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偽ルゥキアーノス作品集成

カリデーモス、あるいは、美について

CarivdhmoV h] Peri; KavllouV
(Charidemus)




[解説]

 この作品がルゥキアーノスの作でないことは、一般に同意されている。ルゥキアーノスのより善い写本類の中に含まれず、そのギリシア語、その霊感を受けない内容、ともにまったくルゥキアーノスにふさわしくない。この作者は、おそらく、年代のまったく知られていないソフィストであり、ルゥキアーノスの主題やホメーロスの引用を紹介する彼なりのルゥキアーノスを知っており、他方、彼はまたプラトーンやクセノポーンにも影響されており、イソクラテースの『ヘレネー頌』からどっさり引いている。とりわけ、16-18節は、『ヘレネー頌』18-20、39-43、50-53の大々的な言い換えである。注意深い、そしてたいていは成功している脱落部の回避もまた価値はない。

(M. D. Macleod)





カリデーモス、あるいは、美について

ヘルミッポス
 [1] 昨日、ぼくは散歩していたのだ、おお、カリデーモスよ、かつは野原でくつろぐために、かつは — ちょっとした気煩いがあったものだから — 平静を必要としたのでね。何と、エピクラテースの子プロクセノスに出くわしたのだよ。そこで、いつものようにことばをかけて、どこから来て、どこへ行くのか、と尋ねた。すると彼は、自分もここに気晴らしにやって来たと謂った。野原を見ていると、いつも気晴らしになるし、ここを吹き渡る温和で軽やかなそよ風を享受するためでもあるが、実際は、ペイライエウスにあるエピカレースの子アンドロクレースの〔館〕で開催された最美な酒宴から〔やって来たの〕だった。彼が祝勝の祭典でヘルメースに供犠したのでね。ディアシア祭において著書を朗読して何と優勝したとかで。[2] 彼の謂うには、他にもじつに多くの優雅で優美なことが行われたが、なかんずく美の称賛演説が人々によって述べられた。これをあの人は、老齢のせいで忘れてしまったし、とりわけ、その議論の大部分に参加していなかったので云うことはできないが、君なら、云うのは容易だろう、というのだ。君自身も称賛演説したし、酒宴全体のあいだ他の人たちに心を傾注していただろうから、と。

カリデーモス
 それはそのとおりだ、おお、ヘルミッポス。しかしながら、すべてを精確に説明するのはぼくにも容易じゃないのだ。全部は聞くことができなかったのでね。給仕者たちも食事する者たちも大変な騒々しさだったし、とりわけ酒宴の席上のことばを憶えるなんて嫌なことだから。君は知っているね、とびきり博覧強記の人たちをさえ、どれほど忘れっぽい者にするかを。とはいえ、君のために、できるかぎり詳述してみよう、思い浮かんだことは何ひとつ省かずに。

ヘルミッポス
 [3] これはこれは、君に感謝だ。しかし、ぼくのために話の全部を初めから、アンドロクレースが読みあげたのはどんな書だったのか、誰に勝利し、君たちの誰々を酒宴に招待したのか話してくれるなら、君は充分な感謝を受けることになるんだがね。

カリデーモス
 その書というのは、ヘーラクレース頌だった。彼の言によれば、ある夢を基に彼によって創作されたという。で、勝利した相手は、メガラからやって来たディオティモスで、こちらは麦の穂、いやむしろ栄光を持ち出して彼に対抗したのだ。

