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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 2

砂漠の師父の言葉(Anomy1)
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(T192-215.)

忍耐と自制について我らを塗油する話

(192.)
 老師が云った。「試練が人に起こったら、彼にはあらゆる方向から迫害が増える、意気阻喪させ、囁くためである」。そうして老師は次のように話した。「ある兄弟がスケーティスにいたが、試練が彼に起こった。そうして、ある人が彼を見たら、彼に挨拶しようともせず、修屋に招き入れることもせず、パンを必要としても、誰ひとり彼に貸す者なく、また刈り入れから帰っても、誰ひとり愛餐のため、いつもどおりに教会へと励ます者もなかった。さて、ある日、刈り入れから帰ったが、自分の修屋にパンを持っていなかった。そうして彼は、そのすべてにに感謝した。するとは彼の忍耐を見て、試練の戦いを彼から除かれた、すると、見よ、パンを満載した駱駝をアイギュプトスから連れた或る者が彼の戸を叩いた。すると兄弟は号泣し言いはじめた。「主よ、わたしはわずかな迫害を受けるにあたいしないのですか?」。かくて試練が過ぎると、兄弟たちは彼を自分たちの修屋と教会に呼び、休ませたのであった。〔主題別7-29〕

(193.)
 何人かの兄弟たちが砂漠に偉大な老師を訪ね、彼に云った。「ここでどのように堅忍しておられるのですか、師父よ、この労苦を忍耐して」。すると老師が云った。「ここでわしが実修しているわしの労苦の時間は、まだ懲罰の1日にも足らぬ」。〔N423、主題別7-32〕

(194.)
 老師が云った — 昔の人たちは、次の3つの場合以外には、自分たちの場所をさっさと移り変わることはしなかった。自分に対して誰かが何らかの苦痛を持っているとわかり、自分の慰めのために万事を為し、彼が変わることができない場合か、あるいはまた、自分が多衆によって栄化されることになった場合か、あるいは、邪淫の試練に取り囲まれた場合である、と。〔主題別7-33〕

(195.)
 兄弟がある老師に云った、いわく。「どうすればいいのでしょうか、諸々の想念がわたしを押し潰そうとするのです、いわく。『おまえは断食できず、働くこともできず、病人たちを見舞うだけで、それだけで施しなんだから』と」。すると老師がダイモーンたちの種子を見て彼に言う。「喰え、飲め、眠れ。ただし、修屋を離れることだけはするな、修屋の忍耐が修道者を自分の持ち場に運ぶのだと知って」。そうして、3日間実行して、懈怠に陥ったが、わずかな〔ナツメヤシの〕枝はを見つけ、これを切りそろえた、そして翌日、再びこれを編み始めた。そして飢えて云った。「見よ、他にもう少し枝葉がある、これを編もう、そうして食べとしよう」。そうして枝葉をこしらえるや、再び云った。少し読もう、そうしてから食べよう」。そうして読むと言う。「詩篇を少し朗誦しよう、そうして煩いなく食べることにしよう」。じつにこういうふうにして少しずつ前進した、自分の持ち場に至るまで、が共働してくださったからである。そうして勇んで、諸々の想念に対してこれに勝利したのである。〔主題別7-34〕

(196.)
 老師が尋ねられた。「何ゆえ懈怠に陥るのでしょう、わたしの修屋に坐っている時に」。すると彼が答えた。「希望される平安も、あるはずの懲らしめも、そなたがまだ見たことがないからじゃ。なぜなら、もしそれをはっきり目にし、そなたの修屋が蛆虫でいっぱいになり、首までそれに浸かっているなら、懈怠に陥らないですむだろう」。〔主題別7-35〕

(197.)
 老師たちのひとりに、あまりに大きな労苦をやめるよう兄弟たちが頼んだ。すると彼は彼らに答えた。「そなたたちに言う、わが子たちよ、— アブラアームはの大いなる賜物を目にしたとき悔やまねばならなんだ、もっと多くの闘いをしなかったゆえに」。〔主題別7-36〕

(198.)
 兄弟がこう言って老師に尋ねた。「わたしの諸々の想念は徘徊し、わたしは擂りつぶされます」。これに老師が言う。「そなたの修屋に座れ、そうすればそれらはもとどおりになろう。例えば牝驢馬が繋がれ、その仔があちこち跳ねまわってどこに行こうと、自分の母親のもとにもどってくるように、のおかげで自分の修屋の中に確固として或る者の諸々の想念もまた、しばらくは徘徊しても、再び自分のもとに立ち帰ってくるものじゃ」。〔主題別7-37〕

(199.)
 ある老師が、水場から12ミリアの隔たりがある砂漠に坐していた。一度汲みに出かけて、意気消沈して云った。「この労苦の必要性は何か? 出かけて行って、水場の近くに住もう」。そしてこう云って引き返しかけたが、或る者が自分についてきて、自分の歩数を数えているのを観た。そこで彼に尋ねた、いわく。「あなたは誰ですか?」。相手が云った。「わたしは主の使い、そなたの歩数を数え、そなたに報酬を与えるよう遣わされた者です」。これを聞いて老師は元気づけられ、熱心になり、さらに5ミリアを付け足したのであった。〔主題別7-38〕

