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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 5

砂漠の師父の言葉(主題別)
(2/21)






2.
(T.)

力を尽くして寂静を獲得すべきこと

(1.)
 師父アントーニオスが云った。「魚たちが陸上にあると乾きで命終するように、修道者たちも修屋の外でぐずぐずしたり、俗人たちと暇つぶししていると、静寂の緊張を緩めてしまう。だから、魚が海にもどるように、われわれも修屋にもどらなければならない、外でぐずぐずして、内なる見張りをけっして忘れないように。〔アントーニオス10〕

(2.)
 さらにこう云った。「荒れ野に住持し、静寂を守る者は、3つの敵から解放されている、聞くこと、喋ること、見ることである。彼はただひとつの〔敵〕を有するのみで、心のそれである」。〔アントーニオス11〕

(3.)
 師父アルセニオスがまだ宮廷にいたとき、こう言ってに祈った。「主よ、どうすれば救われるのか、わたしをお導きください」。するとこう言う声が彼に聞こえた。「アルセニオスよ、人間どもを逃れよ、そうすれば救われよう」。〔アルセニオス1〕

(4.)
 同じ人が隠修士の生活に隠棲し、再び同じ言葉を云って祈った。すると彼にこう言う声が聞こえた。「アルセニオスよ、逃れよ、沈黙せよ、静寂を守れ、これらこそ無罪の根だからである」。〔アルセニオス2〕

(5.)
 師父マルコスが師父アルセニオスに云った。「なぜわたしたちを避けるのですか?」。彼に老師が言う。「わしがそなたたちを愛していることをが知っておられる。だが、とともにあり、かつ、人間どもとともにあることはできぬ。天にある数万・数千の〔魂たち?〕はひとつの意志を持っているが、人間どもは数多くの意志を持っている。だから、わしはを捨てて人間どもとともにゆくことはできないのじゃ」。〔アルセニオス13〕

(6.)
 浄福なる大主教テオピロスが、ひとりの執政官を伴って、師父アルセニオスを訪ねた。そこで、大主教は彼に言葉を聞くことを求めた。すると、しばし沈黙した後、老師は彼らに答えた。「わしがそなたたちに云ったとしたら、守るか?」。そこで彼らは守ると約束した。すると彼らに老師が云った。「どこであれアルセニオスを耳にした場所には、近づくな」。〔アルセニオス7〕

(7.)
 他の時に、再び大主教が彼を訪ねることを望み、先ず、老師が戸を開けてくれるかどうか見ようと人をやった。すると、彼にこう言って明らかにした。「お望みなら、そなたのために開けよう。しかし、もしそなたのために開けるなら、万人に開けることになろう、その時は、わしはもはやここに住持すまい」。そこで、これを聞いて、大主教は云った。「あの方を追い出すためにわたしが出かけることになるなら、もう聖者のところに行くことはやめよう」。〔アルセニオス8〕

(8.)
 あるとき、師父アルセニオスがとある場所を訪れると、するとそこに葦があり、風にそよいでいた。すると老師が兄弟たちに云った。「あの揺れているものは何か?」。そこで彼に言う。「葦です」。すると彼らに老師が言う。「自然本性的に、もしひとが静寂のうちに座していても、小鳥の声が聞こえれば、心は同じ静寂をたもてない。ましてこの葦のそよぎを聞くそなたたちはなおさらのことである」。〔アルセニオス25〕

(9.)
 彼について人々が言うところでは、彼の修屋は距離32ミリア〔約48Km〕の距離があったという。しかもおいそれと出かけることはなかった。もちろん、他の人たちが彼に奉仕していた。しかし、スケーティスが荒らされたとき、泣きつつ、こう言いつつ、出ていったのである。「世界はローメーを失い、修道者たちもスケーティスを〔失った〕」[001]。〔アルセニオス21〕

