テレース作品集(3/8)
[底本] TLG 1699 TELES Phil. (3 B.C.: fort. Megarensis) 4 1 1699 004 Peri_ sugkri/sewj (ap. Stobaeum), ed. O. Hense, Teletis reliquiae, 2nd edn. Tübingen: Mohr, 1909 (repr. Hildesheim: Olms, 1969): 33-44. 5 (Q: 1,229: Phil.) 『貧と富の比較(A)』 33"1t" 33.2 いったい、どういうふうに? ある人たちは多くのものを思い通りに獲得するが、けちくささ(a)neleuqeri/a)とさもしさ(r(upari/a)ゆえに、これを使わないのをあなたは眼にするのではないか? いや、プリアモスのように、王座にはあえて座りもせず、 34.1 そうして、他人のところに招待でもされようものなら、猛烈に(e)kpaqw~j)享受するが、自分は、持っているのに、誰にも提供することなく、欲望を先延ばしにする。そうして、誰かが彼を家から追い出そうとでもしようものなら、そういう相手を敵とみなすが、自分自身を家から追い出すときは、敵だとは思わないのである。往古の人たちがこのことに反問するのも、わたしには無意味とは思われない。――飽くなさ(a)plhsti/a)、けちくささ(a)neleuqeri/a)、法螺(a)lazonei/a)から人間を解放しないものが、欠乏から〔解放する〕ことも、不足から解放することもない。そのようなものの何ひとつとして、飽くなさ(a)plhsti/a)やけちくささ(a)neleuqeri/a)や法螺(a)lazonei/a)から解放することはない。なぜなら、それらが性格(tro&pon)を変えることはないからである。例えば、富者から貧者になった場合には、慎み深い人たちであっても、貧しさがその〔性格を変えること〕はないからである。というのは、わたしに思われるところでは、ひとはこう云うことができよう――財産の獲得が、容色を、大きさを、[あるいは]容貌を変化させるのは、性格を〔変化させる〕よりもより速やかである。しかし、この人物が飽くなき者、けちくさい者、法螺吹き、怯懦な者であるかぎり、欠乏と不足のうちにあるだろうからである。 いったい、どうやって、この人たちは自分たちが持っているものに不足するのですか? 両替商たちはどうやって、とビオーンが謂っている、財産を持っていながら、それに不足するのか? 自分たち自身の財を持っていないからだ。たしかに、あの者たちも自分たちの〔財を〕持っていない。しかし、たとえ一時的にそれ〔財〕をあなたに預ける者がいたとしても、やはり、そういうふうに持っていることと持っていないこととは、それらを用いることができない場合には、等しいであろう。それとも、持っていないことは、次のような仕方で持っていることと、何か異なるところがあろうか。すなわち、ポルキュスの娘たちは、眼を保管〈して持っていたと言われる〉。そのため、彼女たちは囲いや穴や泥濘にはまったと。何も見えないのに、保管したままにしていたという。ついに、その眼をペルセウスが盗み取るときまで。 それとも、食べ物を持たないことと、決して味わうことのできないそれ〔食べ物〕をもっていることと、何か違いあるか……〔決して味わうことのできない食べ物とは〕魚やコバト、あるいはアイギュプトス人にとっての犬、あるいはヘッラス人にとっての人間の頭蓋だが。こういう〔食べ物〕は持っていても、持っていなくても、等しく食べ物に不足していることになる。だから、そういうふうに持っていることが何の益になろう。というのは、あなたも銀子を持っているが、さもしさと臆病(deili/a)のゆえに決して使うことをしないのだから。それゆえ、往古の人たちもこう言ったのは不適切ではない。すなわち、人間のなかには、財産を持っているものと、蓄えを持っている者とがいると謂った。なぜなら、前者は手持ちのものを使うが、後者は蓄えているだけで、自分たちのために散財することも、他の人たちのために分け与えることもしない。そうして、王とか権力者が、手持ちのものに封印した、触れることができないように、そういうふうに一部の人たちのけちくささ(a)neleuqeri/a)と(duselpisti/a)は、手持ちのものに封印して、触れることを許さないので、かれらは不足して、欠乏状態にあるのである。多くのものを欲望しながら、使うことができないからである。 それゆえクラテースも、「ところで、わたしが哲学者になったら、何がおこるのでしょうか?」と尋ね求めた者に向かって、「君はできるようになるのだ」と謂う、「財布を気易く開いて、手で取りだし、気前よく与えることが、そうして、今のように、身をよじったり、ぐずぐずしたり、震えたりすることなくね、まるで手の麻痺した人たちのように。むしろ、それ〔財布〕がいっぱいであれば、そういうふうに見、空っぽなのを眼にしても、悲しむことはない、そうして使うことを選んだら、易々とそうすることができ、持っていなくても渇望することなく、ありあわせのものに満足して生きるのだ、無いものを欲望することなく、出来事に不平をこぼすこともなく」。 