(200.)
師父たちが言うを常としていた。「そなたが住んでいるその場で試練がそなたに起こったなら、そなたに見舞った試練の場を後にしてはならぬ、さもなければ、どこであれそなたが立ち去ったそこに、そなたが避けたものをそなたの前に見出すであろう」。しかるに、試練が過ぎ去るまで留まるなら、そなたの隠修は躓きなきものとなり、その結果、そなたの出離がその場に住持する者たちに何らかの悩ましさを惹起することもない」。〔主題別7-39〕

(201.)
共住修道院に、ある寂静主義者の兄弟がいたが、たえず怒りに衝きうごかされていた。そこで心中に言う。「立ち去ろう、独りで隠修しよう、そうしてわしが誰かと何にも関係を持たず、静寂を保てば、わしの情動は止むだろう。そこで出て行って、洞窟に独り住んだ。さて、ある日のこと、壺に水を満たし、地面に置いたら、突然ひっくり返った。そこで取って、もう一度これを満たしたが、再びひっくり返った。次いで三度目にこれを満たしたが、ひっくり返った。そこで立腹して、それを引っつかんで、これを砕いた。しかし我に返って、ダイモーンに弄ばれていることを悟って、云った。「見よ、独りで隠修しても、わしは負かされた。それなら、共住修道院に戻ろう。どこにいようと、戦いと忍耐との助けが必要なのだから」。そうして立ち上がって、自分の共住修道院に戻っていった。〔主題別7-40〕

(202.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、師父よ、修道者らしいことが何もできず、食べるにしても飲むにしても眠るにしてもひどく不注意で、恥ずべき想念や多くの迷いの状態にあるのです、為業から為業へ、想念から想念へと移ろって」。すると老師が云った。「そなたはそなたの修屋に坐しおれ、そなたのできることを迷いなく為せ。そなたが今為す小さなことが、かつて師父アントーニオスが砂漠で為した偉大な為業のごとくであることを望み、また、の名によって自身の修屋に坐し、おのれの意識を見張る者は、本人も師父アントーニオスの仕方を見出すであろうとわしは信じる」。〔主題別7-41〕

(203.)
 誰かが還俗するのを見ても、真面目な修道者が躓かないためにはどうすべきか、と老師が尋ねられた。すると云った。「犬たちが兎たちを追跡するのを観察すべきである。すなわち、あたかも、彼らの中の一匹が、兎を見つけて追いかけると、残りのものたちは、追いかけている犬だけを見て、ある程度は走るが、やがてもとに戻ってくるが、兎を見つけたあの犬だけは、追いつくまで追いかけ、引き返した連中に走路の目的を邪魔されることがなく、崖や森や棘を気にすることもないばかりか、茨に満たされ、しばしば傷だらけになっても、休むことがない。主人であるクリストスを求める者も同様で、十字架にかけられた方に達するまでは、自分に遭遇するあやゆる躓きを踏み越え、たえず十字架に傾注しているのである」。〔主題別7-42〕

(204.)
 老師が云った。「樹木がたえず植え替えられていると、実りをもたらすことができないように、修道者も場から場へ渡り歩いていると、実りをもたらすことがない」。〔主題別3-9、7-43〕

(205.)
 兄弟が、自分は修道院から出て行こうという諸々の想念にたかられて、自分の師父に報告した。すると相手が彼に言う。「行け、そなたの修屋に坐せ、そうしてそなたの身体を担保として、そなたの修屋の壁に委ねよ、そうしてそこから出て行くな。想念をして望むがまま思量するに任せるがよい、ただ、そなたの身体をそなたの修屋から出すな」。〔主題別7-45〕

(206.)
老師が云った。「修道者の修屋はバビュローニアの炉で、そこでは3人の子どもたちがの息子を見つけ、がモーウセースに話しかけた雲の柱もある」。〔主題別7-46〕

(207.)
 兄弟が、9年間、共住修道院から出て行こうという〔想念と〕戦いつづけ、毎日、出て行くために自分の僧服(mhlwtavrion)を用意しながら、晩になると心中に言うを常とした。「明日、ここから出て行こう」。しかし夜明けには想念に言うのであった。「今日は主のためにも堅忍すべくわたしたちはおのれを強制しよう」。こういうふうにして9年間を満たしたとき、はあらゆる試練を彼から軽くし、彼は平安を得たのであった。〔主題別7-48〕