ヘルミッポス
 で、その人が読みあげたのはどんな書だったの。

カリデーモス
 ディオスクーロイ頌だ。彼が謂うには、自分もあの〔双神〕のおかげで大いなる危難から助かったので、その感謝の念を彼ら〔双神〕にいだいた。とりわけ、危難の極、帆柱の先に現れたあの方々によって促されたので、と。[4] ところで、酒宴に出席したのは、他にも多くの人たちがいたが、ある者は彼と親類の人たち、ある者は、その他の点でも知己の人たちであったが、しかし、語るに足り、酒宴全体を飾り、美の称賛をしたのは、デイニアースの子ピローンと、アガステネースの子アリスティッポスと、第三に当のぼくだった。で、ぼくたちに同席していたのは、美しいクレオーニュモスで、これは アンドロクレースの甥、華奢でなよなよした若者だった。が、理性は持っているように思われた。というのは、まったく熱心に議論に耳を傾けていたからだ。さて、最初にピローンが美について言いはじめた。次のように前置きしてね。

ヘルミッポス
 決して、おお、仲間よ、先に称賛をはじめるのはやめてくれたまえ、君たちがこの議論へと引っぱり出された理由をもぼくに話すまでは。

カリデーモス
 君はいたずらにぼくたちに暇つぶしさせているよ、おお、善き人よ、さっき話の全体を説明してけりをつけたのだから。とはいえ、誰か友が強制するとき、ひとは何をなすべきか。むろん、どんなことでも従わなければならない。[5] 君が求めている議論のきっかけはといえば、美しきクレオーニュモスそのひとだよ。というのは、彼はぼくと、叔父のアンドロクレースとの間に座っていたのだが、彼を見つめ、その美しさにすっかり驚倒した素人たちによって、彼をめぐってかまびすしい議論が起こった。そのため、若者に対する称賛の辞を述べたてて座っているのが、ほとんどすべてといった有様であった。ぼくたちはといえば、ひとびとの愛美に感嘆すると同時に称賛しつつ — 最美な事柄(ここにおいてのみわれわれは彼らを凌駕していると思っている)に関する議論に素人たちに後れをとっているのは、自分たちの大いなる怠慢だと解したからだが — 、そこでわれわれもまた美についての議論に手をそめたのだ。ところでわれわれによいと思われたのは、名辞によって少年に対する讃辞を言うのではなく — というのは、美しくないだろうからね、彼をもっと生意気な気分に投げこむだろうから — 、もちろんあの連中のようにあんなに無秩序にではなく、各人が順番に言うこと、しかし、課題について思い出すかぎりを、各人が個別に云うべしということだった。

 [6] そこで、ピローンが一番に始めて、次のように話した。


 「 何と恐るべきことであろうか、われわれが日々、行っているかぎりのあらゆることを、美しきものらをめぐってのように、真剣に行いながら、美そのものの話は何ひとつせず、このように黙って座っているというのは。あたかも、ものを云えば、われわれがいつも真剣になっていることをわれわれ自身に気づかれないのではないかと恐れているかのように。それなら、はたして、ひとが言葉を適切に用いるのは何時なのだろうか、何ら価値なき事柄には真剣になりながら、有るものらの最美なものについては沈黙しているとしたら。それとも、自余の一切は横に置いて、われわれがその都度行う事どもの目的そのものについて言うこと以上に美しく、言説における美を保つことがどうしてできようか。いや、それについて処し方を知っていなければならないと言いながら、それについて何も知っていないと云っているように思われないために、それについてできるかぎり手短かに、説明してみよう。

