title.gifBarbaroi!
back.gif砂漠の師父の言葉(主題別)9/21

原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 12

砂漠の師父の言葉(主題別)
(10/21)



[底本]
TLG 2742.012
Apophthegmata patrum (collectio systematica) (cap. 10-16)
Gnom., Eccl.
J.-C. Guy, Les apophtegmes des pères. Collection systématique, chapitres x-xvi [Sources chrétiennes 474. Paris: Éditions du Cerf, 2003]: 14-416.
Breakdown



10.

分別(diakrivsiV)について

(1.)
 師父アントーニオスが云った —。「おのれの身体を苦行に精進させながら、自身が分別を持たなかったために、神から遠い者となってしまった者たちがいる」。〔アントーニオス8〕

(2.)
 何人かの兄弟たちが師父アントーニオスを訪ねた、自分たちの見た一種の幻を彼に報告し、それが真実のものか、それともダイモーンたちからのものか、彼から学び知るためである。ところで、彼らは驢馬を連れていたが、道中で死んでしまった。さて、彼らが老師のもとに到り着くや、彼らに先んじて彼らに言う。「子驢馬が道中で死んだ様子は如何?」。件の者たちが彼に言う。「どうしてご存じなのですか、師父よ」。すると彼が彼らに云った。「ダイモーンどもがわしに示したのだ」。彼らが彼に言う。「わたしたちもあなたに尋ねるためにあなたのもとにやって来た所以は、わたしたちが幻を見て、真実なものだとしばしば思い込んで、惑わされないためなのです」。そこで老師は、驢馬の例によって、ダイモーンからのものであることを、彼らに納得させたのである。〔アントーニオス12〕

(3.)
 砂漠で野生の動物を狩っている或る者がいたが、師父アントーニオスが、兄弟たちと懇ろにしているのを目にして、躓いた。そこで老師は、時には兄弟たち〔の境位〕に降りてゆくことも必要だということをその男に納得させようとして、彼に言う。「そなたの弓に矢をつがえて、引き絞れ」。そこでそのとおりにした。これにさらに言う。「引き絞れ」。そこで引き絞った。するとさらに謂う。「引き絞れ」。猟師が彼に言う、「度を超えて引き絞ると、弓が折れてしまいます」。これに老師が言う。「に仕えるわざも同様である。兄弟たちに対して度を超えて張りつめさせると、すぐに駄目になってしまう。それゆえに、ときどきは兄弟たち〔の境位〕に降りてゆく必要があるのだ」。これを聞いて猟師は合点し、老師から大いに益せられて、立ち去った。また、兄弟たちも奮起させられて、自分たちの場所へと戻っていった。〔アントーニオス13〕

(4.)
 或る兄弟が師父アントーニオスに云った。「わたしのために祈ってください」。するとこれに老師が言う。「そなたを憐れむのは、わしでないのはもちろん、も然り。そなたがおのれ自身を憐れみ、あの方〔〕に嘉せられることがないかぎりは」。〔アントーニオス16〕

(5.)
 さらに師父アントーニオスが云った —。「は、古人に対するようには、今の世代に敵との戦いをお許しにならない。脆弱であって、持ちこたえられないとご存じだからである」。〔アントーニオス23〕

(6.)
 兄弟が師父アルセニオスに尋ねた、いわく。「何ゆえ、自分たちが死ぬ際にも、自分たちの身体を打たれて、多大な呵責に取り囲まれる美しい人たちが何人もいるのですか?」。すると老師が答えた。「塩によって塩漬けされるように、此岸で清浄となって、彼岸に立ち去るためじゃ」。〔N 568〕

(7.)
 老師たちの或る者が浄福なアルセニオスに云った。「どうしてわれわれは、これほどの教育と知恵とから得るものは何もないのに、このアイギュプトスの農夫たちは、これほど多くの徳を所有しているのですか?」。これに師父アルセニオスが言う、「われわれは世俗の教育から何も得ないが、このアイギュプトスの農夫たちたちは、自らの労苦によって、諸々の徳を所有しているのだ」。〔アルセニオス5〕

(8.)
 浄福な師父アルセニオスが云った言った —。余所者の修道者をして、無縁の地の中央に何ものもあらしめるな、さすれば安らげよう」。〔アルセニオス12〕

(9.)
 師父マカリオスが師父アルセニオスに尋ねた、いわく。「自分の修屋の中に何らかの慰め(paravklhsiV)を持たないのは美しいことでしょうか。というのは、ある兄弟がわずかな野菜を持っていながら、これを根こそぎにしているのを見たからです」。すると師父アルセニオスが云った。「美しいことではあるが、しかし、人間の性情に応じてのことだ。というのは、もしそのような仕方に力をもっていないなら、彼は再び別なものを植えるであろう」。〔アルセニオス22〕

(10.)
 師父ダニエールが言った —。「師父アルセニオスは死に臨んで、われわれに告げた、いわく。『わしのために愛餐をしようと気にかけるな。わしがわしの生きている間に、もしおのれのために愛餐をしたなら、それはそこで見出すことができようから」。〔アルセニオス39〕

(11.)
 師父ロートが語り伝えている —。かつてわしは師父アガトーンの修屋にいたが、彼のところに兄弟がやって来た、いわく。「兄弟たちと住むつもりです、そこで、彼らとどのように住むべきか、どうかわたしに云ってください」。老師が言う。「そなたが彼らのところに入っていった最初の日のように、そなたのすべての日々、気易くしないよう(i{na mh; parjrJhsiasq:/V)、そなたの余所者性(ceniteiva)を守るがよい」。これに師父マカリオスが言う。「いったい、気易さ(parjrJhsiva)は何を惹き起こすのですか?」。老師が言う。「大いなる炎暑のごとく、それは一旦起こるや、あらゆるものがその前から逃げ去り、樹々の果実を台無しにしてしまう」。師父マカリオスが言う。「気易さ(parjrJhsiva)とはそれほど難儀なものなのですか」。すると師父アガトーンが云った。「気易さ(parjrJhsiva)ほど難儀な情動はない。あらゆる情動を生みの親だからじゃ。行者にとっては、たとえ修屋に独りいたとしても、気易くしない(mh; parjrJhsiavzesqai)のがふさわしい」。〔アガトーン1〕

(12.)
 師父アガトーンについて言い伝えられている、— ある人たちが彼のところにやって来た、大いなる分別を持っていると聞いたからである。そして彼が怒るかどうか吟味しようとして、彼に言う。「あなたがアガトーンですか。あなたについて、邪悪で倣慢な者だと聞きました」。相手が云った。「さよう」。「おしゃべりで中傷好きですか?」。相手は云った。「わしのことじゃ」。さらに言う。「あなたは異端者のアガトーンですか?」。すると答えた。「わしは異端者ではない」。そこで、こう言って彼に頼んだ。「あなたは、わたしたちの云ったことはすべて認めさえしたのに、なぜこの言葉には耐えられなかったのですか、どうかわたしたちに云ってください」。彼らに言う。「初めの事は、わたし自身が認めるところじゃ。わしの魂にとって益となるものじゃから。しかし異端者とは、から離反した者であって、わしはから引き離されることを拒むのじゃ」。彼らはこれを聞いて、彼の分別に驚嘆し、教化されて立ち去ったのだった。〔アガトーン5〕

(13.)
 師父アガトーンが尋ねられた、「身体的な苦行と内面の見張りとは、どちらがより大きいでしょうか」。そこで老師が云った。、「人間とは樹木のようなもので、身体的な苦行は葉であり、内面の見張りは果実である。聖書に書かれているところによれば、『良い実を結ばぬ木は、みな切り倒されて、火に投げ入れられる』〔マタイ3:10〕。明らかに、すべての熱心さは果実のために、つまり理性の見張りのためにある。しかし他方、業による保護と飾りも必要であり、それがすなわち身体的な苦行のことなのだ」。〔アガトーン8〕

(14.)
 師父アガトーンこそは、思いにあっては知恵があり、身体的なことにあっては疲れを知らず、手仕事や衣食のことなどは、すべて自ら果たしていた。〔アガトーン10〕

(15.)
 同じアガトーンが、ある事件についてスケーティスで集会が持たれ、解決策がとられたとき、彼は遅参したので、彼らに云った。「あなたがたは問題を美しく解決していない」。そこで彼らが彼に云った。「あなたは何者ですか、そんなことを言うとは?」。相手が云った。「人の子である。こう書かれているから。『人の子よ、あなたがまことに正義を語ならば、ただしく裁くだろう』〔詩編58:2〕」。〔アガトーン14〕

(16.)
 師父アガトーンが云った。「怒る者は、たとい死人を甦らせたとしても、には受け入れられない」。〔アガトーン19〕

(17.)
 師父アタナシオスが尋ねられた。「どのように、父に息子が等しいのでしょうか?」。すると答えた。「両眼に視覚はひとつであるように」。〔Anony1〕

(18.)
 あるとき、三人の老師が師父アキラースを訪ねたが、彼らの中の一人は、悪い噂の或る者だった。で、老師たちの一人が彼に云った。「師父よ、わたしに引き網を1つ作ってください」。相手が云った。「わしは作らぬ」。他の者も云った。「愛餐をしてください、修道院であなたから鎮魂を得るために」。相手が謂った。「暇がない」。悪い噂のある他の一人が彼に言う。「どうかわたしに引き網を1つ作ってください、あなたの手仕事からわたしに得るところがあるように、師父よ」。相手はすぐに答えて彼に云った。「わしがそなたのために作ろう」。そこで二人の老師は、こっそり彼に云った。「どうして、わたしたちがあなたにお願いしたのに、わたしたちには作るのを拒否されたのに、あいつには、『わしがそなたのために作ろう』と云われたのですか?」。彼らに老師が言う。「そなたたちに『作らぬ』と云ったとき、わしに暇がないからと、そなたたちは悲しまなかった。しかし、もし彼のために作らなければ、『わたしの罪を聞き及んで、老師は作ることを拒んだのだ』と述べよう。そうなれば、われわれはただちに絆を断ち切ることになる。それゆえ、彼の魂をわしは目覚めさせたのじゃ、こういう者が、悲しみにうちひしがれることのないようにな」。〔アキラース1〕

(19.)
 ある老師について言い伝えられている、— 彼はめったにパンも食べず、葡萄酒も飲まず、50年を過ごした。そして言った、— わしは淫欲、金銭欲、そして虚栄心を殺した、と。すると師父アブラアームが彼のところにやって来た、そう言っていると聞いたからであるが、彼に言う。「これこれの言葉を言ったのはあなたか?」。すると言う。「はい」。すると師父アブラアームが云った。「見よ、あなたの修屋に入ると、あなたの蓆の上に一人の女を見つけたとする、それが女でないと想うことができようか?」。彼が言う。「できません。しかし、わたしは想念と闘います、彼女に触れぬよう」。そこで、師父アブラアームが言う。「見よ、殺したわけではなく、情動は生きている、縛られてはいるが。今度は、あなたが散策しているとき、石と陶器の破片と、それらの間に金を見つけたとする、あなたの精は、それ〔金〕をそれら〔石や陶片〕のように思量することができるか?」。彼が言う。「できません。しかしそれを手に入れないよう想念と闘います」。すると老師が言う。「見よ、〔情動は〕生きている。縛られているだけだ」。さらに師父アブラアームは言う。見よ、そなたは二人の兄弟について聞いている、— 一人はあなたを愛し、他はあなたを憎み、あなたの悪口をいっている、と。もし彼らがあなたのところにやって来たとしたら、二人を等しく愛せるか?」。彼が言う。「いいえ。しかし、わたしは想念と闘います、わたしを愛する者に対するように、わたしを憎む者に対して善行をするように」。これに師父アブラアームが言う。「では、情動はやはり生きている、ただ、聖人たち〔の祈りの力〕によって縛られているだけだ」。〔アブラアーム1〕

(20.)
 師父たちの一人が語り伝えている、— ケッリアに労苦を厭わぬ一人の老師がいたが、彼は藺草籠を携えていた。彼はでかけて、師父アムモーナースを訪ねた。老師は彼が藺草籠を携えているのを見て、彼に言う。「それはそなたを何ら益せぬ」。すると彼に老師がこう言って尋ねた。「三つの想念がわたしに群がっています。砂漠から砂漠にさまようか、誰もわたしを見知らぬ異国に行くか、修屋に閉じこもって、誰にも会わず、二日おきに食事をする、という考えです」。これに師父アムモーナースが言う。「三つのうちのいずれもしてもそなたにとって役に立たない。それよりも、そなたの修屋に坐れ、そして毎日わずかなものを食せ。そして、絶えずあの取税人の言葉〔ルカ18:13〕をそなたの心に留めよ。そうすれば救われ得よう」。〔アムモーナース4〕