(208.)
 ある兄弟が邪淫に陥り、迫害ゆえに修道者の規則を放棄したが、再開しようとしたものの、迫害に妨害された、心内にいわく。「かつてあったようにおのれを見つけ出すことはいつできるのであろうか?」。そうして失望のあまり、修道者の業をはじめることができなかった。そこである老師のもとに赴き、これに自身のことを説明した。老師は彼の迫害の件を聞いて、彼に次のような手本を授けた、いわく。「ある人が地所を持っていたが、それを等閑にしたため荒れ地となり、藺草と茨に満たされた。その後、この地所を美化するのがよいと彼に思われ、自分の息子に言う。「行って、地所を綺麗にせよ」。そこで彼の息子はそれを綺麗にするため出かけて行ったが、多くの藺草と茨を見てがっかりした、心内にいわく。「これをすべて引き抜き、ここのすべてを綺麗にするなんて、いつできることやら」。そうして横になって眠りはじめた。そうして何日もそうしていた。その後、彼の父が、彼がどうしているか見るためにやって来た。そうして彼が何も働いていないのを見て、彼に云った。「今まで何もしていないのはなぜか?」。そこで若者が自分の父親に云った。「働き始めたばかりです、父上、藺草と茨の多さを見たうえで、迫害に押しひしがれましたが、心をけっして、眠ったのです」。このとき彼の父親が彼に言う。「わが子よ、そなたの寝台の上と同じく、日々のことを為すがよい、そういうふうにすれば仕事は進み、失望することはなかろう」。相手は聞いてそのとおりにし、わずかな期間にその地所は奇麗になった。されば、そなたも同様じゃ、兄弟よ、少しずつ働け、そうすれば失望することはあるまい、そうしても、その恩寵によって、そなたのもとの状態へともう一度そなたをもどしてくださろう」。兄弟は立ち去り、忍耐をもって決心し、老師に教えられた通り実習した。じつにそのようにして安息を見出し、クリストスによって前進したのであった。〔主題別7-49〕

(209.)
ある老師がいた、しかしたえず具合が悪くて病気だった。ところが、1年間、彼が具合が悪くなることがないことがあったが、ひどく不機嫌になり悲哭した、いわく。「はわしをお見捨てになった、わしを視察してくださらぬ」。〔主題別7-50〕

(210.)
 老師が云った。— ある兄弟が9年間想念に試みられた結果、彼は自分の救いをあきらめ、敬虔さからおのれを断罪した、いわく。「わたしの魂を失いました、失ったからには、世俗にもどろう」。しかし彼が立ち去っている途中、道中で彼に声が聞こえてきた、いわく。「そなたが試みられたこの9年間、花冠はそなたのものであった、そなたの場所に引き返せ、そうすればそなたを諸々の想念から軽くしてやろう」。諸々の想念ゆえにひとがおのれに失望するのは美しくない、むしろ、これら〔諸々の想念〕こそが、これらを美しく扱えば、われわれに花冠でもてなしてくれるのだと知れ、と。〔主題別7-51〕

(211.)
 ある老師がテーバイの洞窟に坐していたが、ある経験を積んだおのれの弟子を持っていた。毎夕、益のためその弟子に勧告し、勧告のあと祈り上げ、彼が眠るために解散するのが老師の習慣であった。ところが、あるとき、敬虔な在俗信徒たち数人が、老師の多大な修行を見て、来訪し、彼らに勧告を与えるということがあった。そうして彼らが立ち去ったあと、夕方、老師は再び坐した、勤行の後、習慣どおり兄弟に訓戒するためである。そうしてこれと交わっているうち、居眠りに陥ってしまった。兄弟の方は、老師が眠りから醒め、いつもどおりの祈りを自分にするまでとどまっていた。かくて長い間坐していたが、老師は眠りから醒めなかったので、解散の辞の前に去って眠るという諸想念にたかられた。しかしおのれを強制して想念に抗し、とどまっていた。しかしまたもやたかられたが、去らなかった。同様に7度たかられたが、その想念に抗した。その後、夜が更け、老師が眠りから醒め彼が傍に居るのを発見してこれに言う。「今まで去らなかったのか?」。相手が云った。「はい、わたしを解かれなかったものですから、師父よ」。老師が云った。「どうしてわしを起こさなかったのか?」。相手が謂った。「あなたを敢えて起こしませんでした、あなたの邪魔をしないために」。
 そこで彼らは立ち上がって、朝課を実修し、祈祷会のあと老師は兄弟を解放した。そうしてひとりで坐すや、法悦にひたり、見よ、或る者が彼に栄光の場所と、そこにある王座と、王座の上に7つの花冠を示していた。示す者に尋ねた、いわく。「これは誰のものですか?」。相手が彼に云った。「そなたの弟子のものです。場所と王座は、彼がこの世から去るときのためにが彼に授けられた。7つの花冠は今夜彼が手に入れたものだ」。これを聞いて老師は驚き、恐れをいだき、兄弟を呼んで彼に言う。「どうかわしに云ってくれ、今夜そなたは何をしたのか?」。相手が云った。「どうかわたしをお許しください、師父よ、何もしておりませんが」。老師が、謙遜して告白しないのだと思って、彼に云った。「今夜何をしたか、あるいは、何を思いめぐらしたかわしに云わないなら、そなたを勘弁せぬ」。しかし兄弟は、何ら自覚的にしたことがないので、何を云ったらいいか行き詰まった。そこで老師に言う。「どうかわたしをお許しください、師父よ、何もしておりませんが、ただ、あなたの解散の辞なしに引き上げようという諸想念に7度たかられましたが、去らなかったという以外は」。老師はこれを聞いて、その想念に交戦した回数だけに花冠を授けられたと気づいたが、兄弟にはそのことは何も陳べず、益のためにこれを師父たちに話したのであった、小さな思いめぐらしであれ、はわれわれに花冠をお恵みになるということをわれわれが知るためにである。されば、ゆえにおのれを強制することは美しいのである。『諸天の王国は暴行されるが、暴行者たちはそれ奪い去られる』〔マタイ11:12〕。〔主題別7-52〕

