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back.gif砂漠の師父の言葉(アルファベット順)

原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 5

砂漠の師父の言葉(主題別)
(1/21)



[底本]
TLG 2742
APOPHTHEGMATA
2742 003
Apophthegmata patrum (collectio systematica) (cap. 1-9)
Gnom., Eccl.

J.-C. Guy, Les apophtegmes des péres. Collection systématique, chapitres i-ix [Sources chrétiennes 387. Paris: Éditions du Cerf, 1993]: 92-448.




PRO.
(T.)

老師たちの書の前書き いわゆるパラダイス

(1.)
 この書に書き記されているのは、有徳な修行と、生の驚嘆すべき過ごし方と、聖にして浄福なる師父たちの言辞、つまり、天上的行住坐臥を成功させんとし、諸天の王国への道を歩ことを望んだ人々の、熱心さと訓育とまねびが対象である。

(2.)
 そこで、知るべきは、聖なる師父たち、つまり、修道者たちのこの浄福なる生活の熱求者にして教導者となった者たちは、いったん的で天上的な恋情に火を点けられるや、人間界における美しきもの価値あるものらのすべてを無と思量し、何よりも見せびらかしのために何ごとをも行わぬことを事とした。そこで彼らは、長所の大部分をも忘れて、謙遜の極みによって隠して、そのようにしてクリストスに尽きる道を全うしたのである。

(3.)
 そういう次第で、何びともこの人たちの有徳な生をわれわれのために正確に叙述することはできなかった。ただし、彼らの言葉とか業とかによって達成されたことのうち、短い幾ばくかのことは、これについてひどく骨折りをした人たちが、書き伝えてきたが、それは自分たちにとって何か喜ばしいからではなかったが、彼らのことを熱心に問い求めた人々は、聖なる師父たちの透徹した言葉とわざとを若干書き残したが、それはむろん自分のためにではなく、後世の人々を熱意へ覚醒させようと真剣になったからである。こうして、聖なる老師たちのこれらの言葉と達成は、たいていが様々な機会に、かなり単純で飾り気のない言葉によって、叙述の形で伝えられたのである。そしてそれはひとえに、多くの人々を益すること、これだけを目指していたのである。

(4.)
 ところが、多くの人たちの話はごたまぜでまとまりに欠け、読者の理解にかなりの困難を来すものであったので、書中にばらばらに植え込まれている理を記憶に留めるに充分ではなかった、それゆえに、われわれは主題によるこの展開を引き出した。これは意味的に同じ言説の明快至極な配置と用意周到なまとまりによって、望む人たちに益をもたらすことができるものである。なぜなら、数多くの有徳な面々から言葉が同じ意で提示されることは少ないからである。

(5.)
例えば、師父アントーニオスが、謙遜は悪魔のあらゆる罠をやり過ごす、と言い〔アントーニオス7〕、今度は他の人が、生命の樹を高みで目覚めさせるのは謙遜であると〔言い〕、別の人が、謙虚さは怒らず、誰かを怒らせることもないと〔言い〕、さらに今度は他の人が、もしひとが謙遜をもって誰かと同じ意見を云うなら、ダイモーンたちを燃え上がらせると〔言う〕場合、以上すべてから読者の精が心を尽くして謙遜を追求する確信を得られるのである。これ以外の主題においても、同じことをあなたが見出すであろう。なぜなら、主題全体の配置と、それらの各ひとつの一々とがともに、この書の読書を手がける人に最大のことを利するからである。

(6.)
 ところで、各々の主題が内容とするのは、確定的・不確定的な師父たちのさまざまな言葉であるから、知るべきは、われわれが見出すことのできたかぎりの名前は、これを先ず字母順に配列したということである、もちろん、名前がわからぬために、名前の字母もわからなかった場合は別である。

(7.)
  さらにまた、諸々の主題の繋がりの全体も、たまたまあるがままに繋いだのではなく、理性を傾注することを望む人に最も役立つようにと繋がっている。

(8.)
 例えば、修道者たちにとって部分的・初歩的に重要な事柄 — 静寂、痛悔(katavnuciV)と節制 — の勧告に始まり、次いで、少しずつより完全なものらを素描して、ある段階へと前進し、その後は、普遍的に有益ものらや、登録されたものらの内容と効果、共同生活の構成要素 — これらは忍耐、謙遜、愛 — へと進む。いったい、忍耐よりも大いなる、あるいは、有用なものがあろうか。