そうして、もしも、ひとが自分で欠乏と不足から解放されたり、他人を解放したりすることを望むなら、そのひとをして財産を求めさせてはならない。なぜなら、ビオーンの謂っていることだが、水腫症患者の渇きを止めたいと望んで、その水腫症を治すのではなく、泉や川を彼に差し出す人がいたら、それと同じようなことだから。というのは、前者は渇きを止めるより先に、飲水で破裂するだろうし、後者もまた、決して満足できまい。飽くなき者、有名になりたがり屋、迷信家である場合には。それゆえ、あなたの息子の欠乏と不足を止めたいと望むなら、財産を獲得するようにとプトレマイオスのところに遣ってはならない。さもなければ、法螺までも身につけて帰ってきて、あなたは何の得るところもないであろう。いや、〔遣るなら〕[学園に]クラテースのところに。〔そうすれば〕彼は飽くない連中や贅沢な連中から〔雅量の〕自由で純真な人間を備えることができるのだ。 どうやら、あのメートロクレースも謂ったことらしいが、テオプラストスとクセノクラテースのもとで学究生活を送っていたとき、多くのものが家から彼に送られてきたにもかかわらず、彼は飢えで死ぬ恐れがあるほど、いつも不足して欠乏していたが、後にクラテースのもとに変わってからは、他人までも養うほどだったという、〔家から〕何も送られてこなかったにもかかわらずである。というのは、かつては、必要やむを得ず、靴を、それも縫い目のない〔=新品〕のを[靴釘を持たぬのを]、持っていなければならなかった、次には外套(xlani/j)を、童僕たちのお供を、大きな屋敷を、晩餐会用にはパンは清浄であるように、珍味は尋常ならざるもの、酒は甘いもの、歓待は相応なものである〔ようにしなければならない〕、どれほど金のかかることか! 彼らのところでは、このような生活ぶりが自由人らしい(e)leuqe&rioj)と判断されたからである。ところが、クラテースのところに変わってからは、そういうことは何ひとつなかった。むしろ、生活はより質素となり、襤褸外套(tri/bwn)とお粥(ma&zh)と野菜(laxani/on)で満足し、以前の暮らしを渇望することなく、目下の〔暮らし〕に不機嫌になることもなかった。 寒さに対しては、わたしたちならより厚手の外衣を求めるが、あの人は襤褸外套を二重にして、2枚の外衣を持っているように、身につけた。もしも塗油する必要があるときは、浴場に入ってゆき、使い古しで塗油した。また、時には、青銅鋳造所の炉のところに出向き、マイニスの揚げ物をつくって、オリーヴ油をかけて坐って食事をした。そして、夏は神域で、冬は浴場で眠った。以前のように不足を感じることなく、欠乏することもなく、ありあわせのもので満足し、召使いたちを持つことを欲望することなく。「なぜなら、驚くべきことである」と〈ディオゲネースは〉謂う、「もしも〔奴隷の〕マネースはディオゲネースがいなくても生活できるのに、ディオゲネースは、マネースがいなくては元気でいることができないとすれば」。 しかし、あなたが〔自分を〕法螺吹き、浪費家、迷信家、目立ちたがり、飽くことを知らぬ者にしたら、たとえ数多くの財産を与えようとも、あなたは何も得るところがないであろう。というのは、ピレーモーンがいうことは不適切ではない―― なぜなら、悪しき者たちは、飽くなき心を有しているからである。〔Theog. 109〕 そうして、子どもときには、壮丁となることを欲望し、壮丁となると、こんどは外套を着ることを求め、大人になると、今度は老年になることに真剣になる。しかし〔盛時にある〕今は、と彼は謂う、人生は生きがたい、出征、公共奉仕、政治活動〔があるから〕、学究生活を送る暇は[彼に]ない。年寄りになった。今度は若いときの事柄を欲望し、 家僕がいる。自由人になることに真剣である。それさえ手に入れれば、と彼は謂う、すべてを所有する。自由人になった。奴隷を獲得することをすぐに欲望する。それが彼のものとなった。別の〔奴隷〕を獲得することに真剣になる。なぜなら、と彼が謂う、1羽のツバメが春をつくるわけではないのだから。次には2羽〔を獲得すること〕、次には畑も〔獲得すること〕、次には……アテーナイ人となること、次には支配者になること、次には王になること、次には、アレクサンドロスのように、不死になることに〔真剣になる〕。これをも手に入れたら、思うに、ゼウスになることを欲望するであろう。 それでは、どうすれば、こういう人が欠乏しないですむのか? それとも、財産のいかなる所有が、このような欲望から解放するのか? 王たちはみずから広大な〔領地〕を統治し、莫大な歳入を有しているにもかかわらず、不足を感じないということがない、その結果、墓あばきもするし、神殿荒らしもするし、不法にも亡命者を輩出する。なぜなら、支配につくと同時に、必要なものが多いと妄想し、支配から降りることを選ぶこともなく、自分に関する事柄をつましく処理することもない。次いで、望みもし〈ない〉多くのことを強制されるからである。 しかし、人がこういったすべてのことに超然とするなら、大いなる充足〔不-欠乏〕(a)dei/a)と満足〔不-不足〕(a)spanisti/a)のうちにあることができよう。というのは、クラテースがいうことは不適切ではない―― |