(212.)
 あるとき、ケッリアで単独で坐していたある老師が病気になった。しかし自分に仕える者を持たなかったので、修屋で起き上がり、何でも見つけたものを摂った。そういう次第で、何日も彼は過ごしたが、誰も彼の見舞いにやって来なかった。30日が過ぎても誰も彼のところにやって来なかったので、彼に給仕するようが御使いを派遣した。そうして7日が過ぎたとき、師父たちが老師を思い出し、互いに云いあった。「出かけよう、老師何某がまだ病気か見よう」。そういう次第でやって来て、戸を叩くと、御使いは引き上げた。そして老師が中から叫んだ。「ここから去れ、兄弟たちよ」。しかし戸を押し開けて中に入り、彼に尋ねた。「どうして叫ぶのか?」。相手が彼らに云った —。「30日間疲弊したが、誰ひとりわたしを見舞いに来なかったが、見よ、がわしの給仕に御使いをお遣わしになって7日になる。だがそなたたちがやって来たので、わしから離れた」。こう云って老師は永眠した。兄弟たちは驚き、を栄化して、いわく —。「主は自分に希望をいだく者たちをお見捨てにならない」。〔主題別7-53〕

(213.)
 老師が云った。「身体的病がそなたに及んでも、意気消沈するな。そなたが身体的に具合悪くなることをそなたの主人が望んでおられるのに、不機嫌になるそなたは何者か? あらゆる事柄においてそなたをご自身が気にかけておられるのではないか。まさかあの方なしにそなたが生きられることはあるまい? されば、辛抱し願え、がそなたに益となることをくださるよう、それこそがあの方のご意志である。そうして寛大さを持って愛餐を食しつつ坐せ。〔主題別7-54〕

(214.)
 師父たちの或る者が語り伝えている、いわく —。「わしがオクシュリンコスにいたとき、土曜の晩、愛餐に与ろうと物乞いたちがそこにやって来た。そうして彼らが眠っているとき、敷物を1枚だけを、半分は自分の上に、半分は自分の下に、持った者がそこにいた。このときはすこぶる寒かった。さて、手水に出て行こうとしたとき、彼が寒さから歯の根が合わぬを聞いたが、彼はおのれを励ましていた、いわく。「あなたに感謝します、主よ、どれほどの富者たちがいま牢獄で鎖につながれ、他の者たちは足を枷に繋がれ、おのれの手水さえ使うことができないことでしょう。しかるにわたしは王者のよう、わたしの足をのばし、好きなところに行けるのです」。わしは彼がこれを言うのを聞きながら立ちつくしていた。そして出て行くと、これを兄弟たちに話し、聞いて益されたのである。〔主題別7-56〕

(215.)
 兄弟が老師たちの或る者に尋ねた、いわく。「ある場所にいて、迫害がわたしに襲いかかり、ある人に報告するだけの信頼をその人に持っていない場合、どうしたいいのでしょうか?」。老師が言う。「わしはを信じておる、ご自身がその恩寵をお送りになり、そなたがあの方を真に求めれば、そなたを信じてくださる、と。というのは、わしは聞いたことがある — スケーティスで次のような事件が起こった、と。つまり、ある隠修者がいて、或る者のところに行くだけの信頼を持っていなかったが、隠棲するため自分の毛皮の外套を用意していたところ、見よ、その夜、の恩寵が処女として彼に現れ、彼を励ました、いわく。『けっして出かけてはならぬ、もう少しわたしと坐せ、そなたが聞いたような悪は何も生じないのだから』。そこで説得されて坐し、彼の心はすぐに癒やされたのじゃ」。〔主題別7-57〕


(T216-253.)

眼識(diakrivsiV)について

(216.)
 兄弟が師父たちの或る者に尋ねた、汚れた想念を思量する者は汚れるのかどうか、と。これに関して検討が持たれ、或る者たちは「然り、汚れる」と言い、或る者たちは「否、〔さもなければ〕われわれ素人が救われるのは不可能であって、それらを身体的に実行するのではないということが、その理由である、と。そこでこの兄弟は経験ゆたかな老師のところに出かけて行って、この件に関して彼に尋ねた。これに老師が言う。「各人の境位は、その人に求められる」。そこで兄弟が老師に頼んだ、いわく。「主のために、その言葉を解いてください」。これに老師が言う。「見よ」と彼が謂う、「ここに欲しい品がある、そうして二人の兄弟がここに入って来た。一人は大きな境位を有し、別のひとりは劣っているとせよ。完徳者の想念が、『この品を持ちたい』と云ったが、とどまることはせず、すぐに切り捨てたなら、彼は汚されなかったのだ。しかしもう一方の者は、大いなる境位にいまだ達していないので、欲求し、その想念の中で駄弁るなら、それを取り除かなくとも、〔やはり〕汚れていない」。〔主題別10-112〕

