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back.gif砂漠の師父の言葉(Anomy1)4/6

原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 2

砂漠の師父の言葉(Anomy1)
(5/6)






(T298-334.)

謙遜について

(298.)
 修道者たちのうち砂漠に住む或る者を、ダイモーンに憑かれひどく泡を吹いている人物が頬を殴った。しかしその老師は向きを変え、もう一方の〔頬〕をも差し出した。するとダイモーンは、謙遜の炎にたまらず、すぐに去った。〔主題別15-71〕

(299.)
 老師が云った。「高ぶりや高慢の想念がそなたに忍びこむたびに、そなたの意識(suneidvV)を吟味せよ、すべての誡めを守っているかどうか、そなたの敵を愛し〔マタイ5:44〕、彼らのしくじりを悲しんでいるかどうか、また、自分を無用者の下僕であり〔ルカ17:10〕、誰よりも罪人とみなしてしているかどうかを、また、あたかも万事において成功するかのように、断じて思いあがってはならない、この想念は万事を破壊すると知って」。〔オール11、主題別15-72〕

(300.)
 老師が云った。「値打ち以上に評価されたり称賛されるような者は、大いに害を被る。他方、人々に全く評価されないような者は、上界で栄光を受けるであろう」。〔オール10、主題別15-74,ニステロオス5(1部)〕

(301.)
 兄弟が老師に尋ねた。「多くの悔い改めをすることは美しいですか?」。老師が言う。「ナウエースの子イエースゥス〔=ヨシュア〕をわれわれは見る、ひれ伏した彼にが見られた〔ヨシュア5:14〕ということを」。〔主題別15-75〕

(302.)
 老師が尋ねられた。「わたしたちがダイモーンたちによってかくも戦いを仕掛けられるのは、なぜですか?」。彼が云った。「われわれがわれわれの武器を投げ出すからじゃ、わしが言っているのは、恥と、謙遜と、無所有と、従順のことじゃが」。 〔主題別15-76〕

(303.)
 兄弟がこう言って老師に尋ねた。「もし兄弟が関係のない話をわたしのところに持ちこんだら、いかがでしょう、師父よ、それを持ちこまないよう彼に云うべきでしょうか?」。これに老師が云う。「否」。そこで兄弟が云った。「何ゆえですか?」。すると老師が云った。「われわれがそれを守ることは不可能だからじゃ、われわれが隣人にそれをしなかったと言えても、今後、われわれがそれをするのを見出すかもしれぬからじゃ」。兄弟が言う。「それではどうすればいいのですか?」。老師が言う。「「われわれが沈黙を好めば、その仕方が隣人を満足させる」。〔主題別15-77、N657〕

(304)
 老師が尋ねられた。「謙遜とは何ですか?」。そこで答えた。「そなたの兄弟が罪を犯しても、そなたに対して悔い改める前に、そなたが彼を赦すことじゃ」。 〔主題別15-78、N658〕

(305.)
 いかなる試練にあっても、人をではなく、自分自身のみを非難せよ、わたしの罪のせいでこれらのことがわたしに結果したのだと言って。〔オール12、Anony305、主題別15-79〕

(306.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「余所者であることの業とは何ですか?」。老師が言う。「わしは余所者の兄弟と知り合いであった、教会にいたところ、折よく愛餐に出くわし、兄弟たちといっしょに喰うため食卓に就いた。すると或る者たちが云った。「誰がこいつまで呼んだのだ?」。そうして彼らは彼に云った。「立て、出て行け」。そこで彼は立ち上がって立ち去った。しかし別の者たちが悲しんで、出かけて行って、彼を招いた。その後、彼らは彼に尋ねた。「いったい、あなたの心中はどうなんですか、追い出され、再び入って来たというのは」。相手が云った。「わたしが心に留めたのは、まるで犬だということです。つまり、追い出されれば行き、招かれれば、やって来るところの」。 〔主題別15-83〕

(307.)
 あるとき、テーバイのある老師のもとに、ある人たちがダイモーンに憑かれた人を連れて、これを癒やしてもらうためにやって来た、老師はといえば、くどくど頼みこまれたので、ダイモーンに言う。「の被造物から出て行け」。するとダイモーンが老師に云った。「出て行くところだ、しかし、おまえにひとこと尋ねたい、どうかおれに云ってくれ。『山羊とは何で、羊とは何か?』」。すると老師が云った。「山羊とはわたしのことだ、羊が何かは、が知っておられる」。これを聞いてダイモーンが大声で叫んだ。「見よ、おまえの謙遜のせいでおれは出て行くのだ」。そうして、その瞬間に出て行った。〔主題別15-84〕

(308.)
 〔欠番〕〔主題別15-85〕

(309.)
 老師たちが言うを常としていた。「われわれが挑戦されないときこそ、ますますわれわれはへりくだらなければならない。なぜなら、はわれわれの弱さを知っておられるので、われわれを庇い、驕り高ぶる場合は、われわれからその覆いを取り去り、われわれは破滅するからである」。 〔主題別15-86〕