 そもそも美とは、得ることは万人が欲するが、値すると認められた者はごくごくわずかといったものである。しかしこの贈り物を得た者たちは、万人の中で最も幸福な者と思われた、神々からも人間どもからも当然に尊敬されて。その証拠は — 例えば、英雄から神になった者たちに、ゼウスの子ヘーラクレースとディオスクーロイとヘレネーがいるが、このうち1人は、勇気の故にこの名誉を得たと言われ、ヘレネーは美しさの故に自分が神になり、自分が天に昇る前に、すでに地下の仲間になっていたディオスクーロイのためにも〔神になる〕原因となったと言われている。[7] いやそれどころか、人間どものうち、神々と交わるに値すると認められた者は、美しさに与っていないかぎり、見出されないのである。例えば、ペロプスはこの故に神々とアムブロシアに与ったのであり、ダルダノスの子ガニュメーデースは、あらゆる神々の至高を支配したと言われている、そのあまり、彼は、その他の神々の誰かが、愛童狩りに自分といっしょに参加することに堪えられず、自分ひとりにふさわしい〔愛童狩り〕だと考えて、イーデー山のガルガロンに飛び降りて、常時いっしょにいるつもりの場所に、愛童を引き上げたという。美しいものらに対してこれほどの気配りをいつもしていたので、彼らをそこで天にも昇る心地にさせたばかりか、みずからも地上で、折に触れてその都度恋される者たちと同衾し、白鳥となってレーダーと交わる牡牛の姿になってエウローペーを拐かし、アムピトリュオーンの似姿になってヘーラクレースを生む。自分が欲望を感じた相手と交わるために工夫を凝らしたゼウスの詐術の多くを、ひとは言うことができるだろう。

 [8] ところがしかし、最も重要で、ひとが驚くべきことはといえば、〔ゼウスが〕神々と交わって — 少なくとも人間たちとは、美しい者たちでないかぎりは誰とも〔交わることは〕ないであろうから — そういうわけで彼らの中で演説して、ヘッラス人たち共有の詩人〔ホメーロス〕によってあまりに勢い猛にして大胆かつ凄味のあるものとして創作されているので、先の演説〔Il. iv, 30 ff.〕では、ヘーラをば、それまではあらゆる点で彼に不平をこぼすのがつねであったのに、彼女をあまりに恐れさせたので、何も受苦せず、ゼウスの怒りが言葉に留まっていることで自分を満足させたほどだった。さらに、後の〔演説(Il. viii, 19.〕では、大地と海を脅して、すべての神々を、人々もろとも吊り下げるぞと恐れさせたのである。しかるに、美しいものらといっしょになろうとするときは、やさしく、親切で、誰に対しても寛大になるあまりに、その他のすべてに加えて、ゼウスであることさえも置き去りにして、不快なやつだと愛童たちに見られないよう、何か他のもの、最美な者、見る者が引き寄せられるようなものの恰好を演じる。これほどの畏敬と栄光を美に彼は捧げているのである。

 [9] そして、かく美に捕らわれたのは、ゼウスひとりではなく、他の神々のうち誰ひとりとして〔捕らわれなかった者は〕なく、だから、以上の話はゼウスを告発していると思われるよりはむしろ、美の〔擁護の〕ために述べられたと〔思われるべき〕である。いや、ひとが精確に考察しようとするなら、すべての神々はゼウスと同じことを被っているのを見出すであろう。例えば、ポセイドーンはペロプスに負かされ、ヒュアキントスにはアポッローンが、ヘルメースはカドモスに〔負かされた〕ように。[10] さらにまた女神たちも、これ〔美〕に服するとみられることを恥じることなく、美しい何某と交わって、人間たちに話題を提供することを自分たちにとっての名誉愛のように思われている。なおそのうえに — 各々の女神は、自余のすべての行事の各々の守護者であるから、〔自分が〕支配する事柄について別の女神たちと諍いすることはなく、アテーナーは戦争にかかわる事柄で人間どもを指導し、狩りについてアルテミスと争うことはなく、同様にあの方〔アルテミス〕もアテーナーに戦争のことは譲り、結婚のことはヘーラーがアプロディーテーに〔譲っ〕て、自分が見張っている事柄をめぐって彼女ともめることもない。しかし、各々〔の女神〕は、美のことはすこぶる気にしていて、誰よりも卓越していると思っているので、エリス〔争いの女神〕が彼女らを互いに戦わそうと望むと、美よりほかに彼女らの前に投げ出すものは何もないのは、こうすれば自分が望んだとおりにさせるのは容易だと思ったからで、その推測は正しく且つ利口であった。で、ここからひとは美の卓越性を考察できるであろう。すなわち、彼女らがリンゴを取って、上書きを読んだとき、めいめいがリンゴは自分のものだと解し、自分は別の〔女神〕より容貌が醜いとして、誰ひとり自分に反対の票を敢えて投じようとはしなかったので、彼女らは自分たち〔2人〕の父にして、もうひとり〔ヘーラー〕にはきょうだいにして連れ合いたるゼウスのところに赴いたのは、これに審判を頼むためである。しかし、彼自身も、誰が最美か表明することができず、数多の勇士たち、知者たち、思慮ある者たちが、ヘッラスにも異邦にも、いる中で、プリアモスの子パリスにその審判を任せることで、美は思慮深さにも知恵にも強さをも凌駕するという明確にして清浄な票を投じていたからである。