(217.)
 老師が云うを常とした。— あるとき、ある人が重い罪に墜ち、悔い改めに苛まれて、ある老師に報告すべく出かけて行ったが、これに云ったのは、〔自分の〕行いではなく、もしある人にこれこれの想念が起こったなら、救いはありますか、ということだった。彼にその人は、眼識に無経験だったので、答えた。「おのれの魂を失っておる」。そう聞いて兄弟は云った。「もしわたしが失っているなら、世俗に還るのが美しいだろう」。しかし帰る途中、自分の諸想念を、行って師父シルゥアーノスに報告することを思いついた。ところで、この師父シルゥアーノスは偉大な明視者であった。さて、兄弟は彼のところに行って、彼にその行いを云ったが、同じ恰好でであった。「ある人にこれこれの諸想念が生じた場合、救いはあるでしょうか?」。師父は口を開き、〔聖〕書から言いはじめた。— 諸想念にとってその裁きはすべてではない、と。これを聞いて兄弟は、善望が生まれたので、彼に行いをも報告した。これを聞いて師父は、美しい医者のように、的な書の助けを借りて、のもとに真に立ち帰る者たちにとって悔い改めがあると、彼の魂に石膏を塗った、そうして、わたしの師父(ajbba:)が師父を訪ねたとき、以上のことをこれに物語った後、言った。「見よ、みずからに失望し、世俗に下がろうとしている者が、兄弟たちの中で星のごとくであるのを」。わしが以上のことを物語ったのは、諸々の想念であれ諸々の逸脱であれ、眼識なき人たちに報告することが、どれほど危険かをわれわれが知るためである。〔主題別10-100、122、vgl. 5-4〕

(218.)
 老師が云った。「われわれにとっての有罪判決とは、諸々の想念がわれわれの中に入りこむことではなくて、諸々の想念を悪く用いることであって、実際、難船するのは諸想念のせいであり、花冠を享のも諸想念のせいである」。〔主題別10-123〕

(219.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、わたしに戦いを仕掛ける諸想念が数多く、それらとどう戦ったらいいかわからないのですが」。これに老師が言う。「それらと戦うのではなく、ひとつと戦え。なぜなら、修道者たちの想念はすべてひとつの頭を持っているからだ。されば、この頭に対して、いかなるものであるかを熟考し、これと戦うべきである、そうすれば、諸々の想念はへりくだる」。〔主題別10-125〕

(220.)
 悪行をなす諸想念について、同じ人物が答えた。「願わくは、兄弟たちよ、わしが諸々の行為をやめたごとく、諸々の思いめぐらし(ejnquvmhsiV)をもやめよう」。 〔主題別10-126〕

(221.)
 老師が云った。「砂漠に住むことを望む者は、教えられる者たるべきであって、教えることを必要とする者ではない、害されないためである」。〔主題別10-127〕

(222.)
 老師が尋ねられた。「どうすればを見出せるのでしょうか?」。すると云った。「諸々の断食のうちに、諸々の徹宵のうちに、諸々の労苦のうちに、憐れみのうちに、これらに加えてまた眼識のうちにも。そなたに言っておこう、多くの者たちは自分たちの肉を眼識なきままに磨り潰して、何ら得るところなく虚しく立ち去っていった、われわれの口が臭うのは断食のせい、われわれが〔聖〕書を知ったのは胸を通して、ダウイド〔の詩篇暗誦〕を完全に行うが、が求めるものをわれわれは持たない、つまり、愛と謙遜を」。〔主題別10-135〕

(223.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「師父よ、見よ、わたしの魂の救いについてわたしは老師たちに願い、彼らがわたしに言いますが、わたしは彼らの言葉から何もつかめません。もう一度彼らに願うか、何もしないか、どうでしょうか? わたしはまったく不浄ですので」。さて、そこに2つの空の容器があったが、彼に老師が言う。「下がって、容器のひとつを持って、オリーブ油を入れ、これを洗え。そうして入れ替えて、その場所に置け」。彼は一度、二度そのとおりにすると、またこれに言う。「今度は2ついっしょに持ってこい、そうして、どちらがより綺麗か見よ」。これに兄弟が言う。「オリーブ油を入れた方です」。これに老師が言う。「魂も同様である、尋ねた事柄が何も残っていなくても、全然尋ねなかった者よりもより綺麗なのじゃ」。〔主題別10-136〕

