エピグラム詩
"1t"
ルゥキアーノスの〔作品〕(VI-17)
3人の遊女たちが御身にこの玩具を奉納しました、
浄福なキュプリス様、各人各様の働きによって。
そのうち尻を使ってはエウプローがこれを、またこれはクレイオーが
しきたりどおりに、三人目のアッティスは、上顎を使って。
これらの代わりに、一人目には、女主人様、子どもの褒美を、
二人目には女のそれを、三人目にはどちらでもない褒美をたまわりませ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(VII-308)
わたしは5歳、憂いもない子ども、その
わたしカッリマコスを、冷酷非情なハーデースが掠い行きました。
しかしわたしを悲しまないでください。というのも、わたしはわずかな人生に
与り、人生のわずかな諸悪に与ったのですから。
サモサタ人ルゥキアーノスの〔作品〕(IX-120)
邪な人は傷のついた甕、これにいかなる
恩恵を注ぎこんでも、漏れて空になる。
サモサタ人ルゥキアーノスの〔作品〕(IX-367)
父親譲りの富を、メニッポスの子テーローンは、若いとき、
恥ずかしくも自堕落な浪費に注ぎこんだ。
しかし、父の友エウクテーモーンは、彼がすでに
干上がった貧乏に苦しんでいることに気づくや、
彼のために涙を流して救おうとして、自分の娘を、
莫大な持参金をつけてこれに嫁がせたのである。
しかし、富がテーローの心任せになるや、
たちまち同じ浪費に向かい、
あらゆる恩恵を、分不相応に、胃袋と、
汚らわしい胃袋の配下である大食に使った。
こうして、てーろーをば、二度目に巻きこんだのが、
零落した貧乏の寄せ返しの波であった。
エウクテーモーンは二度目に泣いた。もはやあの者のためではなく、
自分の娘の稼資と閨房のために。
そして彼は悟った、自分のものを悪しく使う男が、
他人のものに誠実であることはないということを。
ルゥキアーノスの〔作品〕(X-26)
まさに死なんとする者のように、汝の善きものらを享受せよ、
だが、これから生きんとする者のように、汝の所有物を惜しめ。
賢明な人とは、この両方を考えて、
物惜しみと浪費とに、適度に合致する者のことである。
同じ人の〔作品〕(X-27)
場違いなことをしても、たぶん人間どもには気づかれないであろうが、
神々には、心の中で思うだけでも、気づかれずにはすまないであろう。
同じ人の〔作品〕(X-28)
仕合わせな〔善く為す〕人たちにとっては、全生涯が短いが、
不幸せな〔悪く為す〕人たちにとっては、一夜さえ際限もなく長い。
同じ人の〔作品〕(X-29)
エロースが、はかなき者たちの種族に不正することはなく、人間どもの
放縦な魂にとっては、エロースは口実である。
同じ人の〔作品〕(X-31)
死すべき者らに属するものは死すべきもの、万事がわたしたちの側を通りすぎる。
さもなければ、われわれがそれらの側を通りすぎる。
ルゥキアーノスの〔作品〕(X-35)
おまえが仕合わせ〔善く為す〕なら、おまえは死すべき者らの友、浄福なものら〔=神々〕の友である。
だから、おまえが祈るのを彼らはたやすく聞きとどけた。
おまえが没落したら、もはやおまえの友は誰一人なく、同時に万事は
テュケー〔運〕
同じ人の〔作品〕(X-36)
「自然」は人間界に、きよらかな友愛を偽る人間ほど
厄介なものを見出さなかった。
なぜなら、敵としてあらかじめ守ること能わず、友として
愛するゆえに、これによってより多く害されるゆえに。
同じ人の〔作品〕(X-37)
足のろき忠告は大いによろし。足速きそれは、
いつも後悔という尾を引きずり持つ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(X-41)
魂の富のみが真実の富。
他は持てるものらより多くの苦痛を持つ。
多く持てる者にして富裕者と呼ぶが義しき人とは、
善きものらを用いることのできる人のみ。
人あって、いつも富の上に富を積むことにあくせく、
損得勘定に疲労困憊しているなら、
その人は穴だらけの巣の中で辛労する蜜蜂のようなもの。
その蜜を摘むのは他人なのだから。
同じ人の〔作品〕(X-42)
口にすべからざる詩句の封印をして、舌に封印されてあれ。