(10.)
 かつて師父アルセニオスがカノーポスに坐っていたとき、元老院議員の家柄で、非常に裕福で、しかもを恐れる乙女が、彼に会うためローマからやって来た。大主教テオピロスが彼女を迎えた。すると、老師〔アルセニオス〕を説得して、自分を迎えてくれるよう懇願した。そこで彼のところに赴いて、こう言って懇願した。「高貴な元老院議員である家柄の乙女がローマからやって来て、あなたに会うことを望んでいます」。しかし老師は彼女と会うことを承知しなかった。そこで、それを彼女に告げると、彼女はこう言って畜獣に鞍を置くように命じた。「わたしはあの方に会えるとを信じています。なぜなら、わたしは人間に会いに来たのではないからです。人間なら、わたしたちの町に大勢います。しかし、わたしは預言者に会いに来たのです」。
 さて、彼女が老師の修屋に着いたとき、の摂理により、彼は修屋の外でくつろいでいた。すると彼を見て、その足元に身を投げ出した。しかし、相手は怒って彼女を引き起こした。そしてこう言って彼女を見つめた。「わしの顔を見たければ、見よ、見るがよい」。しかし、乙女は恥じらいから、彼の顔をまともに見ることができなかった。そこでこれに老師が言う。「そなたはわたしのわざのことを聞かなかったのか。それらを見つめる必要がある。そなたはなぜこのような航海を敢行したのか。そなたは女であること、どこへもよその地には出かけてはならないのを知らぬのか。それとも、ローマに帰り、わたしはアルセニオスを見た、と他の女たちに言いふらそうとでもいうのか。そんなことになれば、女たちがわたしのところにやってこようとして、海を自分たちの道にしてしまうだろう」。そこで彼女が云った。「主の御旨ならば、わたしは誰もここには来させません。けれども、わたしのために祈り、絶えずわたしのことを心に留めていてください」。しかし相手は答えて彼女に云った。「わしは、そなたの思い出をわしの心から拭い去ってくれるよう、に祈ろう」。これを開いて、心をかき乱されて立ち去った。
 町に戻ると、彼女は悲しみの余りに高熱を出した。そこで浄福なる大主教テオピロスに、病気であると告げさせた。そこで彼女のもとにやってきて、何があったのか教えるよう頼んだ。彼女がこれに云った。「わたしはここに来ないほうがよかったのです。なぜなら、老師に云ったのです。『わたしのことを思い出してください』。するとわたしに云われたのです。『そなたの思い出をわしの心から拭い去ってくれるよう、に祈る』。それで、見よ、わたしは悲しみのあまり死んでゆくのです」。すると大主教が彼女に言う。「そなたは自分が女であり、かの敵が女たちを通して聖人たちに闘いを挑むことを知らないのか。そのために、老師はあのように言われたのだ。事実、彼はそなたの魂のために絶えず祈っておられる」。こうして、彼女の想念は癒され、喜びをもって自国に帰っていった。〔アルセニオス28〕

(11.)
あるとき、老師たちが師父アルセニオスのところにやって来て、静寂を保って誰にも会わない人たちについて、自分たちに話をしてくれるよう彼に頼んだ。そこで老師は彼らに言った。「処女が父親の家にいるあいだは、多くの者たちが彼女に求婚しようとする。ところが先に進みはじめると、誰にとっても満足できない。或る者たちは軽んじ、他の者たちは褒めるが、隠れてしまうと、以前のように尊重されることはない。魂も同様である。世俗にまみれると、誰でも満足させられるわけではない」。〔アルセニオス44〕

(12.)
師父ディアドコスが云った。「風呂場の戸が開けっ放しだと、外に比べて熱を急に奪うように、魂も、数多くのことを対話すると、時に美しいことを言っていても、声の城門を通して自分自身の熱を拡散させる。されば、好機の沈黙が美しいのは、最も賢明な思惟の母以外の何ものでもないからである」。

