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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 5

砂漠の師父の言葉(主題別)
(7/21)






7.
(T.)

われわれを塗油する忍耐と勇敢についての様々な話

(1.)
 聖なる師父アントーニオスは、かつて砂漠に住持していたとき、倦怠(ajkhdiva)と想念の大きな闇とに捉われた。そこで、に向かって言った、「主よ、わたしは救われたいのに、諸々の想念がわたしを放しません。わたしの患難の中で何を為すべきでしょうか、どうすれば救われるでしょうか」。しばらくして外に出てみると、アントーニオスは自分にそっくりの男を見た。その男はそこに座り、働き、次いでその仕事をやめて立ち上がっては、祈った。そして改めて座っては縄を編み、さらにはまた、祈るために立ち上がるのであった。が、それは主の天使で、アントーニオスの改善(diovrqwsiV)と安全(ajsfavleia)のために遣わされたのであった。アントーニオスは、その天使がこう言うのを耳にした。「このようにするがよい。そうすれば救われるであろう」。そこで彼はこれを聞いて、大きな喜び(carav)と元気(qavrsoV)とを得、そういうふうに実行して救われたのである。〔アントーニオス1〕

(2.)
 兄弟がこう言って老師に尋ねた。「掟がわたしのところに下り、掟のある場所で闘いがあります。そこでわたしはその掟に従って出発したいのですが、闘いが恐ろしいのです」。するとこれに老師が言う。「アガトーンならば、掟を実修し、闘いに勝つであろうに」。〔アガトーン13〕

(3.)
 師父アムモーナースが云った、— わしは14年間をスケーティスで過ごしてきた、怒りに打ち勝つ恩寵がわたしにあるよう、日夜、に懇願しながら」。〔アムモーナース3〕

(4.)
 師父ビサリオーンが云った、— わしは40日の問、昼も夜も茨の中にとどまり、立ったまま、眠らずに過ごした」。〔ビサリオーン6〕

(5.)
 同じ人が申し渡した。「王道を歩め、何ミリアかを計れ、軽視するな」。〔ベニアミン5〕

(6.)
 聖グレーゴリオスが云った。「哲学に専念しようとしたとき、何の困難も期待されなければ、その初めは哲学ではなく、被造物を非難するものである。万一、予期されるのに出会さなければ、恩寵である。しかし出会したら、受苦して堅忍するか、その約束は嘘だと知れ」。

(7.)
 師父ヘーサイアースが云った。「その諸々の労苦が世に知られているある人たちは浄福である。おのれをあらゆる重荷から休息させ、ダイモーンたち、特に怯懦、あらゆる善き業(これが攻撃されるのである)に対して人間を妨害し、にしがみつくべくおのれを委ねれば、理性を臆病へと導く者、の悪だくみを回避させるからである。

(8.)
 さらに云った。「何よりも第一の闘いは余所者であること、とりわけ独りであることである。別の場所に逃げる者は固有のことども、つまり完全な信仰、希望、おのれの諸々の意思に対する不動の心、を置き去りにする。なぜなら、〔ダイモーンたちは〕数多くの環境や数多くの仕方によってそなたを取り巻くからである、諸々の試練や、貧困とか病気とかいった難儀でそなたを恐れさせ、そそのかすために —。『こんな事態に陥って、どうするつもりか、おまえのことを心配してくれる、おまえの知り合いを誰かもたないとは?』と。しかし、の善性(ajgaqovthV)がそなたを吟味なさっているのである、そなたの真剣さとへの愛が明示されるように」。

(9.)
 兄弟がケッリアに単独で坐していたが、こころを乱された。そこでペルメーの師父テオドーロスのもとに出かけて行き、彼に自分の情態を云った。相手がこれに云う。「行け、そなたの想念をへりくだらせ、服従し、他の者たちとともにとどまれ」。そこで山に帰り、他の者たちととどまった。だが老師のところに引き返してこれに云う。「人間たちとともにいても安らげません」。老師がこれに言う。「独りでいても他の者たちといてもだめなら、何ゆえ出離して修道者になったのか? 諸々の呵責を耐え忍ぶためではないのか? わしに云ってみよ。『そなたはこの姿になって何年になる?』」。相手が言う。「8年です」。すると老師が答えて云った。「まこと、わしはこの姿になって70年になるが、一日たりと平安を見出したことはない、そなたときたら8年で平安を得るつもりか?」。〔ペルメーのテオドーロス2〕