(310.)
 兄弟たちの或る者に、悪魔が光の天使に変装して現れ、彼に向かって謂う。「我はガブリエール、そなたのもとに遣わされた」。相手はこれに云った。「他の者に遣われたのでないか見よ、わたしはその価値がないのだから」。すると相手はすぐに見えなくなった。〔主題別15-87〕

(311.)
 老師たちは言うを常とした — 真に天使がそなたに現れても、迎え入れるな、むしろ、そなた自身をへりくだらせよ、こう言って。「わたしは天使を見る資格はありません、罪の中に生きているのですから」。〔主題別15-88〕

(312.)
 ある老師について言い伝えられている — 自分の修屋に坐し、競い合っていたが、ダイモーンたちをはっきり目にしたが、これを軽蔑した。しかし悪魔は、おのれがその老師によって負かされたのを目にして、行って彼に顕現した、いわく。「我はクリストスなり」。彼を見て老師は、その目をつぶった。そこで悪魔が彼に云った。「どうして自分の目をつぶったのだ? 我はクリストスなり」。すると老師が答えてこれに云った。「わしはクリストスをここで見るつもりはない」。これを聞いて悪魔は、見えなくなった。〔Anony393、主題別15-89〕

(313.)
 他の老師にダイモーンたちが言った。「クリストスを見たいか?」。相手が連中に云った。「おまえたちと、おまえたちの言うことに呪いあれ。というのは、わしが信じておるのは、次のように云われる我がクリストスだからじゃ、『誰かがあなたがたに、「見よ、ここにクリストスがいる、見よ、あそこに」と云っても、信じるな』〔マタイ24:23〕。するとすぐに見えなくなった。 〔主題別15-90〕

(314.)
 ある老師について語り伝えられている — 週に1度の食事で70年間の週をすごし、〔聖〕書のある1句について〔その意味を〕懇願したが、は彼に啓示なさらなかった。そこで彼は心中に言う。「見よ、これほどの辛苦をしたが、効がなかった、しからばわたしの兄弟のところに下り、彼に尋ねよう」。そうして出かけるために戸を閉めたとき、主の天使が彼に遣わされた、いわく。「そなたが断食した週の70年間が、に近づけることをしなかったが、そなたの兄弟のところに行こうとおのれをへりくだらせたとき、その語をそなたに告げるためわたしが遣わされた」、そうして探求していた語について彼を満足させ、彼から引き上げたのであった。〔主題別15-91〕

(315.)
 老師が云った。「ひとがへの畏れと謙遜を持って兄弟に事を為すよう下命するなら、兄弟に服従させ、下命されたことを実行させられる。ところが、ひとがへの畏れにしたがって兄弟に命じるのではなく、権力によってのように彼を意のままにしようとするなら、心に隠されたことを凝視したもうは、彼が聞くことはもちろん実行することさえ満足しない、それは、のために為される仕事でないのが明らかであり、権力の仕事であることが明らかだからである、というのは、のそれは勧告をともなう謙遜であるが、権力をともなうそれは、怒りと混乱に満たされ、邪悪から起こるものだからである」。〔主題別15-93〕

(316.)
 老師が云った。「わたしは謙遜をともなった劣敗を好む、高慢をともなった優勝よりは」。 〔主題別15-94〕

(317.)
 老師が云った。「そなたのそばに立っている者を軽視するなかれ。の霊がそなたの内に宿るか、彼の内に宿るか、そなたは知らないからである。わたしが言うのは、まさにそなたのそばに立っている者、しかもそなたに仕えている者のことである」。〔主題別15-95〕

(318.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「もし、兄弟たちとともに住んでいて、不適切なことを見たら、いかがでしょう、口に出すべきでしょうか?」。老師が言う。「そなたより年上かそなたの同年齢なら、沈黙して平安を得るのがよい、それによってそなた自身を下にし、心配なき者となすからである」。これに兄弟が言う。「されば、どうしたらいいのでしょうか、師父よ。というのは、諸霊がわたしを乱すのですが」。これに老師が言う。「そなたが困っているなら、へりくだって一度は辛抱せよ、だがそなたのいうことを聞かないなら、個人的な意志は捨てて、そなたの辛苦をの面前にゆだねよ、ただし、そなたの煩いがにしたがって生じたかのように見られないよう留意せよ、だがわしの見るところ、沈黙するのがより美しい、それが謙遜だからである」。〔主題別15-96〕

