの人間どもそのものが黄金であり、貧しさは全然彼らに近づきさえしなかったことです。しかるに当のわたしたちはといえば、どうやら鉛とさえ思われず、何かであるにしても、それよりも無価値で、食糧は、たいていの者たちにとって苦労して得られ、貧しさと困窮と無術と、「ああ」とか「どこからわたしのものになるか」とか、「何という運命であることか」とか、そういった多くのことが少なくともわたしたち貧者のもとにあるのです。

 そのことに起因する苛立ちは、きっと、もっとましだったでしょう、もしも富者たちがこれほどの幸福と同居しているのを目にしなければ。彼らは、これほどの黄金を、これほどの銀を貯めこみ、持てるかぎりの衣裳、さらに人足奴隷や二頭立ての馬車や邸宅や耕地を、それも各々が広大なのを所有し、われわれにはそれをけっして分け与えようとはせず、多衆に注目することを必要とも感じない。
 [21] とくに、われわれを窒息させ、おお、クロノスよ、われわれが耐えがたく思うのは、このこと — 紫の衣の上に横になり、これほどの善きものらによって贅を尽くしていることです。げっぷをしながら、いっしょにいる人たちによって幸福視されながら、いつも宴会をしながらね。他方、わたしや同等の人たちが夢見るのは、どこかから4オボロスが手に入ったら、カルダモン〔芥子菜〕かテュモン〔タチジャコウを蜂蜜と醋であえたもの〕かタマネギをおかずに、パンかせめては碾き割り麦で満腹して眠ること。されば、これを、おお、クロノスよ、変更して、等しい暮らしぶりへと作り替えるか、あるいは、最低でも、あの富者たち当人に、自分たちだけが善きものらを享受するのではなく、メディムノスのこれほどの黄金から、わたしたち皆のコイニクス枡に注ぎこむよう、長衣の中からは、イガの幼虫に喰われても彼らを困らせないかぎりを〔与えるよう〕命じるかです。実際、これらは完全になくなり、時間によっても台無しになるのですから、わたしたちに着るよう与える方が、箱や行李の中で、あちこち黴で腐らせるよりはましなのです。

 [22] かてて加えて、貧者たちの時には4人、時には5人を招待して、めいめいを饗応するよう〔命じることです〕。ただし、饗応の現在のやり方ではなく、もっと民衆的なやり方で。例えば、全員が等しく参加し、ひとは御馳走で満腹し、家僕は、ひとが食べるのを断るまで立ったまま待っているはずのところ、わたしたちの方にやって来て、手を延ばそうとわたしたちがまだ準備しているのに、皿とか平菓子の残りを見せるだけで引き下げてはならないと〔命じることです〕。また、運び込まれた豚の切り身を、主人には、頭付きの半身を供するが、その他の人たちには包みこまれた骨を提供することもないよう〔命じることです〕。さらに酌人たちにも、わたしたちのおのおのが呑むことを7度要求するまでは待機しているなどということなく、一度呼んだら、すぐに注ぎ、主人に対してと同様、大盃になみなみと注いで手渡すよう〔命じることです〕。また、葡萄酒そのものは酒宴の客全員にとって一種類の、同じものであるよう〔命じることです〕 — それとも、いったい、ひとは花とかおる酒に酔っぱらっているのに、わたしには、発酵前の葡萄汁で胃袋がはち切れるべしという法がどこに起草されているのでしょうか。

 [23] これらのことを御身が矯正し、整序なされば、おお、クロノスよ、御身は生をば活性化し、祝祭をば〔真の〕祝祭と為せし者となられるでありましょう。さもなくんば、あの〔富者〕たちをして祝祭を執行せしむるがよい、さすれば、わたしたちは祈りつつへたりこんでいることでしょう、彼らが沐浴を終えてやって来たとき、彼らの子どもは酒瓶をひっくり返して粉々にするは、料理人はスープを焦げつかせるは、ぼんやりしていて、塩漬け魚を豆スープの中に入れるは、しますように。犬は飛びこんできて、料理番が他のことに気をとられているうちに、臓物をすっかり、平菓子もその半分を喰らい尽くすは、しますように。豚や鹿や仔豚も、料理されている間に、ホメーロスがヘーリオスの牛たちについて謂っている〔Od. xii, 395〕ような、似たことをするは — いやむしろ、這いまわるだけでなく、串刺しのまま、跳びあがって山の中に逃げ失せますように。さらに丸々した小鳥たちも、すでに羽をむしられて用意できていても、これらも飛び立って、彼らが自分たちだけでこれを享受することのないよう、姿をくらましますように、と。

