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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 2

砂漠の師父の言葉(Anomy1)
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(T359-392.)

千里眼の持ち主たちについて

(359.)
 師父たちのひとりが言っていた — あるとき、老師たちが坐して、〔魂の〕益について喋っていたとき、彼らの中にひとりの千里眼の持ち主がいて、天使たちがナツメヤシの葉を揺すり、彼らを祝福しているのを目にした。しかし、他の交わりが始まるや、天使たちは引き下がり、彼らの真ん中では悪臭にみちた豚たちが転げまわり、彼ら〔天使たち〕を消滅させた。しかし再び益について喋るや、天使たちは〔〕はじめ、彼らを祝福した。〔主題別18-29〕

(360.)
 老師が云った。「書かれていることはこうだ、『ツロの3つの罪4つの罪のために。だが、4つの〔罪の〕ために逸らされることはない』〔アモス1:9〕。〔3つの罪とは〕悪を思いつくこと、想念といっしょに下ること、喋ることであるが、第4のそれはその業を遂行することである。このために、の怒りが逸らされることはないであろう」。〔主題別18-30〕

(361.)
 スケーティスの偉大な老師について言われている。— 兄弟たちが修屋を建てようとして、喜んで開始し、礎石を据えたうえで、完成するまで休むことはなかった。ところが、あるとき、修屋を建てているところに〔老師が〕やって来て、大きく嘆息した。そこで彼に兄弟たちが言う。「嘆息し嘆かれるのは何故ですか、師父よ」。すると彼が云った、「この場所は荒野となるはずじゃ、わが子たちよ。というのは、わしは見たのじゃ、スケーティスに火が放たれ、兄弟たちがナツメヤシの枝を取り、それを叩き消した。しかし再び火が点けられ、再びそれを消した。しかし3度目に点けられ、スケーティス全域を満たし、もはや消火されることはできなかった。だからこそわしは嘆息し、嘆いたのじゃ」。〔主題別18-31〕

(362.)
 老師が云った。「〔聖書に〕書かれておる、『義人はナツメヤシのように花咲く』〔詩篇91:13〕と、この言葉が示しているのは、気高き行為から生じるのは、善と正と甘さである、ということじゃ。実際、ナツメヤシの心はひとつであり、それは白く、おのれの働きをすべて有する。そしてこれと同じことを義人たちに見出すことができる、すなわち、彼らの心は、のみに目を注いで、に対してひとつであり純粋である。そのうえまた白い。信仰からの光を有し、義人たちの働きはすべて彼らの心の内にある。しかし、棘の鋭さが、悪魔に対する反目である」。〔主題別18-33〕

(363.)
 老師が云った。「シュネムの女がエリッサイオスを受け容れたのは、彼女が人間というものとの関係を持たなかったからだ〔列王記下4:14〕。そこで、シュネムの女は魂のたとえ、エリッサイオスは聖霊の喩えと言われる。されば、魂が身体的混乱から離れていれば、の霊がそれに訪れ、そうしてその時、子を産むことができるだろう、石女であっても」。〔主題別18-34〕

(364.)
 師父たちの或る者が云った — 豚の両眼は、自然本性的な構造を持っており、大地に俯かざるをえず、けっして天を仰向くことができなくなっている。そのように、と彼は謂う、諸々の快楽の甘い汁を吸う者の魂も、いったん享楽のぬかるみにはまると、仰向くことができなくなるのだ、と。〔主題別18-35〕

(365.)
 ある偉大な老師が千里眼の持ち主となり、この人物が確言した、いわく。— わしが見た力能は授洗所に立っていたのだが、その同じ力能を修道者の着物の上にも見た、〔修道者が〕その恰好をしている時にだが、と。 〔主題別18-36〕

(366.)
 あるとき、老師が過去の事を明視する能力に満たされ、言った。— 兄弟が自分の修屋で修練を積んでいるのを見た、そうして、見よ、ダイモーンが修屋の外に立っているのだ。そうして、兄弟が修行している間は、入りこむ力がなかった。しかし修行をやめると、まさにそのときダイモーンは修屋に入りこんで、彼に戦いを仕掛けたのである、と。〔主題別18-38〕