(9.)
 以上〔の主題〕に加えて唱導されるのが、達成よりもずっと大いなる別の恩寵である。つまり、もろもろの啓示と、的な言葉の解決、の贈り物たる諸々の徴と諸々の力の活動 — これらこそ人間どもの関心事 — である。おそらくは、ひとが万事において人間界から余所者として生きるとということも、常に裸体であるとか、しかじかの野菜を糧食とするとかということも、総じて至当を失うことはあるまい?。というのは、そのようなことがここに提示されるのは、われわれがあらゆる仕方でそれを追い求めるゆえ、また、われわれの聖なる師父たちが、についていかなる情態を有し、また、自分に追随する者たちを自分もいかほどの名誉で真に栄化したかを、われわれが知るゆえである。

(10.)
最後には、この書全体が師父たちの語録 — 掉尾に飾りを作り込み、要約による修道者たちの業を教えこむところの — で終わる。 

(11.)
 主題は以下のとおりである。
成道に精励するようにという、聖なる師父たちの勧告
力を尽くして寂静を獲得すべきこと
痛悔について
節制(ejgkrateiva)について、また、食事の際のみならず、魂の自余の動きの際にもこれを厳守すべきこと
姦淫に由来してわれわれに対立する諸々の戦いの確実性に対する様々な話
無所有について、いかなる時も貪欲を防がねばならない
われわれを塗油する忍耐と勇敢についての様々な話
何ごとも見せびらかしのためにしてはならないことについて
何びとをも裁かないということを守るべきこと
分別(diakrivsiV)について
いついかなるときも素面でいなければならないことについて
間断なく、かつ、素面で祈るべしということについて
喜んで客遇し憐れまねばならないこと
従順(uJpakohv)について
謙虚さ(tapeinofrosuvnh)について
堅忍(ajnecikakiva)について
愛(ajgavph)について
千里眼の持ち主たちについて
奇跡を起こす老師たちについて
秀抜な師父たちの有徳な行住坐臥について
苦行の内に老齢を重ねた師父たちの語録、彼らの究極の徳を要約的に明らかにするところの〔言葉〕



1.
(T.)

成道に精励するようにという、聖なる師父たちの勧告

(1.)
 あるひとが師父アントーニオスにこう言って尋ねた。「何を守れば、に嘉されるのでしょうか」。すると老師が答えて云った。「わしがそなたに言いつけたことを守れ。どこに行こうと、をそなたの眼前に常に持て。そうして、何をしようと、的な書に証言を得よ。そうしてどこに住持しようと、すぐには動くな。これら3つのことを守れ、そうすれば救われよう」。〔アントーニオス-3〕

(2.)
 師父パムボーが師父アントーニオスにこう言って尋ねた。「何を為すべきですか」。これに老師が言う。「そなたの義を過信せず、過ぎ去ったことを悔やむな。そうして、種〔みずから〕の舌と腹を制御するがよい」。〔アントーニオス-6〕

(3.)
 浄福者〔故〕マカリオスが云った、「が、洗礼を受けたすべての人間に要求するのは次の3つである。魂には真っ直ぐな信仰、舌に真理、身体には慎み」。〔グレーゴリオス-1〕

(4.)
 他の人が言った — 師父たちの或る者が言った、無味乾燥だが不規則でない暮らし(xhrotevra kai; mh; ajnwvmalon divaita)は、愛(ajgavph)に軛でつながれていれば、修道者を無心(ajpaqeiva)の港へと速やかに導く、と。〔エウアグリオス6、主題別10-193、17-35〕

(5.)
 また云った。修道者たちのある人に、その人の父親の死が告げられた。すると彼は告げた者に、「不敬なことばをやめよ」と謂った、「わが父は不死のかただから」。〔主題別10-194〕

(6.)
 師父マカリオスが師父ザカリアースに云った — わたしに云ってください、修道者の仕事とは何ですか」。これに彼が言う、「あなたがわたしに尋ねるのですか、師父よ」。すると師父マカリオスが云った。「わたしはあなたを信頼している。我が子ザカリアスよ。あなたに尋ねるようわたしを衝きうごかす者がいるのだから」。これにザカリアスが言う。「わたしの考えでは、師父よ、万事にわたって自分自身を抑える者、これこそが修道者です」。〔ザカリアース-1〕