(21.)
 師父ダニエールについて言い伝えられている、— 蛮族がスケーティスに侵入したとき、師父たちは逃げた。しかし老師が言う。「わしのが配慮してくださらなければ、いったいどうして生きてゆけようか」。そして蛮族の中を通り過ぎたが、彼らには彼が見えなかった。このとき、自分自身に言う。「見よ、わしのが配慮してくださったので、わしは死ななかった、さればそなたも人間らしいことを行え、そうして師父たちのように逃げよ」。〔ダニエース1〕

(22.)
 師父ダニエールはまた言った、— 身体が元気盛んになればなるほど、魂はかよわくなる。また、身体がかよわくなればなるほど、魂は元気盛んとなる」。〔ダニエール4〕

(23.)
 師父ダニエールが話していた、— 師父アルセニオスがスケーティスにいたとき、そこに老師たちのものを盗む修道者がいた。そこで師父アルセニオスは、彼に徳を得させて、老師たちを安心させようとして、彼を自分の修屋に連れて来て、これに言う。「何であれそなたの望むものは、わしがそなたにやろう。ただ、盗みだけはするな」。そして、彼に金貨、小銭、衣服、彼の必要とするものすべてを与えた。かくて彼は戻ったが、また盗むのであった。そこで老師たちは、彼がやめないのを見て、彼を追放した、いわく。「兄弟が欠点の弱さを有しているのを見出しても、彼に耐えなければならない。だが、盗みを止めないならば、彼を追放せよ。彼は自分の魂をさえ損ない、また、その場にいる人たち全員をさえ乱すからである」。〔ダニエース6〕

(24.)
 自分の初期に、師父エウプレピオスはある老師を訪ね、これに言う。「師父よ、どうしたら救われるか、どうかわたしに言葉をください」。すると相手が彼に言う。「もし救われたいのであれば、誰かを訪ねたとき、そなたに諮問する前には、先に話をするな」。彼はこの言葉に驚倒し、跪いた、いわく。「本当に多くの書物を読みましたが、このような教えを受けたことはありません」。そして、彼は大いに益されて出て行った。〔エウプレピオス7〕

(25.)
 迷動した理性を安定させるのは、〔聖書〕朗読と徹宵と祈り。炎となって燃えあがる欲望を消火するのは、貧しさと労苦と隠遁。かき立てられた気性を制止するのは、詩篇朗唱と気長さと憐れみ。しかもこれらは、適切な時と程度をもって行われるものである。なぜなら、度外れなことや時宜を得ないことは、長続きしない。長続きしないことは、むしろ害にこそなれ、益にはならないからである。〔Cf.エウアグリオス「8つの想念に対抗して」15〕

(26.)
 さらに別のとき、エプライムが通りがかると、一人の娼婦がひとにそそのかされてやって来た、彼をおだてて恥ずべき交わりに引き込むか、さもなければ、せめて彼を苛立たせるためである、未だ誰も、彼が怒るのを見たことがなかったからである。すると彼が彼女に言う。「わたしについて来なさい」。にぎやかな場所に近づくと、彼女に云った。「さあ、この場所でそなたのしたいことをするがよい」。彼女は群集を見て、彼に言う。「こんな衆人の前で、どうしてそんな真似ができるでしょうか、恥ずかしくないのですか?」。すると相手が彼女に言う。「もし人間に対して恥ずかしいと思うのならば、まして暗闇に隠れていることを吟味する〔1コリント4:56〕の御前では、なおいっそう恥ずべきであろう」。女は恥じ入って、為すところなく立ち去ったのであった。〔エプライム3〕

(27.)
 兄弟たちが彼のもとへやって来た、そしてこう言って尋ねた。「ヨプ記に書かれている『天もあの方の前には天さえも浄くない』〔ヨブ15:15〕とはどういう意味ですか」。そこで老師が答えて彼らに云った。「兄弟たちは自分たちの罪を棚に上げて、諸天について尋ねる。しかし、この言葉の解釈はこうである。ひとりのみが浄いから、それゆえに『天も浄くはない』と云ったのじゃ」。〔セーノーン4〕

(28.)
 師父ヘーサイアースが云った。「純朴さと、おのれを買いかぶらないことが、邪悪な諸々の想念から聖化する」。

(29.)
 さらに云った。「自分の兄弟と悪巧みの中をさまよう者は誰しも、心の苦痛が彼を避けることはない」。

(30.)
 さらに云った。「いつも何かしら違ったことを口にする者は誰しも、その心の内が邪なのであり、そういう者の勤行は虚しい。されば、そういう者に執着してはならない、その者の汚れた毒素でそなたを汚さないために」。〔vgl.11-24〕

(31.)
 さらに云った。「利得、名誉、休息は、死ぬまで人間に戦いを仕掛ける。そういうものらといっしょに下落してはならない」。

(32.)
 彼がさらに云った。「誰かに友愛の情を持ち、その人が邪淫の誘惑に陥ったならば、できるだけ彼に手を貸して、彼を上へと引き上げよ。188.40 だが、彼が異端に陥り、立ち帰れというそなたに聴従しないならば、速やかにそなたから彼を断ち切るがよい。ぐずぐずして彼とともに深淵に引きずり落とされないためである」。〔ペルメーのテオドーロス4〕

(33.)
 同じ人が、あるとき、生まれつき宦官である師父イオーアンネースを訪ねたことがある。彼らが話しているときに、云った。「わしがスケーティスにいたころ、魂の業がわれわれの仕事であり、手仕事は付属的なものであった。しかし今では、魂の仕事が付属的なものとなり、付属的なものが仕事になってしまった」。〔ペルメーのテオドーロス11〕

(34.)
 老師たちの一人が師父テオドーロスのところにやって来て、これに云った。「見よ、すごい兄弟が世俗にもどりました」。するとこれに老師が云った。「そんなことに驚くのか? 驚くことはない、むしろ、誰か敵の口をまぬがれることのできた者がいると聞いたら、驚くがよい」。〔ペルメーのテオドーロス8〕

(35.)
 Dixit memoratus abbas Theodorus: multi eligunt in hoc saeculo temporalem quietem, antequam praestet eis Dominus requiem.

(36.)
 コロボスの師父イオーアンネースについて言い伝えられている、— かつて、自分より年長の兄弟に云った。「天使たちが何も働かず、間断なくに仕えて、思いわずらいがないように、思い煩いのない者になるつもりです」。そして、外衣を脱ぎすて、砂漠へと出て行った。しかし1週間後、自分の兄弟のところへ戻ってきた。そして戸を叩くと、開く前に、こう言って彼に聞いた。「おまえは誰だ?」。相手が云った。「あなたの兄弟のイオーアンネースです」。すると答えて彼に云った。「イオー案エースは天使となり、もはや人間界にはいない」。相手はこう言って呼びかける。「わたしです」。しかし彼のために開けることはせず、彼が消耗するまま夜明けまで放っておいた。そして最後に彼に戸を開けて、言う。「おまえは人間だ、だから、食べるためには、また働かなければならない」。すると彼はこう言ってひれ伏した。「どうかわたしをお赦しください」。〔コロボスの師父イオーアンネース2〕

(37.)
 スケーティスの幾人かの老師たちが、お互いに食事の時を過ごしていた。師父イオーアンネースも彼らといっしょにいた。するとある偉大な司祭が、細首瓶の水を供するために立ち上がった。しかし、ただ一人コロボスのイオーアンネースを除いては、誰もそれを受けなかった。それで、彼らは驚き、彼に云った。「あたは皆の中で一番若いのに、なぜあえて司祭から奉仕を受けたのですか?」。すると彼らに言う。「わたしが水差しの水を供するために立ち上がるとき、わたしが報いを受けるようにと、もし皆がそれを受け取ってくださるとしたら、わたしは嬉しいでしょう。それで、あの方が報いを受けるよう、また、誰もあの方の奉仕を受けないことで、彼が悲しまないようにと、わたしもそれを受けたのです」。彼がこのように云ったので、皆は驚嘆し、その分別に益されたのであった。〔コロボスのイオーアンネース7〕

(38.)
 同じ人が、さらに師父イオーセープに尋ねた、いわく。「諸々の情念が接近したときには、どうしたらいいでしょうか。これに抵抗すべきでしょうか、それとも、それが起こるままにしておくべきでしょうか」。これに老師が言う。「起こるままにして、それと闘うがよい」。そこで、スケーティスに立ち帰り、住持した。ところが、テーべ人のある人がスケーティスに来て、兄弟たちに言った、— わたしは師父イオーセープに尋ねた、いわく。「わたしに情念が接近したら、これに抵抗すべきでしょうか、それとも入るがままにすべきでしょうか?」。するとわたしに云った。「断じて情念が入るがままにしてはならん、ただちにそれを断ち切れ」、と。
 師父ポイメーンは、師父イオーセープがテーバイ人にそのように言ったと聞くや、立ち上がって、パネポーの彼のところへ上り、これに言う。「師父よ、わたしはあなたにわたしの諸想念を信託しました。しかし、見よ、あなたは、わたしとテーバイ人とに、それぞれ別様に云われたのです」。これに老師が言う。「わしがそなたを愛していることを知らぬのか」。そこで彼が云った。「知っています」。「そなたは、『あなた自身に対するように、わたしに言ってください』とわしに言ったのではないか?」。「そのとおりです」。これに老師が言う。「情念が入りこんだとき、そなたがそれらと事を構えようが構えまいが、そなたをいっそう試練を経た者としよう。そこで、わしは自分自身に対するように、そなたに話したのじゃ。しかし、情念の接近が何の益にもならず、直ちにそれを断ち切らねばならない他の者たちもいるのじゃ」。〔パネポーのイオーセープ3〕

(39.)
 兄弟たちのひとりが言った、— 。あるとき、わたしはヘーラクレアに下り、師父イオーセープのもとを訪ねた。すると、修道院には熟した桑の実がたくさんなっていた。明け方、彼はわたしに言う。「行って食べよ」。しかし、金曜目だったので、断食のためにわたしは行かなかった。そこで彼に呼びかけて云った。「どうかこの想念をわたしに云ってください。見よ、あなたはわたしに言いました。『行って食べよ』。しかしわたしは断食のためにそこに行かなかったのですが、あなたの命令のことを思量して恥じています。どういうおつもりで老師はわたしに言われたのですか? だったのでしょうか。あなたがわたしに『行け』と仰ったのは、わたしはどうすべきだったのでしょうか」。相手が云った。「師父たちは、最初から兄弟たちに真つ直ぐなことは言わず、むしろひねったことを言うものだ。そして、彼らがそのひねったことをするのを見て、彼らが万事において従順であることを知って、もはやひねったことを言わず、真実を語るのである」。〔パネポーのイオーセープ5〕

(40.)
 ある兄弟が師父イオーセープに尋ねた、いわく。「わたしは苦しみに耐えることも、働いて施しをすることもできないのですが、どうすればよいでしょうか」。これに老師が言う。「そのようなことが何もできないならば、少なくとも、そなたの隣人から来るあらゆる悪からそなたの良心を見張れ。そうすれば救われよう」。〔パネポーのイオーセープ4〕

(41.)
 彼がさらに云った。「そなたたちが断食しつつ法に則って修行するするとしても、倣慢になってはならない。そのことを自慢するくらいなら、むしろ肉を喰うがよい。なぜなら、傲ったり尊大になったりするよりは、むしろ肉を食べることの方が人間にとって幸せだからだ」。〔司祭イシドーロス4〕

(42.)
 彼がさらに云った。「弟子たちは、真の師である人々を父のように愛し、支配者のように畏れなければならない。そして、愛によって畏れを緩めないように、また畏れによって愛を暗くしないようにせねばならない」。〔司祭イシドーロス5〕

(43.)
 彼がさらに云った。「そなたが救いを恋い慕うならば、そなたをそれへと導くことをすべて行うがよい」。〔司祭イシドーロス6〕

(44.)
 さらに兄弟たちに云った。「ここに少年たちを連れて来てはならない。スケーティスの4つの教会は、少年たちのせいで砂漠と化したからだ」。〔ケッリアのイサアーク5〕

(45.)
 師父ロンギノスは、かつて、こう言って三つの想念について師父ルゥキオスに尋ねた。「わたしは異国の地に住む気です」。これに老師が言う。「そなたの舌を制するのでなければ、どこへ行こうとも、異邦人にはなれない。だから、ここでそなたの舌を制するがよい、そうすれば異邦人になれる」。さらに彼に言う。「わたしは断食する気です」。老師が答えた。「預言者ヘーサイアース〔イザヤ〕が云った。『あなたの首を、首輪や軛のように曲げるとしても、そのままで快く受け入れられた断食と呼ばれることにはならない』〔イザヤ58:5〕。むしろ悪い想念を制するがよい」。彼に第三のことを言う。「人間どもを避ける気です」。老師が答えた。「先ず人間どもの中で正しく行動しなかったとすれば、独りであっても正しくはなれない」。〔ロンギノス1〕