 [24] だが、次のことこそ、彼らを最も悩ませる点であろうが、黄金は、インド蟻のような一種の蟻たちが掘り出して、夜間、宝庫から公庫に運び出しますように。衣服の方は、世話することが少ないため、最善のネズミたちによって篩のように穴を開けられ、マグロの曳き網と何ら異ならないくらいになりますように。彼らの若々しくて長髪の愛童たちは、これを彼らはヒュアキントスとかアキッレウスとかナルキッソスとか名づけるのですが、自分たちに酒盃を差し出している間に、長髪が抜けて禿げ頭になりますよう、そして、喜劇に出てくる楔のような髭のように、鋭い髭が生え、こめかみのあたりは毛むくじゃらで硬い針の毛が生え、その中間は平で裸になりますように。これらのことや、これよりもっと多くのことをわたしたちは祈るでしょう。それらを公共に任せて、あまりに利己的に富み、わたしたちに適度なものらを分け与えることを拒むならば。

2.クロノスから最も大切な友である余に — ご機嫌よう

 [25] 左様なお喋りをするは何故ぞ、おお、こやつめ、目下の件についてわしに書簡を寄越し、善財の再分配をするよう命ずるとは。それは、別人、目下支配している者のすることであろう。実際わしが驚くのは、万人のうちそなたひとり無知だということじゃ、いにしえ、わしが子どもらに支配権を分割して、王たることをやめ、ゼウスがこういったことを最もよく宰領しているということをな。わしらのやることはといえば、将棋と拍手喝采と歌と酩酊するまでのこと、それも、7日間を超えることはない。それゆえ、もっと重要な事柄に関しては、 — そなたが謂っていることだが、不平等を廃し、貧者になるも富者になるも全員が平等にということは — ゼウスがそなたらを扱うであろう。

 じゃが、祝祭に起因することで何か不正する者とか強欲な者がおれば、裁くのはわしの仕事じゃ。また、富者たちには、饗宴と黄金のコイニクス枡と衣裳について書簡を送ろう。祝祭の期間に、そなたたちにも送るようにと〔いって〕。なぜなら、それを彼らが行うとことは、そなたたちが謂うとおり、義しく、価値あることだから。あの連中がそれに対して何か善言を言うことができないならばな。
 [26] しかし、総じて、そなたらは富者たちについて欺かれており、正しく思いなしていないと知るがよい。彼らこそがまったき幸せ者であり、彼らのみが快適な人生を過ごしていると思いなす所以が、彼らには非常に高価な食事をし、甘い葡萄酒に酩酊し、若々しい愛童たちや女たちと交わり、柔らかい衣裳を用いることができるからだというのは。それがいかなることなのかということに、そなたらはまったく無知である。というのは、これらのことに関する気配りは小さなことではなく、各々のことを注意して見守るのが必然だからである。家令はひそかに手抜きしたりくすねたりしているのでないか、葡萄酒は酸っぱくなっているのでないか、穀物はコクゾウムシで煮え立っているのでないか、あるいは、盗賊が酒盃を盗むので〔ない〕か、自分が僭主になろうとしていると言う中傷者たちを民衆が信じるのでないか、と。しかも、これらすべては、彼らを悩ませる事柄のほんの一部分でさえないのだ。だから、彼らが有する恐れや煩いをそなたらが知れば、そなたらにとって富は、何としてでも避けるべきことに思えるであろう。
 [27] とんでもない。わしともあろう者が、かつて、コリュバースたちのように気が触れていたと、そなたは思っているのじゃから、のう。富むことや王たることが美しいことなら、これを手放して、譲って他の者らに任せ、私人となって、他者の言いつけを甘受しているなどというのは。いや、わしは富者たちや支配者たちに付随するのが必然のこれらのことを数多く知っているので、しあわせにも、支配権を放棄したのじゃよ。

