沙漠の師父の言葉7
原始キリスト教世界
語録集(Apophthegmata) 8
観想についての対話
(Dialogus de contemplatione)
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[底本]
TLG 2742
APOPHTHEGMATA
Apophthegmata patrum
(Varia)
8 1
2742 008
Dialogus de contemplatione, ed. J.-C. Guy, "Un entretien monastique sur
la contemplation," Recherches de science religieuse 50 (1962) 232-236.
(Cod: 1,074: Dialog., Eccl., Gnom.)
"T"
いかにして修屋に坐すべきかについてと、観想について
問答形式で
(1)
問:いかにして修屋の中で平静である(hJsucavzein)べきですか?
答:概して修屋に坐して、人間の記憶を持たぬこと。
(2)
問:されば、いかなる業(ejrgasiva)を心は持つべきですか?
答:それこそが修道者の究極の業である。常時気を散らさず(ajperispavstwV)神に専念することが。
(3)
問:されば、いかにして理性は諸々の想念(logismovV)を追い払うべきですか。
答:総じて自分からはできない、強さを持たないからでもある。むしろ、想念が魂に遭遇したとき、すぐに、祈願でこれ〔魂?〕を実修した人のところに避難すべきである、そうすればあの人がそれら〔諸々の想念〕を蜜蝋のように解消してくれる。なぜなら、われわれの神は焼き尽くす火だからである。
(4)
問:されば、どうしてスケーティスの師父たちは異論の多い想念を用いるのですか?
答:実際その業は偉大で特別だが、苦労があり、誰にでも安全というわけではないからじゃ。
(5)
問:どうして誰にでも安全なわけではないのですか?
答:心の忘我情態を有する。
(6)
問:どのように?
答:想念が魂に起こって力を持つ場合、これを追い出すべく多くの闘いを起こるが、他の〔想念〕が侵入して、魂にまとわりつく。じつにそういうふうにして魂は、ひねもす諸々の想念に抗弁するから、神の想念に専心するどころではない。
(7)
問:されば、いかなる術知によって想念は神のもとに避難するのですか?
答:そなたに淫行の想念が起こったら、すぐに理性を引き離し、急いでこれを上へと引き上げよ、そうして躊躇するな。躊躇することは下降(sugkatavbasiV)〔贖宥?謙遜?〕に限界を有するから。
(8)
問:もしも虚栄(kenodoxiva)の想念が起こった結果直くなったなら、その想念は抗弁しなくてよいのですか?
(9)
問:いかなる瞬間も抗弁する、あのものはますます強く、ますます激烈になる。なぜなら、そなたよりたくさんの抗弁〔の材料〕を持っており、聖霊はそこまでそなたの面倒を見てくれないのじゃから。というのは、諸々の情動との闘いをわたしは自助すると言う者として見出されるから。なぜなら、霊的な父を持つ者は、あらゆる配慮を自分の父にゆだね、あらゆる点でわずらいなき者であり、もはや神から判決をもらうことはないように、そのように、神に自分自身をゆだねる者は、総じて想念の配慮をしたり、抗弁したり、総じて侵入の場を放棄したりしなくてよい。たとえ侵入しても、上方のそなたの父のもとにこれを引き上げ、こう云った。「わたしは関係しない、わたしの父ご自身がご存知だ」。そうしてなお彼を道の真ん中に連れだし、そなたを置き去りにして逃げる。なぜなら、そなたといっしょに神と父のもとに行くことはできず、その面前に立つこともできないからである。この業より大きなものはなく、あらゆる教会において心配なきこともない。
(9)
問:されば、いかにして、スケーティスの修道者たちは異論の多い想念において神に善い問いかけをしたのですか?
答:あの人たちは単純さと神に対する恐れによって実修したので、だから神は彼らを受け容れたのじゃ。そうして後に観想の業そのものが彼らに到来した、彼らの多大な苦行と愛神ゆえに神がおはからいになったので。しかし偉大な人が、次のことも教えて言った。「わしがスケーティスにやって来たとき、そこに留まっているある聖人を訪ねた。すると彼はわたしに挨拶だけしたが、彼は坐ったまま、わたしに他のことは何も答えなかった。いや、わたしが坐って、観想に専念していると、その人も縄を綯いつつ、総じてわたしに傾注することを拒むことなく、喰うことをわたしに任せもしなかった。いや、実際、6日間、喰うことのないまま、日がな一日編み続けていた。そうして夕方になると、再びナツメヤシの枝を〔しなやかにするため〕濡らして、夜もすがら編み続けていた。そうして次の日、第10刻ころ、わたしに答えて言う。「兄弟よ、その業をどこで見つけたのか」。そこでわしが云った、「あなたはその業をどこで見つけられたのですか?」。わしらはな、子どもの頃からこの業を、わしらの父親たちから教わったものじゃ。するとスケーティスの修道者が謂った、「わしは、このような教えをわしの父親たちから受け継いだのではなく、そなたが今わしを見ているように、そのようにわしの時間のすべてにわたってわしは住持しているのじゃ、少しの手仕事と、少しの配慮と少しの祈りと、諸々の想念を能うかぎり浄化することと、襲い来るものらに抗弁することと、じつにそういうふうにして観想の霊がやって来た、このような業を持っている誰それがいるとは、わしは知らず、総じて学んだこともないけれども」。そこでわしは答えた、「しかしわたしは子どもの頃からそういうふうに学んできました」。
(10)
問:いかなる仕方で、こういう人は観想に傾注すべきですか?