(46.)
師父マカリオスがタベネーシス人たちの師父パコーミオスのもとを訪ねた。パコーミオスが、こう言って彼に尋ねた。「兄弟たちが無規律なとき、彼らを教育するのは美しいでしょうか?」。これに師父マカリオスが言う。「そなたのもとにいる者たちなら教育し、義しく裁くがよい。しかし、それ以外の者は、何びとをも裁いてはならない。こう書かれているからである。『あなたたちが裁くのは内部の者だけではないのか。外部の者たちは、が裁かれる』〔1コリント5:12-13〕。」〔都会人マカリオス2〕

(47.)
 兄弟が師父マカリオスに尋ねた、いわく。「どうすれば救われるでしょうか?」。老師が答えた。「死人のごとくなれ、死人たちが人間どもの恥も栄光も想念も思量しないように、そうすれば救われる」。

(48.)
 師父マカリオスが云った。「人間どもによってわれわれに招来されたもた諸悪を思い起こせば、を想起する力を排除する。しかし、ダイモーンたち諸悪を思い起こすならば、われわれは無傷であろう」。〔エジプトのマカリオス36〕

(49.)
 彼がさらに云った。「サターンは、魂がいかなる情念によって打ち負かされるかを知らない。種まきはするが、収穫できるかどうかは知らない。邪淫をめぐる想念や、中傷をめぐる想念、自余の情念も同様である。ただし、いかなる情念に魂が傾いているかを見て、これ〔魂〕に合唱舞踏するのであるが」。〔マトーエース4〕

(50.)
 師父シルゥアノスの弟子、師父ネトラースについて語り伝えられている、— 彼は、シナー〔シナイ〕山にある自分の修屋に坐していたとき、身体の必要に応じて、適度に自身を処していた。しかし、パラーンの主教になると、もっと多くの厳しい苦行を自分に課した。そこで、彼の弟子が彼に言う。「師父よ、わたしたちが砂漠にいたとき、このような修行はなさいませんでした」。するとこれに老師が言う。「あそこには砂漠があり、静寂さと清貧があり、また、病気になって、自分の持たざるものを求めないですむよう、身体を操舵しようとしていた。だが今は世俗があり、諸々の刺激がある。わしがここで病気になったとしても、修道者たるわたしを滅ぼさぬよう、わしを気遣ってくれる人がいる」。〔ネトラース〕

(51.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく —。わたしは乱され、わたしの場を放棄しようと思うのですが、と。これに老師が言う。「いかなる事由によってか?」。兄弟が答えた。「ある兄弟に関する言葉がわたしを益すまいと耳にするからです」。これに老師が言う。「そなたが耳にしたのは真実ではない」。兄弟が言う。「いいえ、師父よ、というのも、わたしに云った兄弟は信実だからです」。老師が言う。「彼は信実ではない。もしも信実だとすれば、そなたにそんなことは言わなかったろう。例えば、はソドム人たちの声を聞いたとき、眼に見ぬ限りはと、信じることを拒んだ。われわれも、言われている事柄をやみくもの信じるのは、益されまい」。兄弟が言う。「わたしも、わたしの両眼で見ました」。すると、これを聞いて老師は、大地に傾注して、小さな果実を取って、彼に言う。「これは何か?」。兄弟が言う。「果物です」。すると老師が言う。「そなたの心に、そなたの諸々の罪はこの梁のごとし、そなたの兄弟のそれ〔罪〕はこの小さな果実のごとし、と想像せよ」。すると師父ティトーエースはこの言葉を聞いて、驚嘆し、云った。「どれほどわたしはあなたを浄福視することでしょう、師父ポイメーン、宝石よ。あなたの言葉は歓びとあらゆる栄光に満ち満ちています」。 〔Anony391〕

(52.)
 師父ポイメーンが云った。「罪を犯した者や、自分の罪を認識している者や、悔い改めた者の方が、罪を犯したこともなく、へりくだったこともない者よりも、わたしは好きだ。なぜなら、前者はおのれを罪人とみなし、想念においてへりくだるが、後者は、義人にして思いあがっているから、おのれを義忍しているからである」。

(53.)
 あるとき、地方の司祭たちが師父ポイメーンがいる修道院へやって来た。そこで、師父アヌゥブが中に入って来て、彼に言う。「今日、ここに司祭たちを呼ぼう」。しかし、彼は長い間立ったままで、彼に返事を与えなかった。そこで、悲しんで出て行った。彼の近くに坐っていた人々が彼に言う。「師父よ、どうして彼に返事をしなかったのですか」。彼らに師父ポイメーンが言う。「わしは関わりを持たぬ。なぜなら、わしは死んだ者だからだ。死人は話さない」。〔ポイメーン3〕

(54.)
 あるとき、ある兄弟が師父ポイメーンの地方から異邦に旅立った。そしてそこである隠修者のところに着いた。この人は愛或る者で、多くの人々が彼のもとに来ていた。兄弟は彼に師父ポイメーンのことを報告した。するとその徳を聞いて、彼に会うことを渇望した。さて、兄弟がアイギュプトスに戻って、しばらく後、隠修者は立ち上がり、異邦からアイギュプトスに、かつて自分を訪問した兄弟のもとにやって来た。どこに住んでいるかを彼に話していたからである。くだんの人は彼を見て驚き、また非常に喜んだ。そこで隠修者が云った。「お願いですから、師父ポイメーンのところに連れて行ってください」。そこで、彼を連れて老師のところに赴き、こう言って彼のことを彼に報告した。「偉大な人物で、豊かな愛を持ち、自分の国で名声を博しています。あなたのことを彼に報告したところ、あなたに会いたいと思ってやって来たのです」。そこで喜んで彼を迎え、互いに挨拶を交わして坐した。
 さて、客人は聖書を引用しながら、霊的なことや天上のことを話し始めた。しかし、師父ポイメーンは自分の顔を背け、彼に返事をしなかった。自分と話してくれないのを見て、悲しんで出て行き、自分を連れて来てくれた兄弟に言う。「この旅をしたのはすべて無駄でした。というのは、わたしは老師のところに来ました。けれど、見よ、彼はわたしと話そうともしてくれません」。そこで、兄弟は師父ポイメーンのところに入り、彼に言う。「師父よ、自分の地で非常に尊敬されているあの偉大な人物が来たのは、あなたのためなのです。なぜ彼と話さなかったのですか」。これに老師が言う。「彼は上の者で、天上のことを話すが、わしは下の者で、地上のことを話す。彼が魂の情念についてわしに話したならば、わたしは彼に答えたことであろう。だが、霊的なことを話しても、わたしはそれを知らぬ」。
 そこで、兄弟は外に出て彼に云った。「老師は容易に聖書を引用して語ったりはしません。しかし、魂の情念について彼に話す人がいれば、これに答えられるでしょう」。相手は心を動かされ、老師のところに入り、324.10 これに言う。「わたしは魂の情念によって支配されているのですが、どうしたらよいでしょうか」。すると、老師は喜んで、彼を見つめ、云った。「さあ、美しくおいでなさった。今こそ、このことについてあなたの口を大きく開けるがよい、そうすれば、わたしはそれを諸々の善いもので満たそう〔詩編80:11〕」。相手は大いに益を受けて言った。「これこそ真の道です」。こうして、がかくも偉大なる人物に自分を引き合わせてくださったことに感謝しつつ、自分の国に戻って行ったのである。〔ポイメーン8〕

(55.)
 彼がさらに云った、— 隣人に教えることは、健全で無の人のわざである。他人の家を建てても、自分の家を壊すならば、何の役に立つだろうか、と。〔ポイメーン127〕

(56.)
 彼がさらに云った、— 何びとかに術を施しても、これ〔術〕を学ぶことをしないなら、何の役に立とうか、と。〔ポイメーン128〕

(57.)
 幾人かの者が、師父シソエースにこう言って尋ねた。「もし兄弟が躓いたら、1年間悔い改める必要があるでしょうか」。相手は云った。「その辞は厳しい」。そこで一同が謂う。「しかし、六か月は?」。すると再び云った。「多い」。そこで一同が謂った。「40日間は?」。再び謂った。「多い」。彼に言う。「では如何。兄弟が躓いて、すぐに愛餐が行われることになれば、彼も愛餐に入るのでしょうか?」。彼らに老師が言う。「いや。数日間、悔い改める必要がある。というのは、わしはを信じておる、こういう者が心から悔い改めるなら、三日後にはが彼を受け容れてくださると」。〔シソエース20〕ポイメーン12?

(58.)
 師父アヌゥブが師父ポイメーンに、人間の心が生み出す諸々の不浄な想念と、空しい欲望とについて、尋ねた。すると、師父ポイメーンが彼に言う。「斧は、これで伐る切ることなしに、栄化されることがあろうか〔イザヤ10:15〕。そなたも、それらに手を貸すな。そうすれば、それらは働かないだろう」。〔ポオメーン15〕

(59.)
 師父ヘーサイアースが師父ポイメーンに、汚れた想念について尋ねた。すると、彼に師父ポイメーンが言う。「箱が上衣で満たされ、ひとがこれを放置しておくと、長い間に腐蝕するようなもの。想念も同様である。これを身体的に実修しないと、時とともに消えてしまうか、あるいは朽ちてしまうだろう」。〔ポイメーン20〕

(60.)
 師父イオーセープが同じロゴスを尋ねた。すると彼に師父ポイメーンが云った。「ひとが蛇や蠍を容器に入れて、蓋をしておくと、時とともに完全に死ぬようなもの。邪悪な想念も同様で、ダイモーンたちに発芽しても、忍耐によって消えてしまうものなのだ」。〔ポイメーン21〕

(61.)
 師父イオーセープが師父ポイメーンに、どのように断食すべきか、尋ねた。師父ポイメーンが彼に言う。「わしは、食べる者が毎日少しずつ食べることを好む、満腹しないためである」。これに師父イオーセープが言う。「あなたは若い頃、2日に1度断食されたのではありませんか?」。すると老師が云った。「実は、3日も4日も、さらには1週間もじゃった。かつて師父たちは、そのようなことすべてを試みた、強かったからじゃ。しかし、毎日少しずつ食事をする方が望ましいことに気づいた。そうして、彼らはわれわれに王道を伝えてくれた〔民数記20:17〕。容易だからじゃ」。〔ポイメーン31〕

(62.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。341.50「人が何らかの躓きに陥っても、回心するならば、によって赦されるでしょうか?」。これに老師が謂った。「人間どもにそうすることを命じられたが、ましてや自らそうなさらないことがあろうか。というのは、ペテロスに命じられた、いわく。「7度の70倍までも」〔マタイ18:22〕。〔ポイメーン86〕

(63.)
 ある兄弟について言い伝えられている、— 彼は冒涜へと戦いを仕掛けられたが、云うのを恥じていた。しかし、偉大なる老師たちのことを耳にして、彼らを訪ねた。告白するためである。しかし、いざ来てみると、告白するのが恥ずかしくなった。また、彼はしばしば師父ポイメーンをも訪ねた。すると老師は、彼が諸々の想念を持っているのを目にして、兄弟が告白しないことを悲しんでいた。ところが、ある日、彼に先んじて彼に言った。「見よ、長い間、そなたはわしに何か告げようとしてここに来ているが、いざ来てみると、それを云うことを拒み、苦しんで突然行ってしまう。されば、どうかわしに云ってくれ、わが子よ、そなたが〔心に〕持っているのは何か」。相手が彼に云った。「に対する冒涜へと、ダイモーンがわたしに闘いをしかけるのですが、云うのが恥ずかしいのです」。このことを彼に話すと、すぐに心が軽くなった。そこで彼に老師が云った。「悩むことはない、わが子よ。その想念が浮かぶたびに、言うがよい。『わたしには関係がない。おまえの冒演がおまえ自身の上に降りかかるがよい、サターンよ。わたしの魂はあんなことを拒むのだ』と。魂が望まない事はすべて、暫時のものである」。わずかのときしかもたないものだ。兄弟はこうして癒され、立ち去った。〔ポイメーン93〕

(64.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしを圧迫するこの重荷のもとで、わたしはどうしたらよいでしょうか?」。これに老師が言う。「小さな船も大きな船も縄を持っている。それは、順風が吹かないときには、が風を送ってくださるまで、船体に引き綱と縄を投げかけ、少しずつ船を引くためである。しかし、嵐が来るのが分かると、そのときには、船が波で動かないように急いで船を杭に結び付けるのだ。杭とは自らを責めることである。」〔ポイメーン145〕

(65.)
 師父ポイメーンがさらに云った。「何びとたちかがそなたに妬みを持っているのを目にしない場所に住んではならない。さもないと、そなたは進歩しない」。〔ポイメーン18〕