(319.)
 兄弟が兄弟に苦しんでいた、つまり、前者が聞いて、後者に悔い改めようとやって来た。しかし相手は彼に戸を開けなかったのだ。そこである老師のもとに出かけて行って、これに事の顛末を云った。すると老師が答えて云った。「そなたの心の中に、そなたの兄弟を非難するような、責任は相手にあるというような義認をそなたが持っていないか見よ、そなたはおのれを義とする、だからこそそなたに戸を開ける気にならなかったのじゃ、ただし、わしがそなたに言うのはこのことじゃ。たとえ相手がそなたに対して過ちを犯したにせよ、行け、そなたが彼に対して過ちを犯したということをそなたの心に置き、そなたの兄弟を義認せよ、そうすれば、そのときは彼を満たして、そなたに同心するようしてくださろう」。そこで兄弟は説得されて、そのとおりにし、出かけて行って、兄弟の戸を叩いた、するとほとんど認知するかしないうちに、内側から先に彼に悔い改めたのであった。そうして開けて彼を魂から迎え入れ、両者に大いなる平安が生じたのである。〔主題別15-111〕

(320.)
 老師が云った。「人間どもを避けに避けよ、あるいは、汝自身をあらゆる点で愚か者とすることで、人間どもと俗世をからかえ」。〔オール14、主題別8-31〕

(321.)
 老師が云った。「沈黙を獲得したら、おのれを徳の成就者とすることなく、『わたしはものをいう値打ちもありません』と言え」。〔主題別15-99〕

(322.)
 老師が云った。「もしもパン職人が家畜の両眼に目隠しをつけなければ、向きを変えて、その報酬を食ってしまうだろう、われわれも同様に、の摂理どおり目隠しをつけよう、われわれが働いている美しいものらを目にして、おのれ自身を浄福視しないよう、それゆえまた、われわれの報酬を喪失しないために、それゆえわれわれは汚れた想念に身を任せ、おのれ自身を断罪するためにそれら〔諸想念〕を見るばかりであるが、しあkしこの汚れはわれわれにとって小さな善の目隠しとなる。実際、人がおのれを咎めるときはいつも、自分の報酬を失うことがないのである」。 〔主題別15-100〕

(323.)
 老師が、謙遜とは何かと尋ねられ、答えて云った。「謙遜とは、偉大にして的な業である。謙遜の道は、身体的な諸々の労苦であり、おのれを罪人にして、誰よりも下等なものとみなすことである」。すると兄弟が云った。「誰よりも下等なものとは、どういうことですか?」。すると老師が云った。「これがそうだ。他者の罪にではなく、いつもおのれのそれに傾注すること、そうして、たえずに懇願することである」。〔主題別15-103〕

(324.)
 兄弟がある老師に尋ねた、いわく。「どうかわたしに何か云ってください、わたしが守り、それによってわたしが生きられるように」。すると老師が云った。「もしもそなたが侮辱されても我慢することができるなら、それはどんな徳にもまして偉大なことである」。〔主題別15-105〕

(325.)
 老師が云った。「侮り(ejcoudevnwsiV)と乱暴(u{briV)と損害(zhmiva)を身に受ける者は救われることができる」。〔主題別15-106〕

(326.)
 老師が云った。「僧院長(hJgoumevnoV)を知己とするな、彼につきまとってもならぬ。なぜなら、それによって気易さを持ち、ついには僧院長になることを欲するだろうから」。 〔主題別15-107〕

(327.)
 聖なる人が、ある人が罪を犯すのを目にして、激しく泣きながら云った。「今日かくのごとしということは、まったく、明日はわが身。ただしかし、人がそなたの面前で罪を犯そうとも、彼を裁くな、むしろ、おのれを彼よりも罪深いとみなせ」。〔主題別9-17、9-19、Anony396〕

(328.)
 ある兄弟が共住修道院にいたが、兄弟たちの罪過をすべて自分に帰し、ついには淫行までわたしが犯しましたとおのれを告発するまでになった。それで、兄弟たちの何人かは、彼の実修を知らず、彼に対して不平を鳴らし始めた、いわく。「あいつはどんなにか悪事をして、働かない」。しかし師父は、彼の実修を知っているので、兄弟たちに言った。「わしは、謙遜をともなった彼の1枚の敷物の方が好きだ、そなたらの高慢をともなった〔敷物〕すべてよりはな、いったいそなたらはに確信させてもらうつもりか?」。〔主題別15-109〕

(329.)
 ある修道者が、ある人から傷を受け、その傷を押さえながら、殴った相手の前にひれ伏した。〔主題別15-104〕

(330.)
 に呼びかけよ、そなたの心に悲歎と、それから謙遜を与えてくださるようにと。つねにそなたの罪に傾注せよ。他人を裁かず、むしろ万人の下にいる者となれ。少年に親愛の情をいだかず、女と知己とならず、また異端の者と友となるな。そなたから気易さ(parjrJhsiva)を取り除け。そなたの舌と腹とを制し、葡萄酒はわずかにせよ。もし人が何かについてあれこれ話しても、彼と愛勝するな。いや、彼が美しく言っているなら、『然り』と云え。悪くなら、『あなたはどのように話すか知っているはずです』と云え。彼が話したことについて、彼と言い争ってはならない。そして、これこそが謙遜である。〔マトエース11、主題別1-34〕