 [11] これほどの気遣いと、〔自分たちが〕美しいと〔いわれるのを〕聞くことに対する熱意を持っていたので、英雄たちの飾り手にして神々の詩人〔=ホメーロス〕は、美しさよりほかのところから名づけることを信じなかった。だから、ヘーラーは、「年長の女神、大いなるクロノスの娘」よりは「白き腕の」と〔呼ばれるのを〕聞く方が快く、アテーナーは、「輝く眼の」よりは「トリトゲネイア」と呼ばれることを望み、アプロディーテーも、「黄金の」と呼ばれることを何よりも尊んだのである。これらはすべて美をめざしているのだ。

 [12] 実際、以上のことは、勝ったものたちがこれ〔=美〕に対してどのように振る舞うかを明証するのみならず、〔美は〕自余のすべてに勝っていることの嘘偽りのない証拠である。だから、アテーナーは、勇敢さと同時に知慮を凌駕すると票決した。それは〔自分が〕それら両方の守護者だったからである。他方、ヘーラーがあらゆる支配と権力よりも選び取られるべきものと表明し、ゼウスをさえ自分の共同弁護人として伴ったのである。だから、もし、美が神的にして厳粛なことかくのごとくであり、神々に欣求されることかくのごとくであるならば、われわれ自身も行動と言葉において神々を模倣して、われわれの有するあらゆくことを美とともに選ぶことが、どうして美しくないことがあろうか。」


 [13] 以上が、ピローンが美について云ったことだが、最後に次のことを付言した。酒宴において長広舌をふるうことが不適切なことだと知っていなければ、これよりもっと多くのことを述べられたのだが、と。すると、彼の後ですぐにアリスティッポスが、アンドロクレースにさんざん勧められた挙げ句 — というのは、ピローンの後で言うことを用心したのだが、弁論に手をそめた。で、彼は次の点から始めた。


 [14] 「多くの人間たちは、しばしば、最善にしてわたしたちの役に立つことについて言うことを放棄して、何か別の主題 — 自分たちには名声をもたらすように思われるが、聴衆にとっては何ら利するところなき言説をなし、詳述するに、ある者たちは同じことをめぐってお互いに争論し、ある者たちは真実ならざることを述べたて、別の者たちは、何ら必要のない事柄について物語る。彼らは、それらすべてはそのままにして、何かもっと善いことを得るべしと云うよう考察しなければならなかったのにである。今わたしは、彼らは何ら健全な事柄について知っていない、とりわけ、何か最善の事柄について無知の廉で告発しながら、同じ事態に陥るのはまったく途方もないお人好しのすることだと思うので、言説の同じ主題を、最も利得になって、聴衆にとって最美で、誰であれすべてのひとが聞くのが最美だと謂うようなものにしよう。

