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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 5

砂漠の師父の言葉(主題別)
(3/21)






3.
(T.)

痛悔(katanuvxiV)について

(1.)
 師父アントーニオスが云った。「眼前にへの畏れを常に持して死を記憶しよう、世と、そこにあるものらすべてを憎もう、肉的な休息を憎もう、に生きるためにこの生を棄てよう。なぜなら、審判の日に〔は〕われわれにそれをお求めになるのだから。飢えよう、渇こう、裸になろう、眠るまい、嘆こう、われらの心において呻吟しよう、われわれがにあたいする者であるかどうかを吟味しよう、を見出すために迫害を愛そう、われわれの魂が救われるために、肉を軽んじよう」。〔アントーニオス33〕

(2.)
 また云った。「修屋に坐り、そなたの理性を集中せよ、死の日々を憶えよ、そのとき身体の死にざま見よ、災禍に思いを致し、労苦を受け取れ、この世の虚しさを認めよ、寛容と熱意を心にかけよ、それは、静寂の同じ状態にとどまり、弱らないためである。さらには、ハーデースのありさまと想念について、そこではいったい魂たちがどのようであり、どのような過酷きわまりない沈黙とか、どのような恐ろしさきわまりない呻吟のなかにあるか、いかほどの恐れと戦い、あるいはどのような不安のうちにあるかを思量せよ、休みなき苦悩と魂の際限なき涙を受けとりながら。しかしながらまた、復活と、の前に立つ日々をも憶えよ。〔エウアグリオス1前半〕

(3.)
 師父アルセニオスについて言われている — 彼の生の全時間、手仕事のために坐っているとき、彼の目から落ちる涙のために、彼は懐に襤褸切れを持っていたという。〔アルセニオス41〕

(4.)
 兄弟が師父アムモーナスにこう言って頼んだ。「わたしにお言葉をください」。老師は言う。「行け、そなたの想念を、番屋にいる悪行者たちのようにせよ。というのは、あの連中は嚮導者がどこにいるか、いつやって来るのかを人々に尋ね、期待して泣いている。そのように、修道者も常に注意して、こう言って自分の魂を吟味すべきだからじゃ。『悲しいかな、わたしはいかにクリストスの高壇に立ちえようか、そうしてあの方にいかに弁明できようか』。そういうふうにそなたがいつも注意するなら、救われることができよう」。〔アムモーナース1〕

(5.)
 師父テオドーロスが云った。「そなたの修屋に坐して、そなたの理性を集中せよ、の前に立つことを憶えよ、身の毛もよだつあの恐るべき裁きを幻視せよ。罪人たちに用意されたこと、、天使たち、大天使たち、すべての人々の前での恥辱、すなわち、責め苦、永遠の業火、眠ることなき蛆虫ども、奈落、暗闇、歯ぎしり、恐怖と拷問とを思え。さらにまた思え、義人たちにささげられる諸善、つまり、父なると、その子クリストス、天使たち、大天使たち、聖人たちの全会衆との気易さ(parjrJhsiva)をも、諸天の王国と、その賜物たる喜びとその享受をも。次の各々の記憶をおのれに思え。すなわち、片や、罪人たちの裁き涙し、嘆け、そなた自身までが彼らの群に加わることを恐れて。片や、義人たちに備えられたことを喜び、楽しめ。そして、後者からは享受に与れるよう熱心に求め、前者からは無縁であれ。そなたの修屋の中にいても、どこか他所にいても、汚れた有害な想念を逃れるために、これらのことの記憶を決して失わないようにせよ」。〔エウアグリオス1後半〕

(6.)
 師父エーリアースが云った。「わしは三つの事柄を恐れている。わしの魂が身体から出て行こうとするとき、に対面せんとするとき、そうして、わしに判決が下されようとするときじゃ」。〔エーリアース1〕

(7.)
 師父ヘーサイアースが云った — 寂静の内に有る者は、との対面の際のその畏怖と、その息吹を先取する畏怖とを持たねばならない。なぜなら、罪がその心を説得するだけでは、いまだ彼の内にへの畏れはないからである」。