(331.)
 老師が云った。「そなたの心中で、そなたの兄弟に対してこう言ってはならぬ。— わたしはもっと素面であり、もっと修行する者だが、クリストスの恩寵によって物乞いや偽りのない愛餐の霊に服している、それは虚栄の霊によってそなたの労苦を失わないためである、実際、〔聖書に〕書かれている。『立っていると思っている者をして倒れないように注意せしめよ』〔1コリント10:12〕、されば『塩で調味して』〔コロサイ4:6〕、主にあって食するがよい」。〔オール13、主題別15-73〕

(332.)
 老師が尋ねられた。「『天使たちの幻を目にした』と言う人たちはどうですか?」。すると答えた、いわく。「修道者とは、いつも自分の罪を目にする者のことである」。 〔主題別15-110〕

(333.)
 ある老師がイオルダネース河畔にいたが、暑い時期に洞窟に入って行った、中にライオンがいて、その歯を歯がみし、咆えだした。するとこれに老師が言う。「何を苛立っているのか? わしとおまえを入れる余地がある。気に入らないなら、立って出て行くがよい」。ライオンはといえば、堪らず出て行った。〔主題別19-19〕

(334.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしに敵意を持つ人にわたしが謝っているのに、相手がわたしに清らかでないのを目にするのは、なぜでしょうか?」。 するとこれに老師が言う。「わしに真実を云ってくれ、そなたは彼に謝りながら、彼こそがそなたに対して過ったのであって、そなたは戒律によって相手に謝っているのだと、そなたの心中に義忍しているのではないか?」。すると兄弟が言う。「なるほど、そのとおりです」。そこでこれに老師が云った。「そなたに対して清らかになるよう事態をが仕上げられなかった所以は、そなたが、彼に対して罪を犯したとして、確信を持って相手に謝っているのではなく、むしろ、彼こそがそなたに対して罪を犯したとみなしている、これ以外にはない。たとえ相手がそなたに罪を犯したとしても、相手に対して罪を犯したのはそなたの方だと、そなたの心に思い定め、そなたの兄弟を義認せよ、そうすれば、は彼がそなたに対して清らかとなるよう仕遂げられる」。そうして老師は彼に次のような喩えを物語った。
 何人かの敬虔な世俗の者たちがいたが、心を合わせて出離し、修道者となったが、福音の声に従って熱意に促されたのではなく、無知のまま、諸天の王国のためにおのれから去勢したのである。そして主教が聞いて、彼らを破門した。件の者たちは、自分たちの行いは美しいと思っていたので、彼に対して憤慨した、いわく。「われわれがおのれから去勢したのは、諸天の王国のためである、しかるにこいつはわれわれを破門した。行こう、やつの代わりに、ヒエロソリュモスの主教に会おう」。そうして出かけて行って、彼にすべてを報告したところ、彼らの主教が言う。「わしもそなたたちを破門する」。そして、このことを悲しみ、アンティオケイアの主教のもとに出かけて行き、彼に自分たちの件を云ったところ、彼もまた彼らを破門した。彼らは互いに言い合う。「ローメーに行こう、法王のところに、そうしたらあ、あの方がこれらすべての連中に対して擁護してくれるだろう」。そういう次第で、彼らはローメーの主教のもとに出かけて行き、主教たちが自分たちにしたことを彼に報告した。「わたしたちがあなたのもとにやって来たのは、あなたが万人の頭だからです」。ところが、彼もまた彼らに云った。「わたしもそなたらを破門する、そなたらは破門されたのじゃ」。彼らは途方にくれて、互いに云いあった。「各人各様に承認し合っているのは、宗教会議で通達されたのだろう、それなら、キュプロスの監督、の聖人であるエピパニオスのところに行こう、彼は預言者であり、人間の顔は取らないであろうから」。ところが、彼らが彼の都市に近づいたとき、彼らについて彼に啓示されたので、ひとを遣って彼らと面会させ、この都市に入らぬよう云った。このとき、彼らは我に返って云った。「まこと、われわれは転倒していた。たとえあの人たちがわれわれを破門したのが不正だったとしても、まさかこの預言者までがそうではあるまい。見よ、がわれわれについてあの方に啓示なさったのだ」。そうして、自分たちが行ってきた為業についてひどく自身を断罪した。まさにそのとき、心を知りたもうが、彼らが真にみずからを断罪したのを見て、キュプロスの監督エピパニオスに確信させ、みずからひとを遣って彼らを連れて来させ、励ましたうえで、共同体に受け容れ、アレクサンドレイアの主教に書簡を送った。「そなたの子どもたちを受け容れよ、彼らはに悔い改めたのだから」と。
 かくして老師が云った。「これが人の癒しであり、これこそのご意志である、ひとがおのれの前なる過ちをの面前に投げ出すことが」。〔主題別15-111〕


(T335-343.)