(224.)
 兄弟が静寂を保って坐していたが、ダイモーンたちが彼を惑わそうと、天使たちのふりをして現れ来たり、彼を礼拝集会のために起こし、彼に光を示した。そこで彼はある老師を訪ね、これに云った。「師父よ、天使たちが光を持ってやって来て、わたしを礼拝集会に起こすのです」。これに老師が言う。「連中に耳を貸してはならん、わが子よ、ダイモーンたちなのだから、むしろ、そなたを眠りから起こしにやって来たら、言え。『わしは好きなときに起きる、おまえたちのいうことは聞かぬ』。そこで兄弟は老師の指図を受けて、自分の修屋に帰ったが、次の夜、いつもどおりまたもやダイモーンたちがやって来て、彼を起こそうとした。しかし相手は老師に指図されたとおり彼らに答えた、いわく。「おれは好きなときに起きる、おまえたちのいうことは聞かぬ」。すると連中が彼に云った。「あの嘘つきの悪たれ爺がおまえを惑わしたな、実際、兄弟が小銭の用があって彼のところにやって来たが、やつは持っていたのに嘘をついた、いわく『わしは持っていない』。そして彼に与えなかった。これからして、やつが嘘つきだとわかろう」。しかし、兄弟は朝早く起きて、老師のもとに行き、彼にこのことを報告した。すると老師が云った。「小銭を持っていたことを認めよう。そうして、兄弟が求めてやって来たが、与えなかった。というのは知っていたからじゃ、彼に与えれば、われわれは魂の害に陥るだろうとな、されば、わしは思量したのじゃ、ひとつの縛めを破っても、十〔の誡め〕破って呵責に陥ってはならぬと、しましそなたは、ダイモーンたちがそなたを惑わせたがっているのだから、耳を貸してはならぬ」。かくて、老師によって数多くの点で強固にされて、自分の修屋に帰っていった。 〔主題別10-138〕

(225.)
 老師が云った。「修道者の命(zwhv)とは、従順、気遣い、裁かないこと、中傷せぬこと、不平をならさぬことである、というのは〔聖書に〕書かれているからである、『主を愛する者たちは、邪悪を憎む』〔詩篇97:10〕と。実際、修道者の生(bivoV)とは、不正者に関与するな、眼に悪事を見るな。お節介をするな、無縁のことに耳を貸すな、手で奪うな、いやむしろ与えよ、心に思いあがるな、想念において邪悪な振る舞いをするな、腹を満たすな、眼識を持って万事を為せ、修道者とは、以上のうちに存する」。〔主題別1-32〕

(226.)
 師父たちの何人かが、偉大な老師について語り伝えている。— 誰かが彼に言葉を所望してやって来ると、これに決まって言うのだった。「見よ、わしはの役を務め、裁きの座に坐っておる。されば、わしがそなたに何をすることをそなたは望むのか? もしも『わたしを憐れんでください』とそなたが云うなら、はそなたに言う。『わしがそなたを憐れむことをそなたが望むなら、そなたもそなたの兄弟を憐れめ、わしがそなたを許すことをそなたが望むなら、そなたもそなたの隣人を赦せ』。まさか不正事がのもとにあるはずはなく、あったこともなく、われわれが救われるかどうかは、われわれにかかっているのだ」。〔主題別10-148〕

(227.)
 修屋群にいた老師たちの或る者について言い伝えられている。— 偉大な勤勉家で、自分の礼拝会を執り行っていたとき、たまたま聖人たちの他のある人が彼を訪ねてきて、彼が自分の諸想念と戦って、「いつまで、1つの言葉のために、あれらをすべて省略したのか?」と言っているのが聞こえた。誰か他の者と喧嘩しているのか、と相手は思い、戸を叩いて、中に入って、彼らは平安の挨拶を交わした。しかし、入って見ると、中には他に誰もいなかった、しかしその老師と気易い仲だったので、彼に云った。「誰と喧嘩していたのですか、師父よ」。相手が云った。「わたしの想念とです、わたしは聖書14巻をそらで知っていますが、ほかに惨めな一語を聞いたことがありますが、わたしの礼拝会を催そうとしたとき、あの〔聖書の〕すべてがぐずついて、後者だけが集会の刻にわたしの前に出て来たのです、それでわたしはその想念と争っていたのです」。 〔主題別10-149〕

(228.)
 老師が云った。「預言者たちが書物を書いた、そうしてわれわれの師父たちがやって来て、それを成就した。彼らの後裔はそれをそらで覚えたが、この世代がやって来て、それを書き、役立たずとして窓の中に収めた」。 〔主題別10-191〕

(229.)
 兄弟たちが共住修道院を出て、砂漠に隠修者を訪ねた。相手は彼らを喜んで迎え、砂漠の住人たちの習慣どおり、彼らの疲れを見て、刻限前に食卓を設え、持てる物を彼らに供して、彼らを休ませた、そして夕方になったとき、詩篇12編を朗誦し、夜も同様であった。さて、老師が独り徹宵していると、彼らがお互いに言いあっているのを聞いた — 砂漠の隠修者たちは、われわれ共住修道院の者たちよりもっと安楽だ、と。そうして、明け方、彼らが彼の隣人の老師のところに下がろうとしたとき、彼らに云った。「彼にわしからよろしくいってくれ、そしてまた彼に云ってくれ、『野菜に水をやるな』と」。そこで彼らはそのとおりにした。相手は聞いて、その文意を悟り、夕方まで彼らが断食の業をするのを堅持した。そして夕方になると、大いなる集会を開催し、云った。「あなたがたのために解散することにしよう、あなたがたは疲労しておられるから」。そしてさらに云った。「毎日食事するのはわれわれの習慣ではない、あなたがたのために少し味わったのだ」。そうして彼らに乾燥したパンと塩を供した、云わく。— あなたがたのために祝祭を催す必要がある、と。そうして酢を少し塩に加えた、そうして立って、夜明けまで礼拝会を始めたのであった。そして彼らに言う。「われわれはあなたがたのせいで決まりをすべて完成することができない、あなたがたが少し休むために、異邦から来られたのですから」。で、夜明けになるや彼らは逃げ出そうとした。しかし相手が彼らに願う、いわく。「もう少しわれわれととどまってください、さもなければ、砂漠のわれわれの習慣どおり、誡めによって少なくとも3日だけでも」。しかし彼らは、自分たちを解放してくれないと見て、こっそり出発して逃げたのである。〔主題別10-150〕