(8.)
師父ヘーサイアースの弟子、師父ペトロスが言うを常とした —。病中にある彼を視察したところ、ひどく弱っている彼を見出した。すると、わしが悲しんでいるのを見て、わしに云った。「平安の期待を有する労苦とはいかなるものですか? しかしながら、の面前から投げ捨てられ、以後、わたしに耳を貸す者がひとりもおらず、平安の期待さえないという、あの最も影暗き刻への畏怖がわたしにつきまとうのです」。

(9.)
また云った。また他の時、彼のところに出かけて行って、彼が重病なのを見出したが、わたしの心の悲しみを見て、わたしに云った。「このような病状によって、やっと死に近づいたおかげで、あの辛い刻を憶えることができます。だから、肉の健康は、この死の益を有しません。なぜなら、身体が健康を求めるのは、から後退するためだからである。例えば、毎日水をやってもらう樹木は、いつかその根が乾涸らびて、果実をもたらすことがないからからです」。

(10.)
師父ペトロスが云った —。わしが彼に尋ねた、いわく。「への畏れとは何ですか?」と。するとわしに云った —。ある人に対して、が存在しないと説得する人、これが自己の内にへの畏れを有しない人のことである、と。

(11.)
また、共同性について言った。「悲しいかな、共働するかぎり、の敵たちとともにあるとは。自分の有する共同性とはいかなるものか? 最後にはわたしの裁きと懲らしめに至る〔Cf. 1Kor 11:29〕。というのは、われわれはこの言葉を挙げる — 聖なるものらは聖なる者らに〔ヨハネ黙示録36,39〕、つまり、聖なる者らに聖なるものらが。されば、わたしが聖なる者ならば、敵たちはわたしに何かする力を持たない」。

(12.)
師父ヘーサイアースが言うを常とした。「悲しいかな、悲しいかな、わたし自身を救うために戦ったことがないとは。悲しいかな、悲しいかな、の憐れみの意向にあたいするよう、わたし自身を聖化すべく戦ったことがないとは。悲しいかな、悲しいかな、あなたがわたしを王支配するために、あなたの敵勢の戦いに圧倒すべき戦ったことがないとは」。

(13.)
さらに云った。「悲しいかな、あなたの御名がわたしを包み、わたしがあなたの敵どもに隷従しているとは。悲しいかな、悲しいかな、が忌み嫌いたまうことどもをわたしが為し、それゆえにわたしを癒したまわぬとは」。

(14.)
さらに云った。「悲しいかな、悲しいかな、わたしの見知った連中、また、見知らぬ連中の中傷者たちをわたしの前に持ちながら、否認することもできないとは。悲しいかな、悲しいかな、わたしの主とその聖なる人たちとにどうして対面できようか、わたしの敵どもが、の面前でわたしの四肢ひとつさえ清浄なことを許さないとは」。

(15.)
 大主教である浄福者テオピロスは、最期を迎えて云った。「浄福なるかな、師父アルセニオス、常にこの刻を記憶なさっていたとは」。〔テオピロス5〕

(16.)
 師父たちが言い伝えている — あるとき、兄弟たちが愛餐の食事をしていたとき、一人の兄弟が食卓で笑った。すると、それを見た師父イオーアンネースが泣いた、いわく。「いったい、この兄弟はその心中に何を持っていることやら、愛餐を食するときは、むしろ泣くべきであるのに、笑うとは」。〔コロボスのイオーアンネース9〕

(17.)
 師父イアコーボスが云った —「灯火が、暗い部屋で自分を照らすように、への畏れも同様、人間の心に入ってくると、彼を照らし、すべての徳との掟とを教える」。〔イアコーボス3〕