 [15] そこで、もしもわたしたちが、美についてではなく、何か別のものについて言説をなしているのなら、ひとりの人が云うのを聞いて、それ〔美以外のこと〕について解放されていることに満足したことであろう。ところがこの主題〔=美〕にかぎっては、これについての言説に触れることを望む者たちに、非常な惜しみなさを提供するあまりに、人が価値相応に言説に達しない場合には、得損なったと考えるのではなく、他の多くの人たちに加えて、その人も称讃に何らか寄与することができるかどうか、運試しをしてみようと思うものだ。なぜなら、より勝った人たちによってかくもはっきりと礼賛されおわり、人間たちにとってかくも神的にして、希求の的であり、有るものらすべてにとって最も本来的な飾りであり、これがそなわるものらは万人から求められるが、手放したものらは憎まれ、目をくれる価値もないとき、価値相応に充分称讃できるほど言説に与れている者がいようか。とはいえ、これ〔=美〕には多くの称讃が必要であり、それによってかろうじてふさわしさに与れるのであるからには、われわれもまたそれについて何ごとかを言うべく手がけるのは何ら不適切ではない。たとえピローンの後に言説をなそうとしているにしても。実際、有るものらの中で最も崇高にして最も神的なものであるから — しかし、神々が美をどれほど称讃してきたかは、省略しよう。

 [16] とにかく、往古、ゼウスから生まれたヘレネーは、あらゆる人間たちからあまりに驚嘆される存在であったため、まだ年頃にもならないとき、ある所用でペロポンネーソスにやって来たテーセウスは、会ってその艶やかさに驚嘆するあまりに、彼には王位も名誉も確実至極であったにもかかわらず、この女を失っては今ある生も自分にとって生き甲斐なきものとなるが、この女が自分といっしょになることができれば、幸福さの点で万人を凌ぐと思った。そういうふうに思案して、父親は、年頃に達していない彼女を嫁がせうることはあるまいから、父親からもらうことはやめ、その人の支配力をば軽蔑し、軽視し、ペロポンネーソスにおけるあらゆる恐るべき事どもをも軽視して、自分の略奪の協力者としてペイリトゥースをも連れて、力ずくで彼女をその父親から奪って、アッティカのアピドナに運び、その彼の共闘に大いに感謝して、生涯にわたって深く愛したので、末裔たちにとってもテーセウスとペイリトゥースの友愛は手本となったほどである。また後者も、デーメーテールの乙女に求愛するため、ハーデースの〔館〕に出向かねばならなかったとき、その試みを止めるようあれこれ忠告したが、彼を説き伏せることができなかったとき、彼のために魂〔生命〕を危険にさらすこと、それが相手に対してふさわしい恩義に報いることだと思って、彼に同行したのであった。[17] さて、彼がまた出郷している間に、〔ヘレネーは〕アルゴスに帰還したのだが、婚礼の適機になっていたので、かつ、ヘッラスの王たちは、ヘッラス出身の美しく、かつ、生まれも善き女たちを自分たち自身の嫁にとることができたにもかかわらず、彼らはともに赴いて、自余の女はすべて劣っているかのように無視して、この女に求婚したのである。しかし、彼らは彼女が争いの的になることを悟り、かつ、お互いに闘い合えば、ヘッラスに戦争が起こるのではないかと恐れた結果、何者か不正に手をそめる者がいれば、いかさま、この女の評価を得た者を助け、断じて容赦せぬという、この共通の同意に誓いを立てたのである。めいめいが、この攻守同盟は、自分にとって備えとなると思ったからである。ところが、メネラーオスを除いた全員が、自分の意向は得損ない、共通のそれによってすぐに試されたのである。というのは、その後多日を経ずして、美をめぐって女神たちに諍いが起こり、プリアモスの子パリスにその審判を委ねた。彼は、女神たちの身体〔的魅力〕には圧倒されたものの、贈り物の審判者となるよう強いられ、ヘーラーはアシアの支配を、戦争における制覇はアテーナーが、アプロディーテーはヘレネーとの結婚を授けるとしたので、つまらぬ人間どもであっても、いつか小さからぬ王国を手に入れることがあるかも知れぬが、ヘレネーの好意を得る者が後世の人間にも誰ひとりいないと思って、この女との結婚を選んだのであった。