堅忍(ajnexikakiva)について

(335.)
 或る愛労者(filovponoV)が棺台に載せた屍体を運んでいる人を見て、これに謂った。「屍体を運んでいるのか? 行け、生者を運べ」。 〔主題別16-14〕

(336.)
 ある修道者について言い伝えられている、— ひとが彼を侮辱したり、怒らせると思われれれば思われるほど、こう言ってその人のところに駆け寄った。「こういう人たちこそ、熱心な者たちにとって矯正の因となるが、浄福視する者たちは、魂を迷わし混乱させる。こう書かれているからじゃ、『わたしたちを浄福視する者たちは、わたしたちを迷わせる』〔イザヤ3:12」。〔主題別16-16〕

(337.)
 あるとき、ある老師の修道院に盗賊がやって来て、彼に云った。「おまえの修屋にあるものすべていただきに来た」。相手が謂った。「そなたたちによいと思われる限り、子どもたちよ、もって行くがよい」。そこで修屋に見つけられたものを取って、引き上げていった。ところが、そこにぶらさがっていたひとつの金袋(marsivppion)を忘れていった。そこで老師は、それを取ると、彼らの後を追いかけた、叫びながら、こう言いながら。「子どもたちよ、そなたらの修屋に忘れていったものを受け取れ」。連中は、老師の堅忍に驚嘆して、修屋にあったすべてを彼に返し、悔い改めた、お互いにこう云いながら。「このひとは真にの人である」。 〔主題別16-21〕

(338.)
 兄弟たちが、砂漠にいるある聖なる老師を訪ねたが、彼の修道院の外で、子どもたちが放牧しながら、不適切なことばを口にしているのを見出した、そこで、自分たちの想念を彼に打ち明けて、彼の識見に益された後で、彼に言う。「どうやって耐えておられるのですか、師父よ、あの子どもらに、そうして連中が野放図にならぬよういいつけないのですか?」。すると老師が云った。「まことに、兄弟たちよ、彼らにいいつけようとした日が何日もあるが、そのたびにおのれを咎めたのじゃ、いわく。『こんな小さなことを担えぬなら、大きな試練がわしに解き放たれたとき、どうして担えようか』とな。わしが彼らに何も言わない所以は、何が襲来しようと担える糧となるからじゃよ」。〔主題別16-23〕

(339.)
 偉大な老師の隣人のある兄弟について言い伝えられている — 彼はその老師の修屋に忍びこんで盗みをした。で、老師が目撃したが、彼を咎めることなく、余計に働いた、いわく。— たぶん、兄弟には必要なのじゃろう、と。ところが、老師は非常に窮迫し、自分のパンにも事欠く有様であった。そして老師が命終しかかったので、兄弟たちが彼を取り囲んだ、すると盗んだ者を見て彼に言う。「わしに近く寄れ」。そうして彼の両手に接吻すると、言った。「この両手に感謝あれ、わしが諸天の王国に下がれるのは、この〔両手の〕おかげなのじゃから」。相手は刺し抜かれ悔い改め、自分が目にした偉大な老師の実修から、みずからも経験ゆたかな修道者となった。〔主題別16-28〕

(340.)
 老師たちの或る者が言った — わしは何人かの聖人たちからこう聞いた、と — 若い者たちがいて、老人たちを生へと導いているが、〔その〕彼らが次のように語っていた、と。
 — ある酔っぱらいの老師がいた、そうして、日に〔1枚の〕敷物を製作し、これを村で売って、その代価で飲むを常とした、後に、ある兄弟が彼のところにやって来て、彼と住持し、このひともまた敷物を製作した。老師はこれをも受け取って売り、2枚の代金で飲んだが、夕方にわずかのパンを持って帰った、彼がこれをすること3年、兄弟は何も口に出さなかった。しかしその後、心中に言う。「見よ、わたしは裸で、わたしのパンも食うに事欠いている、されば、立って、ここから出て行こう」。だがもう一度心中で想念した、いわく。「どこに立ち去れよう、もう一度坐すことにしよう、わたしが共住して坐すのは、のためなのだから」。するとすぐに御使いが彼に現れた、いわく。「断じて去ってはならぬ、明日、そなたのところに行くから」。そこでその日、兄弟は老師に願う、いわく。「断じて出かけないでください、今日、わたしの〔友たち〕がわたしを迎えに来るのですから」。ところが、老師の出かける刻がくると、彼に言った。「今日、彼らはやって来ない、わが子よ、彼らは遅刻したのだから」。しかし相手が云った。「いいえ、師父よ、彼らはきっと来ます」。しかし、相手としゃべりながら、彼は永眠してしまった。すると老師が泣きながら言った。「情けなや、わが子よ、わしは長年おざなりに生きてきたのに、そなたは短時間のうちに、忍耐によってそなたの魂を救ったとは」、そのとき以来、老師は慎慮して、経験ゆたかな〔修道〕者となった。 〔主題別16-27〕