(13.)
 師父ドゥラースが云った。「もし敵が静寂さを置き去りにするよう強制するなら、われわれは断じてやつに耳を貸してはならない。なぜなら、それと不食とに匹敵するものはないのだからじゃ。それはやつに対して共闘を組む。内的な眼に鋭い視力をそなえるからじゃ」。〔ドゥラース1〕

(14.)
 彼はさらに云った。「多衆との関係を断ち切れ、理性をめぐるそなたの闘いが、危機に瀕したり、静寂の在り方を乱したりしないようにじゃ」。〔ドゥラース2、エウアグリオス2〕

(15.)
兄弟が師父ヘーサイアースに尋ねた、いわく。「修屋で静寂を保つには、いかにすべきですか?」。すると老師が答えた。「修屋で静寂を保つことは、の御前に自分自身を投げ出すことであり、敵によって種まかれたあらゆる想念に、自分自身の力を対抗させることである。これこそが、俗世から逃れることだからである」。そこで兄弟が云った。「俗世とは何ですか?」。すると老師が答えた。「俗世とは、物事の散らかりであり、俗世とは自然に反することをしでかし、肉における自分自身の意志を満たすことであり、俗世とはこの時代に自分自身をとどめるよう思量することであり、俗世とは魂に反して身体を気にかけることであり、そなたが残したことに燃えあがらさせることである。じゃが、以上のことを云ったのはわし自身ではなくて、使徒イオーアンネースがこう言っておる。『世と、世にあるものらを愛してはいけない』〔1ヨハネ2:15〕」。

(16.)
さらに云った — 静寂を保とうとする者は、あらゆる機会に自分自身を調べなければならない、自分を中有に引きずりおろそうとする連中に近づいたかどうか、いまだ身体にこだわっている連中から自由になったかどうか。なぜなら、彼らの隷従のもとにあっては、いまだ静寂を保つことはできないからである、と。

(17.)
兄弟が彼に尋ねた、いわく。「静寂を保とうとする者がなすべき必要性とは何ですか?」。すると云った。「静寂を保とうとする者は、次の3つの業を必要性を有する。に対する絶えざる畏れ、忍耐を伴う懇願、自分の心をに対する記憶から解き放さぬこと」。

(18.)
師父イシドーロスについて言い伝えられている、— 兄弟が彼のところに来るや、彼は修屋の中に逃げ込むを常とした。そこで兄弟たちは彼に言うを常とした。「師父よ、あなたがなさっていることは何ですか」。すると彼は言うを常とした、— 野獣も、自分のねぐらに逃げ込むことで救われる」。しかし彼がこれを言ったのは、兄弟たちの益になるためであった。〔司祭イシドーロス7〕

(19.)
 兄弟がスケーティスに師父モーウセースを訪ねた、彼に言葉を請うためである。これに老師が言う。「行け、そなたの修屋に坐れ。そうすれば、そなたの修屋がそなたにすべてを教えてくれるであろう」。〔モーウセース6〕

(20.)
 師父モーウセースが云った。「人間どもを逃れる人間は、葡萄の房に似ているが、人間どもといっしょにいる者は未熟な葡萄のごとし」。〔モーウセース7〕

(21.)
師父マルコスが云った。「思惟の海を渡らんとする者は、寛容であり、謙虚であり、眠らず、自制する。だが、これらの4つを外れ、入ることを強いられるなら、心は騒ぎ、渡海することはできぬ」。

(21BIS.)
さらに云った。「静寂は諸悪の無効化に益する。しかし、祈りの際にこれら4つの徳をも付け加えれば、真理の扶けとなり、それに何ら欠けるところがなくなる」。

