エジプト修道者史「解説」と「目次」
"t". 『アイギュプトスの修道者たちの歴史』 HISTORIA MONACHORUM IN AEGYPTO "pro"."t" [2]わたしとしては、このような手引きに手をそめる資格はない。それは、小さき者らは大いなる前提(u(po/qesij )に接するに足りないからである。〔小さき者らは〕真実を願いどおりに言い表すことができないのだから。まして、〔小さき者らが〕事柄を記述にゆだね、曰わく言い難いことを適度な言葉で謂うことに挑戦する場合には。それこそ、つまらぬ者たるわたしたちにとっては、あまりに無謀で危険なことである。この至高の前提(u(po/qesij )に文字によって至るのが初めてなのだから。にもかかわらず、オリーヴの聖なる山で行住坐臥を送っている敬虔な兄弟団に繰り返し促された。自分たちのために、アイギュプトスの修道者たちの行住坐臥 わたしが目の当たりにした を、彼らの大いなる愛と大いなる修行を、書くようにと。 〔そこで〕彼らの祈りを信頼し、敢えてこの物語(dih/ghsij )に立ち向かうことにした。そうすれば、彼らの利益からわたしにも何か得が生じよう。彼らの行住坐臥と、この世からの完全な隠遁と、静寂(h(suxi/a ) 諸徳の堅忍によって〔実現され〕、これを最後まで彼らは堅持する を模倣することで。[3]というのは、わたしが真実眼にしたのは、人間の器のなかに隠された神の宝物(qhsauro/j )であった。これを秘することは、多くの人たちの益を覆い隠すことになるから、わたしは望まず、利得を共有することにした。この美しき交易 すなわち兄弟たちとともに益に与ること が、わたしのためになると考えたからである。彼らはわたしの救いのために祈ってくれるであろうから。 [4]先ず初めに、わたしたちの救主イエースゥス・クリストスの臨在からこの書を始めよう。じっさい、アイギュプトスの修道者たちは、彼〔救主〕の教えに従って、自分たちの行住坐臥を送っているのだから。というのは、かしこでわたしが眼にしたのは、数多くの師父たちが、天使のような生活を生き、わたしたちの神たる救主に倣っているすがた、また、新しき別種の預言者たちが、自分たちの神に満たされた、驚嘆すべき、有徳の行住坐臥にしたがって、神のごとき活動力(e)ne/rgeia )を有しているすがたであった。〔彼らは〕真実神に仕え、地上的なことは何ら心にかけず、これのかりそめのことには何ら思念せず、そのようにしてこの地上に生きながら、本当は天上の行住坐臥を送っているのである。[6]じっさい、彼らの或る者たちは、地上に別の世界があるということさえ識らず、諸都市には悪が市民権を得ているということさえ〔識らず〕、律法を愛する者たちには大いなる平安がある〔詩篇119_165〕と、全能者たる主が本当に言っているのである。また彼らのうちの多くは、この世のことを聞いていぶかりさえする。地上的な事柄に対する気遣いを完全に忘却しているからである。 [7]例えば、彼らが沙漠に散らばっているのを見ることができるが、そのさまたるや、嫡出の息子たちが自分たちの父親クリストスを待ち設けるかのごとく、あるいは、ひとつの軍隊が自分たちの王を、あるいは、謹厳実直な婢女が自分たちの主人や解放者を待ち受けるかのごとくである。彼らに気遣いはなく、衣服の〔煩い〕、食べ物の煩いなく、あるのは、讃美歌の中に、クリストスの臨在の期待のみである。[8]だからこそ、彼らの中にやむを得ぬ必要品に欠ける者がいても、国を当てにせず、村を〔当てにせ〕ず、兄弟を〔当てにせ〕ず、友を〔当てにせ〕ず、同族を〔当てにせ〕ず、両親を〔当てにせ〕ずわが子を〔当てにせ〕ず、婢女を〔当てにし〕ない。そういったものから必要品を得るのでなく、望むだけで充分なのである。嘆願するために両手をさしのべ、不思議にもそれらすべてが自分にもたらされるようにと、神への感謝の祈り(eu)xaristi/a)の言葉を唇から漏らすだけで。 [9]いったい、クリストスに対する彼らの信仰 山さえ移すことのできる について、多言を要するであろうか。というのは、彼らの多くは、河の流れさえ止め、ナイル河さえ歩行し、獣たちさえ殺し、癒しや驚異や霊能や 聖なる預言者たちや使徒たちが行ったかぎりのことを顕したのだから。じつにそのように救主は彼らを介して驚異を行われ、じっさい、かの地の人たち全員に明らかなことは、この世は彼らを介して存立し、彼らのおかげで人間の生は神の前に存続し〔神に〕重んじられているということである。 [10]さらにわたしが眼にしたのは、別の〔ニトリアの〕無数の、数えあげることのできないほどの修道者大衆で、全生涯を沙漠で、あるいはまた地方ですごし、地上の王が自分の軍隊を集結させられぬぐらいの大衆である。なぜなら、アイギュプトスとテーバイ州には、修道院によって城壁のように取り囲まれぬ村はなく、都市もないからである。しかも、民人は、神に依存するように彼らの祈りに依存しているからである。[11]そして、或る者たちは沙漠にある洞穴に、或る者たちは〔沙漠の〕遠隔地に〔居住し〕、全員が、至るところで、自分たちの驚嘆すべき修行を競い合って示して見せ、遠くに或る者たちは、別の誰かが修徳において自分たちを凌駕するのではないかと精進に励み、近くの者たちは、至る所から悪が悩ませるにもかかわらず、遠隔地の者たちに劣ると〔人々が〕審査するのではないかと〔精進に励んだ〕。 [12]こうして、彼らから多くの利益をもらって、この記述へとわたしは至ったのは、完徳者たちの景仰と記憶のため、修行を始める人たちへの善導と利益のためである。[13]それでは、神の御心のままに、この記述を始めよう。先ずは、神聖にして偉大な師父たちの行住坐臥を述べるところから。今も救主は彼らを介してご自身のこと 預言者たちや使徒たちを介して活動なさった事柄 を活動なさっているのだと。なぜなら、その同じ主が、今も、どんな時にも、すべてのものの中ですべてのことに活動なさっているのだから。 |