(341.)
 別の老師について老師たちが語り伝えている — いっしょに住んでいる子どもを持っていた、その子が自分のためにならぬ業をなしているのを見て、これに一度云った。「そんなことをしてはならない」と、しかし彼のいうことを聞かなかった。で、いうことをきかなかったので、老師は無関心となり、それの私的な判断に任せた。すると若者は、糧食が蓄えられている小屋の戸を閉ざし、13日間断食する老師を放置し、老師も、「どこにいるか」とか「どこに行ったのか」とか彼に云わなかった。ところで、老師はある隣人を持っていた、彼〔隣人〕は、若者が遅いことに気づいて、わずかな煮物を作って、壁の隙間から彼に差し出し、彼に味わうよう頼んだ。しかし、「兄弟はどうして遅いのか?」と彼に云うと、老師が言った。「あれは時機がくればやって来よう」。 〔主題別16-24〕

(342.)
 ある人たちが語り伝えている — あるとき、哲学者たちが修道者たちを吟味しようとした。すると、美しく着飾った或る者が通りがかったので、これに言う。「そなた、こちらに来い」。相手は怒って彼らを侮辱した。さらにまた別のリュビア人の修道者に行き合い、彼に言う。「そなたも、性悪の年寄りめ、こっちへ来い」。すると相手は真面目にやって来たので、彼らはこれに平手打ちをくらわせた。すると相手はもう一方の頬をも向けた。そこで彼らはすぐに立ち上がり、彼の前に平伏した、いわく。「見よ、真の修道者だ」。そうして彼を自分たちの真ん中に坐らせ、彼に尋ねた、いわく。「あなたは砂漠でわれわれ以上に何をしたのですか? 断食ですか、われわれも断食しました、徹宵ですか、われわれも徹宵しました、何であれあなたのしたことは、わたしたちも実修しました、されば、砂漠に坐したわたしたちより何を余計に実修なさったのですか?」。彼らに老師が言う。「わたしたちはの恩寵に希望をいだき、理性を見張ります」。当の彼らも言う。「わたしたちはそれを守ることができないのです」、そうして彼らは益されて、彼を去らせたのであった。 〔主題別16-25〕

(343.)
 あるところに二人の修道者が住んでいたが、偉大な老師が、彼らを吟味するために彼らを訪ね、杖を執って、一人の野菜を打ちのめしはじめた。するとこれを見て兄弟は身を隠した。そうして一つの根が残ったので、老師に言う。「師父よ、よろしければ、それは放置してください、料理して、いっしょに味わいましょう」。すると老師がその兄弟の前にひれ伏した、いわく。「そなたの堅忍のおかげで、聖霊がそなたの上にとどまっている、兄弟よ」。 〔主題別16-22〕


(T344-358.)

愛餐〔施し〕について

(344.)
 老師たちの或る者が、自分の弟子をアイギュプトスに遣わした、駱駝を連れて来て、自分たちの籠をアイギュプトスまで積むためである。ところが、その兄弟が駱駝をスケーティスに連れて来たとき、別の老師が彼に出くわして、これに云った。「そなたがアイギュプトスに下がるのを聞き知っていたなら、わしにも駱駝を連れて来てくれるよう、そなたに言ったものを」。そこで兄弟は帰ると、自分の師父に事情を云ったところ、これに老師が云った。「駱駝を連れ、彼に与えよ、こう言って、『われわれはまだ準備できていません、受け取って、あなたの用に使ってください』、そうして彼とともにアイギュプトスに出かけ、再び駱駝を連れて来るがよい、われわれの品をもそれに乗せるために」。そこで兄弟は別の老師のところに出かけ、云った。「わが師父が言います、— われわれはまだ準備できていない、取れ、あなたの用を為せ、と。そこで老師は駱駝を受けとり、これに籠を満たした。そうして彼らはアイギュプトスに着き、籠を降ろした、兄弟は駱駝を返してもらうと、老師に云った。「わたしのために祈ってください」。相手が彼に云った。「どこに行くのか?」。そこで兄弟が答えた。「スケーティスに、わたしたちの籠をも運ぶために」。すると老師が驚いて、ひれ伏した、泣きながら、こう言いつつ。「どうかわたしを赦してほしい、あなたがたの多大な愛が、わたしから果実を取ったとは」。

