テレース作品集(7/8)
[底本] TLG 1699 TELES Phil. (3 B.C.: fort. Megarensis) 8 1 1699 008 Peri_ a)paqei/aj, ed. O. Hense, Teletis reliquiae, 2nd edn. Tübingen: Mohr, 1909 (repr. Hildesheim: Olms, 1969): 55-62. (Q: 987: Phil.) 『無心について』 55."1t" 55.2 お望みなら、同じ例を使って言いましょうか、ザクロが「核(さね)無し」と言われ、人間が「胸無し」とか「首無し」と〔言われる〕ように、「誤謬無し(a)nama&rthtoi)」とか「物惜しみ無し(a)/fqonoi)」とかとも〔言われる〕と。そうして、そこにおいて「胸無し」と〔言われるの〕は、胸が無いという意味ではなく、そのような胸の者と言われているように、「心ない者(a)/frwn)」や「理性無しの者(a)/nouj)」も、心や理性が無いという意味ではなく、そういう心やそういう理性の者のことだと。そうして、「胸無し」の者は、胸を持ってはいるが、〔その胸は〕貧弱なものだとわたしたちが謂うように、「理性無し」の者も、理性を持ってはいるが、貧弱なものだし、「心無し」の者も、心を持ってはいるが、貧弱なものを、〔とわたしたちは謂うのだね〕。それとも、こういう言いまわしが創作されたということは、まったく滑稽なことだね。 ところが、ちょうど、無罪の者とは、罪のない者のことであり、物惜しみ無しとか邪眼無しとかは、〈物惜しみや邪眼のない者〉のことであり、お節介無しとか愚痴無しとは、そういったものらのそれぞれがない〈者〉のことであるように、苦痛無しとか恐れ無しとかも、苦痛や恐れのない〈者〉のことだね。というのは、幸福者も同様で、煩悩(pa&qoj)とか迷妄(taraxh~)がない[者]であろうから。だが、悲しみや苦痛[のうちにある人]や恐れのうちにあるような人、その人がどうして人生に満足できようか、あるいは、満足できない人が、どうして幸福でありえようか? あるいは、苦痛が触れるなら、どうして、恐れも苦悩も怒りも憐れみもないなどということがあろうか? なぜなら、それらが具わるからこそ、人間どもは苦しむのであり、それらの予想のうちにあるからこそ、恐れ、苦悩し、不当にもそれらに見舞われたと思われる人たちを憐れみ、選択意志で心にいだく人たちに怒り、義憤し、猜疑する。そうして、自分たちの憎む相手が、羽振りがいいのを眼にすると、羨み、妬み、また、何か災悪がふりかかったと聞くと、歓喜するのである。だから、もし、苦痛のうちにあるなら、どうして、何らかの煩悩なしでいられようか? それとも、何らかの〔煩悩〕を持たないではいられない者が、どうして無心(a)paqh&j)でいられようか? 浄福者であるに違いない所以は、それゆえ、友の〔命終〕にも生子の命終にも苦悩することなく、自分自身の〔命終〕にさえも〔苦悩することが〕ない。それとも、男らしくない者たちとは、自分自身の死を受け容れるのに気高くも雄々しくもない連中のことだとあなたに思われるのではないか? それとも、勇敢(eu)/cuxoj)で男らしい者は、勇敢に(eu)/cu&xwj)自分自身の死を耐えねばならないのではないか、ソークラテースのように、心痛することなく、不機嫌になることもなく。それとも、他人の命終と自分自身の〔命終〕とを区別することは、相当難しいことなのであろうか? それとも、彼は自分自身を同様に喜び愛するのではないか? それとも、友や生子の方を自分自身よりも〔愛するの〕か? そうして彼らはこの女の言いつけをば称讃する―― さらにまた、他の女性も、息子が戦闘中に亡くなったと、伝令使が彼女に伝えたとき、「〔死にざまは〕どんなふうでしたか」と彼女が謂う。「善勇の士でした、おお、ご母堂よ」。