(18.)
 師父たちの中の幾人かが、アイギュプトス人である師父マカリオスに尋ねた、いわく。「どうして、食事の時も断食の時も、あなたの身体は痩せこけているのですか?」。するとこれに老師が言う。「転成した薪は、燃える火がその火でことごとく食いつくす。同様に、ひとが己の理性をに対する畏れによって浄化させるなら、への畏れそのものが彼の骨を食い尽くすのだ」。〔Cf. マカリオス12〕

(19.)
 偉大な師父マカリオスについて語り伝えられている — あるとき、彼が砂漠を歩いているとき、地に打ち捨てられた死人の頭蓋骨を見つけ、ナツメヤシの枝の杖でそれをつつきながら、老師が言う。「おまえは、誰だ。わしに答えよ」。すると頭蓋骨語で彼に口を利いた。「わたしはこの地に住持したヘッラス人の祭司でした。ところであなたは、聖霊の使者(pneumatofovroV)マカリオス。罰を受けている者たちをあなたが憐れむような刻には、幾分か慰めを得ているのです」。これに師父マカリオスが言う。「いかなる慰めか?」。これに頭蓋骨が言う — 「天が地から隔たっているほどに隔たって〔イザヤ55:9〕、われわれの足下と頭との下に火があるのです。されば、火の真ん中に立っているので、顔に顔を合わせて見ることができず、背に背がくっいているのです。ただ、あなたがわたしたちのために祈ってくれるときには、他の者の顔を少しだけ見ることができるのです」。すると老師は泣きながら云った。「悲しいかな、人間が生まれた日よ、これが懲罰の慰めとは!」。老師がさらに彼に言う。「これよりもっと酷い責め苦があるのか?」。これに頭蓋骨が言う。「わたしたちの下に、もっと酷い責め苦があります」。これに言う。「そこにはどんな者たちがいるのか?」。これに頭蓋骨が言う。「わたしたちはを見なかった者たちとして、少しは憐れみを受けています。しかし、を見ながら、それを否定し、その御心を行わなかった者たち、その連中がわたしたちの下にいるのです」。そこで、老師は頭蓋骨を取って、これを地に埋め、自分の道を進んでいったのであった。〔マカリオス38〕

(20.)
 あるとき、山の長老たちがスケーティスの師父マカリオスのもとに人を遣わした、彼に呼びかけるためである。つまり彼らは彼に謂う。「民がみなあなたのことで心配しないように、あなたがわたしたちのところに来て、あなたが主のみもとに旅立つ前に、あなたにお目にかかれるようお願いします」。そこで、彼が山に到着すると、民がみな彼の周りに集まった。そして、兄弟たちのために言葉をくださるよう彼に呼びかけた。相手が聞いて謂った。「泣こう、兄弟たちよ、そしてわれらの両眼をして涙を流さしめよう、われらの涙がわれらの身体を焼き尽くすところに、われわれが赴く前に」。そこで、皆は泣き、自分たちの面を伏せ、そして云った。「師父よ、わたしたちのために祈ってください」。〔エジプトのマカリオス34〕

(21.)
師父モーウセースが云った。「身体的な情動に敗北するかぎり、裁きの悲嘆がわれわれを捕らえる前に、悔い改めて自分自身を嘆く心配はない」。

(22.)
さらに云った。「涙のおかげで人は諸徳を所有し、涙のおかげで諸々の罪の赦しが生じる。されば、そなたが泣くとき、そなたの嘆息の声をあげるな、そしてそなたの右手が何をしているかを、そなたの左手が知ることのないようにせよ。左手とは虚栄である」。

(23.)
 師父ポイメーンが兄弟に尋ねられた、いわく。「わたしの諸々の想念がわたしを混乱させ、わたしの罪をわたしから放置して、わたしの兄弟の欠点にわたしを傾注させるのです」。するとこれに老師が、師父ディオスコロスについて言う、— 彼が修屋で己れを嘆いていた。ところで彼の弟子が別の修屋に住持していた。そこで、老師を訪ね、彼が泣いているのを見て、これに言った。「師父よ、どうして泣いているのですか?」。老師が言った。「わしは自分の罪を泣いているのだ」。そこでこれに彼の弟子が言う。「あなたには罪などありません、師父よ」。すると老師が答えた。「自然本性的に、わが子よ、わしの罪を見ることができたならば、それを嘆くのにほかに三、四人いても足りないほどである」。〔ディオスコロス2〕