答:その、いかにしては、諸書が明らかにしている。
(11)
問:どういうふうに?
答:ダニエールは、昔の日々のように観想し、ヒエゼキエール〔エゼキエル〕は、ケルゥビムの〔曳く〕戦車の上に〔エゼキエル10〕、ヘーサイアース〔イザヤ〕は高く挙げられた玉座の上で、モーゥセースは眼に見えないかたをあたかも見ているかのように、忍耐したのじゃ〔ヘブル11:27〕。
(12)
問:いかにすれば、理性は、いまだかつて見たことのないものを観想できるのですか?
答:王が偶像の上のごとくに坐しているのをそなたはいまだかつて見たことがない。
(13)
問:いったい、理性は神性を素描すべきですか?
答:素描することは、諸々の不浄な想念に同意することと同様美しくない。
(14)
問:罪と同様決して思量されないのですか?
答:さしあたり、預言者たちが正確に見たとおりにこれを保持せよ、そうすれば最後には使徒が言うとおりになるだろう、「今わたしたちは鏡を通して、謎のように見ているが、その時には顔と顔を合わす仕方で見るであろう」。彼は謂う、「想念が完成するとき、そのとき気安さ(parrhsiva)を見る」。
(15)
問:されば、心の忘我状態をこれは持っていないのですか?
答:総じて完全だ?、ひとが真に闘うならば。しかし彼は言った、「1週間すべてを創造したが、人間的記憶を思い起こすことはなかった」。他のひとが謂った、「かつて道をさまよい続けたが、二人の天使たちが両側から、わたしといっしょにさまよう者たちを見たが、この者たちには傾注しなかった」。
(16)
問:何ゆえ?
答:こう書かれているからだ、「天使たちも霊たちも、わたしたちをクリストスの愛から引き離すことはできないだろう」〔ロマ書8:38-39〕。
(17)
問:いついかなるときでも想念は観想することができるのですか?
答:いついかなるときもではないにしても、想念が諸々の想念によって抑えつけらる場合には、神に庇護を求めることを躊躇してはならない。つまり、わしがそなたに言っているのは、「想念がここまで完成した場合、動いたり、そこから想念が降りてくることは、より簡単なことだということじゃ。というのは、あたかも、有罪判決を受けた者は、暗黒のようなところに投獄されるが、放免されて、光を見るときには、もはや暗黒を思い出そうとしないようなものじゃから。想念も同様である、本来の輝きを見つめはじめたときには。というのは、聖人たちのひとりが言った、「
それで彼はこう言ったのじゃ、「頻繁に礼拝することは、理性をすみやかに直くする」と。
(18)
問:どうすればいついかなるときも礼拝することができるのですか? なぜなら、身体は聖務に対して脆弱ですから。
答:あの祈り(eujchv)と言われるのは、礼拝の好機に立つことだけではなく、いつも〔立つこと〕である。
(19)
問:どうすれば、いついかなるときも〔立てる〕のですか?
答:そなたが食べるときであれ、飲むときであれ、道を歩いているときであれ、何か仕事をしているときであれ、祈りから離れないことじゃ。
(20)
問:されば、誰かとしゃべっている場合、どうすれば、いついかなるときも礼拝するということを満たすことができるのですか?
答:それゆえ使徒が言ったのじゃ、「あらゆる礼拝と願いを通して」〔エペソ6:18〕と。すなわち、他の人と交わるために、そなたが礼拝する暇がないときは、願いを通して礼拝せよ。
(21)
問:いかなる祈りによって礼拝すべきですか?
答:こうじゃ、「諸天にましますわれらの父よ、云々」と。
(22)
問:祈りの程度はどれくらい祈るべきですか?
答:程度は明らかでない。というのは、いついかなるときも、間断なく礼拝すると云うのは、程度を持たないからだ。なぜなら、礼拝のために立つ時だけ修道者が礼拝するなら、そういう者は祈っているのでないのじゃから。で、こう言われたのじゃ、「この点であらゆる人間どもを真っ直ぐにしようとする者は、一人と見るべきだ」。
2015.01.29. 訳了。
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