(21TER.)
さらに云った。「身体から逃れることなく理性が静寂を保つことはできず、静寂と祈りなくしてそれらの仕切り壁をなくすることもできない」。

(22.)
さらに云った。「静寂が美しい所以は、有害さが見当たらぬからじゃ。目に見えないものを精神は受け容れず、それ〔神〕の内に生じないものは、幻視によって記憶を動かすことはなく、記憶を動かさぬものは、情動を苛立たせず、情動が動かなければ、内面は深い凪と多くの和平を有する」。

(23.)
師父ネイロスが云った。「敵の矢弾から無傷のままでいられるのは、静寂を愛する者だけである。だが、大衆と交わる者は、継続的な打撃をこうむる。なぜなら、気性(qumovV)も平和にしていると、より寛容になり、欲望も静寂を保つと、より柔和にロゴスにしたがって突進することに慣れ親しみ、〔Cf. ネイロス9〕

(24.)
師父ポイメーンが云った。「諸悪のはじまりは、気を散らすこと」。〔ポイメーン43〕

(25.)
さらに云った — 身体的なものらを逃れるのは美しい。なぜなら、人間は身体的な敵に近く、最も深い水槽の上に立っている男に似ていて、敵によいと思われる瞬間、簡単に彼を下に投げ落とすからだ。しかし身体的なものらから遠く離れていると、これを敵が下に投げ落とそうと引っ張っても、彼を引っ張り、強制するあいだに、が彼に扶けを遣わせられるのだ、と。〔ポイメーン59〕

(26.)
師父シソエースの弟子である師父アブラアムが彼に言った。「師父よ、あなたは老いられました、ひとの住まいする地の少し近くに行きましょう」。これに師父シソエースが言う。「女のいないところ、そこに行こう」。これに彼の弟子が言う。「いったいどこに女のいない場所がありましょうや、砂漠以外に」。すると老師が言う。「されば、わしを砂漠に連れて行くがよい」。〔シソエース3〕

(27.)
教母シュンクレーティケーが云った。「多くの人たちは、山にいても、民衆のことを行って破滅し、多くの人たちは、都市にいても、砂漠の業を実修して救われます。なぜなら、多衆といっしょにいても知において修道することができ、群衆のいっしょにいても単独なら、精において導くことができるからです」。〔Cf. シュンクレティケー伝97〕

(28.)
 老師が云った。「修道者は、たとえ身体的にそこなう結果になろうとも、〔おのれを〕軽んじることで、おのれに寂静を贖うべきである」。〔Anony133〕

(29.)
 ある人が語った — 敬愛すべき愛労者が3人いて、一人は、「平和を作る人たちは浄福である」〔マタイ5:9〕ということばどおり、争う者たちを平和に暮らさせることを選び、二番目の人は、病者たちを世話することを〔選んだ〕。しかし第三の人は静寂にすべく荒野に隠棲した。ところが、一番目の人は人間どもの争いに疲れ果て、誰をも癒やすことができず、懈怠に陥り、病者たちに仕えている者のところにやってきたが、彼もまた失望して、戒めを成就するに至っていないのを見いだした。そこで両人は意を同じくして、静寂を保っている者に逢いに出かけ、彼に自分たちの悩みを語り、何を矯正すべきか自分たちに言ってくれるよう相手に頼んだ。するとしばし沈黙してから、水を碗に入れて、「水をごらんなさい」といったが、水は混濁していた。すると少し経ってから、再び彼らに言う、「今は水はどうなっているかごらんなさい」。そこで水を注視すると、鏡のように自分たちの顔が見えたので、彼らに言った。「人間どもの中にある人もまたこのように、その混濁からおのれの罪が見えないのですが、静寂を、とりわけ荒野で保つと、そのときこそおのれの欠点が見えるのです」。〔Anony134〕