「でかした、おお、わが子よ」と謂う、「このためにこそ、おまえを」と謂う、「生んだのですから、スパルタのために有為の士、助けとなるようにと」。彼女は泣いたり愁嘆したりすることなく、〔息子が〕勇敢であったと聞いて、〔息子を〕称讃したのであった。 さらに、あのラコニア女性も、何と気高いことか。というのは、自分の息子たちが戦闘から逃げ帰り、自分のところにたどりついたとき、「どこへ」と彼女が謂う、「逃げてゆくつもりだえ? それとも、おまえたちが出てきたところ、ここにもぐりこむつもりかえ?」。〔着物を〕たくし上げて、彼らに〔秘所を〕示しながら。わたしたちのところの女たちの中にも、こんなことをする者がいるかどうかを見よ。いや、〔息子たちが〕無事なのを見て〔女たちは〕喜ぶのではないか? しかるにあの〔ラコニアの〕女性たちはそうではなく、勇敢に死んだ者たちを〔見て〕快とする〈……だから〉こう書き加えもするのだ―― わたしたちも、わたしたちの肢体についてそんなことはしない。というのは、滑稽なことであろうから、ひとが片方の眼を失ったからといって、もう一方の〔眼〕も抉り出さねばならないとしたら、また、1本の足がびっこだからといって、もう一方の足まで不具にするとしたら、1本の歯の場合に、ほかのものまで抜歯するとしたら。いや、こういうことについては、そういうふうに考える人がいたら、狂人であろう。 ところが、息子が命終したときには、あるいは妻が〔命終したときは〕、自分が生きていることをないがしろにし、手持ちのものまで台無しにする〈らしい〉ね。そして、誰か知己の息子ないし妻が亡くなった場合は、あなたは慰めるだろう、男らしく雄々しくすべきであって、自暴自棄になってはならないと思うからである。ところが自分が同じ不遇に出くわすと、そういうふうに自棄になって、平静でいるべきではないと思う。他人が煩悶と行き詰まりにあるときは、気塞ぎになってはならない、人生を生きがたいと信じてもならない、災悪と思われるものには善と思われるものを対置し、「友が逝ってしまった」と「現に生きている」とを同一視するよう、慰めるのが適切だと思うからである。しかるに、あなたは、逝ってしまったということは、不運だと思い、生きているということは、幸運だとは思わない。そして、逝ってしまった者がもはや有用さを提供できないのは、惨めだが、存命中に提供したから、浄福だとは〔思わ〕ない。 そうです。もはや彼はいないのですから。 じっさい、彼は1万年前に生きたのでもなければ、トロイア戦争時代に生きたのでもない。じっさい、あなたの曾祖父の時代に生きたのでもない。それなのに、あなたは、この人のために憤慨することなく、これから先までいないということに不機嫌になっているのである。 だって、有用なものをわたしは失ったのですから。 じっさいまた〔失うのは〕、あなた自身が、生子や友のために、その存命中に捧げた奉仕や、苦難や出費もだよ。 というのは、不明だとソークラテースは謂っている、美しい女を〔娶る〕者にとって、その女のおかげでより多くを得られるかどうかばかりか、生子や友たちを持つ者にとって、それらに関してより多くを得られるかどうも。 それでは次に、また、有用なものを失うのは、彼が出郷中とか、祖国のために出征中とか、祭使となって神事に専念しているときとか、病気中も、年取ったときもだ。いや、こういったことすべてのせいで不機嫌になるとしたら、老婆たちのためにあなたは何をとっておくのか? たしかに不合理なことです、一方では、出征や出郷は友の責務で、本人も同意している、それなのに出郷しなければ、罪を犯した者として訴えると同時に、他方では、出郷したり出征したりすることに自棄になるというのは。あの操舵手がいったことが美しいでしょう、「何はともあれ、おお、ポセイドーンよ、〔航路が〕直くありますように」。そのように、善き人も運命に向かって云うでしょう、「何はともあれ、只人、しかも愚鈍ならざる只人でありますように」。
2006.04.28. 訳了。 |