 [28] というのも、今わしに向かってそなたが喚きたてていること — 連中はといえば、祝祭の間、豚たちや諸々の平菓子に満たされているという、それがどういうことか考察してみるがよい。なるほど、さしあたっては、甘いし、そのどちらも嫌ではなかろう。しかしその後になると、事態は逆転する。そうなると、そなたらは、翌日、起きあがることだろう。あの連中が酩酊のせいでなるのと違い、頭痛になることもなく、食べ過ぎによって相当いやな臭いや焦げくさい味のするげっぷをすることなく。ところが連中の方は、それらを享受するとともに、夜の大部分を、あるいは愛童たちと、あるいは女たちと、あるいは牡山羊が命ずるままに、いっしょに転げまわっているので、過度の贅沢のせいで、腎虚とか、肺病とか、浮腫を集めるのは難しくない。もちろん、彼らの中にそなたは容易に示すことができよう、完全に青白いというわけではないが、まったく死人同然に見える者を、な。自分の足で老齢にまで達したが、4人に担がれて運ばれるのでない者、外面は金無垢だが、内面は藁屑で、悲劇用の衣裳が、まったく安っぽい襤褸でつぎはぎされたようなのを。これに反し、そなたらの方は、魚はといえば味わうことなく、食することもなく、痛風とか肺病とかはといえば、いうまでもなく、それらにも無経験であり、もし何か起こるとしても、それは何か他の理由によるのではないか。とはいえ、日々、満腹以上に、それらを食することそのことが、あの連中自身にとって快適なわけでもなく、彼らが時として野菜やテュモンを渇望する様たるや、そなたが兎たちや豚たちを〔渇望する〕比でないことをそなたは目にすることであろう。

 [29] 彼らを苦しめるかぎりの他のこと — だらしない息子とか、家僕を恋する妻とか、快楽のためというよりもむしろやむを得ずに交わる恋人を — 言うことはやめる。総じて、そなたらの知らぬことが多い — そなたらが見るのは、彼らの黄金や紫衣ばかり、白い二頭立ての馬車に乗って出かけるのを目にするときがあっても、ぽかんと大口開けて平伏しておるばかり。だが、そなたらが彼らを無視し、軽蔑して、銀の馬車の方を振り向きもせず、対話している最中に、指輪のスマラグドグ石を一瞥し、長衣に触れて、その柔らかさに驚嘆することもせず、自分ひとりで富裕になるに任せるなら、さぞかし、彼らは自分からそなたらのところにやって来て、いっしょに食事するよう懇願し、そうやって、そなたらに寝椅子や食卓や酒盃を見せびらかせるだろうよ。その所有〔そなたらのものであること〕が証言されなければ、〔見せびらかせることに〕何の義務もないのにだ。
 [30] 少なくともその大部分を彼らが所有するのはそなたらのため、自分たちが使用するためではなく、そなたらが驚嘆するためであることを、そなたらは見出すだろうよ。

 これをそなたらへの慰めとしよう。わしはどちらの生をも知っているが故。そして、祝祭が価値あることであるのは、そなたらが〔次のことに〕思いを致すときである。少し経てば、ひとはみなこの生を立ち去らなければならない、あの連中も富を、そなたらも貧しさを手放して、ということにな。とはいえ、約束したとおり、彼らには書簡を送ろう、さすれば、わしの書き付けを軽んじることはないのをわしは知っておる。

3.クロノスから富者たちに — ご機嫌よう

 [31] 貧者たちが、最近、わしに書簡を寄越しおった。おまえたちが持てる物を自分たちに分かち与えないと非難してな。そして、要するに、わしが善財を万人に共有となし、各人にそれらの部分を持たせるよう要請しおった。たしかに、平等あるべしと制定し、ある者はより多く〔与り〕、ある者はまったく与らずということもあるべからずと〔制定〕したのは義しい、とな。そこで、わしは謂った、それらについては、ゼウスがよりよく考察しようと。だが、目下の件と、祝祭の祭に不正だと彼らが思う事柄については、その判断はわしの意のままであると見て、おまえたちに手紙を書くと約束したのじゃ。

 さて、彼らが要求している当の内容は、理にかなっている、そうわしには思われた。「いったい、どのようにして」と彼らは謂う、「これほどの寒さに凍え、飢えにとりつかれながら、なおそのうえにわたしたちは祝祭を催すことができましょうや?」と。されば、あの連中も祝祭に参加することをわしが望むならば、彼らはわしに命じおった、おまえたちが持てる衣裳のうち、何か余ったものや、おまえたちにお似合いというよりは厚すぎるものがあれば、これを彼らに分かち与えるよう、また、黄金の少しを彼らに滴下するよう、わしがおまえたちに強制するようにとな。というのは、それを、と彼らは謂う、おまえたちが行えば、ゼウスの前で、善財についておまえたちに異議申し立てをすることももうない。さもなければ、ゼウスが裁判を始めるや否や、再配分を求めて召喚するぞと脅迫するのだ。これらのものは、おまえたちが美しく行為することで所持しているこれほどのものらの中から〔施すこと〕は、おまえたちにとってそれほど難しいことではない。

