テレース作品集(1/8)
[底本] TLG 1699 TELES Phil. (3 B.C.: fort. Megarensis) 2 1 1699 002 Peri_ au)tarkei/aj, ed. O. Hense, Teletis reliquiae, 2nd edn. Tübingen: Mohr, 1909 (repr. Hildesheim: Olms, 1969): 5-20. (Q: 1,523: Phil.) 『自足について』 3."1t" 5.2 というのも、これ〔運命〕は、ビオーンの謂うには、女流劇詩人のように、時には主役の、時には脇役の、役割を割りあて、また時には王の、時には浮浪者の〔役割を割りあてる〕からである。だから、脇役でありながら主役を望んではならない。さもなければ、あなたは何か不似合いなことをする羽目になろう。 あなたは美しく支配し、わたしは支配される、と彼〔ビオーン〕は謂う、また、あなたは多衆の、しかしわたしはこのひとりの人の家庭教師(paidagwgo/j)である、またあなたは羽振りがよいから自由に与えるが、わたしはあなたから喜び勇んで受け取る、卑屈になることなく、生まれ卑しい者としてでもなく、非難がましい者としてでもなく。あなたは多くのものを美しく用いるが、わたしは少数のものを〔用いる〕。というのは、〔ビオーンが〕謂うには、高価なものが養育することはなく、またこれを用いることは有益でもないが、少数の安価なものなら、慎み (swfrosu/nh)や謙遜 (a)tufi/a)は伴わないでも〔用いる〕ことができるからである。 それゆえ、ビオーンが謂うには、諸々の事態が、わたしたちが〔持っている〕のと同じように、声を持っていて、釈明ができたとしても、彼〔ビオーン〕が謂うには、[貧しさが先に、「君、どうしてわたしと争うのか?」とは]云わないであろう。あたかも、家僕が神域に座って、その主人に向かって、「どうして、わしと争いなさるのか? お前さんに何ぞ隠し事をしたことなどないよな? お前さんからいいつけられたことはみなしたのではないか? 年貢もきちんとお前さんに払ってではないか?」と釈明するようなことはあるまい。「貧しさ」も、訴える者に向かって云うであろう。「どうして、わたしと争うのか? わたしのせいで何か美しいものを失ったというのではあるまい? 慎みを〔失った〕というのではあるまい? 義しさを〔失った〕というのではあるまい? 勇気を〔失った〕というのではあるまい? いや、必要なものらを欠いているわけではあるまい? むしろ、道々は草に満ち、泉は水をたたえているのではないか? 証拠なら、大地が〔提示できる〕かぎりのものをわたしはあなたに提示できるのではないか? 敷き布団の木の葉をも〔わたしは提供できるでしょう〕? あるいは、わたしといっしょに愉しむことができるのではありませんか? あるいは、老女が菓子を食べながら鼻歌を歌っているのをあなたは眼にするのではありませんか? あるいは、あなたが飢えたとき、無料の質素な副食をわたしが用意するのではありませんか? あるいは、飢えた人が食事をすることは最も快適であり、副食を必要とすること最も少ないのではありませんか? また、渇した人も、飲むことは最も快適であり、手許にない飲み物を期待することは最も少ないですね? あるいは、平菓子に飢え、雪に渇く人がいるでしょうか? しかし、それらを人間どもが求めるのは贅沢ゆえではないですか? あるいは、わたしはあなたに住居という恩恵を提供するのではありませんか、冬は風呂桶を、夏は神域を。というのは、ディオゲネースの謂うには、夏の間、どんな住まいがあるでしょうか、わたしにとって、涼しくて高価な、このパルテノーン〔神殿〕があるような、そんな住まいが」。 もしも、「貧しさ」がそう云ったら、あなたは何と反論できようか? というのは、わたしなら、一言もないと思えるから。いや、むしろ、わたしたちが責めるのは、ただただ自分たちの怒りっぽさ(dustropi/a)、不幸(kakodaimoni/a)、老い、貧乏、出会った相手、日、時刻、場所ばかりである。だから、ディオゲネースは謂うのだ、悪の声がみずからを、 わたしにとってこれらのことの責めは余人ならぬ、このわたし自身にある と責めているのを聞いた、と。 しかるに、多くの人たちは誤解して、原因を自分自身にではなく、事態に帰する。しかし、ビオーンが謂うには、獣の咬み傷はつかまえるときに生じるのであって、蛇の真ん中をつかむと、咬まれるが、頸を〔つかまえると〕何の害も受けない。