(66.)
 兄弟が師父ポイメーンのところにやって来て、彼に言う。「わたしの畑に種を播き、そこから取れるものによって施しをしています」。これに老師が言う。「そなたの行いは美しい」。すると、彼は勇んで帰って行き、さらに施しを増やした。すると師父アヌゥブはこの言葉を聞いて、師父ポイメーンに言う。「あのようなことを兄弟に話すとは、を畏れないのですか?」。だが、老師は黙っていた。そして2日後、師父ポイメーンはかの兄弟を呼び寄せ、師父アヌゥブが聞いている前で、彼に言う。「他日、そなたはわしに何と云ったのか? わしの理性がよそを向いていたもので……」。これに兄弟が言う。「わたしが云ったのは、わたしの畑に種を播いて、そこから取れるものによって施しをしている、ということです」。そこで、彼に師父ポイメーンが云った。「わしは、そなたの在俗の兄弟について話していると思っていた。そんな仕事をしているのがそなたならば、それは修道者の為すべきことではない」。相手はこれを聞いて、悲しんだ、いわく。「わたしは他の仕事を何ひとつ知らないのです。もしそうでなくとも、わたしの畑に種を播かないわけにはいきません」。さて、彼が去ると、師父アヌゥプは彼の前にひれ伏した、いわく。「どうかわたしを赦しください」。すると、師父ポイメーンが言う。「わしは初めから、そんなことは修道者のわざではないと分かっていた。しかし、彼の想念に合わせて話し、施しを増やすために彼に励ましを与えたのだ。今や彼は悲しんで帰っていったが、また同じことをするだろう」。〔ポイメーン22〕

(67.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「『自分の兄弟に対していたずらに怒る」〔マタイ5:22〕とはどういうことですか?」。すると云った。「そなたの兄弟が、そなたにどんな貪欲な態度を取ったとしても、彼に対して怒るならば、いたずらに怒ることになる。たとえば、彼がそなたの右の目をくり抜き、そなたの右手を切り落としたとしても、彼に対して怒るならば、いたずらに怒ることになる。だが、そなたをから引き離すならば、そのときは怒るがよい」。〔ポイメーン118〕

(68.)
 師父ポイメーンが云った。「人が罪を犯しながら、『わたしは罪を犯していません』と言って否定しても、彼に反駁してはならない。さもないと、彼のやる気を挫くことになる。しかし彼に、『落胆してはならない、兄弟よ、これからは用心せよ』と云うならば、そなたは彼の魂を悔改めへと奮起させることになる」。〔ポイメーン23〕

(69.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしは共住修道院に入って、住みたいと思います」。これに老師が言う。「共住修道院に入ることを望むのか。もしそなたが、あらゆる出会い、あらゆることに関する心配を捨てなければ、共住修道院でのわざを実践することはできないだろう。というのは、水差し一つでさえ、そなたの意のままにはならないからだ」。〔ポイメーン152〕

(70.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「なぜダイモーンどもは、わたしの魂を説得するのでしょうか、わたしを凌駕する人とともにあるよう、そしてわたしがわたしより劣った人を無とみなすようにと」。これに老師が言う。「それゆえ使徒は云ったのじゃ、— 大きな家には、金や銀の器があるだけでなく、木の器や陶器もある。されば、これらのことから離れて自分を浄めるならば、貴重なことのための器になり、主人の役に立つものとなり、あらゆる善き業のために備えられたものとなるだろう」〔2ティモテ2:20-21〕」。〔ポイメーン100〕

(71.)
 彼がさらに云った。「試練は美しい。これこそが人間に吟味を教えるからだ」。〔ポイメーン24〕

(72.)
 彼がさらに云った。「教えながら、自分の教えることを実行しない者は、井戸に似ている。〔井戸は〕あらゆるものを浸し、洗うが、自分自身をば浄めることができないからだ」。〔ポイメーン25〕

(73.)
 あるとき、師父セリドスが自分の弟子を伴って、師父ポイメーンのところに出かけて行き、彼に言う。「この者をどうしたらいいのでしょうか、わたしの言葉を喜んで聞くのですが」。これに師父ピオメーンが言う。「彼を行いにおいても益するつもりなら、彼に徳を示すがよい、言葉に傾注すると、役に立たない者のままになるから。だが、行いによって彼に示すなら、それは彼にとどまるであろう」。

(74.)
 師父ポイメーンが云った。「共住修道院には3つの行いを必要とする、一つは謙遜、一つは聴従、もう一つは、共住修道院の仕事に対して、活発で鋭敏に振舞うことである」。〔ポイメーン103〕

(75.)
 彼がさらに云った、— 沈黙していると思われている人がいるが、彼の心は他者を裁いている。このような人は絶えず話しているのだ。また他に、朝から晩まで話しながら、沈黙を保持している人もいる。つまり、益になること以外は何も話していないということである」。〔ポイメーン27〕

(76.)
 師父ポイメーンが云った、— 3人の者が同所に落ち合っていて、一人は美しく静寂を守り、一人は病弱でありながら感謝し、今一人は清い想念をもって奉仕しているとしよう。そのとき、3人は1つのわざをなしているのだ、と。〔ポイメーン29〕

(77.)
 彼がさらに云った。「悪は決して悪を取り除くことはない。しかし、人があなたに悪を行うならば、彼に善行せよ、善行によって悪を破るために〔ローマ12:21〕」。〔ポイメーン177〕

(78.)
 師父ポイメーンが云うを常とした。「自分の運命に不平をかこつ者(memyivmoiroV)〔ユダ16〕は修道者ではない。報復をなす者〔ロマ11:9〕は修道者ではない。怒りっぽい者〔ティトス1:7〕は修道者ではない」。〔ポイメーン91〕

(79.)
 さらに云った —。の力は、情動に隷従する人間には定住しない、と。

(80.)
 さらに云った。「われわれが平安を追い求めれば、の恩寵はわれわれを避ける。だが、それを逃れようとすれば、われわれを追い求める」。

(81.)
 ある兄弟が、師父ポイメーンのところに来て、329.10 彼に言う。「師父よ、わたしは多くの想念を抱いていて、それらせいで危機に瀕しています」。すると、老師は彼を戸外に連れ出し、彼に言う。「そなたの胸を広げ、風をためよ〔箴言30:4〕」。相手が云った。「わたしにはそうすることができません」。すると彼に老師が言う。「そうすることができないのなら、想念が起こるのを防ぐことなどできない。しかし、それに抵抗することは、そなたのわざなのだ」。〔ポイメーン28〕

(82.)
 兄弟が、こう言って師父ポイメーンに尋ねた。332.1「わたしに遺産が遣されました。これをどうすればよいでしょうか」。これに老師が言う。「帰って、3日後にやって来るがよい、そうすればそなたに言おう」。そこで彼に決められたとおりにやって来た。すると、老師が云った。「そなたに何を言えようか、兄弟よ。もしそなたに『それを教会に与えよ』と云えば、そこで朝食を準備される。『そなたの親族に与えよ』とそなたに云えば、そなたの報酬がなくなる。『それを貧者たちに施せ』〔マタイ19:21〕と云えば、そなたは無頓着になる。されば、そなたが望むところを為すがよい。わしは関わりをもたぬ」。〔ポイメーン33〕

(83.)
 彼がさらに云った。「身体に必然的に必要なものについての想念がそなたに生じたならば、一度は配置につくであろう、二度目に再び起これば、やはり配置につくであろう。三度目に生じたならば、これに傾注してはならない。無駄だからである」。〔ポイメーン40〕

(84.)
 兄弟が、身体的情動について師父ポイメーンに尋ねた。これに言う。「そいつらは、ネブゥコドノソールの偶像を歌う連中である。なぜなら、アウロス笛を吹く者たちが人間どものために四弦三角琴を奏しないかぎりは、偶像を跪拝することはなかったろうから。同様に、敵意も身体的なものらの内で魂を歌うのである」。〔N661〕

(85.)
 さらに云った —。師父テオーナースが言うを常とした、と —。人が徳を利得しなければ、がその〔徳の〕恩寵を彼にのみもたらすことはない。なぜなら、その人間は固有の労苦の信者ではないということを知っておいでだからである。しかしながら、自分の同志のところに出かけて行くなら、そのとき彼にとどまる、と。

(86.)
 兄弟が同じ師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしが事を見たら、よろしければ、それを云いましょうか?」。老師が言う。「〔聖書に〕書かれている。『言葉を聞く前にこれに答える者、無思慮と恥とはその者のもの』〔箴言18:13〕と」。〔ポイメーン45〕

(87.)
 さらに同じ人が、懈怠と軽蔑に関して尋ねた。するとこれに老師が言う —。懈怠はあらゆる為業に戦いを仕掛け、人々を軽視へと投げこむ。しかし、ひとがその害に気づき、善き為業にとどまれば、やむ」。〔ポイメーン149〕

(88.)
 師父ポイメーンがさらに云った、— 師父アムモーナースが云っていたものじゃ、— 人は自分の一生涯斧を持っていても、木を伐り倒す方法がわからない。他の人は、伐採の経験があるので、容易に木を切り倒す、と。そして、斧とは分別のことだと言った。〔ポイメーン52〕

(89.)
 師父ポイメーンが云った、— 人間の意志は、人間ととの間を隔てる青銅の壁であり〔エレミア1:18〕、妨害の岩である。それゆえ、人間がこれを捨て去ると、彼も言う。『わたしのにおいて城壁を乗り越える』〔詩編17:30〕。しかし、弁解が意志に加わるようになると、人間は病んでしまう。〔ポイメーン54〕

(90.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく —。わたしは、わたしの師父の近くに坐していると、わたしの魂を駄目にしてしまいます、と。そこで老師は、彼が害されていると観じて、害されながらどうして坐しているのかと訝った。そこでこれに云った。「その気があるなら、坐するがよい」。すると彼は返って、坐した。ところが再びやって来た、老師にいわく。「わたしは、わたしの師父の近くにいて、わたしの魂を損ねています」。しかし師父ポイメーンは彼に、「彼のもとを去れ」とは云わなかった。しかし、三度やって来た、いわく。「本当に、もう彼といっしょには坐せません」。これに老師が言う。「見よ、もはや救われている。下がれ、そうすればもう彼とともに坐することはあるまい」。さらに言う。「人が自分の魂の損害を見るならば、他者に問いただす必要はない。ひとは隠れた諸想念について尋ね、吟味は老師たちのすることだが、明白な罪に関しては、問いただすことではなく、すぐに切り捨てることが必要じゃ」。〔*Anony968 Poimen〕

(91.)
 師父アガトーンの〔弟子〕、師父アブラアームが、師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「どうしてダイモーンどもはわたしに戦いを仕掛けるのでしょうか?」。するとこれに師父ポイメーンが云った。「ダイモーンどもがそなたに戦争を仕掛けるのか? われわれの意志をわれわれが行うからには、彼らがわれわれに戦争を仕掛けるのではない。というのは、われわれの意志がダイモーンになるのである。つまり、それがわれわれを苦しめるのは、われわれがそれを実現するからである。ところで、ダイモーンどもが何びとたちに戦争を仕掛けるか見たいか。モウセースや彼と同じような人たちに対してである」。〔ポイメーン67〕

(92.)
 兄弟が、こう言って師父モーウセースに尋ねた。「わたしの目の前に何かが見えるのですが、それを捉えることができません」。これに老師が言う。「埋葬された者たちのように、そなたが死人にならぬ限り、それを捉えることはできぬ」。

285.47
12 師父ポイメーンが言った、— 兄弟が師父モーウセースに、どうすれば人は隣人に対して自分を死人のようにできるでしょうか、と尋ねた。するとこれに老師が云った、285.50— 自分はすでに3日前から墓の中にいると肝に銘じなければ、この言葉にはとどかない」。〔モーウセース12〕

(93.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「修屋でわたしはどのように坐すべきでしょうか?」。これに言う。「修屋に坐すとは、目に見えるところでは、手仕事をし、一日一食にし、沈黙し、そして修練である。だが、修屋におけるひそかな進歩とは、どこに行こうとあらゆる場所で自身の非(mevmyiV)を仮借し、時課祈祷の刻と隠れた行いをゆるがせにしないことである。さらにまた、たまたまそなたの手仕事の暇な機会があれば、時課祈祷に就き、動じることなく果たせ。このようなことの果てに、美しい道連れを獲得し、悪しき道連れからは離れるがよい」。 〔ポイメーン168〕