(7.)
 司祭である師父ヘーサイアースが云った — 師父たちの或る者が言った — 人間が何事にも先んじて所有すべきは、を信じること、たえずを慕うこと、(ajkakiva)、悪に対して悪を仕返さないこと、苦しみ、謙虚さと純潔、人間愛、万人への愛、従順、柔和、寛容、忍耐、への熱望、後ろにこだわらないために、心の労苦と真実の愛とを尽くしてたえずに呼びかけること、そして将来のことに傾注し、自分自身の善行とか勤行とかを信じず、毎日自分に降りかかることゆえに絶えずの助けを呼びかけること、と。

(8.)
兄弟が師父ヘーサイアースに言葉を尋ねた。すると老師がこれに答えて言う。「われらのイエスゥスの主にそなたが従おうとするなら、あの方の言葉を守れ、そうしてそなたの古き人間をば、もしあの方とともに十字架にかけられようとするなら、そなたを十字架から引きずり下ろそうとする者たちと、死ぬまで絶縁しなければならん。そうして心に用意すべきことは、自分が侮りを受け、そなたに不正なす者らの心をやめさせ、そなたを抑圧せんとする者らに自分自身をへりくだらさせ、口の沈黙を持し、そなたの心中に何ものにも動じないことである」。

(9.)
さらに云った — 労苦(kovpoV)と清貧(ptwxeiva)と余所者性(ceniteiva)と男らしく振る舞うこと(to; ajndrivzesqai)と沈黙(siwphv)は、謙遜さを生むが、謙遜は数多くの過ちを除去する。これらを守らない者の出離は虚しい、と。

(10.)
さらに云った。「この世にあるすべてと、身体の休息とを憎め、それらはそなたをの敵としたゆえに。なぜなら、敵を持つ人間は自己と戦うように、われわれは身体を休息させないようそれとも戦わねばならんのじゃから」。

(11.)
兄弟が師父ヘーサイアースに福音の言葉について尋ねた。「『御身の御名が聖められますように』とはどういうことですか?」。すると答えて云った。「それは成道のことじゃ。というのは、の名が、情動に支配されているわれわれの内で聖められることは不可能じゃから」。

(12.)
 ペルメーの師父テオドーロスについて言われているところでは、彼が何ものにもまして重視していたのは次の3つ。清貧、苦行、人間どもを避けることである、と。〔ペルメーのテオドーロスス-5〕

(13.)
 師父イオーアンネース・コロボスが云った。「わしは人間があらゆる諸徳の分け前に与ることを望む。されば、毎日夜明けに起きあがるや、あらゆる徳との誡めに心を寄せ、畏れと寛容をもって大いなる忍耐において、魂と身体のあらゆる熱意とあらゆる謙遜を持っての愛において、心の悩みと見張りの忍耐において、多くの祈りと呻吟を伴う嘆願において、聖なる舌と眼の見張りにおいて、〔1日を〕始めよ。侮辱されても怒らず、平安を保って、悪に悪を報いず、他者の過ちに意を注がず。自分自身を測ることなく、そなたをあらゆる被造物の下に置き、物質と肉的なことの放棄において、十字架において、聖性において、霊の貧しさにおいて、選択と霊の修行において、断食において、悔い改めと嘆きにおいて、戦いの競合において、分別において、魂の聖性において、有用な受容において、そなたの手仕事における静寂において、不眠の徹宵において、飢えと渇きにおいて、寒さと裸において、労苦において、すでに命終した者たちのごとくそなたの墓を閉ざし、すべての日々、そなたの死が近いと思って」。〔イオーアンネース・コロボス34〕

(14.)
テーバイ人の師父イオーセープが云った — 主の面前では3つのものが尊い。人が病気になったり、彼に試練が降りかかり、しかし感謝してそれらを受け容れる場合である。第二は、ひとが自分の行う業すべてを主の面前で清浄なもの、何ら人間的なものを有さぬものとする場合である。第三は、ひとが霊的な師父に服従して座し、自分の意志をすべて捨て去る場合である」。 〔テーバイ人イオーセープ〕

(15.)
 師父カシアーノスは、共住大修道院の院長であった師父イオーアンネースについて、その生は偉大であったと語った。この方が、と彼は謂う、臨終に際し、のもとに嬉々として熱心に出離しようとしていたとき、兄弟たちが、何か簡潔で救いとなるような言葉、それによってクリストスにおける悟り達しうる言葉を自分たちのために遺言として遺してくれるよう要請して取り囲んだ。すると彼は嘆息して謂う。「わしはいまだかつて我意を通したことはなく、わしが先ず実行したこともないようなことを教えたこともない」。 〔カシアノス5〕