(24.)
 あるとき、師父ポイメーンがアイギュプトスに通りかかったとき、墓地に坐って激しく泣いている女を見た。そこで言う。「この世のどんな喜びが訪れても、この女の魂を悲嘆から解き放つことはないだろう。このように、修道者も、自分の内に絶えず悲嘆を負っていなければならない」。〔ポイメーン26〕

(25.)
 あるとき、師父ポイメーンは、師父アヌゥブとともにディオルコス地方を通りかかった。そして墓地にやって来ると、恐ろしく胸を叩き、激しく泣いている女を目にした。そこで立ち止まって、彼女をつぶさに見た。それから少し進んでゆくと、ある人に出会った。そこで彼に師父ポイメーンが尋ねた、いわく。「あの女が激しく泣いているのは、どうしたわけか?」。すると彼に言う。「彼女の夫、息子、兄弟が死んだのだ」。すると、師父ポイメーンが答えて、師父アヌゥブに言う。「あなたに言っておく、— 人は肉のあらゆる考え(qelhvmata)を死なせ(エフィソ2:3、コロサイ3:5〕、この悲嘆を所有しなければ、修道者になることはできない。この女の全生涯と理性こそは、悲嘆の中にあるのだ」。〔ポイメーン72〕

(26.)
 師父ポイメーンがさらに云った。「悲嘆は二重である。働くこと、見張ること〔創世記2:15〕」〔ポイメーン39〕。

(27.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしはどうしたらよいでしょうか?」。これに老師が言う。「がわれわれを視察なさるとき、われわれは何に気をつけねばならないか?」。これに兄弟が言う。「わたしたちの諸々の罪に」。これに老師が言う。「それでは、われわれの修屋に入ろう、そして坐して、われわれの諸々の罪を憶えよう、そうすれば主は常にわれわれとともに歩んでくださろう」。〔Cf. 3-37〕

(28.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしは何をなすべきでしょうか?」。これに老師が言う。「アブラアームは約束の地に入ったとき、自身のために墓を買い、埋葬のために土地を遺産相続した〔創世記23〕」。兄弟が言う。「埋葬とは何ですか?」。これに老師が言う。「哀号と悲歎の場所である」。〔ポイメーン50〕

(29.)
兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「わたしの諸々の罪をどうしたらいいのでしょうか?」。老師が言う。「諸々の罪をあがなおうとなさる方が、哀号によってこれをあがなってくださる」。〔ポイメーン119前半〕

(30.)
さらに云った —。「哀号すること、これこそが〔聖〕書や、『哀号せよ』〔ヤコブ5:1〕と言うわれわれの師父たちが口伝してくれた道である。これ以外に他の道はないのだから」。〔ポイメーン119後半〕

(31.)
師父イサアークが師父ポイメーンを訪ね、彼らが坐しているとき、彼が恍惚状態にあるのを見て、彼に呼びかける、いわく。「あなたの想念はいずこに、師父よ」。すると老師が云った。「聖母マリアがいて、救主の十字架に哀号なさっているところに。わしもいつも哀号していたかった」。〔ポイメーン144〕

(32.)
 アレクサンドレイアの大主教で、聖なる者として記憶されるアタナシオスは、師父パムボーに、砂漠からアレクサンドレイアに下向するよう願った。そこで下向して来たところ、そこで一人の劇場の女を見て、落涙した。そこで、なぜ泣いたのかと、同行者たちが問いただした。「2つのことがわしを」と彼が謂った、「衝き動かしたのじゃ。一つは、あの女の滅び。もう一つは、恥ずべき人間どもに気に入られようと彼女が示すほどの熱心さを、わしはの気に入るために示していない、ということじゃ」。〔パムボー4〕