 [18] かくて、歌に讃えられしトロイアへのあの遠征が起こり、この時エウローペーが初めてアシアに侵入したとき、トローイア人たちはヘレネーを返せば、恐れなく自分たちの〔都市〕に住むことができたにもかかわらず、またヘッラス人たちは、この女を彼らが所有することを許せば、戦争と遠征から生ずる憂いから解放されることができたにもかかわらず、自分たちが死を賭する動機として、戦争より美しいものを見つけられないとそのとき考えたからだ。また神々も、自分たちの子どもたちがこの戦争で破滅することをはっきりと知っていたにもかかわらず、止めなかったどころか、それへと促したのは、ヘレネーのために戦って死ぬことの方が、神々の子に生まれたことよりも、少なからぬ名誉を彼らにもたらすと思ったからである。神々の子どもたちのことで、わたしはいったい何を言おうとしているのか? 〔神々〕自身がお互いに、ギガースたちと自分たちの間に起こった戦争よりも、より大きくより恐ろしい戦争を迫られた。なぜなら、前者ではお互いに相携えて、後者ではお互いに面と向かって、戦ったからである。いったい、不死なる判定者たちの前で、美があらゆる人間的な事どもをいかほど凌駕しているかということより明瞭な証拠があろうか。というのは、自余のあらゆるものらのうちの何もののためにも明らかに我慢したことの決してないが、美のためには、息子たちを勝手にさせるばかりか、すでにお互いに対立して戦争したことがあるばかりか、ある者たちは傷ついたことさえあるとき、満場一致票によって、美があらゆるものらに優先して讃えないことがどうしてあろうか。

 [19] いや、美についての言説に窮したために、同じことについていつまでも暇つぶししていると思われないよう、美の価値を示すべく、これまで述べられてきた内容に決して劣らぬ別の〔吟味〕に移りたい。それは、アルカディア人オイノマーオスの〔娘〕ヒッポダメイア — この女の美に捕らえられ、この女と別れて暮らすぐらいなら、陽のめを見るよりは、死をこそ選ぶことを証明したかぎりの者らのことをである。すなわち、少女が年頃になり、父親は、彼女が他の女たちを並々ならず凌駕しているのを見て、彼女の優美さに捕らえられ — 生みの親さえ、自然にそむいて征服するほどまでに、彼女には備わっていたのだ — 、まさにその故に、彼女を自分のところに引き留めておくことを求め、彼女を彼女に値する男に嫁がせることを望んでいるふりをしつつ、欲望よりも不正な一種の工夫、自分の望みを容易に実現すると思った〔それ〕を凝らした。すなわち、術知によって可能なかぎり最高の速度を出せるよう制作された戦車の軛に、当時のアルカディアで最速の馬たちをつないで、乙女の求婚者たちと競走したのである。追い抜いた者には彼女を勝利の褒賞とし、負ければ首を奪われることに決めた。さらにまた、戦車には彼女が彼らといっしょに乗ることを要求し、彼女のことに気がいって、馬を操ることがなおざりになるようにした。しかし彼らは、競走に最初に接した者が失敗し、乙女を生命もろともに失っても、一方では、競技を前に怯んだり、企てられたことをちょっとでも変えたりすることを、若造のやるようなことだと考え、他方では、オイノマーオスの残忍さを憎みつつも、各人各様に先を争って死んださまは、あたかも、乙女をめぐる死を得損なうのではないかと恐れているがごとくであった。かくて、人殺しは若者たち13人にまで及んだ。だが神々が、あの者のこの邪悪さを憎み、死んだ者たちと同時に乙女をも、前者はこのような所有物を失った故、乙女の方は適機に優美さを享受していない故に、憐れみたまい、競い合いをしようとする若者 — この人物こそペロプスであった — を気遣いたまい、術知でこしらえられたより美しい戦車と、不死なる馬たちとを、この者に恵みたまい、これによって乙女の主人となろうとし、そのとおりになって、勝利の果てに、義父を殺したのであった。