そのように、彼の謂うには、事態についても、苦悩(o)du/nh)は受けとめ方によって生じるのであって、ソークラテースのように、それら〔事態〕をあなたが受け入れれば、苦悩しないであろうが、違った仕方で〔うけとめれば〕、悩むであろう。それは事態のせいではなく、自分の性格や虚偽なる思い(do/ca)のせいである。 それゆえ、事態を変えようと試みるのではなく、それ〔事態〕に対して自分がどうふるまえばいいのか用意するべきなのである。船乗りたちがそうするように。というのは、彼らは諸々の風や海を変えようと試みるのではなく、自分たちがそれらの方に向きを変えることができるよう用意するのである。晴天で、凪〔の時〕、彼らは櫂で航行する。追い風〔の時〕、索具を引きあげるのがつねである。逆風が吹いた。〔帆を〕たたんで、〔風を〕かわすのがつねである。あなたも、現状にしたがいなさい。〔すなわち〕老齢になった。若者のすることを求めてはならない。今度は病弱なった。[重荷を運んだり、軛に首を据えたりというように]強者のすることを求めてはならない、むしろ、ディオゲネースのように、病弱な人を押したり、軛に首を据える人がいれば、軛に首を据えることをせず、相手に柱を示して、「最善の人よ」と謂う、「この柱に立ち向かって、押したまえ」。また、行き詰まった。羽振りのよい人の暮らしぶりを求めてはならない、むしろ、大気を防ぐように(晴天なら、わたしは服をくつろげよう。寒天なら、服をひきしめよう)、手持ちのものについても同様である。裕福であれば、飽満にするがよい。行き詰まれば、引き締めるがよい。しかし、わたしたちが現状に満足することができないのは、贅沢をあまりに〔気に〕かけ、働くことや死を、諸悪の最たるものと判別する場合である。だが、あなたが誰かを快楽をも軽蔑する者、もろもろの労苦にも引き渡されない者、好評も不評も同等な者、死を恐れない者とするなら、あなたが何を望もうと、苦しむことなくそれを行うことができるであろう。だから、わたしが言っているように、老齢とか貧しさとか異国暮らしとか、事態そのものが何らかの不満な点を有しているようにはわたしは見ない。なぜなら、クセノポーンがうまく謂っていることだが、「もしもあなたに、同等の資産を分配した兄弟2人――ひとりはまったき困窮にあり、ひとりは満足している――を示したら、財産を責めるべきではなく、何か他のものを責めるべきなのは、明らかではないか?」。同様に、2人の老人、2人の貧者、2人の亡命者――ひとりはまったき満足と無心の内にあり、ひとりはまったき混乱の内にある――をあなたに示したら、責めるべきは老齢ではなく、貧しさではなく、異国暮らしでもなくて、何か他のものであることは明らかではないか? また、ディオゲネースが、アテーナイは高価な都市であると主張する人に向かってしたことだ。すなわち、その人をつかまえて、香水屋に連れて行き、ヘンナの瓶はいくらするのかと訊ねた。「1ムナ」と香水屋が謂う。彼〔ディオゲネースは〕叫んだ、「たしかにこの都市は高い」。今度はこれを料理屋に連れて行って、豚足はいくらするのか訊ねた。「3ドラクマ」。彼はうなった、「たしかにこの都市は高価だ」。今度は柔らかい羊毛屋に〔連れて行き〕、羊毛がいくらするのか〔訊ねた〕。「1ムナ」と謂う。彼はうなった、「たしかにこの都市は高価だ」。「それでは、こちらへ」と彼が謂う。そこから相手を連れて、ハウチワマメ市場にも行く。「1コイニクスあたりいくらかね」。「1銅貨」と謂う。ディオゲネースは悲鳴をあげる、「たしかにこの都市は高価だ」。今度は乾しイチジク屋に〔行くと〕、「銅貨2枚」。「ギンバイカは?」、「銅貨2枚」。「たしかにこの都市は高価だ」。ところが、都市が安価とか高価とかいうのは、そういう意味ではなく、人がしかじかの生き方をすれば、高価だが、しかじかの〔生き方を〕すれば、安価であるというように、事態も、これをしかじかの用い方をすれば、安楽で容易に見えるが、しかじかの〔用い方を〕すれば、厄介である。 それでも、やはり、貧しさは相当な厄介さと辛さを持っているようにわたしには思える。そうして、貧しさをもって老齢を耐えている人の方を、富をもって〔老齢を耐えている〕人よりも称讃しがちです。 いったい、貧しさがどんな難儀や苦労を有しているというのか? それとも、クラテースやディオゲネースは、貧乏人だったのではないか? いったい、謙譲者とか物乞いとかになって、安価で質素な生き方を用いることができる人たちの生き抜くことが、どうして容易でないことがあろうか。行き詰まりと借金に見舞われた。二枚貝と豆と、とクラテースは謂う、これらに付随するものらを集めよ。これをすれば、あなたが貧しさに対して勝利牌を立てるのは容易であろう。