(230.)
 兄弟が、師父たちの或る者に尋ねた、いわく。「わたしが眠気から目蓋が重くなり、礼拝会の刻限が過ぎることになったら、わたしの魂は、恥ずかしさから、もはや礼拝会をしようという気になりません」。するとこれに老師が言う。「夜明けまで眠ることがそなたに起こったら、立って、戸と窓を閉め、そなたの礼拝会を行え。〔聖書に〕書かれているからである。『昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの』〔詩篇74:16〕」。〔主題別10-152〕

(231.)
 老師が云った。「多食してもなお飢えている人間がおり、食少なくして満腹している別の人間もいるが、多食してなお飢えている者の方が、食少なくして満腹な者よりもより多くの報酬を得るであろう」。 〔主題別10-154〕

(232.)
 老師が云った。「そなたと他者との間で苦痛な話がはなされ、〔相手が〕『その話をわたしはしていない』と言って否認したら、[『あなたが云った』]と言って彼と争ってはならない。彼は逆襲し言うだろうからだ、『然り、おれが云った、それがどうした?』と」。〔主題別10-155〕

(233.)
 兄弟が老師に尋ねた。— わたしの姉妹は貧しい。わたしが彼女に愛〔施し〕を与えれば、貧しい者に与えるようなものではありませんか?。 老師が言う。「否」。しかし兄弟は云った。「なぜですか、師父よ」。老師が謂った。「血がそなたを少し引き寄せる〔=血は水よりも濃し〕ということじゃ」。〔主題別10-156〕

(234.)
 老師が云った。「いかなる言葉にも賛成してはならず、賛同してもならない、ゆっくり信じ、すみやかに真実をいえ」。〔主題別10-160〕

(235.)
 老師が云った。— 聖人たちがここで疲れていようと、やはり平安の分け前をも既に得ている、と。しかし彼がこれを言ったのは、彼らがこの世の気遣いから自由であるゆえだ。〔主題別10-161〕

(236.)
 老師が云った。— もしも修道者が、進歩できる場所を知っており、しかし身体の労苦をともなう必要性があるを知っていて、だからこそそこに下らないのであれば、そういう者はが在ることを信じていないのだ、と。 〔主題別10-162〕

(237.)
 兄弟が若輩の修道者に尋ねた、いわく。「美しいのは、沈黙することか、話すことか?」。これに幼稚な者が言う。「役立たずの言葉なら、これを放置せよ、しかし美しい〔言葉〕なら、善きものに場所を与え、話せ。ただし、それが善き〔言葉〕であっても、長々とではなく、短く切れ、そうして休息せよ」。 〔主題別10-163〕

(238.)
 老師たちの或る者が云った。— 初め、お互いに寄り合い、益について話し合い、合唱舞踏隊として合唱舞踏隊となり???、天に上昇したものだ。しかるに今は、寄り合い、悪口に陥り、ひとりがひとりを下方の深淵に引きずり降ろしている」。 〔主題別10-165〕

(239.)
 師父たちの或る者が云った。「もしわれわれの内なり人が素面なら、外なる人をも守ることができるが、そうでなければ、可能なかぎり舌を守ろう」。〔主題別10-166〕

(240.)
 同じ人が云った。「霊的な業の必要性は、われわれがそこに赴くところにある。口を通して教えることに大いに苦労するのは、身体の業を為していないからである」。 〔主題別10-167〕

(241.)
 師父たちの或る者が云った。— 人は自分の内にいつも為業をもっていなければならない。されば、の為業に専念していれば、敵が時々彼に近寄っても、とどまれる場所を見つけられないが、逆に敵の捕囚に支配されれば、の霊がたびたび彼に近づこうとも、われわれがこれに余地を許さないため、われわれの性悪さによって撤退するのである。〔主題別10-168〕