(367.)
 師父たちの或る者が云った — 彼の隣人に二人の兄弟がいた、一人は余所者で、一人は在地の者だったが、余所者の方は少し不注意者だったが、在地の者の方はひどく真面目な者であった。ところが、余所者が永眠してしまい、老師は、千里眼の持ち主だったので、多数の御使いたちが彼の魂を案内するところを目にした。そうして、天に着き、入るために行くと、彼について調べが行われ、上から声が聞こえてきた、いわく。「少し不注意な者であることは明らかだが、彼が余所者である故、彼のために開門するがよい」。さて、その後、在所の者の方も永眠し、その親類がみなやって来たのだが、老師は御使いがどこにもいないのを見て、驚き、の御前に拝跪した、いわく。「余所者は、不注意者であるのに、あのような栄光に与ったのに、この真面目な者の方は、そのようなことに何ひとつ与らなかったのはどうしてですか」。すると彼に声が聞こえてきた、いわく。「真面目なこの者は、永眠したとき、その両眼を開けて、自分の親族が哀号しているのを見、その魂は慰められた。しかし余所者の方は、たしかに不注意者ではあったが、その家族の誰一人をも目にせず、嘆息して哀号した、それでが彼を慰められたのだ」。〔主題別18-40〕

(368.)
 師父のひとりが物語った — ネイルゥポリスの砂漠に隠修者がいて、これに信心深い俗人が使えていた。他方、都市にも富裕で不敬虔な人がいたが、この者が死に、司祭も灯火と香類を持って都市全体が彼を葬送することになった。そこで隠修者の奉仕者も、いつもどおり彼にパンを捧げるため出かけたが、彼がハイエナにむさぼり食われているのを見出し、こう言っての前に突っ伏した。「わたしは起き上がりません、主よ、これがどういうことなのか、御身がわたしを満足させるまでは、不敬虔なあやつがあれほどの壮観を持つとは。しかるに、夜も昼も御身に隷従したこの人は、こんな死に方をするとは」。すると主の天使がやって来て、彼に云った。「あの不敬虔者は、小さな美しい業を持った、それであんなふうに報いを得た、かしこでなにひとつ安楽を見出さないために。しかしこの隠修者はあらゆる徳に飾られてきた者であるとはいえ、人間として小さな過ちを持ったゆえ、それをこの世で棄てたのだ、あの世での御前に清浄な者として見出されるために」。そこで満足して、の審判を真実であると称えつつ立ち去ったのである。〔主題別18-41〕

(369.)
 或る老師について言われている — ダイモーンたちを目にすることをに要請したが、これに答えられた「彼らを見る必要はない」と。しかし老師はこう言って願った、「主よ、御身の手でわたしを庇うことがおできになります」。そこでは彼の眼を啓かれ、彼は彼らを目にした、蜜蜂のように人間のぐるりを取り囲み、彼に向かってその歯を歯がみし、他方、主の天使たちは、連中を叱りつけているのを。〔主題別18-39〕

(370.)
 ある兄弟が、砂漠に遠く隔たった静寂な場所を見て、自分の師父に頼んだ、いわく。「あそこに住むことをわたしに認めてください、そうすればとあなたの祈りによって、わたしは大いに尽瘁できる希望があります」。しかし彼の師父は彼に許さなかった、いわく。「わしは真に知っておる、そなたが大いに尽瘁できることを、しかし、そなたは老師を持たぬことになるから、に嘉されているということを、そなたはそなたの業において確信を持てなければならず、修道者の業を完全に確信するあまりに、そなたはそなたの労苦と心を失うということを」。〔N370〕

(371.)
 或る老師について言い伝えられている。— ポリュプリテースで坐していたが、両眼を天に挙げると、天界のものらすべてを観、また俯いて地に傾注すると、深淵と、そこにあるものらすべてを眺めた、と。〔主題別18-50〕

(372.)
 ある兄弟がある人に対して怒りに動かされて、その兄弟に対して寛容であるよう、試練が無害なまま行き過ぎるよう懇願して、祈りのうちに立ちつくしていた。するとすぐに、自分の口から煙が出て行くのが見えた。〔主題別4-65〕

(373.)
 老師が云った。「悪魔は修道者の弱点に攻めかかる。なぜなら、習慣は長い時間をかけて確実なものとされることによって、自然本性的な強さを獲得するからである、されば、とりわけより怠惰な者たちの場合には、どんな食物も、美味そうでそなたが求めるものは、とりわけ健康な場合には、与えようとしてはならず、そなたが欲するものも、喰ってはならぬ。むしろ、によってそなたに遣わされたものらを食しつつ、何時いかなる刻も、感謝するがよい。〔主題別4-67〕
 今日まで、われわれは修道者たちによって滅ぼされてきたが、われわれは今なお修道者になりきっていないのじゃ。男らしく振る舞え、余所余所しい格好をしないために、兄弟よ、むしろクリストスの刻印を持て、謙遜がそれである」。〔主題別4-68〕