 [20] このように、美というものは人間たちにとって神的なものと思われ、万人に尊重され、神々によって幾様にも熱望されてきた。だからこそ、わたしたちだって、美についての以上の詳述が、役立つと推測するわたしたちをも、人は義しく非難することができないのだ」。

 以上のように、アリスティッポスも弁じ終わったんだ。

ヘルミッポス
 [21] 残るのは君だね、カリデーモスよ。美の言説に有終の美を飾ってくれたまえ。

カリデーモス
 全然、おお、神々にかけて、これ以上前進することをぼくに強要しないでくれたまえ。だって、今述べられたことでも、団欒を説明するのは充分だし、おまけに、どんなことをぼくが云ったのか、思い出せないんでね。ほかの人たちによって述べられたことを記憶する方が人は容易だからね、自分によって〔述べられた〕ことよりも。

ヘルミッポス
 ところがそれこそが、初めからぼくたちの出会いたいと思っていたことなんだよ。だって、君の〔発言〕を聞くことに関心があるほどには、あの人たちの弁論に〔関心がある〕わけではないから。だから、それを君が盗み取るとしたら、あれらのことも虚しいものとなりはてるな。いや、ヘルメースにかけて、初めに約束されたとおり、弁論すべてを引き渡してくれたまえ。

カリデーモス
 以上の〔弁論〕を歓愛して、ぼくを難儀から解放してくれると、もっと善いのにね。しかし、それほどまでにわれわれの弁論も聞くことを欲するからには、それをも奉仕せざるをえないな。さて、ぼく自身が弁じたのは、次のようにだ。


 「[22] もしも、当のわたし自身が、美について言い始めた最初の者だったとしたら、おびただしい前置きを必要としたであろうが、先に述べた多くの人たちにすぐ続いて述べるのであるからには、あのひとたちの〔言〕を、いわば前置きとして用いて、続けて弁論を表明しても、何ら不都合ではあるまい。なかんずく、この弁論が行われるのが他所ではなく、此処において同じ日のうちなのだから、そもそも、めいめいが勝手に話しているのではなく、めいめいが同じ話を順番に詳述しているのだということに、居合わせる人たちさえ忘れることができるほどなのだから。だから、あなたがたのめいめいが美について私的にたまたま云ったことは、別の人に祝福をもたらせば充分であるが、こなたには、今述べられている事柄以外に、後進たちにも、それ〔美〕への称讃に不足しないほどまでに超過である。なぜなら、〔美は〕多方面に最多〔の在り方をしていて〕、そのそれぞれを最初に言わなければならない、という思いを起こさせるからである。あたかも、花々の咲き乱れる草地で、間断なく現れる花が、摘もうとする者たちにその都度近づくように。そこでわたしは、すべての事柄から、省略しないのがより善いとわたしに思われるかぎりを選抜して、短く言おう、かつは美によって生ずることをあなたがたに支払い、かつは長話をやめにして、喜んでもらえることを果たせるように。

 [23] さて、勇ましさによってか、諸徳の中の他のある〔徳〕の点で、わたしたちを凌駕していると思われる人たちには、〔彼らが〕日々善い行いをすることによって、わたしたちが彼らに善くしてもらうよう強いるのでなければ、われわれは邪視しがちであり、結果として、彼らによって為される事柄が美しい情態にあることはないであろう。しかるに、美しいものは、その優美さの故に、われわれがこれを嫉視することはないのみならず、かつは直視して〔これに〕捕らえられ、かつは渇仰し、怯むこともない。あたかも、われわれにできるかぎり、勝者としての彼らに隷従するかのごとく。そういう次第で、そういうふうでない〔美しくない〕人に下命するよりも、優美さにあふれる人に聴従することの方が、人はより快適であり、全然何もいいつけないものによりも、多くのことを命じるもの〔美〕により多く感謝の念(cavriV)をもつだろう。