 [32] ゼウスにかけて、食事についても、彼らがおまえたちといっしょに食事すること — これもこの書簡に付け加えるよう彼らは要求したのだが、今はおまえたちだけで、扉を閉ざして贅沢しているが、いつかあの連中の何人かをも、長い時間かけて饗応しようとしても、その食事には陽気さ以上に不愉快さが含まれ、多くのことが彼らに対する侮辱になる — 例えば、あの、同じ葡萄酒をいっしょに飲むのでないということ……ヘーラクレース! 何たるみみっちさ。あの連中が自分で自分を有罪と認めるのは当然だ。〔饗宴の〕最中に立ち上がり、おまえたちの酒宴をそっくり後に残して立ち去らないのだから。それでも、やはり、満足ゆくまで飲めないと彼らは謂う。なぜなら、おまえたちの酌人たちが、オデュッセウスの仲間たちのように〔Od. xii, 173 ff.〕、蜜蝋で耳を塞いでいうからだ、と。その他のことに至っては、口にするのも恥ずかしいことなので、わしは言うのをためらう。肉の切り分けについて彼らが責めることや、給仕たちについて、おまえたちに対しては、満腹するまで側に立っているのに、あの連中の側は駆け抜けるとか、他にも多くのそれに類した狭量で、自由人にちっともふさわしくないことはな。とにかく、最も快適で、酒宴によりふさわしいのが平等(ijsotimiva)であり、おまえたちの酒宴を嚮導するのは、このため、つまり、平等を全員が持つためなのじゃ。

 [33] それでは、見よ、いかにすればおまえたちを彼らがもはや責めることなく、尊敬し、これらわずかな物に与ることによって愛するようになるかを。おまえたちにとっては、その消費は受け容れられないものではないが、あの連中にとっては、必需の好機に受ける贈与は、いつまでも記憶に残るものである。何よりも、貧者たちも同市民として、おまえたちの幸福のために無量のことを成就するのでもなければ、おまえたちは都市に住むこともできないであろうし、おまえたちの富の驚嘆者たちを持つこともできまい。私的であれ、闇におおわれてであれ、おまえたちがひとりで富んでいるならばな。それゆえ、おまえたちの銀や食卓やを、多衆をしてまのあたりにさせ、驚嘆せしめ、親愛の盃を廻し飲みしながら、飲んでいる最中に、盃を眺めまわしせしめ、その重さをみずから手で測って、来歴の詳細をも、巧みを凝らして飾りつけた黄金がいかほどかをも見定めせしめよ。なぜなら、有為の士の、人間愛あふれる人のと評判されるのを聞くことに加えて、彼らによって妬まれることからもおまえたちは除外されているであろうからだ。いったい、共有し、適度なものらを贈与する者に誰が嫉妬しようか。また、彼が善財を享受して、末久しく生きながらえますようにと誰が祈らないであろうか。だが、おまえたちの今のままでは、幸福は証言されず、富は妬みの対象となり、生は不快である。
 [34] なぜなら、わしが思うに、ひとり満足することは、あたかも、諺にいうライオンや一匹狼のごとくであって、右利きの人〔怜悧な〕たちや、あらゆる機会に懇ろにしようと試みる人たちと交わろうとする人たちと等しくはないからである。後者の人たちなら、先ず第一に、酒宴が聾唖のままにはしておかず、酒宴にふさわしい物語や気に障らぬ軽口や種々様々な親愛に包まれていよう。これこそ最も快適な暇つぶし(diatribhv)であり、ひとつはディオニューソスとアプロディーテーへの親愛、ひとつはカリスたちへの親愛である。第二に、次の日、彼らはおまえたちの怜悧さ(dexiovthV)を皆の衆に向かって詳述して、愛するようにと下拵えをするだろう。これを購うことこそはるかに美しい。