(10.)
 ある兄弟がまた彼に尋ねた。「とつぜん破滅が起こったら、あなたも怖れますか、師父よ」。これに老師が言う。「天が地と膠着しても、テオドーロスは怖れないだろう」。たしかに、怯懦が自分から取り除かれるよう、彼はに要請していた。だからこそ、彼〔その人は〕彼に尋ねたのであった。〔ペルメーのテオドーロス24〕

(11.)
 エンナトーン人たちのうち師父テオドーロスと師父ルゥキオスとについて言い伝えられている、— 彼らは、自分たちの諸々の想念をからかい、こう言いながら、50年間を過ごした。「この冬が過ぎたら、ここを移ろう」。だが、再び夏が来ると、彼らは言った、— この夏が過ぎたら、ここを出ていこう、と。永く記憶さるべきこれらの師父たちは、いつもこのようにして過ごしていたのである。〔エンナトーンのテオドーロス2〕

(12.)
 師父ポイメーンがコロボスの師父イオーアンネースについて云った、— 彼はに呼びかけて、諸々の情念が自分から取り除かれたので、煩いがない者となった。そこで引き上げて、ある老師に云った。「わたしはおのれが安らかになり、いかなる敵もいないのを見ます」。するとこれに老師が言う。「行け、に呼びかけよ、そなたに攻め来るようにと、敵や、以前にそなたが持った患難や、謙遜が。というのは、戦いによってこそ、魂は進歩するのじゃから」。そこで、彼は再び呼びかけ、敵がやってくると、もはやそれが自分から除かれることを祈らず、こう言った。「わたしに与えたまえ、主よ、敵のさなかにある忍耐を」。〔コロボスのイオーアンネース13〕

(13.)
 師父ロンギノスについて言い伝えられている — 砂漠を去るよう諸想念にたかられることしばしば、ある日、自分の弟子に言う。「願わくは、兄弟よ、わしが何をしようと、我慢して、その1週間はわしに何も云わないでくれ」。そうしてナツメヤシの杖を執って、自分の道場(aujluvdrion)を歩きまわりはじめた。そうして疲れると、しばし坐し、再び立ち上がって歩きまわる。そして夕方になると、想念に言う。「砂漠を歩きまわる者が食するのは、パンではなく、野菜だ」。そこでそのとおりにして、再び想念に言う。「砂漠にある者が横たわるのは、屋根の下ではなく、大空のもとだ。されば、おまえもそのとおりにせよ」。そうして、身を横たえて、おのれの道場で寝た。かくて、自分の修道院を歩きまわって、3日を過ごし、夕方、わずかなキクヂシャを食し、夜間は大空のもとで寝たので、疲れはてた。そうして、自分にたかっていた想念を非難してこれを罵った、いわく。「おまえが砂漠の業を実修することができないのであれば、耐え忍んでおまえの修屋に坐し、おまえの諸々の罪を慟哭して、迷うことなかれ。なぜなら、いずこであれの眼はわれわれの為業をごらんになり、彼のお気づきにならないことは何もなく、善を行う者たちと同労なさるからである」。〔???〕