(345.)
 老師が云った。「誰かがそなたにものを要請したら、むりやりに彼に提供するにしても、与えられることに想念も歓びとすることは、『誰かがそなたを徴用して千歩行かせようとするなら、その者と二千歩行ってやれ』と〔聖書に〕書かれている〔マタイ5:41〕とおりである。これはすなわち、もし誰かがそなたにものを要請したら、全身全霊で彼に与えよ、ということだ」。〔主題別17-19〕

(346.)
 二人の兄弟が修屋村にいたが、一人は老人で、若い方に頼んだ、いわく。「いっしょに住持しよう、兄弟よ」。相手が彼に言う。「わたしは罪人で、あなたといっしょに住持することはできません、師父よ」。しかし相手は彼に頼んだ、いわく。「いや、われわれならできる」。ところで、老師は純粋な人で、修道者は姦淫の諸想念を持っているということに耳を貸すことを拒んだ。これに兄弟が言う。「わたしに1週間猶予してください、そうしてもう一度話し合いましょう」。かくて老師がやって来た、すると若い方が彼を試してみようとして言った。「この1週間、わたしはひとつの大きな誘惑の手に墜ちました、師父よ。というのは、村の奉仕者のところに行って、女と転落したのです」。これに老師が言う。「悔い改めたか?」。兄弟が言う。「「はい」。すると老師が言う。「わしが罪の半分をそなたと担おう」。するとこれに兄弟が言う。「これからは、いっしょにいることができます」、そうして彼らの死に至るまでお互いに住持したのであった。 〔主題別17-18〕

(347.)
 ある兄弟について言い伝えられている — 籠を作って、これに把手をつけたところで、彼の隣人が言うのが聞こえた、「どうしようか、市〔の日〕は近いのに、わたしの籠には把手がつけられていない」。そこで彼〔聞いた兄弟〕は、おのれの籠の把手を外し、兄弟のためにに持っていった、いわく。「見よ、これは余分に持っている、受けとりなさい、そうしてあなたの籠につけなされ」。そうして兄弟の仕事をはかどらせ、自分のはやめたのであった。〔主題別17-20〕

(348.)
 スケーティスのある老師について言い伝えられている、— 病気になり、新しいパンを喰うべしということになった。兄弟である闘士たちの或る者が聞いて、彼の羊の毛皮を取り、これに干涸らびたパンを〔包み〕、アイギュプトスに出かけて行って、煮物に替え、老師のところに持って来た、するとそれが温かいのを見て、彼らは驚いた。しかし老師は味わうことを拒んだ、いわく。— わたしの兄弟の血である、と。すると老師たちが彼に頼んだ、いわく。「クリストスのために喰え、兄弟の犠牲がむなしくならないように」、そうして彼は頼まれて喰ったのである。 〔主題別17-21〕

(349.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「今でも行往坐臥に尽瘁する人たちがいるのに、古人のように恩寵を受けないのはどうしてですか?」。これに老師が言う。「かつては愛餐があり、各人も自分の隣人を上へ引き上げたが、今は、愛餐は冷え、各人は自分の隣人を引きずり降ろし、だからこそ恩寵を得られないのじゃ」。〔主題別17-23〕

(350.)
 あるとき、3人の兄弟が刈り入れに出かけ、60アルゥラを請け負った。しかし彼らのひとりが初日に病気になり、自分の修屋に引き上げた。すると二人のうちの一人がもう一人に云った。「見よ、兄弟よ、見てのとおり、われわれの兄弟が病気になった、そこで、君の想念を少し強制せよ、ぼくも少し〔そうしよう〕、そうしたら彼の祈りのおかげで、彼の地所を刈り入れられると信じる」。かくて仕事が完了して、報酬を受け取りに赴くとき、彼らは兄弟に声をかけた、いわく。「行け、君の報酬を受け取るのだ、兄弟よ」。相手が云った。「刈り入れをしていないのに、どんな報酬を受け取れようか」。彼らが云った。「君の祈りのおかげで君の刈り入れができたのだ、だから来て、君の報酬を受け取りたまえ」。しかし、一方は「受け取らぬ」と言い、他方は、「受け取らないなら容赦しない」と言い張り、彼らの間にいつまでも言い合いが起こったので、裁いてもらうため偉大な老師のもとに赴いた。そして、彼に兄弟が云った。「師父よ、われわれ3人は刈り入れに出かけました。ところがわれわれが畑に出かけたとき、初日にわたしが病気になり、1日も刈り入れることなく、わたしの修屋に引き上げましたが、兄弟たちがわたしに強要するのです、いわく。『来て、君が刈り入れなかった報酬を受け取れ』と」。また他の二人も云った。「師父よ、われわれ3人は60アルゥラを請け負いましたが、われわれ3人では、それを仕上げることはできなかったでしょうが、この兄弟の祈りのおかげで、われわれ二人は簡単に刈り入れを終えられました、それで彼に言うのです。『君の報酬を受け取れ』と、しかし彼は拒むのです」。老師はこれを聞いて、驚嘆し、自分の兄弟〔弟子〕に云った。「叩け、兄弟たちがみな集まるよう」。そして全員が集まると、彼らに云った。「こちらへ、兄弟たちよ、今日、義しい裁きを聞くがよい」。そうして老師は彼らにすべてを報告し、兄弟には自分の報酬を受け取り、それで何でも好きなことを実行するよう裁断した、すると兄弟は、泣きながら悲しみながら出かけていった。 〔主題別17-24〕