(30.)
老師が云った。「修屋に坐そうとする者をして、何者かと、とくに彼を憎む者と、関係を持たしむるなかれ」。

(31.)
老師が云った。「ごく近くにイエースゥスを持ち、自分で瞑想する者は、自分の修屋にひとを連れ込まないのが美しい」。

(32.)
ある偉大な老師が、河に赴き、葦たちの茎が静かなのを見て、そこに座って、河から茎を切り取り、縄を編んでは、河のなかに投げこんでいた。人々がやって来て彼を見つけるまで、そういうふうにしていた。それから帰って行った。というのは、何か役立つためにそうしていたのではなく、労苦と静寂のためにそうしていたのである。〔N 424〕

(33.)
老師が云った。「歩道に何か緑のものが芽生えることはかつてなく、種をまいたとしても同じであるのは、その場所が歩き回られるからである、われわれについても同様である。そこで、あらゆることから静寂を保て、そうすれば、汝の内にあるとは気づかなかったもの(というのは、そこを歩き回っていたからだが)が生えるのを目にするであろう」。〔N 463〕

(34.)
聖者たちのひとりが云った — 俗世の甘美を有するかぎり、の甘美をも持つことは不可能である。さらにまた、の甘美を味わおうとするなら、俗世を憎め、こう書かれているとおりに、『何びとも二人の主に隷従することはできない』〔マタイ6:24、ルカ16:13〕。われわれも、人間どもの状態と身体の休息を望むかぎり、の甘美を享受することはできない。そこでわしは言っているのじゃ、ひとが己の修屋に座し、心を尽くして祈りと業に傾注して沈黙を修行すれば、この機会に救われることができるのだ、と。〔N 464〕

(35.)
 兄弟がこう言って老師に尋ねた。「静寂とは何ですか、またその益は何ですか?」。そこで老師が彼に云った。「静寂とは、に対する知と畏れとをもって、修屋に座すことじゃ、遺恨と高ぶりを遠ざけてな。このような静寂は、あらゆる徳の生みの女親であり、敵の燃えさかる火矢から修道者を守る、それらに彼が傷つけられることのないようにな。おお、静寂は隠修者たちの前進。おお、静寂は天界の梯子。おお、静寂は諸天の王国の道。おお、静寂は忍耐の母。おお、静寂、悔い改めのもてなしよ。おお、静寂は諸々の罪の鏡、人におのれの過ちを示してくれるもの。おお、静寂は魂を照らしてくれるもの。おお、静寂は温和さの生みの親。おお、静寂、謙遜の戦友よ。おお、静寂、平和な状態に人を運ぶもの。おお、静寂、天使たちの仲間。おお、静寂、精神の光をもたらすものよ。おお、静寂はへの畏れの同軛者、想念の探偵、分別の同労者よ。おお、静寂はあらゆる善の生みの親、断食の支え、舌の轡、大食のさまたげ。おお、静寂、祈りの暇にして読書の暇。おお、静寂、諸々の想念の凪にして穏やかな港。おお、静寂はを恐れ、より新しい武器、悔いなき思慮を有し、自分たちの修屋に座することを望む者たちを惑うことなきよう守り通すもの。おお、静寂は有用な軛にして軽い荷、休息させ、汝を運ぶものを運ぶもの。おお、静寂は魂と心との好機嫌。おお、静寂、〔魂〕自身に属するものらのみを気にかけ、クリストスと交わり、眼前に間断なく死を有するもの。おお、静寂は日ごと夜ごとにクリストスを待ち望み、消えざる灯火として守り通す — 彼を渇仰して、『わが心は定まれり、よ、わが心は定まれり』〔Psalm. 56-8, 107-2〕と間断なく詩篇を唱えるからじゃ —。おお、静寂、虚栄の捨て場にして、汝を創造なさった方のために笑いなき愁嘆場を仕立てるもの。おお、静寂は用心の母。おお、静寂は無恥の敵にして気易さ(parrhsiva)に対する嫌悪。おお、静寂は情動の牢獄。おお、静寂は諸々の善き果実を穫りいれるクリストスの領地。然り、兄弟よ、死を記憶してこれを所有することじゃ」。〔ロゥポス1〕

2015.11.10.

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