 [24] われわれが欠いているところの自余の善きものらについても、これを手に入れればそれ以上に熱心になることはないが、美については、もうたくさんということはわれわれの誰ひとりも絶対になく、たとえ、アグライエーの子〔ニーレウス〕、つまり、かつてアカイア勢といっしょにイーリオンに上陸した彼であれ、美しきヒュアキントス、あるいは、ラケダイモーン人ナルキッソスであれ、美しさの点でわれわれが勝ったとしても、われわれにはそれで満足と思われることはなく、知らぬ間に後進たちの追い越しに後れをとるのではないかと恐れてきたのである。[25] いわば、人間界におけるほとんどあらゆる行事の共通の半径、それが美である。将軍が軍隊を組織する際にも、弁論家たちが弁論を組み立てる際にも、もちろん画家たちが似像を描く際にも、美をなおざりにするはない。いや、美が目標の事柄だけを言い立てる理由がどこにあろう。というのは、必要不可欠になったことは、われわれができるかぎり美しくしつらえるべく熱心さに欠けることはないからである。例えば、メネラーオスにとって心を砕いたのは、館の必要性よりは、むしろ迎え入れられた者たちをどれほど驚倒させられるかということであり、だからこそ、このうえなく高価であると同時に最美なのをしつらえたのであり、その狙いを損じることはなかった。というのは、オデュッセウスの子〔テーレマコス〕は、言われているところでは、父親の消息をたずねて彼のもとにやってきた時、それ〔宮殿〕に驚嘆したあまり、ネストールの子ペイシストラトスに向かってこう云ったという。

おそらくオリュムポスに坐すゼウスの御殿の中庭ならばこんなでしょうか。〔Od. IV 74〕

また、この若者の父親である当のオデュッセウスも、ヘッラス人たちといっしょにトローイアに遠征すると、「両頬紅き」〔Cf. Il. II 637〕艦船を率いたのは、ほかでもない、見る者たちをして驚倒させられるからであった。また、およそ、諸々の術知をひとつひとつ精査することを望む人がいるなら、誰しもが美を志し、それを手に入れることを何よりも重要視していることを見出すであろう。

 [26] これほどまでに、美は自余のあらゆるものらを超越していると思われるので、義しさとか知恵とか勇気とかに与るものらよりもっと尊重されるものをひとは見出すことができるのだが、しかしこの形相(ijdeva)を共有しているものらよりも善いものは何も見つけられないのである。それはあたかも、〔美に〕与っていないものらよりも不名誉な〔無価値な〕ものは何もないがごとくである。とにかく、諸々の不美のみをわれわれが醜と名づけるのは、人がたまたまその他のものらを余分に所有していたとしても、何らかの点で美を欠いているなら、それは無だからである。[27] そういう次第で、民主支配される者たちにとっての共通事を統治する者たちにせよ、僭主たちに服従させられる者たちにせよ、前者を民衆指導者たち、後者を追従者たちとわれわれは呼ぶのだが、驚嘆はこの〔美の〕力の支配下にある者たちに対してのみで、これを労苦を愛する者(filopovnoV)たちとか美を愛する者(filokavloV)たちと呼び、諸々の美の修練者たちを共通の善行者とみなすのである。それゆえ、美がかくも気高いものであり、万人にとって祈りの部分であり、何らかの点でこれに仕えることができるのが儲けを手に入れることだとみなされているときに、人がわれわれを非難しないことにどうして道理があろうか、もしも、これほどの儲けを手にしながら、儲けることを自発的に放棄するよう説得するならば。われわれが罰せられるというそのことが感取することもできないのに。」

[28]
 たったこれだけだよ、ぼくも弁論をなした内容は。美についてぼくに云うことができた中から多くを省略したけど、それは、この団欒を長引かせると見てとったからなのさ。

ヘルミッポス
 幸せなことよ、このような団欒を君たちが享受したとは。ぼくも、君のおかげで、今、君たちにほとんど劣らぬ気分になれたよ。

2013.03.24. 訳了。

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