(374.)
 老師たちが言うを常としていた — 修道者は死に至るまで、懈怠と横着(ojligwriva)のダイモーンと、とりわけ集会の機に戦うべきである。そうして、これをとともに矯正したら、満足と無痛の想念に心を傾注せしめ、言わしめよ。「主が家を建てられるのでなければ、建てる者たちは無駄に勤労するのだ」〔詩篇126:1〕、「なぜなら、土と灰がなければ、人間は無であるから」〔〕と、そうして、言わしめよ。主は「高ぶる者たちは退け、謙虚な者たちには恵みを与えたもう」〔箴言3:34、ヤコブ4:6〕と。〔主題別7-44〕

(375.)
 あるとき、兄弟たちが偉大な老師を訪ねた、すると一番目の者に言う。「いかなる仕事をしているのか、兄弟よ」。相手が云った。「縄を綯っています、師父よ」。これに老師が言う。「はそなたのために花冠を編んでおられる、わが子よ」。二番目の者にも言う。「して、そなたはいかなる仕事をしているのか?」。相手が云った。「籠を」。するとこれにも云った。「はそなたを力づけられよう、わが子よ」。第3の者にも云った。「して、そなたはいかなる仕事をしているのか?」。相手が云った。「笊を」。するとこの者にも云った。「はそなたをお守りになろう、わが子よ」。さらに第4の者にも云った。「して、そなたはいかなる仕事をしているのか?」。相手が云った。「わたしは書家です」。これに言う。「そなたにはわかっておる」。さらに五番目の者に云った。「して、そなたはいかなる仕事をしているのか?」。相手が謂った。「亜麻布織りを」。すると老師が云った。「わしには関係がない、〔というのは〕縄を綯う者は、とともに素面なら、おのれに花冠を編み、籠が力を望む、辛労を持つからじゃ、また笊は、見張りを要す、村落でこれを売るからじゃ、また書家は、心を謙らせる必要がある、その仕事が高慢さを有するからじゃ。しかるにわしが亜麻布に関心がない所以は、仕事ではないからじゃ。というのは、ひとが、葦籠とか籠とか笊を遠くから担いでいる人を見たら、言うであろう。『この人は修道者だ、なぜなら、修道者の手仕事は牧草であって、火の燃焼に〔定められている〕のだから』と。しかるに、ひとが、麻布を売ろうとしている人を見たなら、言うだろう。『見よ、商売人たちがやって来る、なぜなら、この手仕事は世俗のものであって、多衆の役には立たないのだから』と」。

(376.)
 老師たちの或る者が、物乞いラザロス〔ルカ16:20〕について云った — 彼が見出されるのは、1つの徳を実修したからではなく、ただ次の一点をわれわれが見出すからである、つまり、自分に憐れみをかけてくださらないと、主に対してけっして不平をかこつことなく、感謝をもって自分の労苦を担った。このゆえにが彼を迎え入れられた、ということである、と。〔主題別7-47〕

(377.)
 老師が云った。「そなたが坐しているとき、あるいは、目覚めているとき、あるいは何か他のことをしているとき、もしがそなたの眼前にいたまえば、敵は何によってもそなたを怖れさせることはできず、この想念がの内にとどまれば、の力もまたその内にとどまる」。〔主題別11-98〕

(378.)
 師父たちの或る者が云った。「先ず憎まなければ、愛することはできない。もし罪を憎むなら、正義をなすことになることは、〔聖書に〕書かれているとおりである。『悪から遠ざかり、善をなせ』〔詩篇33:15〕と。ただし、どんな場合においても、企ては至るところに求められる。例えば、アダムが楽園にありながら、の戒めに背いたし、イオーブは糞の中に坐しながら、自制を守った。されば、が人に善き企てのみをお求めになるのは、あの方をいつも怖れるためである」。〔主題別11-125〕

(379.)
 老師たちの或る者が云った。— ひとはその顔を濁った水鏡に写して観ることができないように、魂も同様、無縁なものらから清浄でない限り、祈ることはできない、と。〔主題別12-16〕

(380.)
 或る老師について言い伝えられている — ある恩寵について、7年間、に懇願しつづけ、ついに彼に与えられた。そこで或る老師のもとに出かけて行き、恩寵のことを彼に報告した。これを聞いて老師は、悲しんだ、いわく。「大いなる尽瘁かな」。しかし彼に云った。「下がれ、もう7年間、そなたから取り除いてくださるようにお願いして過ごすがよい、そなたの益にはならぬのだから」。そこで帰ってそのとおりにし、ついに彼から取り除かれたのであった、と。〔主題別15-92〕

(381.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「修道者の進歩とは何ですか?」。すると老師が言う。「謙遜である、修道者を進歩へと導くのはな」。〔主題別15-97a〕