 [35] さあ、おまえたちに質問しよう、もし貧者たちが眼を閉じて歩きまわったら — とにかくそういうふうに想像するのじゃ — おまえたちが深紅の衣裳や従者の多さとか指輪の大きさとかを見せびらす相手を持っていないおまえたちを嘆かせたのではないか。おまえたちに対して貧者たちに内生するのが必然のもろもろの策謀や憎悪は、おまえたちがひとりで贅沢するつもりなら、言うのをやめておこう。実際、おまえたちを怨んで祈ると彼らが脅迫することこそは魔払いさるべきことである、彼らが祈りの必然へと立ち至ることなどありませんように。というのは、おまえたちは腸詰めも平菓子も、犬の食べ残しのようなもの以外は、味わうことができず、おまえたちの豆〔スープ〕は、サペルデース魚の漬けこまれたものをもつだろうし、豚や鹿は、調理されている最中に、台所から山の中に逃走をくわだて、すばしこい鳥は、羽根のない翼を伸ばして、当の貧者たちのところへ自分で飛び立つだろう。最も重大なことは、酌人たちの中でおまえたちにとって最も若々しいものたちが、またたく間に禿げ頭になることだ。それも、酒瓶を粉々にした後で。

 祝祭にもふさわしく、おまえたちにも最も安全なことは何か、それを企図せよ、そうして、多大な貧しさを軽くせよ。わずかの支出で、非難さるべきところなき友たちを自分たちに持つために。

4.富者たちからクロノスに — ご機嫌よう

 [36] いったい、貧者たちによってこれが書かれたのは、おお、クロノスよ、御身ひとりに向かってだとお思いですか、すでにゼウスも耳をかさなかったのではありませんか、彼らの喚きたて — それもまさしく再配分あるべきという要求に対して、また、分配が不平等になされた廉で運命を責め、自分たちと何ひとつ分かち合わないとわたしたちが主張しているとして、わたしたちを責めることに対してです。いや、あの方は、ゼウスですから、責任は誰にあるかをご存知なのです。だからこそ、彼らの〔言う〕多くのことを聞き流されるわけです。しかしやはり御身には弁明しましょう、少なくとも今はわれわれの支配者であるからには。

 もちろん、わたしたちの方は、御身が書いておられることをすべて眼前に据え — 多くの物品の中から、これを必要とする人たちに援助することは美しいとして、貧しい人たちといっしょに過ごし、いっしょに饗応することは快いこととして、そういうふうに実行して、同権を生きる者としていつも自任し続けてきましたので、宴の仲間当人でさえ、何か非難する点はもたなかったくらいです。
 [37] しかるに、連中ときたら、初めは、わずかしか必要としないと謂いながら、彼らのためにいったん門戸を開放するや否や、次から次へと要求してやめませんでした。そして、すべてをすぐに受け取るのでなく、最初の言葉どおりに受け取るのでもなければ、怒りと憎悪と、そして罵詈雑言はお手のもの。わたしたちのことで何か嘘をついたとしても、しかし少なくとも聞いた者たちは、いっしょにいたことを正確に知っているので、それを信じるのです。その結果、2つに1つ、与えず、完全に敵とならねばならないか、あるいは、すべてを投げ捨てて、たちどころに極貧となり、自分も懇願者たちの一人にならねばならないか、です。
 [38] そして、これ以外は適度です。饗宴そのものの中は、満足することや胃袋に詰めこむことは彼ら自身も気にせず、充分以上にしこたま飲んだあかつきには、若々しい愛童が返杯している最中に、その手をつついたり、あるいは、妾とか正妻に手をつけるのです。それから、宴会所中に吐き散らして、次の日、帰宅するとわたしたちに悪態をつくのです。喉が渇いたとか、飢えをおぼえたとか説明して。もしも御身に、これらの点で彼らについてわたしたちが虚言している思われるなら、御身らの食客イクシオーンを思い起こされよ。彼は共有の食卓を要求し、御身らと平等の身分を持ちながら、高貴な彼は酩酊して、ヘーラーに手をつけたのでしたね。

 [39] こういったことこそ、以後、わたしたちの安全のために、邸宅を彼らにとってもはや足を踏み入れられないところとしようとわたしたちが決心した所以のことです。しかし、もしも、彼らが今謂っているとおり、適度な物らを要求して、酒宴に際して何ら横暴な所行に及ぶことはないと、御身の責任において合意するなら、彼らをしてわたしたちと共同せしめ、幸いあれ、共に食事せしめよ。また、御身が命ずるとおり、長衣と、金貨のうち、わたしたちができるかぎり追加支出できるだけを送り、総じて何らの不足もないようにしましょう。彼ら自身の方も、器用に交わることをやめて、追従者や食客のかわりに、わたしたちの友とならしめよ。そうすれば、御身はわたしたちを何ら責めることはないでしょう、あの連中も必要なことを為そうとするならば。

2012.10.05. 訳了。

forward.gif