(16.)
兄弟が師父である大マカリオスに成道について尋ねた。すると老師は答えて云った。「人が大いなる謙遜を自分の心と身体の内に所有するなら、そうして、自分自身を無において測るのではなく、謙遜によってあらゆる被造物の下に置き、ただひとり自分自身以外には何ものをも全然裁くことなく、暴行に耐え、あらゆる悪を心から捨て去り、自分自身が寛容、有為、兄弟を愛し、慎み深く、自制心強い者であるよう強制される — つまり『諸天の王国は暴力をふるわれ、暴行者たちがこれを奪い取っている』〔マタイ11:12〕と書かれているのだから—。そうして、眼にまっすぐなことを見つめ、舌の守りと、無為と死ぬほどの退屈さに少しも耳を貸すことなく、両手の義と、に対する心の清浄さと身体の汚れなさを持ち、日々、死の記憶を眼前に持ち、霊における怒りと悪の放棄、物質と肉における快楽との放棄、悪魔とそのあらゆる業に対する放棄、だが、絶対君主たるとその誡めすべてに対する確実さ、あらゆる機会、あらゆる物事、あらゆる業における絶えざるの先駆けとなることなくしては、成道は不可能じゃ」。

(17.)
師父マルコスが云った。「自由の律法は、あらゆる真理を教える。多衆もこのことを知識としては読んだが、誡めの働きの推論でこれを思惟する者は少ない。これの成道を人間的な諸徳の中に求めてはならない。成道者はそこ〔人間的諸徳〕には見出されないからである。なぜなら、その成道はクリストスの十字架の中に隠されているからである」。

(18.)
 兄弟が老師に尋ねた、こう言って。「美しい行いとはいかなるものでしょうか、わたしが行い、それによって生きるために」。すると、老師が云った。「美はが御存知じゃ。とはいえ、わしは聞いておる — 師父たちのひとりが、師父アントーニオスの友、師父の大ニケステローオスに尋ねて、彼に云った、『美しい業とはいかなるものでしょうか、わたしが行うために』。するとこれに云われた、『行為はみな等しいのではないか? 聖書は言う、アブラアームは客遇好きであり、は彼とともにあった〔創世記18〕、エーリアスは静寂を愛し、は彼とともにあった〔列王上17〕、ダピデは謙遜なる者であって、は彼とともにあった〔サムエル上18:23〕。されば、そなたの魂がに従って望んでいることは何なのかを観想して、これを行え、そうしてそなたの心を[守るがよい]〔箴言4:23〕』と」。〔ニステローオス2〕

(19.)
 師父ポイメーンが師父ニステローオスについて言った — 荒野にある青銅の蛇〔民数記21:8-9〕をもしひとが目にしたら、民から癒やしたように、この老師はそのようであった。あらゆる徳をそなえており、黙って万人を癒やした。〔ニステローオス1〕

(20.)
 師父ポイメーンがこう言った。「見張ること、自己に傾注すること、そして分別、これら3つの徳が魂の道具である」。〔ポイメーン35〕

(21.)
さらに云った。「この行住坐臥はがイスラエールに授けたもうたものじゃ。つまり、自然にそむくこと、すなわち、怒り、気負い、ねたみ、憎しみ、兄弟に対する中傷、その他、古き人〔コロサイ3:9-10〕に属することを遠ざけることじゃ」。〔ポイメーン68〕

(22.)
 兄弟が彼にこう言って尋ねた。「人はどのように暮らすべきでしょうか?」。これに老師が言う。「ダニエールを見よう、ご自身に対する勤行以外、彼には告発すべきことが見出せない」。〔ポイメーン53〕

(23.)
 さらに云った。「清貧、辛苦、分別、これらが隠修生活の道具である。というのは、こう書かれているからである。『ノーエ、イオーブ、ダニエール、これらの3人がいるならば』〔エゼキエル14:14〕と。ノーエは無所有の顔、イオーブは苦行の、ダニエールは分別の〔顔〕である。だから、もしこれら3つの実習が人間にあるならば、が彼のうちに宿りたもう」。〔ポイメーン60〕

(24.)
 さらに師父ポイメーンがこう云った。「もし2つのことを修道者が憎むなら、この世から自由な者となることができよう」。そこで彼に兄弟が云った。「それらは何々ですか?」。すると老師は云った。「肉体の安逸と虚栄である」。〔ポイメーン66〕