よりよいのは、所有物よりは物語を守ることなればなり。
ルゥキアーノスの〔作品〕(X-122)
神霊(to; daimovnion)は多くのことを、たとえ思いがけぬことであっても、することができる。
小さき者たちを引き上げ、大きな者たちを引き下げる。
汝の自惚れも高慢も終わらせ、
河さえも、黄金の流れをもたらす。
風は藺草も立葵も〔傷つける〕ことはないが、大きなものを、
カシであれプラタノスであれ、地に引き下ろすと知れ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-274)
わたしの問いに答えてくれ、キュッレーネーにましますヘルメースよ、ロッリアノスの魂は
いかにしてペルセポネーの館に下ったのかを。
これは驚いた、黙っているとは。おそらくは、汝にも何事かを教えたかった
のであろう。なさけなや、死人となってもやつに巡り合おうとは。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-294)
汝は富者の富を持っているが、魂は貧者のそれ。
おお、相続人としては富者なれど、汝としては貧なる者よ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-396)
汝はしばしば酒をわしに送ってくれた、そしてわしはしばしば
汝に感謝した、味濃き神酒を愛でるゆえに。
しまし今は、わしを愛するなら、送ってくれるな。そのような酒が
不足しているのではない、もはやチシャを持たぬのだ。
同じ人の〔作品〕(XI-397)
何千回も何万回も、アルテミドーロスは〔財産を〕勘定しながら、
何物も浪費することなく、半驢馬たちの生を生きる。
彼女〔半驢馬〕らは、しばしば黄金の高価な荷を
数多く背に運びながら、食べるのは秣だけ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-400)
万歳、文法、生類を生み出すものよ、万歳、飢えの
薬、「怒りを歌え、女神よ」〔Il. I, 1〕が見出されるものよ、
汝のためにも建立されるべきであった。麗しき神殿が、
はたまた供儀の絶やされることなき祭壇が。
というのも、道は汝に満ち、海も港も
満ちるがゆえに、万物の受容者、文法よ。
同じ人の〔作品〕(XI-401)
ある医者が、わたしに愛する一人息子を寄越した、
わたしからこれらの文法事項を学ばせようと。
こうして、「怒りを歌え」〔Il. I, 1〕と「無量の苦しみを与えたり」〔Il. 1, 2〕を 読み、続く第三の詩句はこれ
「数多の雄々しき魂を冥王が府に送り越しつ」。
わたしから学ぶべく彼をもはや寄越さなかった。
しかしその父はわたしを見ると、「おぬしには感謝」と云った、「同志よ。
されど、わが子はわしからそれを学ぶことができる。
というのも、わしこそ数多の魂を冥王の府に送り越し、
そのために文法家を何ら必要とせぬゆえに」。
同じ人の〔作品〕(XI-402)
神々の誰一人として、エラシストラトスよ、あなたの宴楽
あなたが耽溺しているこの宴楽をわたしにつくることはあるまい。
飢えよりももっとよくない、胃の害悪になるものを、
わたしの訴訟相手のがきどもが喰らえばよいようなものを常軌を逸して食う宴楽を。
というのは、わたしはこれまで飢えていたよりも、さらになおもっと飢えていたい。
あなたのところの宴楽で肥え太るよりは。
同じ人の〔作品〕(XI-403)
〔痛風(Podavgra)に寄せる〕
貧乏を憎む女神よ、富の唯一の飼い馴らし手よ、
いつも美しく生きるすべを知れる女神よ、
御身は、たとえ他人の足もとに侍るを喜ぶとも、
御身はフェルトを着ることを知り、芳香は御身の気遣うところ、
花冠もアウソニア〔イタリア〕・バッコスの飲み物も御身を喜ぶ。
これらは貧乏人のもとには決してあらぬものら。
それゆえ今、御身は貧しさの無銅の敷居をのがれ、
またもや喜んで富の足もとに来たる。
同じ人の〔作品〕(XI-404)
せむしのディオパントス、渡し船に乗れなんだ。
対岸に渡ろうとしたのに。
そこで瘤の上に荷物をみな、驢馬まで積んで、
帆脚索を巻き上げて渡った。