(33.)
 あるとき、同じ人が兄弟たちとともに坐っていて、恍惚状態になり、うつぶせに倒れた。かなり経ってから立ち上がり、泣いた。そこで兄弟たちがこう言って彼に呼びかけた。「どうなさったのですか、師父よ」。しかし彼は黙って、泣いていた。しかし、彼らが云うよう強いるので、云った。「わしが審判に引き上げられた。そしてわれわれの仲間の多くが罰を受けに行くのを見、他方、多くの在俗信徒が王国に行くのを〔見た〕のじゃ」。そして、老師は悲歎し、自分の修屋から出て行こうとはしなかった。しかし外に出るように強いられると、こう言って自分の顔を頭巾で覆った。「なんでわしが、かりそめの、何ら益ないこの光を見たいものか」。〔シルゥアーノス2〕

(34.)
 教母シュンクレーティケーが云った。「に近づこうとする人々にとっては、初めは多くの闘いと労苦があります。しかし次には、言葉に言い表せぬほどの喜びがあります。というのは、火を灯そうとする人々が、初めは燻されて涙を流すのですが、ついには求めていたものを手に入れるように(というのも、わたしたちのは焼き尽くす火〔ヘブライ12:29〕ですから)、そのようにわたしたちも、涙と労苦とともに的な火を自らのうちに灯さなければなりません」。〔シュンクレーティケー1〕

(35.)
 師父ヒュペレキオスが云った。「昼夜なく、修道者は徹夜し、祈りに専念し通す。そして自分の心を刺して、涙を注ぎ、天から憐れみを呼び寄せる」。

(36.)
 兄弟たちが、在俗信徒たちを自分たちにともなって、師父ピリクスを訪れ、自分たちに言葉をくれるよう彼に頼んだ。しかし老師は黙っていた。しかし彼らがしつこく願うので、彼らに云った。「言葉を聞きたいのか」。彼に言う。「はい、師父よ」。そこで老師が云った。「今は一言もない。兄弟たちが老師たちに尋ね、〔老師たちが〕彼らに言った事を彼らが実行していたときには、話すすべはが彼らにおさずけになった。だが今は、尋ねはしても、聞いたことを実行はしないから、は老師たちから恩寵を奪われ、仕遂げる者がいないのだから、話すべきことを見つけられぬ」。これを聞いて兄弟たちは嘆息した、いわく。「われわれのために祈ってください、師父よ」。〔ピリクス〕

(37.)
 師父オールと師父テオドーロスについて語り伝えられている — 彼らは修屋〔を造る〕ために粘土をこねていたとき、互いに云いあった。「もし今、がわれわれを視察なさったら、何としようか?」。そこで、彼らは泣きながら、粘土を放置して、おのおの自分の修屋に引き上げていった。〔オール1〕

(38.)
 老師が語った、— ある兄弟が隠遁しようとしたが、自分の母親が妨げた。しかし彼は、「わたしの魂を救います」と言って、所期の目的を捨てなかった。そこで〔母親は〕あれこれ努めたが、彼を引きとどめることができず、ついに彼に許可を与えた。そこで隠遁して修道者になったものの、自身の生をいたずらに浪費した。さて、彼の母親が亡くなり、またしばらくして彼が大病を患い、意識朦朧として、審判に引き上げられるということが起こり、自分の母親が審判を受ける者たちといっしょなのを見つけた。すると、彼女は彼を目にするや、驚倒して云った。「これは何としたことか、わが子よ、おまえまでこんなところで裁かれるとは! 『わたしの魂を救うつもりです』と言ったおまえの言葉は、いったいどこに」。そこで、聞いたことに恥じ入って、彼女に答えるすべもなく、彼は苦痛に立ちつくしていた。すると、再びこういう声が聞こえた、「この者をここから連れ去れ、おまえたちを遣わしたのは、共住修道院の、この者と同名の別の修道者のところじゃ」。さて、幻視が終わるや、我に返り、居合わせた者たちに以上のことを語った。そこで言われたことの確証と信頼のために、聞いた共住修道院に人を訪れさせ、耳にした当の兄弟が永眠したかどうか見させた。そこで使いの者が訪れて、そのとおりなのを見いだした。さて、快復するや、奮起して、みずからを閉じ込めて、自分の救いを心がけて座った。以前はいたずらに行っていたことを後悔し、嘆きつつ。しかし彼の痛悔があまりに激しいので、度外れた哀号のせいで何か害さえ受けるのではないかと、少し緩めるよう多くの人たちが彼に忠告した。だが、彼はこう言って勧告を拒んだ。「わが母の誹りに堪えなければ、どうして審判の日に、クリストスと聖なる天使たちの面前での羞恥に堪えられようか」。〔Anony135〕