(94.)
 あるとき、兄弟たちが師父パムボーのところにやって来て、一人が彼に尋ねた、いわく。「師父よ、わたしは二日続きで断食し、それから二切れのパンを食べます。はたしてわたしの魂を救えるでしょうか、それとも迷っているのでしょうか?」。さらにまた他の者が云った。「師父よ、わたしの手仕事で毎日、硬貨2枚の小銭をもうけ、一枚を自分の食物にあて、残りを施しにあてます。はたしてわたしは救われるでしょうか、それとも滅びるでしょうか?」。長い間彼らは問い続けたが、答を与えなかった。四日後には引き上げることになり、聖職者たちは彼らを励ました、いわく。「悩むなかれ、兄弟たちよ。がそなたたちに報いてくださるだろう。あれは老師の習慣なのだ。彼は、が彼を満ち足りさせない限り、やすやすとは話さないのだ」。
 そこで、彼らは老師のところに入って、彼に云った。「師父よ、われわれのために祈ってください」。彼らに言う。「そなたたちは立ち去ろうとしているのか?」。彼らが言う。「はい」。すると、彼らの諸々の行いを思い起こし、地面に書きつけながら、言った。「パムボーは二日続きで断食し、二切れのパンを食べる。はたしてそれで修道者になったのか。否。また、パムボーは二枚の小銭のために働いて、それで施しをする。はたしてそれで修道者になったのか。否まだだ」。さらにまた彼らに云った。「これらの行いは美しい。しかし、そなたの隣人に対して良心を見張るならば、そうすれば救われるだろう」。そこで彼らは満ち足りて、喜びとともに立ち去った。〔パムボー2〕

(95.)
 兄弟が師父パムボーに尋ねた、いわく。「わたしがわたしの隣人に善行するのをダイモーンたちが妨害するのはなぜですか?」。これに老師が言う。「そういうふうに言ってはならない。さもなければ、を嘘つきにすることになる、むしろこう云え —。憐れみをかける気がわたしにはまったくないのか、と。なぜなら、はあらかじめ云われたからだ。『蛇や蠍を踏みつけて、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をそなたたちに授けた』〔ルカ10:19〕と」。〔Anony383〕

(96.)
 師父パッラディオスが云った。「に従って修行した魂は、知らないことを確信的に知ったり、知っていることをはっきり教えたりしてはならない。しかし、どちらかを望まなければ、狂気を病む。なぜなら、背教の初めは教授の倦怠や、ロゴスの食欲不振であり、愛者の魂はこれら〔教授やロゴス〕にいつも飢えているからである」。〔662〕

(97.)
 老師たちの或る者が云った —。わしは師父シソエースに、どうかわたしに言葉をくださるよう尋ねた。すると答えて云った — 修道者は想念によって諸々の偶像の下位にあるべし、と。そこでわしの修屋に帰って、1年間苦行して言った。「偶像の下位にとはどういう意味か?」。そうして再び老師にところに赴いて、これに言う。「『諸々の偶像の下位に』とはどういう意味ですか?」。このときわしに老師が言う。「偶像について書かれておる — 口をもつが話せず、眼をもつが見えず、耳をもつが聞けず、と〔詩篇113:13、134:16〕。修道者はかくあるべし。つまり、偶像は忌み嫌うべきものである。されば、彼〔修道者〕もおのれを忌み嫌うべきものとみなすべし、と。〔Anony384〕

(98.)
 兄弟が師父シソエースに云った。「どうしてわたしから情念が撤退しないのでしょうか」。これに老師が言う。「それら〔情念〕の器具がそなたの中にある。それらにその保証を与えよ、そうすれば、去ってゆく」。〔シソエース6〕

(99.)
 ある兄弟が、シナイ山の師父シルゥアーノスのもとを訪ねた。そして、兄弟たちが働いているのを見て、老師に云った。「『汝ら朽ちる食物のために働くな』〔ヨハネ6:27〕、『マリアはよい方を選んだ』〔ルカ10:42〕とあります」。老師が自分の弟子に言う。「ザカリアースよ、この兄弟に書物を与えよ、そして彼を何もない修屋に入れよ」。さて、第九時になったとき、扉を見つめていた、はたして喰うために自分を呼びにひとを寄越してくれるかと。しかし誰も自分を呼びに来なかったので、立ち上がって老師のもとに赴き、これに言う。「兄弟たちは、今日、喰わなかったのですか、師父よ」。これに老師が言う。「いいや〔喰った〕」。そこで云った。「なぜわたしを呼んでくれなかったのですか」。これに老師が言う。「そなたは霊的な人で、このような食物を必要としないからじゃ。しかしわしたちは肉的であるので、喰うことを望み、そのために働く。しかるにそなたは美しき分け前を選び、一日中読書をして、肉的な糧を喰うことを拒む」。そこでこれを聞くや、こう言って悔い改めた。「どうかわたしをお赦しください、師父よ」。これに老師が言う。「全くのところ、マリアもマルタを必要としている。なぜなら、マルタのおかげでマリアも称えられるのである」。〔シルゥアーノス5〕

(100.)
 老師が云うを常とした。— あるとき、ある人が重い罪に墜ち、悔い改めに苛まれて、ある老師に報告すべく出かけて行ったが、これに云ったのは、〔自分の〕行いではなく、もしある人にこれこれの想念が起こったなら、救いはありますか、ということだった。彼にその人は、眼識に無経験だったので、答えた。「おのれの魂を失っておる」。そう聞いて兄弟は云った。「もしわたしが失っているなら、世俗に還るのが美しいだろう」。しかし帰る途中、自分の諸想念を、行って師父シルゥアーノスに報告することを思いついた。ところで、この師父シルゥアーノスは偉大な明視者であった。さて、兄弟は彼のところに行って、彼にその行いを云ったが、同じ恰好でであった。「ある人にこれこれの諸想念が生じた場合、救いはあるでしょうか?」。師父は口を開き、〔聖〕書から言いはじめた。— 諸想念にとってその裁きはすべてではない、と。これを聞いて兄弟は、善望が生まれたので、彼に行いをも報告した。これを聞いて師父は、美しい医者のように、的な書の助けを借りて、のもとに真に立ち帰る者たちにとって悔い改めがあると、彼の魂に石膏を塗った、そうして、わたしの師父(ajbba:)が師父を訪ねたとき、以上のことをこれに物語った後、言った。「見よ、みずからに失望し、世俗に下がろうとしている者が、兄弟たちの中で星のごとくであるのを」。わしが以上のことを物語ったのは、諸々の想念であれ諸々の逸脱であれ、眼識なき人たちに報告することが、どれほど危険かをわれわれが知るためである。〔Anony217、主題別10-122,vgl.5-4〕

(101.)
 彼女はさらに云った。「海の苦難と危険を冒して、感覚的な富を集める人々は、多くのものを手に入れても、さらに手に入れようと望みます。彼らは持ち合わせているものらは無と考えるのです。他方、持ち合わせていないものらへと手を伸ばします。しかし、わたしたちは求めているものさえ何も所有していないのですから、への畏れゆえに、何ものをも所有しようとは思いません」。〔シュンクレティケー10〕

(102.)
 さらに云った。「益となる苦があり、破滅の因となる苦がある。自らの諸々の罪や、隣人の無知を嘆息するのは有用な苦である。以上が、にしたがった苦の種類である。が、これに比して、敵の結合のような〔苦〕もある。というのも、無思量に満たされた苦(これは多衆から懈怠とも名付けられている)を自分で投げこむからである。されば、この霊は祈りと詩篇朗誦とによって特に駆逐しなければならない」。〔シュンクレティケー伝40〕

(103.)
 彼女はさらに云った。「怒らないことは美しいことです。しかし、万一生じたら、この感情に対して、『太陽をして沈ましむるな』〔エペソ4:26〕と云って、一日の猶予もあってはなりません。ところが、あなたはあなたの全生涯が終わるまで怒りを保っています。なぜあなたは、悲しませた人を憎むのですか。不正を行うのは彼ではなくて、悪魔です。病気を憎みなさい。しかし、病人を憎んではなりません」。〔シュンクレティケー13〕

(104.)
 彼女はさらに云った。「実践的な生活によって養成されなかった人が教えることは危険です。例えば、腐った家を持ち、客人たちを迎える者がいたとすると、建物の崩壊によって傷付けるように、先の人たちも同様で、先に自分たち自身を形成しなければ、自分たちのところにやって来る人々まで破滅させます。つまり、彼らは言葉によって人々を救いへと招いたのですが、行いの悪によって、むしろ闘士たちに不正を為すのです」。〔シュンクレティケー12〕

(105.)
 彼女はさらに云った。「敵から課せられる苦行さえあります。というのも、彼〔敵〕の弟子たちさえそれを行うからです。それでは、どのようにしてわたしたちは、的で王者的な苦行を、僭主暴的でダイモーン的な苦行と区別すべきでしょうか。明らかに、適切な程度か否かによってです。一度だけの断食の規則に、つねに従いなさい。四日も五日も断食してはなりません。そんなことをすると、次の日食事をたくさん取ってしまい、この断食を駄目にしてしまいます。というのは、過度はつねに破滅をもたらします。若くて健康なときに断食をしなさい。なぜなら、病弱とともに老いがやってくるからです。それゆえ、できるときに、食べ物の宝を積みなさい。できなくなるときに平安を見出すためです」。〔シュンクレティケー15〕

(106.)
 さらに云った。「闘士たちは進歩すればするほど、ますます強い競争相手に接することになります」。〔シュンクレティケー14〕

(107.)
 別のとき、偉大な隠修者である二人の老師が、ペールゥシオンの地方から彼女のもとにやって来た。やってくる際、彼らは互いに言いあった。「この老女を謙遜へと導こう」。そして、彼女に言う。「そなたの想念が思いあがり、女であるわたしのところに隠修者たちが来ると云わぬよう用心せよ」。彼らに教母サッラーが言う。「わたしは自然本性的には女ですが、想念ではそうではありません」。〔サッラー4〕

(108.)
 教母サッラーが云った。「もしすべての人間たちがわたしに満足してくれるように祈ったならば、わたしが悔い改めて各人の戸口にいるのを見出すことになるでしょう。いや、むしろ、わたしの心が万人にともに潔いことを祈ります」。〔サッラー5〕

(109.)
 師父ヒュペレーキオスが云った。「真に知者なのは、言葉によって教える人ではなく、行動によって教育する人である」。

(110.)
 あるとき、あるローマ人の修道者がやって来て、スケーティスの教会の近くに住みついた。彼はひとりの奴隷をさえ自分の召使いとして有していた。しかし司祭は、彼の病弱さを見、またいかに安楽に暮らしていたかを知って、何かを執り行って、教会に入ってくるものがあると、彼に遣っていた。そうしてスケーティスで25年間を過ごした後、彼は先見者として有名な者になった。
 さて、偉大なアイギュプトス人たちのひとりが彼のことを聞いて、彼に会いに来た、彼のうちに類まれな身体的な行住坐臥を見ることを期待したからである。そして中に入って彼に挨拶した。そうして祈りを捧げてから座った。ところが、アイギュプトス人が目にしたのは、贅沢な外衣をまとった彼と、寝台にその下の毛皮、小さな枕。さらには、サンダルを履いたきれいな足をしていた。これらを見るや、彼は気を悪くした、当地にあるのは、このような生活の仕方はなく、むしろ厳しい暮らしであったからである。老師は先見者でもあるので、彼が気を悪くしたのを悟り、自分の召使いに言う。「今日は師父のためにわたしたちの祝いをしなさい」。そこで折よく少しの野菜を得て、煮た。そしてほどよい頃に立ち上がって喰った。また、老師は自分の病弱のせいで少量の葡萄酒をもっていた。そこで彼らは飲んだ。さて、夕方になるや、詩編12編を唱え、眠りに就いた。が、夜間も同様であった。
 さて、アイギュプトス人は明け方に起きて、彼に言う。「わたしのために祈ってください」。そうして、益されることなく出て行った。すると、少し遠ざかったところで、老師は彼を益そうと思って、ひとを遣って彼を呼び戻した。そして彼がやって来ると、改めて喜びをもって彼を迎え入れて尋ねた、いわく。「お国はどこですか?」。そこで彼が言う。「アイギュプトス人です」。「で、何という町から来たのですか」。相手が謂った。「わたしは全然都会人ではありません」。すると言う。「あなたの村でのあなたの仕事は何でしたか?」。388.20すると言う。「番人でした」。すると言う。「どこで眠るのですか?」。相手が云った。「野で」。「寝具はあるのですか」と彼が謂う、「あなたの下に?」。すると言う。「いいえ、野中でわたしの下に寝具を敷くことができるでしょうか」。「では、どのようにして?」。そこで云った。「地面に」。これにさらに言う。「いったい、野ではどんな食べ物を摂るのですか? あるいはどんな葡萄酒を飲むのですか?」。再び答えた。「野に一片の食べ物や飲み物があるでしょうか」。「それでは、どうやって生きていたのですか」と彼が謂う。彼が言う。「乾パンを食べ、あれば少しの塩漬け肉と、水を」。そこで老師が答えて云った。「それは大変な苦労です。で、村には浴場もありますか、あなたがたが入浴するために」。相手は云った。「ありません。しかし、好きなときに、川で」。
 そこで、老師はこれらすべてにおいて彼を把握し、彼の以前の生活の苦患を知って、彼に益を得させるために、以前世間にいたころの自分の生活の様子を彼に話した、いわく。「卑しい身分の(tapeinovV)わたしはあなたが目にされるとおりですが、わたしは大都市ローマの出身で、皇帝の宮廷で高官でした」。すると、アイギュプトス人はこの話を初めて聞いたので、胸を打たれ、彼から言われていることを詳しく聞こうとした。そこで続けて彼に言う。「さて、都を後にし、この砂漠に来ました。まさに今あなたが目にしているわたしは、壮大な邸宅と多くの財産を持っていました。しかし、これらを蔑み、この小さな修屋に来ました。まさに今あなたが目にしている見ているわたしは、非常に高価な布団を敷いた黄金ずくめの寝台を持っていました。それらの代わりに、はこの臥所と皮衣をわたしに与えてくださったのです。さらに、わたしの上着は非常に価値あるものでした。しかしそれらの代わりに、こんな粗末な外衣を着ています。さらに、わたしの食卓には、多くの黄金が使われていました。しかし、その代わりには、このわずかな野菜と、この小さな杯一杯の葡萄酒とを与えられました。また、わたしに仕える多くの僕童がいました。しかし、見よ、それらの代わりには、この老人がわたしに仕えるようにしてくださっています。そして、わたしの足には、浴場の代わりにわずかな水を注ぎ、わたしの脆弱さのためにサンダルを履いています。さらに、音楽と竪琴の代わりに、わたしは12の詩編を言います。同様に夜も、わたしが犯していた諸々の罪の代わりに、ささやかなお勤めを平安のうちに行っています。ですからお願いです、師父よ、どうかわたしの弱さに気を悪くなさらないでください」。
 これを聞いてアイギュプトス人は、我に返って云った。「わたしに禍あれ、世間の多くの苦患から、休息にたどり着くとは、また、かつて持っていなかったものを、今や持つとは。ところがあなたは、非常な安楽さを離れ、苦患に至り、多くの栄光と富を離れ、卑下と物乞いへとやって来たのです」。で、彼は大いに益されて、立ち去ったが、彼〔老師〕の友となり、益を受けるために、ずっと彼のもとを訪ねた。というのは、分別に富み、聖霊の芳しい薫りに満ちた人だったからである。〔ローマ人の師父〕