だから、トリトーンたちの水の栄光は無駄になる。
せむしが同じことをすることができるなら。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-405)
禿鷲のニコーンは、酒を最もよく嗅ぎつける。
だが、それがいかなるものか、すぐには云うことができない。
なぜなら、夏時間の3時間かかって、やっと感知するからだ。
200ペーキュスの鼻を持っているからだ。
おお、何と長い鼻孔であることか。河を渡るときは、
これで小魚を漁ることしばしばなのだ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-410)
髭をたくわえた犬儒者、杖を持った乞食の
食事における大いなる知恵をわれらは見たり。
すなわち、先ず豆やハツカダイコンは控えた。
徳が胃に隷従してはならぬとのたまわって。
だが、豚の子宮、酸味のあるやつを
眼にするや、これがたちまち慎重な理性を盗み去り、
予想に反して乞い求めて、真実かぶりついた。
そして、何も、と彼は謂った、子宮が徳に不正することはないのじゃ、と。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XI-427)
口の臭い悪魔払い師は、しゃべることで、数多くのダイモーンを
追い出した、呪力によってではなく、糞の力によって。
〈同じ人の〔作品〕〉(XI-428)
何のためにインド人の皮膚を無駄に洗うのか。小細工はやめよ。
暗黒の夜を照らすことはできない。
同じ人の〔作品〕(XI-429)
万人が酔っぱらっているときに、アキンデュノス〔「危険のない者」の意〕は素面であろうとした、
そのせいで、彼ひとりが本当に酔っぱらっているのだと思われた。
同じ人の〔作品〕(XI-430)
髭をのばすことが知恵をつけることだとおまえが思うなら、
立派な髭の山羊も、完璧なプラトーンであろうよ。
同じ人の〔作品〕(XI-431)
おまえが喰うに速く、走るに鈍いなら、
おまえの足で噛み、口で走るがよい。
同じ人の〔作品〕(XI-432)
愚か者が燭台を消した。ぎょうさんな蚤に
噛まれたので。こう言いながら、「もうおれが見えまい」。
同じ人の〔作品〕(XI-433)
絵師よ、おまえが盗むは形だけ。だが、声をつかむことは
できない。色を信じるがゆえに。
同じ人の〔作品〕(XI-434)
毛のない頭、胸、肩を目にしたら、
何も尋ねるな。おまえは禿の愚か者を見ているのだ。
おそらく犬儒者のことをいっている。彼らは胸や肩をはだけて歩きまわっていたからである。
同じ人の〔作品〕(XI-435)
ビュトスがソフィストだとは、驚きがわたしを見舞う。
彼は普通の言葉も知性ももっていないのだから。
同じ人の〔作品〕(XI-436)
白いカラスや羽根のあるカメをよりすみやかに
見つけられよう。カッパドキア人の本物の弁論家よりは。
[ルゥキアーノスの〔作品〕、一部の人たちによれば]アルキアスの〔作品〕(XIV-154)
〔エーコーの奉納像に寄せる〕
友よ、おまえが目にするは、岩のエーコー、パーンの女友だち、
反響を返して歌う者、
多種多様な口調のおしゃべり模像、牧人たちの快い
玩具。おまえが言うかぎりを聞いたら、立ち去れ。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XVI-163)
〔クニドスにますアプロディーテーの奉納像に寄せる〕
パポスのアプロディーテーが裸なのを目にした者はいない。もしも目にする者あらば、
それは、裸のパポスのアプロディーテーを建てた者。
同じ人の〔作品〕(XVI-164)
〔同じ像に寄せる〕
御身のために、御身の姿のめでたき像をわれは奉納せり、
キュプリス様、御身の姿よりすばらしきものをしらざるがゆえに。
ルゥキアーノスの〔作品〕(XVI-238)
〔プリアポスの奉納像に寄せる〕
慣例なれど、むなしくも、このプリエーポスであるわれを奉納せるは、
エウストキデースなり、乾燥した葡萄樹の守護にと。
げに、われは深き懸崖に囲まれてあり。近づく者あれど、
何物をも盗むことはできまい、守護神たるわれよりほかには。
2010.10.01. |