(39.)
 老師が云った。「復活後、の臨在する中、人間どもの諸々の魂が畏れから出て行くことを受け容れるならば、俗世はすべて戦慄と法悦から死ぬことだろう。なぜなら、裂けた諸天と、怒りと憤りで顕わとなったを見ることができるように、天使たちの無数の軍勢、あらゆる人間性をもいっしょに観ることができるからである。それこそが、われわれの生き方の言葉(lovgoV)をから取りもどすかのように、われわれが生きなければならない所以である」。 〔Anony136〕

(40.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「何ゆえですか、師父よ、わたしの心は頑なで、を畏怖しないのは?」。これに老師が言う。「思うに、人間が心でおのれの吟味を心中に掌握するなら、に対する畏怖を掌握することであろう」。これに兄弟が言う。「吟味とは何ですか?」。すると老師が云った。「人間があらゆる事柄において自分の魂を吟味するためじゃ、おのれにこう言ってな、『おまえはに対面しなければならない』と。さらにまたこうも言え、『人間とともにわたしは何をする気か?』と。されば、思量するに、人がこれらのことに留まるなら、に対する畏怖が彼に得られるだろう」。〔Anony138〕

(41.)
 老師が、或るひとが笑っているのを見て、これに言う。「天と地の前で、おのれらの全生涯の釈明をしなければならんときでも、おまえは笑っているのか?」。〔Anony139〕

(42.)
 老師が云った。「われわれがおのれの影をいつも連れているように、どこであれわたしたちが居るところで、泣くことと痛悔とを持たなければならない」。〔Anony140、主題別21-43〕

(43.)
 兄弟がある老師に尋ねた、いわく。「わが父よ、どうかわたしに説話を云ってください」。これに老師が言う。「がアイギュプトスを打倒したとき、悲嘆なき家はなかった」。

(44.)
 兄弟が他の老師に尋ねた、いわく。「どうすればいいのでしょうか?」。これに老師が言う。「われわれはいつも落涙すべきである。というのは、あるとき、老師たちの或る者が眠りに落ち、長い刻限の後、再び我に返った。そこでわれわれは彼に尋ねた、いわく。『彼処で何を目にされたのですか、わが父よ』。するとわれわれに話してくれた、泣きながら。『彼処で、絶え間なくこう言う人たちの哀号の声を聞いた。「悲しいかな、悲しいかな」と』。そういうふうにわれわれも、いつも言うべきなのである」。〔Anony141〕

(45.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうして、わたしの魂は、老師たちに聞いたとおり涙するのに、〔涙が〕出ることなく、わたしの魂は悩ましいのでしょうか?」。するとこれに老師が云った。「イスラエールの息子たちは、40年間、約束の地に出て行った。されば、涙が約束の地であり、そなたがそこに立ちもどれば、そなたはもはや戦いを恐れはしない。なぜなら、そういうふうに魂が悩ましいことをがお望みだからである、いつ何時でもあの地にそなたが出て行くために」。〔Anony142〕

(46.)
 老師が云った。「そなたの修屋にそなたが坐すときは、あらゆる瞬間にの憶えを持て、そうすればへの畏れがそなたを取り囲むであろう。されば、そなたの魂からあらゆる罪と、あらゆる悪を放逐せよ、平安を見出すために」。