(382.)
 ある修道者があらゆる点でサターンと格闘していたが、やつによって両眼を抉り出されたが、仰向くことを祈らなかったが、彼の忍耐ゆえに、は彼に視覚を恵み、彼は仰向いたのであった。〔主題別7-55〕

(383.)
 兄弟が師父パムボーに尋ねた、いわく。「わたしが隣人に善行するのを諸霊が妨害するのはなぜですか?」。これに老師が言う。「そういうふうに言ってはならない。さもなければ、を嘘つきにすることになる、むしろこう云え。『憐れみをかけることをわたしはまったくは望まない』と。なぜなら、はあらかじめ云われたからだ。『蛇や蠍を踏みつけて、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をそなたたちに授けた』〔ルカ10:19〕と」。〔主題別10-95〕

(384.)
 師父たちの或る者が云った — わしは師父シソエースに尋ねた、いわく。「諸々の偶像について詩篇にどのように言われていますか?」。すると老師が言う。「諸々の偶像について書かれている。— 口をもつが話せず、眼をもつが見えず、耳をもつが聞けず、と。修道者はそのようにあるべきである。つまり、偶像は忌み嫌うべきものである、彼〔修道者〕もおのれを忌み嫌うべきものとみなすであろう、と。〔主題別10-97〕

(385.)
 あるとき、3人の兄弟がスケーティスに或る老師を訪ね、これに一人が尋ねた、いわく。「師父よ、わたしは旧・新の契約〔聖書〕暗記しました」。すると老師が答えて彼に云った。「そなたは大気を言葉で満たした」。すると二番目が尋ねた、いわく。「わたしも旧・新の契約〔聖書〕を筆写しました」。すると老師が答えて云った。「そなたも窓を紙で満たした」。すると第三番目が云った。「わたしの竈に湯気を噴かせました」。すると老師が答えて彼に云った。「そなたもみずから客遇を追い求めた」。 〔主題別10-147〕

(386.)
 老師が云った。— 修道者の在り様は、聴く者であるべからず、中傷する者であるべからず、躓くべからず、と。〔主題別10-159、10-188、21-64〕

(387.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうかわたしにおことばをください、どうしたら救われるでしょうか?」。相手が謂った。「少しずつ働くことに熱心になろう、そうすればわれわれは救われよう」。〔主題別10-169〕

(388.)
 老師たちは言うを常とした。— がキリスト教信者たちに求めるのは以下のことどもである、つまり、ひとが聖なる書に服し、言われていることが実修され、嚮導者たちや霊的な師父たちに聴従すること。〔主題別14-21〕

(389.)
 老師たちは言うを常とした — 各人の務めは、隣人として住むこと、つまり、あらゆることにおいて彼と同苦し、彼とともに泣き、同じ身体をまとっているかのように振る舞い、もしも彼に呵責がおこることあらば、〔聖書に〕「われわれはクリストスにあって1つの身体であり」〔ロマ書12:5〕、「信じた者たちの群は心も魂も1つ」〔行伝4:32〕と書かれているとおりに〔振る舞うこと〕である。 〔主題別18-44〕

(390.)
 老師が云った。「〔の〕王国を恋するなら、財産を軽蔑せよ。なぜなら、快楽を愛し銀子を愛しながら、に従って生きることは不可能だからである」。〔司祭イシドーロス3,主題別5-12、6-13〕

(391.)
  兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。— わたしは乱され、わたしの場を放棄しようと思うのですが、と。これに老師が言う。「いかなる事由によってか?」。これに兄弟が言う。「ある兄弟に関する言葉がわたしを益すまいと耳にするからです」。これに老師が言う。「そなたが耳にしたのは真実ではない」。これに兄弟が言う。「いいえ、師父よ、というのも、わたしに云った兄弟は信実だからです」。これに老師が言う。「彼は信実ではない。もしも信実だとすれば、そなたにそんなことは言わなかったろう。例えば、トーマースは聞いたとき、信じることを拒んだ、いわく。『わたしの兄弟たちに会わぬ限りは、けっして信じない』と」。これに兄弟が言う。「わたしもわたしの兄弟たちに会いました」。すると聞いて老師は、小さな果実を取り、彼に言う。「これは何か?」。兄弟が言う。「果物です」。すると老師は修屋の屋根に傾注し、兄弟に言う。「そなたの心に、そなたの諸々の罪はこの梁のごとし、そなたの兄弟のそれ〔罪〕はこの果実のごとし、と想像せよ」。すると師父ティトーエースはこの言葉を聞いて、驚嘆し、云った。「何とわたしはあなたを浄福視することでしょう、師父ポイメーン、宝石よ。あなたの言葉は歓びとあらゆる栄光に満ち満ちています」。 〔主題別10-51〕

(392.)
 老師が云った。— 兄弟たちの或る者が、福音書1つだけ所有していたのだが、これを売って、貧者たちの食糧に替えて与えたが、記憶にあたいする言葉を付け加えた。「なぜなら」と彼が謂う、「わたしが売ったのは、『あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい』〔マタイ19:21〕と言う言葉そのものをわたしは売り払ったのだ」。〔主題別6-6〕


(393-400.)