(25.)
師父パムボーについて語られている — 最期をむかえまさに逝かんとしたその時に、彼の傍に控える聖なる師父たちにこう云った。「砂漠のこの地にやって来て、わしの修屋を建て、それに住んで以来、わしの手によらぬパンを喰った憶えはなく、今の今まで喋ってきた言葉を悔いたこともない。じゃが、敬を始めたことさえない者のようにして、わしはの御許に行くのじゃ」。 〔パムボー8〕

(26.)
 師父シソエースが云った。「つまらないものとして扱われる者となれ、汝の意志を汝の後ろに投げ捨てよ、この世の思い煩いをわずらわぬ者となれ、そうすれば汝は安らぎを得るであろう」。〔シソーエース43〕

(27.)
 師父コーマイは臨終に際して自分の息子たちに云った。「異端者たちと居住してはならない、支配者たちと知己となってもならぬ、おまえたちの手をして、集めるために広げられることを許してはならず、むしろ、与えるために広げられしめよ」。〔コーマイ1〕

(28.)
兄弟が生き方について言って、老師に尋ねた、すると老師が云った。「藁を喰え、藁をまとえ、藁<の中で>眠れ、すなわちあらゆるものを軽蔑し、鉄の心を所有せよ」。〔エウプレピオス4、Anony172、主題別21-66〕

(29.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうすればに対する畏怖が魂にやってくるのでしょうか?」。すると老師が云った。「人が謙遜と無所有と裁かないこととを持つならば、そうすればに対する畏怖が彼にやってこよう」。〔エウプレピオス5、Anony137〕

(30.)
 老師が云った。「畏れと謙遜と食料の欠乏と悲嘆をして汝にとどまらしめよ」。〔エウプレピオス6〕

(31.)
 老師たちのひとりが言った。「そなたが何かを憎むなら、〔それを〕他者にしてはならぬ。ひとがおまえの悪口をいえば、おまえは憎むか? ならば、おまえはひとの悪口をいってはならぬ。ひとがおまえを誣告したら、おまえは憎むか? ならば、おまえはひとを誣告してはならぬ。ひとがおまえを侮ったり、いじめたり、おまえのものを何か奪ったり、あるいはそういったかぎりのことがあればおまえは憎むか? ならば、おまえもそれらのいずれかを誰かになしてはならぬ。この言葉を守ることのできる者、彼は救済に足るものをもつ」。〔Anony253〕

(32.)
老師が云った。「修道者の生はこうである。仕事、服従、実習?、動揺しないこと、悪口しないこと、不平をならさぬこと。こう書いてあるからである。『主を愛する者たちは、苦行を憎むな』〔〕。修道者の生が不正にのぼることはできず、まして眼に悪を見ることもできず、お節介することもできず、妙なことを聞くこともできず、手で奪うこともできず、できるのはむしろ与えることであって、心に傲慢になることもできず、想念に悪さされることもできず、腹を満たすこともできないが、分別をもってあらゆる事をなすことができる。そういう状態において修道者なのである」。〔Anony225〕

(33.)
老師が云った。「万人を兄弟のように受け容れるのではなく裁く人、このような人は成道者ではない」。

(34.)
老師が云った。「悲しみと謙遜とををそなたの心の中に与えてくださるよう、に呼びかけよ、そうしていつもそなたの罪のために祈れ、他者を裁くことなく、万人の下にあれ、そうして女との愛を持つな、まして幼児との愛も異端者たちとの愛も〔持つな〕、そうして気易さ(parrhsiva)をそなたから根絶せよ、そうしてそなたの舌と腹を葡萄酒からも抑えよ、そうしてもしもひとが事柄についてしゃべるなら、どのようなことでも彼と愛勝することなく、もしも相手が美しく言っているなら、『然り』と云え、しかし悪く〔言っている〕なら、云え。『何を喋っているか、あなたはご存知だ』と、そうして彼が喋ったことについて彼と争ってはならぬ。その時こそ、そなたの想念は平和である」。〔マトエース11,Anony330〕

(35.)
 兄弟が師父たちの或る者に尋ねた。「命とは何ですか?」。すると相手が答えて云った。「真なる口、聖なる身体、清浄な心、俗世をぐるぐる回る想念を持たぬこと、悔い改めを伴う詩篇朗唱、静寂のうちに過ごし、クリストスに対する期待以外に何ものをも考えないこと」。

(36.)
 老師が云った。「柔和、忍耐(ajnexikakiva)、寛容(makroqumiva)、愛(ajgavph)を心がけよう。それらの内にあるのが修道者なのだから」。

(37.)
 また云った。「キリスト信者の定義(o{roV)は、クリストスのまねび(mivmhsiV)である」。

2016.02.20.

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