(14.)
 偉大なる師父マカリオスが、師父アントーニオスを山に訪ねた。そして彼が戸を叩くと、彼のところに出て来て、彼に云った。「おまえは誰か?」。相手が謂った。「マカリオスです」。すると、戸を閉めて中に入り、彼を放っておいた。しかし彼の忍耐を見たので、彼に戸を開け、彼に冗談めかして、言った。「そなたに関する噂を聞いて、長い間そなたに会いたいと思っていたのだ」。そして彼を客遇して、休ませた。彼がとても疲れていたからである。で、夕方になると、師父アントーニオスが自分のナツメヤシの枝を濡らした。そこでこれに師父マカリオスが言う。「わたしも自身のために濡らすよう命じてください」。相手が云った。「濡らすがよい」。そこで大きな束をつくり、濡らした。そうして彼らは夕方から坐り、魂の救いについて話しながら、縄を編んだ。そして縄は窓を通って洞窟の中へ下がっていった。明け方に浄福なるアントーニオスが入ると、師父マカリオスの縄の長さを見て、言った。「この両手から偉大な力が出来するのだ」。〔マカリオス4〕

(15.)
 あるとき、師父マカリオスは、スケーティスからテレヌゥティスに上っていった。そして眠ろうとして殿に入った。そこには、ヘッラス人たちの古いミイラがあった。そこでその一つを取って、枕として自分の頭にあてがった。そこでダイモーンたちは、剛胆さを見て、嫉妬した。そこで、彼を脅かそうとして、こう言って女の名のように声をかけた。「何某婦人、こちらに、わたしたちといっしょ水浴びに行こう」。すると他のダイモーンが、死人の中からかのように、こう言って彼の下から応じた。「わたしの上に異邦人がいるので、行けないのです」。しかし老師は脅されなかった。それどころか、威勢よくこう言ってミイラを叩いた。「起て、暗闇の中に去れ、できるならな」。これを聞いてダイモーンたちは、こう言って大声で叫んだ。「おまえは俺たちに勝った」。そして、辱められたまま逃げ去ったのだった。〔エジプトのマカリオス13〕

(16.)
 師父マトエースが言った。「初め苦しくて、すぐに打ちのめされてしまうわざよりも、軽くて長続きするわざをわたしは望む」。〔マトエース1〕

(17.)
 別のとき、彼が2人の弟子とともにペルシス〔ペルシア〕の国境に住んでいたとき、肉の兄弟である2人の王子が、習慣に従って狩りに出かけた。彼らは40ミリアもの長さの網を張った。網の中に見つかったすべてのものを狩り立て、矢で殺そうとした。そこへ、老師が自分の2人の弟子とともに来合わせた。毛むくじゃらの、野人のような彼を見て、驚愕して、彼に云った。「人間か、それとも霊か、われわれに云え」。そこで彼らに云った。「罪人である。わしの罪を泣くために出て来た。生けるの子、イエースゥス・クリストスをわしは拝礼する」。彼らが彼に云った。297.30「太陽と火と水(これらが彼らの崇拝するものであった)の以外に、他にはいない。さあ、進み出よ、そしてそれらに供犠せよ」。
 相手が彼らに云った。「それらは被造物であり、そなたたちは踏み迷っているのだ。いや、わしはそなたたちが回心し、それらすべてのものの造り主である真実のを知るように勧める」。彼らが云った。「断罪され十字架に付けられた者が、真実のだと言うのか?」。すると老師が言う。「罪を十字架に付け、死を滅ぼした方、そのお方こそ真実のである、とわたしは言っているのだ」。しかし、彼らは、老師を、兄弟たちもろとも拷問にかけ、供犠するよう強制しようとした。そうしてさんざんに拷問したうえで、2人の兄弟たちを斬首した。しかし老師の方は、なお多くの日数拷問した。ついには、自分たち狩猟法に従って彼を彼らの間に立たせ、一人は表に、一人は背に、矢弾を射掛けた。しかし彼は彼らに云った。「そなたたちは心を一にして、罪のない血を流したので、やがて、明日の同じ時刻に、そなたたちの母はそなたたちを殺され、そなたたちの愛を失うだろう、そして、そなたたちは自らの矢で、互いの血を流し合うのだ」。しかし、彼らは彼の説話(rJh:ma)をあざわらい、その翌日狩りに出かけた。すると、一頭の鹿が彼らの傍らから飛び出した。彼らは馬に乗って鹿を追いかけ、矢を放った。すると、長老が彼らを呪って言った説話(rJh:ma)のとおり、互いに心臓を貫き合い、死んでしまった。〔ミレーシオス2〕