(111.)
 Dicebat senex: Non necesse est uerborum tantum; sunt enim plurima uerba in hominibus tempore hoc, sed opera necessaria sunt. Hoc enim Deus quaerit, non uerba quae non habent fructum.

(112.)
 兄弟が師父たちの或る者に尋ねた、汚れた想念を思量する者は汚れるのかどうか、と。これに関して検討が持たれ、或る者たちは「然り、汚れる」と言い、或る者たちは「否、〔さもなければ〕われわれ素人が救われるのは不可能であって、それらを身体的に実行するのではないということが、その理由である、と。そこでこの兄弟は経験ゆたかな老師のところに出かけて行って、この件に関して彼に尋ねた。これに老師が言う。「各人の境位は、その人に求められる」。そこで兄弟が老師に頼んだ、いわく。「主のために、その言葉を解いてください」。これに老師が言う。「見よ」と彼が謂う、「ここに欲しい品がある、そうして二人の兄弟がここに入って来た。一人は大きな境位を有し、別のひとりは劣っているとせよ。完徳者の想念が、『この品を持ちたい』と云ったが、とどまることはせず、すぐに切り捨てたなら、彼は汚されなかったのだ。しかしもう一方の者は、大いなる境位にいまだ達していないので、欲求し、その想念の中で駄弁るなら、それを取り除かなくとも、〔やはり〕汚れていない」。〔Anoy216〕

(113.)
 老師が云った。「ひとがある場所に住持しても、その場所の果実を作らないなら、その場所は彼を、その場所の果実を作らぬ者として追い出す」。〔Anony247〕

(114.)
 ある兄弟が、殉教者の記念の日に働いた。そこで彼を見て他の兄弟が彼に云った。「今日、働いていいのか?」。相手が彼に向かって云った。「今日はの僕が拷問され殉教して讃美されている、わたしものために、今日、仕事で少し辛労すべきではないか?」。〔Anony86、83〕

(115.)
 老師が云った。「もし人がおのれの意思に聴きしたがって事を為し、に対して無知の内にないなら、次には自分が完全にの道に赴かねばならない。意思を支配する者が、にしたがってではなく、他者の意思を聞き入れてでもなく、おのれを知っている者とみなすなら、こういう人がの道に赴くのは、労苦によって〔のみ〕である」。〔Anony248〕

(116.)
 師父アムモーナースが、狭く細い道とは何ですか?と尋ねられた。すると答えて云った。「狭くて細い道とはこれじゃ。おのれの諸々の想念を強制し、自分の意思をゆえに切り捨てること。それはすなわち、『見よ、わたしたちは一切を捨て、あなたについてまいりました』〔マルコ10:28〕ということじゃ」。〔アムモーナース11,Anomy249〕

(117.)
 老師が云った。「修道者たちの振る舞いが俗人たちのそれよりも尊敬されるように、余所者である修道者も、いかなる場所であれ在地の修道者たちにとって鏡であるべきである」。〔Anony250〕

(118.)
 老師が云った。「修道者がいる場所で、為すことが美しいとはんだんしながら、それを為す力がないなら、他所に行ったら、もっとそれを達成できると考えてはならない」。〔N 446〕

(119.)
 師父たちのひとりが云った。「働き人たちのいないところに働き人としてとどまるなら、進歩することはできないが、下に落ちないよう競うことの〔進歩〕はできる、また働き人たちとともにとどまるなら、素面で前進すれば、今度は怠惰である、さもなければ、下方へと向かう」。〔Anony251〕

(120.)
 老師が云った。— 魂がロゴスをもつが、業を持たなければ、葉は持つが果実は持たぬ樹に似ている。〔Anony252前半〕

(121.)
 というのは、果実のいっぱい成った樹はその葉も茂るように、ロゴスは善き業を持った魂に調和するからである。〔Anony252後半〕

(122.)
 〔欠番〕

(123.)
 老師が云った。「われわれにとっての有罪判決とは、諸々の想念がわれわれの中に入りこむことではなくて、諸々の想念を悪く用いることであって、実際、難船するのは諸想念のせいであり、花冠を享のも諸想念のせいである」。〔Anony218〕

(124.)
 老師が云った。「俗人とやりもらいするな、女と知り合いとなるな、少年と長い間気易くするな」。〔Anony125〕

(125.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、わたしに戦いを仕掛ける諸想念が数多く、それらとどう戦ったらいいかわからないのですが」。これに老師が言う。「それらと戦うのではなく、ひとつと戦え。なぜなら、修道者たちの想念はすべてひとつの頭を持っているからだ。されば、この頭に対して、いかなるものであるかを熟考し、これと戦うべきである、そうすれば、諸々の想念はへりくだる」。〔Anony219〕

(126.)
 悪行をなす諸想念について、同じ人物が答えた。「願わくは、兄弟たちよ、わしが諸々の行為をやめたごとく、諸々の思いめぐらし(ejnquvmhsiV)をもやめよう」。 〔Anony220〕

(127.)
 老師が云った。「砂漠に住むことを望む者は、教えられる者たるべきであって、教えることを必要とする者ではない、害されないためである」。〔Anony221〕

(128.)
 老師が云った。「何某はご機嫌いかが、何某はご機嫌いかが」と修道者に尋ねるのは、役に立たない。なぜなら、この質問によって祈りから引き離されて、無駄口や悪口に陥り、沈黙にまさるものは何もないことになるからである」。

(129.)
 兄弟が老師に尋ねた。「どうかわたしに云ってください、師父よ、どうすればイエースゥスを得られるか」。相手が言う。「労苦と謙遜と休みなき祈りがイエースゥスを得させる。なぜなら、聖人たちはみな、初めから終わりまで、これらの3つによって救われたからである。これに対して、休息と意思と義認は、修道者の救いの障害となる。それらによってほとんどすべての者が滅びるからである」。

(130.)
 同じ人が云った。「人間は、イエースゥスを所有するまでは、労苦する。

(131.)
 或る人が老師に尋ねた。「どうしてダイモーンたちはわれわれに対して強力なのでしょうか?」。相手が云った。「諸々の意思によってじゃ」。さらに続けて云った。「云うところはリバノス香木のことじゃ。われわれはどれほど大きく高くなることか、そして小さな鉄〔斧〕でさえわれわれを伐り倒すことか。だが、彼ら〔人間ども〕はやって来て、おのれのために樹を取り、おのれを斧の柄に作り、それ〔樹木〕を伐り倒したのである。樹木とは」と彼が云った、「魂たちであり、斧とはダイモーンたちのことであり、柄とは意思のことである。されば、われわれが伐り倒したのは諸々の悪しき意思によってである。だから、ダイモーンたちのわれわれのもの、つまり、われわれの諸々の意思から与えないようにしよう、そうすれば連中がわれわれを伐り倒すことはないのである」。

(132.)
 老師が云った。「多大な労苦によって習慣は、とりわけ慢性化した習慣は変えられる。もしひとがそれを変えるべく労苦すれば、救われよう。だがそこにとどまれば、害されよう」。〔*Anony563〕

(133.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「断食すれば救われるでしょうか?」。老師が言う。「否」。兄弟が言う。「人間どもを避ければ、救われるでしょうか?」。これに老師が言う。「否」。兄弟が言う。「兄弟を愛すれば、救われるでしょうか?」。老師が言う。「否。だが、救われるとは、こういうことだ。つまり、おのれの非難を担い、自分の兄弟に対しては、どんなことでも圧迫しない、そういうふうにすればが人間に憐れみをかけてくださる」。

(134.)
 老師が云った。「アリマティア〔アリマタヤ。パレスティナの1都市〕出身のイオーセープは、イエースゥスの遺体を受け取って、これを清浄な亜麻布に包み、新しい墓の中に、つまり、新しい人間の中に納めた〔マルコ15:43〕。されば、各人は罪を犯さぬよう注意深く努めよ、自分と共住するを侮辱せず、自分の魂から追い立てることのないために。イスラエールには砂漠で喰えるマンナが与えられ、真のイスラエールにはクリストスの身体が与えられたのである」。 〔Anony24〕

(135.)
 老師が尋ねられた。「どうすればを見出せるのでしょうか?」。すると云った。「諸々の断食のうちに、諸々の徹宵のうちに、諸々の労苦のうちに、憐れみのうちに、これらに加えてまた眼識のうちにも。そなたに言っておこう、多くの者たちは自分たちの肉を眼識なきままに磨り潰して、何ら得るところなく虚しく立ち去っていった、われわれの口が臭うのは断食のせい、われわれが〔聖〕書を知ったのは胸を通して、ダウイド〔の詩篇暗誦〕を完全に行うが、が求めるものをわれわれは持たない、つまり、愛と謙遜を」。〔Anony222〕

(136.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「師父よ、見よ、わたしの魂の救いについてわたしは老師たちに願い、彼らがわたしに言いますが、わたしは彼らの言葉から何もつかめません。もう一度彼らに願うか、何もしないか、どうでしょうか? わたしはまったく不浄ですので」。さて、そこに2つの空の容器があったが、彼に老師が言う。「下がって、容器のひとつを持って、オリーブ油を入れ、これを洗え。そうして入れ替えて、その場所に置け」。彼は一度、二度そのとおりにすると、またこれに言う。「今度は2ついっしょに持ってこい、そうして、どちらがより綺麗か見よ」。これに兄弟が言う。「オリーブ油を入れた方です」。これに老師が言う。「魂も同様である、尋ねた事柄が何も残っていなくても、全然尋ねなかった者よりもより綺麗なのじゃ」。〔Anony223〕

(137.)
 師父たちの或る者が言い伝えている —。非常に敬虔なある兄弟がいたが、物乞いの母親を持っていた。そこで、大飢饉になったとき、パンを取って、自分の母親に持って行こうと出発した。すると、見よ、彼に声が聞こえてきた、いわく。「そなたの母親を気にかけているのは、そなたか、わたしか?」。兄弟は声の力を識別して、身を投げだして地上に突っ伏し、呼びかけていわく。「あなたです、よ、わたしたちを気にかけてくださるのは」。そうして立ち上がり、おのれの修屋に引き返した。すると、見よ、三日目に彼の母親が彼の修屋にやって来た、いわく。「何某という修道者がわずかな穀物をわたしに与えてくれました、いわく。『これを取りなさい、そしてわたしたちのためにわずかな煮物をつくってください、食べられるように』と」。兄弟はこれを聞いて、を栄化し、善望が生まれたので、の恩寵によって、あらゆる徳へと進歩した。〔N 404〕