(242.)
 あるとき、修道者たちがアイギュプトスからスケーティスに、老師たちを訪ねるために下ってきた、そうして、彼らの修行の飢えがもとで、彼らががつがつ食事するのを見て躓いた。で、長老が気づいて、彼らを癒やそうと思い、教会に布令た、信徒にいわく。「断食せよ、そして、そなたたちの修行の行住坐臥を強化せよ」。さて、来訪したアイギュプトス人たちが引き上げるためにやって来たが、彼は彼らを引き留めた。すると、第一日目、彼らは断食して、暗くなった。しかし彼は彼らに1日おきに断食させた(尤も、当のスケーティス人たちは、〔まる〕1週間断食するのが常であったのだが)、そうして土曜日になったとき、アイギュプトス人たちは老師たちといっしょに喰うため坐した。そして、アイギュプトス人たちが騒々しく喰おうとしたとき、老師たちの一人が彼らの手を押さえた、いわく。「規律正しく喰え、修道者たちのごとく」。しかし彼らの中の一人はその手を押しのけた、いわく。「わたしを放してください、まる1週間煮物を何も喰わなかったので、死にそうです」。すると老師が云った。「されば、1日おきに食しているあなたがたがこれほど疲弊しているのに、どうして兄弟たちに躓くことがあろうか、彼らは常時このように修行を達成しているのに」。かくて彼らは彼ら〔スケーティスの兄弟たちの前で〕悔い改め、益されて歓びを持って立ち去ったのであった。 〔主題別10-170〕

(243.)
 ある兄弟が隠遁し、恰好を整え、みずからをただちに閉じこめた、いわく。— わたしは隠修者である、と。老師たちが聞いて、やって来て、彼を追い出し、彼に兄弟たちの修屋をまわらせ、拝跪して言わせた。「どうかわたしを許してください、わたしは隠修者ではなく、新参者です」。〔主題別10-172〕

(244.)
 老師たちは云うを常としていた — もし若い者が自分の意思で天に昇るのを眼にしたら、その足をつかみ、彼をそこから引きずり降ろせ、彼のためになるからじゃ、と。〔主題別10-173〕

(245.)
 ある兄弟が偉大な老師に言った。「わたしはやって来ました、師父よ、わたしの好みに合った老師を見つけ、彼とともに死ぬために」。するとこれに老師が言う。「そなたがわしの主を捜し求めるのは美しい。??? 〔主題別10-174〕

(246.)
 肉親の二人の兄弟が隠棲した。ところが、最初に振る舞うのは、年齢的には若い方であった。さて、師父たちのひとりが、彼らを訪れるためにやって来たとき、彼らは盥を据え、若い方が老師〔の脚〕を洗おうとした。ところが老師はその手を押さえて彼を退け、年長者の方に任せた。そこで傍にいた老師たちが云った。「年少者の方が、師父よ、最初に振る舞う者になっています」。すると彼らに老師が言う。「わしは首座を小さき者より取り上げ、より大きい者の年齢にあてがう」。 〔主題別10-175〕

(247.)
 老師が云った。「誰かがとどまる場所で、その場所の果実を穫り入れなければ、その場所は彼をば場所の働きをなさざる者として追放するであろう」。 〔主題別10-113〕

(248.)
 老師が云った。「もし誰か自分の意思にしたがって事をなし、それがにしたがったのではない(ただし、無知ゆえに)なら、後になって彼は必ずやの道に入るにちがいない。しかし、意思にこだわってに従わず、他の人たちに耳をかそうともせず、自分のことは知っているかのようにみなす者がいる。こういう者は労苦によっての道に入る」。〔主題別10-115〕

(249.)
 老師が尋ねられた。「狭く細い道とは何ですか?」。すると答えて云った。「狭い道とはこれじゃ、おのれの諸々の想念を強制し、自分の意思を切り捨てること、それはすなわち、『見よ、わたしたちは一切を捨て、あなたについてまいりました』〔マルコ10:28〕ということじゃ」。〔アムモーナース11、主題別10-116〕

(250.)
 老師が云った。「修道者たちの振る舞いが俗人たちのそれよりも尊敬されるように、余所者である修道者も、いかなる場所であれ在地の修道者たちにとって鏡であるべきである」。〔主題別10-117〕

(251.)
 師父たちのひとりが云った。「働き人たちのいないところに働き人としてとどまるなら、進歩することはできないが、下に落ちないよう競うことの〔進歩〕はできる、また働き人たちとともにとどまるなら、素面で前進すれば、今度は怠惰である、さもなければ、下方へと向かう」。? 〔主題別10-119、120〕

(252.)
 老師が云った。— 魂がロゴスをもつが、業を持たなければ、葉は持つが果実は持たぬ樹に似ている。というのは、果実のいっぱい成った樹はその葉も茂るように、ロゴスは善き業を持った魂に調和するからである。 〔主題別10-120、10-121〕

(253.)
 老師が言った。「そなたが何かを憎むなら、〔それを〕他者にしてはならぬ。ひとがおまえの悪口をいえば、おまえは憎むか? ならば、おまえはひとの悪口をいってはならぬ。ひとがおまえを誣告したら、おまえは憎むか? ならば、おまえはひとを誣告してはならぬ。ひとがおまえを侮ったり、いじめたり、おまえのものを何か奪ったり、あるいはそういったかぎりのことがあれば、おまえは憎むか? ならば、おまえもそれらの1つをひとにしてはならぬ。この言葉を担うことのできる者は、その救済に足る」。〔主題別1-31〕

2016.03.21.

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