(351.)
 老師が云った。「われわれの師父たちは、単独で修行しようと望む新参の兄弟たちの修屋を訪問し、彼らの中に、ダイモーンたちに試みられて、想念を害されている者がいないか視察する慣例があった。そうして、もしも彼らの中に害されている者が見つかれば、これを教会に連れて行き、水盤が据えられ、病んだ者のために祈りが上げられ、兄弟たちが全員で水浴させ、彼の上に水を掛けると、すぐに快癒するのであった。〔主題別17-25〕

(352.)
 二人の老師が長年お互いに坐していたが、いまだかつて喧嘩をしたことがなかった。そこで一人がもう一人に云った。「われわれも人間どものように一つ喧嘩をしてみよう」。相手が答えて云った。「どうやって喧嘩が起こるのかわからない」。相手がこれに云った。「見よ、plhnqavriVを真ん中に置こう、そうしてぼくのものだとぼくが言おう、君も、否、ぼくのものだと言う、するとここから始まるのだ」。そこでplhnqavriVを真ん中に置いて、ひとりが言う。「これはぼくのものだ」。そこでもうひとりが云った。「いや、ぼくのものだ」。すると他方が云った。「君のものなら、取りたまえ、そうして下がりたまえ」。そうして彼らは別れた、お互いに愛勝することも見出せずに。〔主題別17-26〕

(353.)
 老師が云った。「いまだかつて、わしを益しはするが、わしの兄弟を害する業をわしは欲したことがない、それは次のような希望を持っておるからじゃ、わしの兄弟の利得はわしにとって果実をもたらす業だと」。〔主題別17-28〕

(354.)
 ある修行者が、或る者がダイモーンに憑かれて断食できないのを見て、に対する愛ゆえに(〔聖書に〕書かれているように、おのれのことではなく他者のことを求め、ダイモーンがおのれに寄留し、件の者が自由になるよう祈願した。そういう次第で、その願いをが聞き入れられ、修行者はダイモーンに押し潰されたが、断食と礼拝と修行にさらに専念し続けたので、ついに、彼の愛によって、短日時のうちにが彼からダイモーンを追い出されたのであった。〔主題別17-17〕

(355.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。— 二人の兄弟がいました。ひとりは〔1週間に〕6日続けて静寂を保ち、数々の労苦をおのれに課していたが、もうひとりは具合の悪さに仕えていた。どちらの業をはより多く迎え入れたものでしょうか?、と。これに老師が言う。「6日を引く兄弟が、もしもおのれを鼻に掛けるなら、具合の悪い情態に仕える〔兄弟〕と同等ではありえない」。〔主題別17-22〕

(356.)
 兄弟が師父たちのある病人に仕えていた。その身体は痛み、化膿した悪臭とともに熱を発することになった。兄弟の想念が云った。「逃げ出せ。この悪臭に堪えることはできないのだから」。しかし兄弟は陶器を取って、病人の膿をその中に投げこんだが、自分の想念が逃げろと言いはじめると、想念に云った。「逃げるな、この悪臭を飲むこともするな」。そうして兄弟は刻苦し、老師に仕えることを堅持し、が兄弟の刻苦を見て、老人を癒やされた。〔主題別17-29〕

(357.)
 スケーティスの兄弟たちが、綱を綺麗にするため坐していた。ところが彼らの中の或る者が、修行のせいで病気になり、咳をして粘液を吹きだし、そのつもりはなかったのだが、ある兄弟の上に唾をかけはじめたが、相手は自分の想念によって、病人に、「おれの上に唾を吐くのをやめろ」と云うことをためらった。それで、その想念と戦い、心中に云った。「それを喰うことを望むなら、云え」。そのとき彼は言う。「まさかく喰うことはあるまい。〔ならば〕彼に云うな」。〔主題別4-85〕

(358.)
 師父たちの或る者が都市に出かけた、自分の手仕事の品を売るためであるが、裸の物乞いがいるのを見て、これに同情し、おのれの僧衣をこれに恵んでやった。しかし相手の物乞いは、行ってそれを売った。そこで老師は、相手が何をしたかを知って悲しみ、彼に着物を与えたことを後悔した。ところが、その夜、老師の夢の中に、僧衣を着たクリストスが現れ、彼に言う。「悲しむな、見よ、わたしが着ているものは、そなたがわたしに与えてくれたものだ」。

2016.04.03.

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