(138.)
 兄弟が静寂を保って坐していたが、ダイモーンたちが彼を惑わそうと、天使たちのふりをして現れ来たり、彼を礼拝集会のために起こし、彼に光を示した。そこで彼はある老師を訪ね、これに云った。「師父よ、天使たちが光を持ってやって来て、わたしを礼拝集会に起こすのです」。これに老師が言う。「連中に耳を貸してはならん、わが子よ、ダイモーンたちなのだから、むしろ、そなたを眠りから起こしにやって来たら、言え。『わしは好きなときに起きる、おまえたちのいうことは聞かぬ』。そこで兄弟は老師の指図を受けて、自分の修屋に帰ったが、次の夜、いつもどおりまたもやダイモーンたちがやって来て、彼を起こそうとした。しかし相手は老師に指図されたとおり彼らに答えた、いわく。「おれは好きなときに起きる、おまえたちのいうことは聞かぬ」。すると連中が彼に云った。「あの嘘つきの悪たれ爺がおまえを惑わしたな、実際、兄弟が小銭の用があって彼のところにやって来たが、やつは持っていたのに嘘をついた、いわく『わしは持っていない』。そして彼に与えなかった。これからして、やつが嘘つきだとわかろう」。しかし、兄弟は朝早く起きて、老師のもとに行き、彼にこのことを報告した。すると老師が云った。「小銭を持っていたことを認めよう。そうして、兄弟が求めてやって来たが、与えなかった。というのは知っていたからじゃ、彼に与えれば、われわれは魂の害に陥るだろうとな、されば、わしは思量したのじゃ、ひとつの縛めを破っても、十〔の誡め〕破って呵責に陥ってはならぬと、しかしそなたは、ダイモーンたちがそなたを惑わせたがっているのだから、耳を貸してはならぬ」。かくて、老師によって数多くの点で強固にされて、自分の修屋に帰っていった。 〔Anony224〕

(139.)
 老師が云った。「まっすぐに知慮する者や、敬虔に生きる者が、見捨てられ、恥辱の躓きやダイモーンたちの迷妄に陥ることは不可能である」。

(140.)
 さらに云った。「魂が身体を渇望する間は、を知らぬ」。

(141.)
 さらに云った。「魂の健康に自足するのが、を知ることである」。

(142.)
 さらに云った。「万人が善きものらを祈るが、所有するのは、真にのロゴスに与り、諸徳を通してこれに隷従する者たちである」。

(143.)
 兄弟たちが師父たちの或る者に尋ねた、いわく。「〔聖〕書を通して告知されたの告知に魂が馳せ参じるのではなく、不浄なものらへと傾くのは、どうしてですか?」。すると老師が云った。「わしは言うのじゃ — 上のものらをいまだ味わうことのない所以は、不浄なものを渇望するからじゃ、と」。

(144.)
 老師が云った。「或る場所に坐し、或る人たちが願いを持っているのを見たなら、その人たちに傾注してはならない、むしろ他の物乞いがいたら、彼がパンを持っていないかぎり、これに傾注せよ」。

(145.)
 老師たちの或る者が、モーウセースについて言うを常とした —。彼がアイギュプトスを打ったとき、あちこちに傾注したが、つまり、諸々の想念によっては、何者をも見なかった、しかし彼は、おのれが悪を為すのを何ひとつ目にせず、ゆえに為し、アイギュプトスを打ったのだ、ということを知った、と。〔*Anony1674〕

(146.)
 さらに、詩篇の中に書かれている文句『わたしは彼の手を海の上に置き、彼の右手を川の上に置く』〔詩篇88:26〕について、つまり、救い主について言うを常とした。「海の上に〔置かれる〕彼の左手とはすなわち世界、『川の上に置かれるその右手』とは、信仰を通して世界を飲む使徒たち、これである」。〔*Anony1675〕

(147.)
 あるとき、3人の兄弟が、スケーティスに或る老師を訪ね、これに一人が尋ねた、いわく。「師父よ、わたしは旧・新の契約〔聖書〕を暗記しました」。すると老師が答えて彼に云った。「そなたは大気を言葉で満たした」。すると二番目が尋ねた、いわく。「わたしも旧・新の契約〔聖書〕をおのれのために筆写しました」。すると老師が答えてこれに云った。「そなたも窓を紙で満たした」。すると第三番目が云った。「わたしの竈に湯気を噴かせました」。すると老師が答えて彼に云った。「そなたも客遇を自分に追い求めた」。 〔Anony385〕

(148.)
 師父たちの何人かが、偉大な老師について語り伝えている。— 誰かが彼に言葉を所望してやって来ると、これに決まって言うのだった。「見よ、わしはの役を務め、裁きの座に坐っておる。されば、わしがそなたに何をすることをそなたは望むのか? もしも『わたしを憐れんでください』とそなたが云うなら、はそなたに言う。『わしがそなたを憐れむことをそなたが望むなら、そなたもそなたの兄弟を憐れめ、わしがそなたを許すことをそなたが望むなら、そなたもそなたの隣人を赦せ』。まさか不正事がのもとにあるはずはなく、あったこともなく、われわれが救われるかどうかは、われわれにかかっているのだ」。〔Anony226〕

(149.)
 修屋群にいた老師たちの或る者について言い伝えられている。— 偉大な勤勉家で、自分の礼拝会を執り行っていたとき、たまたま聖人たちの他のある人が彼を訪ねてきて、彼が自分の諸想念と戦って、「いつまで、1つの言葉のために、あれらをすべて省略したのか?」と言っているのが聞こえた。誰か他の者と喧嘩しているのか、と相手は思い、戸を叩いて、中に入って、彼らは平安の挨拶を交わした。しかし、入って見ると、中には他に誰もいなかった、しかしその老師と気易い仲だったので、彼に云った。「誰と喧嘩していたのですか、師父よ」。相手が云った。「わたしの想念とです、わたしは聖書14巻をそらで知っていますが、ほかに惨めな一語を聞いたことがありますが、わたしの礼拝会を催そうとしたとき、あの〔聖書の〕すべてがぐずついて、後者だけが集会の刻にわたしの前に出て来たのです、それでわたしはその想念と争っていたのです」。〔Anony227〕

(150.)
 兄弟たちが共住修道院を出て、砂漠に隠修者を訪ねた。相手は彼らを喜んで迎え、砂漠の住人たちの習慣どおり、彼らの疲れを見て、刻限前に食卓を設え、持てる物を彼らに供して、彼らを休ませた、そして夕方になったとき、詩篇12編を朗誦し、夜も同様であった。さて、老師が独り徹宵していると、彼らがお互いに言いあっているのを聞いた — 砂漠の隠修者たちは、われわれ共住修道院の者たちよりもっと安楽だ、と。そうして、明け方、彼らが彼の隣人の老師のところに下がろうとしたとき、彼らに云った。「彼にわしからよろしくいってくれ、そしてまた彼に云ってくれ、『野菜に水をやるな』と」。そこで彼らはそのとおりにした。相手は聞いて、その文意を悟り、夕方まで彼らが断食の業をするのを堅持した。そして夕方になると、大いなる集会を開催し、云った。「あなたがたのために解散することにしよう、あなたがたは疲労しておられるから」。そしてさらに云った。「毎日食事するのはわれわれの習慣ではない、あなたがたのために少し味わったのだ」。そうして彼らに乾燥したパンと塩を供した、云わく。— あなたがたのために祝祭を催す必要がある、と。そうして酢を少し塩に加えた、そうして立って、夜明けまで礼拝会を始めたのであった。そして彼らに言う。「われわれはあなたがたのせいで決まりをすべて完成することができない、あなたがたが少し休むために、異邦から来られたのですから」。で、夜明けになるや彼らは逃げ出そうとした。しかし相手が彼らに願う、いわく。「もう少しわれわれととどまってください、さもなければ、砂漠のわれわれの習慣どおり、誡めによって少なくとも3日だけでも」。しかし彼らは、自分たちを解放してくれないと見て、こっそり出発して逃げたのである。〔Anony229〕

(151.)
 師父たちの或る者が云った。「清浄な動物とは」と〔レヴィ11:3〕は謂う、「食べ物を反芻し、蹄の分かれたものである」。同様に人間も、美しく信仰し、2つの契約 — これこそ聖なる教会で見出されるが、異端者たちの中では格段に見過ごされている — を受け容れる者はそうである。されば人間も、美しい糧は反芻し、劣悪なそれはそうすべきではない。有益な糧とは諸々の善き想念、聖なる教師たちの教則、功績のことであり、邪な糧とは、格段の罪や人間どもの躓きにおける劣悪な想念のことである。〔N 645〕

(152.)
 兄弟が、師父たちの或る者に尋ねた、いわく。「わたしが眠気から目蓋が重くなり、礼拝会の刻限が過ぎることになったら、わたしの魂は、恥ずかしさから、もはや礼拝会をしようという気になりません」。するとこれに老師が言う。「夜明けまで眠ることがそなたに起こったら、立って、戸と窓を閉め、そなたの礼拝会を行え。〔聖書に〕書かれているからである。『昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの』〔詩篇74:16〕」。〔Anony230〕

(153.)
 兄弟が或る老師に尋ねた、いわく。「美しいのは、師父よ、おのれに栄光を積もうとすることですか、それとも、不名誉を?」。これに老師が言う。「たぶんわしなら、に嘉される霊的栄光をおのれに積もうとするじゃろう、不名誉よりは」。これに兄弟が言う。「いったいどうしてですか?」。老師が言う。「美しい業を為し、栄化されるつもりなら、わしの想念を断罪することができる、わしはその栄光に値しないからじゃ。ところが不名誉は、諸々のつまらぬ為業から生じるから、わしの内で人間どもが躓いても、いったいどうしてわしの心を励ますことができようか」。されば、つまらぬことを為して名誉を剥奪されるよりも、善行して栄化されることの方がまさっているのじゃ」。すると兄弟が云った。「美しく云っておられます、師父よ」。

(154.)
 老師が云った。「多食してもなお飢えている人間がおり、食少なくして満腹している別の人間もいるが、多食してなお飢えている者の方が、食少なくして満腹な者よりもより多くの報酬を得るであろう」。〔Anony231〕

(155.)
 老師が云った。「そなたと他者との間で苦痛な話がはなされ、〔相手が〕『その話をわたしはしていない』と言って否認したら、[『あなたが云った』]と言って彼と争ってはならない。彼は逆襲し言うだろうからだ、『然り、おれが云った、それがどうした?』と」。〔Anony232〕

(156.)
 兄弟が老師に尋ねた。— わたしの姉妹は貧しい。わたしが彼女に愛〔施し〕を与えれば、貧しい者に与えるようなものではありませんか?。 老師が言う。「否」。しかし兄弟は云った。「なぜですか、師父よ」。老師が謂った。「血がそなたを少し引き寄せる〔=血は水よりも濃し〕ということじゃ」。〔Anony233〕

(157.)
 老師が云った。「虚偽、〔そこに〕古い人が起こる。だが、真理、〔そこに〕新しい人が起こる」。

(158.)
 さらに云った。「美しい仕事の根は真理、だが、虚偽は死」〔主題別21-61〕。

(159.)
 老師が云った。「修道者の在り様は、聴く者であるべからず、中傷する者であるべからず、すぐに躓く者であるべからず」。〔Anony386、10-188、21-64〕

(160.)
 老師が云った。「いかなる言葉にも賛成してはならず、賛同してもならない、ゆっくり信じ、すみやかに真実をいえ」。 〔Anony234〕

(161.)
 老師が云った。— 聖人たちがここで疲れていようと、やはり平安の分け前をも既に得ている、と。しかし彼がこれを言ったのは、彼らがこの世の気遣いから自由であるゆえだ。〔Anony235〕

(162.)
 老師が云った。— もしも修道者が、進歩できる場所を知っており、しかし身体の労苦をともなう必要性があるを知っていて、だからこそそこに下らないのであれば、そういう者はが在ることを信じていないのだ、と。 〔Anony236〕

(163.)
 兄弟が若輩の修道者に尋ねた、いわく。「美しいのは、沈黙することか、話すことか?」。これに幼稚な者が言う。「役立たずの言葉なら、これを放置せよ、しかし美しい〔言葉〕なら、善きものに場所を与え、話せ。ただし、それが善き〔言葉〕であっても、長々とではなく、短く切れ、そうして休息せよ」。〔Anony237〕

(164.)
 老師が云った —。修屋に坐している修道者の心に〔手紙の〕文言が浮かび、兄弟が、境位に達してもおらず、に引きずられたのでもなく、その文言を追いかけるなら、ダイモーンたちが立って、その文言を彼の好きなように彼に示すのだ、と。〔N 646〕