(47.)
 さらに云った。「への畏れを所有する者は、への畏れが人間を罪から助け出すという、諸善に満たされた宝物を有する」。

(48.)
 ある老師が、自分の弟子が聞いているとは知らずに、激しく吠えた、大声をあげ泣き叫んで。そして自分の弟子に頼まれて、言った。「冥界に降って、罪人たちの魂たちが冥府でどれほどの呵責の内にあるか目にし、それからは慰められ得なかったのじゃ」。

(49.)
敬虔なある処女が都市に住んでいたが、隣人として兵士を持っていた。あるとき、彼女の母親が下向することになったおり、その兵士が跳びこんできて、その処女を強姦した。その後、処女の着物を脱ぎ捨て、茣蓙の上に坐った、嘆き悲しみながら、運ばれる着物も破り捨てて。さて、自分の母親がやって来たので、出来事を話した。そして多くの日々、そういうふうに悲嘆しながら、乙女は坐しつづけた。その後、童貞修道者たち(aiJ parqeneuvousai)?や聖職者たちが彼女に面会し、言いはじめた。「着物を着なされ、そなたの罪ではないのじゃから」。しかし彼女は聞き入れなかった、いわく。「わたしをは見捨て、がわたしを拒まれたのに、どうして着物を着ることができましょう。はこの敢行を防ぐことがおできになったのではありませんか? わたしに着物の価値なしと見られたのなら、そのようにしつづけます」。そういう次第で命終するまで哀号しつづけ、過度の無感覚状態で、救いある悲嘆のうちに泣きつづけたのであった。〔N 460〕

(50.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうすればわたしの魂が不浄を愛せるのでしょうか?」。これに老師が言う。「魂は情念を磨り潰すが、しかしの霊はこれ〔魂〕を支配するものである。われわれは自分たちの罪と不浄のために泣くべきである。そなたはマリアを見たな、彼女が墓にかがんみこんで、と泣いたとき、主が彼女にどう声をかけられたかを。魂も同様である」。

(51.)
 或るひとが、若輩の或る修道者が笑っているのを見て、彼に言う。「笑ってはならぬ、兄弟よ、への畏れをそなたから追い払うことになるゆえ」。〔Anony54〕

(52.)
 自分の修屋で亜麻布を織っている或る修道者がいた。この人物は言うを常とした —。久しきにわたって、わしはこの梭を打ち返して弛めるたびに、〔別の世で〕これ〔梭〕を打ち抜くまで生きられますようにと、死を期待しつづけている、と。

(53.)
 別の老師が云った —。わたしは縫おう、そして一針ごとに、わたしの眼前から、わたしがこれを二度繰り返す前に、死を投げ捨てよう、と。〔Anony58〕

(54.)
 老師が言った。「魂の救済に懸命となるがよい、兄弟たちよ、審判の日は恐ろしく、苛酷なのだから」。

(55.)
 聖人たちのひとりが、気易さ(parrhsiva)について云った。(parrhsiva)は、炎風のように修道者の実りを台無しにせるものである。笑いについて、今、聞け。笑いは悲嘆の幸福を外に投げ出す。笑いは住みつくことなく、守ることなく、破滅させもし、住んでいるものらを破壊さえする。笑いは聖なる霊を苦しめ、魂に益することなく、身体をば堕落させる。わらいは諸々の徳を追い出し、死の憶えはもとより、懲罰の心配さえ持たない。

(56.)
 老師たちの或る者が言った。「滅びのはじまりは修道者の笑いと気易さ(parrhsiva)にあり。かかる情況においてそなたが自分自身を見るならば、修道者よ、そなた自身が諸悪の深みに立っていると知れ、そして、この死からそなたを救い出してくださるよう、に懇願してやめるな。笑いと気易さは修道者を、若年者たちのみならず、老人たちをも、恥ずべき状態へと引き渡す。笑いと気易さは修道者を下方へと連れ行くのである」。

2016.02.23.

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