(題目なし)

(393.)
 或る老師について言い伝えられている。— 彼が修屋に坐して競い合っているとき、ダイモーンたちと面と向かって見合い、連中を軽蔑した、自分競合相手だったからである。悪魔の方は、自分が老師に負けているのを見て、行きがてらおのれを顕現させた、いわく。「わしはクリストスである」。するとこれを見て老師は自分の両眼をつぶった。これに悪魔が言う。「どうしておまえの両眼をつぶるのか。わしはクリストスである」。すると老師が答えて云った。「わしはクリストスをここで見ようとは思わぬ」。これを悪魔が聞くと、消えていなくなった。そこで、数多くの謙遜にちなんで、は恩寵として彼に千里眼をさずけた。それで老師は、いつ誰々が彼に会いに来るかを知って、自分から取り除かれるように懇願したのであった…… 〔主題別15-89、N312〕

(394.)
 或る老師について言い伝えられている。— 歩いていて、道に女の足跡を見つけたが、彼はそれを隠した、いわく。「けっして、兄弟がこれを見て戦うことのありませんように」。〔?〕

(395.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、師父よ、わたしの腹がわたしを呵責し、これを止めることができず、わたしの身体はますます抑えが効かなくなるのですが」。これに老師が言う。「その上に恐れと断食を投げかけない限り、の道をまっすぐ進めぬ」。そうして次のような喩えを彼に提示した。— ある人が驢馬を持っていたが、彼を乗せて歩きまわると、あちらこちらと道をさまよう。そこで杖を取ってこれを打った。すると彼に驢馬が言った。「わたしを鞭打たないでください、今からはまっすぐ進みます」。しかし、少し前進すると、それ〔道〕から外れたので、驢馬の背の鞍鞄に杖を入れたが、驢馬は自分の上に杖があることを知らなかった。そうして、自分の主人が杖を持っていないのを見るや、彼を軽蔑し、あちこち畑の中をうろつきまわった。そこで主人がこれに駆け寄って、杖を取って、まっすぐ進むまでこれを殴った。身体と腹についても同様である、と。〔主題別4-100、N431〕

(396.)
 聖なる人が、別の人が罪を犯すのを見て、涙を流して云った。「まったく、今日かくのごとし、明日はわが身、たとえそなたのいるとこで罪を犯す者がいても、彼を裁いてはならぬ、おのれを彼よりも罪深いとせよ、に従順でない人を除いて、彼が俗人であっても」。同じ人が云った。— もしそなたが命について誰かに言葉を言う場合には、痛悔(katanuvxiV)と涙とをもって聞く者に言え。その所以は、救いを望みながら、無縁の言葉によって他者にとって無益のまま死なぬためである、と。〔1432、N327ab、主題別9-17、9-19〕

(397.)
 老師が云った、— 犬はわたしよりもまさっている。愛を有し、「裁きに至らない」〔ヨハネ5:24〕ゆえに。〔クサンティアース3、*Anony1434、N434〕

(398.)
 老師が云った。「そなたが下がるとき、常にそなた自身に傾注せよ、『エローディオスの住まいが彼らを嚮導する』〔詩篇103:17〕からである。すなわち、修道者は下がるところが自分の住まいなのである。されば、昼も夕もそなたの規範を真剣に実修し、思いめぐらしに無関心であってはならない、いつもそなたの眼前に呵責を持て。これらこそは、多大な労苦なしには達成することはできない」。〔*Anony1435、N435〕

(399.)
 老師が云った。「駱駝のように、そなたの罪の重荷を担う者となり、繋がれて、の道を知っている者に聴きしたがい…… 〔*Anony1436、N436〕

(400.)
 老師が云った。「われわれが進歩することなく、おのれの境位を知ることもない所以は、われわれの始めた仕事に忍耐するすることなく、労なくして徳を所有しようとし、場所から場所へと移動するからである、悪魔のいないところを見つけたと思いなして」。 〔N438、*Anony1438a〕

2016.04.08.

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