(165.)
 老師たちの或る者が云った。— 初め、お互いに寄り合い、益について話し合い、めいめいが合唱舞踏隊員となり、天に上昇したものだ。しかるに今は、寄り合い、悪口に陥り、ひとりがひとりを下方の深淵に引きずり降ろしている」。〔Anony238〕

(166.)
 師父たちの或る者が云った。「もしわれわれの内なり人が素面なら、外なる人をも守ることができるが、そうでなければ、可能なかぎり舌を守ろう」。〔Anony239〕

(167.)
 同じ人が云った。「霊的な業の必要性は、われわれがそこに赴くところにある。口を通して教えることに大いに苦労するのは、身体の業を為していないからである」。〔Anony240〕

(168.)
 師父たちの或る者が云った。— 人は自分の内にいつも為業をもっていなければならない。されば、の為業に専念していれば、敵が時々彼に近寄っても、とどまれる場所を見つけられないが、逆に敵の捕囚に支配されれば、の霊がたびたび彼に近づこうとも、われわれがこれに余地を許さないため、われわれの性悪さによって撤退するのである。〔Anony241〕

(169.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうかわたしにおことばをください、わたしが救われるように」。相手が謂った。「少しずつ働くことに熱心になろう、そうすればがわれわれに同行して、われわれは救われよう」。〔Anony387〕

(170.)
 あるとき、修道者たちがアイギュプトスからスケーティスに、老師たちを訪ねるために下ってきた、そうして、彼らの修行の飢えがもとで、彼らががつがつ食事するのを見て躓いた。で、長老が気づいて、彼らを癒やそうと思い、教会に布令た、信徒にいわく。「断食せよ、そして、そなたたちの修行の行住坐臥を強化せよ」。さて、来訪したアイギュプトス人たちが引き上げるためにやって来たが、彼は彼らを引き留めた。すると、第一日目、彼らは断食して、暗くなった。しかし彼は彼らに1日おきに断食させた(尤も、当のスケーティス人たちは、〔まる〕1週間断食するのが常であったのだが)、そうして土曜日になったとき、アイギュプトス人たちは老師たちといっしょに喰うため坐した。そして、アイギュプトス人たちが騒々しく喰おうとしたとき、老師たちの一人が彼らの手を押さえた、いわく。「規律正しく喰え、修道者たちのごとく」。しかし彼らの中の一人はその手を押しのけた、いわく。「わたしを放してください、まる1週間煮物を何も喰わなかったので、死にそうです」。すると老師が云った。「されば、1日おきに食しているあなたがたがこれほど疲弊しているのに、どうして兄弟たちに躓くことがあろうか、彼らは常時このように苦行を達成しているのに」。かくて彼らは彼ら〔スケーティスの兄弟たちの前で〕悔い改め、益されて歓びを持って立ち去ったのであった。 〔Anony242〕

(171.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、諸々の想念が、老師たちを訪ねるという口実でわたしを遍歴させようとするするのですが」。すると老師が答えて云った。「そなたの諸想念が、窮屈さゆえにそなたを修屋から連れ出そうとしているのを見るなら、そなたの修屋における慰めをそなた自身につくるがよい、そうすればもはや出て行こうという気にはなるまい。だが、魂の益のためなら、そなたの想念を吟味し、そして出て行くがよい。なぜなら、或る老師について聞いたことがある — 或る人のもとを訪れるよう、諸々の想念が彼に言った時、自分の羊毛外套をとって、出て行き、おのれの修屋を周回して、入って、客人のあらゆる慰めをおのれにして、実にそうやって安らいだ、と」。〔*Anony1394〕

(172.)
 ある兄弟が隠遁し、恰好を整え、みずからをただちに閉じこめた、いわく。— わたしは隠修者である、と。老師たちが聞いて、やって来て、彼を追い出し、彼に兄弟たちの修屋をまわらせ、拝跪して言わせた。「どうかわたしを許してください、わたしは隠修者ではなく、新参者です」。〔Anony243〕

(173.)
 老師たちは云うを常としていた — もし若い者が自分の意思で天に昇るのを眼にしたら、その足をつかみ、彼をそこから引きずり降ろせ、彼のためになるからじゃ、と。 〔Anony244、111〕

(174.)
 ある兄弟が偉大な老師に言った。「わたしはやって来ました、師父よ、わたしの好みに合った老師を見つけ、彼とともに死ぬために」。するとこれに老師が言う。「そなたが捜し求めるのは美しい、わが主よ」。すると相手は、この想念をそのとおりに受け取って、老師の想念には思い至らなかった。すると老師は、彼が満足しているのを見て、彼に言う。「そなたの好みに合った老師を見つけたら、彼とともに住持するつもりか?」。相手が謂う。「そのとおりです」。そこで老師が彼に言う。「そなたが老師の好みに聴従するためではなく、後者がそなたの好みに聴従して、そなたは初めて平安を得る、というのではあるまい?」。そこで兄弟は悟って、ひれ伏して云った。「どうかわたしをお赦しください、何もわからないのに、美しく言っているように思いこんで、たいへんな思い上がりに陥っていました」。 〔Anony245〕

(175.)
 肉親の二人の兄弟が隠棲した。ところが、最初に振る舞うのは、年齢的には若い方であった。さて、師父たちのひとりが、彼らを訪れるためにやって来たとき、彼らは盥を据え、若い方が老師〔の脚〕を洗おうとした。ところが老師はその手を押さえて彼を退け、年長者の方に任せた。そこで傍にいた老師たちが云った。「年少者の方が、師父よ、最初に振る舞う者になっています」。すると彼らに老師が言う。「わしは首座を小さき者より取り上げ、より大きい者の年齢にあてがう」。 〔Anony246〕

(176.)
 老師が出征兵士に、は悔い改めを受け入れるかどうか、尋ねられた。そこで老師は、数々の言葉を彼に口授した後で、彼に言う。「どうかわしに云ってくれ、愛しい人よ、そなたの外套が破れたら、これを外に投げ出すだろうか?」。相手が言う。「いいえ、繕って、これをもう一度使います」。老師が彼に向かって言う。「されば、そなたがそなたの外衣を惜しむなら、ましてが自分の被造物を惜しまれるはずがない」。すると、相手は善望をいだいて、嬉々として自分のところへ帰って行ったのであった。 

(177.)
 そこで、彼にこう言って兄弟が尋ねた。「わたしたちが今、付属的なものと考えている魂の仕事とはどんなものでしょうか。また今、わたしたちが仕事として持っている付属的な仕事とは、どんなものなのでしょうか」。すると老師が言う。「の命令によって行われるすべてのことは、魂の仕事である。だが、自分のために働き、集めること、これは付属的なものとしなければならない」。すると兄弟が言う。「どうかその点をわたしにはっきりさせてください」。すると老師が言う。「見よ、わしについて、わしが病気であると聞いて、そなたがわしを見舞わなければならないとする、そなたは自問するであろう。『わたしの仕事を放っておいて、すぐ行くべきだろうか。まず手仕事をやり終えて、それから行こう』。ところが、また別の口実が出来て、結局のところ、恐らくそなたは出発しないだろう。あるいはまた、他の兄弟がそなたに『兄弟よ、どうかわたしに手を貸してくれ』と言ったとする。そこで、そなたは自問する、『わたしの仕事をやめて、彼と働きに行くべきだろうか』。そのとき、もし行かないならば、そなたは、魂の仕事であるの命令を捨てて、手仕事という付属的なことをすることになるのだ」。〔ペルメーのテオドーロス11〕

(178.)
 ある修道院長が、アレクサンドレイアの教皇(pavpaV)・われらのキュリッロスに尋ねた、いわく。「行住坐臥においてより偉大なのはどちらですか、おのれのもとに兄弟たちを有するわれわれですか、それとも、砂漠でおのれひとりを救う人たちですか?」。教皇は答えて云った。「エーリアとモーゥセースとの真ん中は区別できない、どちらもに嘉せられたのだから」。〔Anony70〕

(179.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうかわたしに大事を云ってください」。これに老師が言う。「あらゆる大事における愛勝心をそなたから切り捨てよ、そうすれば救われよう」。

(180.)
 老師が云った。「争いは人間を怒りに引き渡し、怒りは盲目に〔引き渡し〕、盲目は彼があらゆる悪をしでかすようにする」。〔N 634〕

(181.)
 師父たちの或る者が云った —。頑ななロゴスは、美しい者たちさえ悪しき者となす。美しい人は万人を益する、と。

(182.)
 老師たちの或る者が云った —。わたしたちの師父たちは、峻厳な道を通って生命に入った。しかしわたしたちは、可能ならばだが、優しさ(xrhstovthV)の道を通って入れる、と。

(183.)
 客人となっていた兄弟が、老師に尋ねた、いわく。「私宅に帰りたいのですが」。するとこれに老師が言う。「次のことを知るがよい、兄弟よ、在所からここへやって来て、そなたはそなたを導いてくださる主を持ったが、引き返すなら、もはやそれを持たないであろう、ということを」。〔Anony26〕

(184.)
 老師が云った —。のためではなく、おのれに栄光をまとわせようとして沈黙する人間がいる。しかし、ひとがのために沈黙するなら、それこそが真の徳であり、と聖なるとから恩寵を得る、と。

(185.)
 師父たちの或る者が云った。「樹木は風に揺すられるのでなければ、生長も根を与えることもない。同様に修道者も、試みられ耐え忍ぶのでなければ、男らしい者とならない」。〔*Anony1396〕

(186.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしのささやかな礼拝式を執り行うとき、どうしてぞんざいにそれを実修するのでしょうか?」。すると老師が答えて、彼に云った。「への愛が示されるのは、ひとがあらゆる願望(proqumiva)と痛悔と散らされることなき想念をもっての業を為す場合においてである」。〔*Anony1395〕

(187.)
 師父たちの或る者が言うを常とした。「この天の下にキリスト教徒のような族民はおらず、まして、修道者たちの階級のようなものはない。しかし唯一彼らを害するものはといえば、『彼がわたしに云った、わたしは彼に云った』と言う彼らを、悪魔が兄弟たちの遺恨へと運び、彼の前に不浄を持って、これを見させるのではなく、自分の隣人のそれを喋り散らし、そしてそれによって害することである」。〔*Anony1397〕

(188.)
 老師が云った —。修道者は聞き手であるばかりか、戒めの為手でもあらねばならない、と。〔主題別10-159、〕

(189.)
 老師たちの或る者が、別の老師を訪ねて言った —。或る俗人が愛餐を受ける好機を得て、われわれが喰うために坐したとき老師が言う。「やって来て喰う気があるかどうか俗人に尋ねよ」。だが彼は断った。老師が言う。「彼にわれわれより余分に食い物を与えよ」。ところで、都合よく奉献祭儀のおかげでわずかな葡萄酒もそこにあり、老師はわれわれのために持ってきて、われわれは1杯飲み、2杯を俗人に与えた。すると師父たちの一人が冗談で云った。「わたしも外に行きます、師父よ、ですからわたしに2杯ください」。老師が言う。「〔彼も〕われわれとともに喰っていたら、われわれと等量を飲んで、満足したことであろうに。今ごろ、彼の想念は言っておろう — 修道者たちはおれよりも余計に休息している、と。されば、われわれの良心(suneivdhsiV)がわれわれを咎めることが役立つのじゃ」。

(190.)
 わたしはある老師について聞いたことがある — クリュシュマにある殿に坐していたが、需要のある仕事はせず、誰かが彼にいいつけてもしなかった。むしろ、引き綱の〔需要のある〕好機に麻屑をこしらえ、引き綱を求められるときに、麻をこしらえた、自分の理性が仕事に乱されないためであった、と。〔Anony59〕

(191.)
 老師が云った。「預言者たちが書物を書いた、そうしてわれわれの師父たちがやって来て、それを成就した。彼らの後裔はそれをそらで覚えたが、この世代がやって来て、それを書き、役立たずとして窓の中に収めた」。〔Anony228〕

(192.)
 老師たちは言うを常とした — 頭巾付き外套(koukouvlion)は純真さの徴である。肩衣(ajnavlaboV)は十字架の〔徴〕。帯は勇敢さの〔徴〕である、と。さればわれわれの恰好にふさわしく行住坐臥しよう、万事真剣に実修しつつ、無縁な恰好を身にまとっていることが明らかとならぬように。〔Anony55〕

(193.)
 老師が云った —。師父たちの或る者が云った。「無味乾燥だが不規則でない暮らしは、愛に軛でつながれていれば、修道者を無心(ajpaqeiva)の港へと、より速やかに案内する」と。〔主題別1-4、17-35、エウアグリオス6〕

(194.)
 また云った。修道者たちの或る人に、その人の父親の死が報された。すると彼は報告者に向かって、「やめよ」と謂う、「不敬なことばを、わが父は不死のかただから」。〔主題別1-5〕

2016.06.01.

forward.gif砂漠の師父の言葉(主題別)11/21
back.gif表紙にもどる