あるいは、貧しいにもかかわらず好機嫌に老齢を耐えている人を、富んでいながらそうである人よりも称讃すべき理由がどこにあろう。というのは、じっさい、富とはいかなるものであるか、あるいは、貧しさとはいかなるものかということは、知ることさえなかなか容易ではないからである。いや、それどころか、多くの人たちは老齢とともに富までも不機嫌に扱い、貧しさにいたっては卑屈に愚痴っぽく〔扱う〕。そうして、後者にとっても、富を自由人らしく気前よく〔扱うこと〕も容易ではなく、前者にとっても、貧しさを気高く〔扱うこと〕も〔容易では〕ない、どちら〔の事態〕もが同じであり、多くのことを同じ仕方で〔扱う〕人は誰しも、正反対のことにをも〔同じ仕方で扱う〕のである。 そうして、貧しい状況に満足できる間は、この人生に留まらねばならないが、そうでなければ、祝祭から〔立ち去る〕ように、[この人生からも]易々と立ち去るべきである。あたかも、ビオーンの謂うには、借家人が、家賃を払わないので、扉を取りあげられ、陶器を取りあげられ、井戸をふさがれたら、わたしたちは住居から出て行くように、そのように、彼の謂うには、賃借者たる自然が、両眼、両耳、両手、両足を取りあげられるなら、わたしならこの身体(swmati/on)からも出て行く。わたしはためらうことなく、何ら嫌がることなく、酒宴から立ち去るように、そのように、時期が来たら、この人生からも、「船の柵を踏み越えよ」。ちょうど、善き俳優は、序幕も善く、中間も善く、そして終幕も善いように、そのように善き人も、人生の初めも善く、中間も善く、そして最後も善い。そして、着物が古外套になったら、これを脱ぎ捨てるように、わたしは……生きのびることをせず、まして生に執着することもなく、もはや幸福であることができないのだから、この世を立ち去る。 ソークラテースも同様である。彼には、もし望むなら、牢獄から出て行くことができた……そして、裁判官たちが罰金を払うよう命じたにもかかわらず、彼は従わないどころか、逆にプリュタネイオンでの食事を求めた。そうして、3日間の猶予が彼に与えられたにもかかわらず、最初の日に〔毒を〕飲み、三日目の最後の刻限を、太陽が山の端にかかるかどうかを見張りながら待つということもなく、プラトーンの謂うところでは、[最初の日に]堂々と、顔も色も何ひとつ変えることなく、すこぶる快活に平然として杯をとって飲み干し、最後に滴をふりまいて、「これは」と彼は謂う、「美しきアルキビアデースに」。閑雅と可笑しみとを見よ。 わたしたちときたら、他人が死んでゆくのを眼にしてさえ、戦慄してきた。まして、死にゆかんとするときは、あまりに深い眠りに落ちるので、誰かを覚醒させるのもやっとのことである。わたしたちの中にも、すぐに永眠する者がいよう。…… また、〔ソークラテースは〕女房の気難しさにも穏やかに堪え、あの女が叫んでも、気にしなかった。それどころか、クリトブゥロスが、「あんな女といっしょに暮らしながら、どうして我慢できるのですか?」と云ったとき、「君こそ、君のところにいるガチョウたちにどうして〔我慢できる〕のかね?」。「ぼくにとって、あんなものがどうして気になるでしょう?」。彼が謂う、「ご同様、わたしにもあの〔女〕は気にならない、ガチョウの〔鳴き声〕を聞いているようなものだ」。さらにまた、彼がアルキビアデースを食事に招いたとき、くだんの女〔クサンチッペー〕がそばを通りぎわに食卓をひっくり返したところ、彼は叫ぶことなく、「おお、こんな女の仕打ちを受けるとは、何たる不法」といってひどい仕打ちを嘆くこともなく、落ちたものらを拾い集め、もう一度食卓につくようアルキビアデースに頼んだ。しかし、彼〔アルキビアデース〕が従わず、[恥ずかしさに]顔を伏せて座っていると、「それじゃ、外に出かけるとしよう」と彼が謂う、「どうやら、クサンチッペーがわれわれに癇癪を破裂させているらしいから」。 それから二、三日たって、彼がアルキビアデースのところで食事していると、すばらしい鳥が飛んできて、盆を覆したところ、彼は顔を伏せて、食事をとらなかった。そこでくだんの男が笑って、食事をしないのは、鳥が飛んできて覆したからですか、と訊ねた。「明らかに」と彼が謂う、「君は先日、クサンチッペーがひっくり返したとき、食事を続けることを望まなかったのに、今、小鳥がひっくり返したとき、わたしが食事をつづけると思うのか? それとも、あの女は、水っぱなをたらした小鳥と何か違っていると考えるのか?」。「いや、もしも豚が」と彼が謂う、「ひっくり返したのなら、君は怒らなかっただろうが、豚のような女が〔ひっくり返した〕ら、〔怒るというのか〕?」。可笑しみを見よ。 |