(18.)
 師父ポイメーンが云った —。「修道者の証しは、さまざまな試練において現れる」。〔ポイメーン13〕

(19.)
 兄弟が師父ポイメーンに尋ねた、いわく。「どうしてでしょうか、わたしの心は、わたしが少し労苦しているとさとると、音をあげてしまうのですが」。これに老師が言う。「われわれは、少年イオーセープが17歳であるにもかかわらず、いかにして最後まで試練を耐え忍んだかということ〔創世記37:40〕に驚くのではないか。もまた彼を栄化した。またイオーブも、いかにして最後まで忍耐を保ち続けたか〔ヨブ2:10〕を見るのではないか。こうして、諸々の試練は、に対する希望から彼を妨害する力はないのだ」。〔ポイメーン102〕

(20.)
 彼がさらに云った、— スケーティスの司祭である師父イシドーロスは、あるとき、こう言って民に話した。「兄弟たちよ、われわれがこの場所に来たのは、労苦のためではなかったか。しかし、今はもはや労苦はない。だから、わしはわしの毛皮を具えて、労苦のあるところへ行き、そこに平安を見出すことにしよう」。〔ポイメーン44〕

(21.)
 ガラテアの人、師父、大パウロスが云った、— 修道者は、自分の修屋にわずかの必要品を持っているが、懸念を持って外出すると、ダイモーンたちにからかわれる。というのも、わしもそれを経験したことがある」。〔大パウロス1〕

(22.)
 彼女はさらに云った。「もしもあなたが共住修道院にいるならば、場所を変えてはなりません。それは大きな害となるからです。424.1 例えば、卵から〔離れて〕立ち上がる鳥が、それを風卵で不産にしてしまうように、修道者や処女も、場所を転々とするなら、彼らの信仰は冷えて、屍となるのです」。〔シュンクレティケー6〕

(23.)
 彼女はさらに云った。「悪魔の罠は沢山あります。貧しさによって魂を変動させるのではありませんか? 富を餌として連れて来ます。暴力と侮辱によって力を振るうのではありませんか? 称讃と名誉とを差し出します。健康によって打ち負かされると、身体を病気にさせます。というのは、快楽によって欺くことができなかったら、意に反した労苦によって、逸脱させようと試みるからです。例えば、〔悪魔の〕要請によって、諸々の重病のようなものを、これによって自分たちのへの愛を軽視して濁らせるために持ちこみます。いや、それどころか、非常な高熱によって身体をぼろぼろにし、耐えがたい渇きによって苦しめます。もしも罪人としてこれらを被るならば、来世の懲罰であれ、永遠の業火であれ、審判の責苦であれ思い起こしなさい。そうすれば、今生じていることに対して絶望することはないでしょう。
 があなたをみそなわすことを感謝しなさい。そして次の好評な辞を舌に乗せなさい、『教育者として主はわたしを教育なさったが、わたしを死に渡されることはなかった』〔詩篇117:18〕。あなたは鉄であった。いや、火によって錆を落とされます。たとえ義人であろうとも、あなたが病気になるならば、大なるものからからより大なるものらへとあなたが前進するでしょう。あなたは黄金ですか? しかし火によってこそ、さらに吟味された者となるでしょう。み使いがあなたの肉に与えられたのですか〔2コリント12:7〕。〔それなら〕わたしは歓喜します。ごらんなさい、あなたが等しくなった方を〔2コリント3:18〕。なぜなら、あなたはパウロの分け前にふさわしい者とされたからです。あなたは火によって吟味されるのですか? 寒さによって教育されるのですか? むしろ聖書は謂います。『われわれは火の中や水の中を通ったが、あなたはわれわれを憩いの場所に導かれた』〔詩篇65:12〕。第一のものを手に入れましたか? 第二のものを期待しなさい。徳を行いながら、聖者の言辞を叫びなさい。というのは、謂っています。『わたしは物乞いであり、苦しんでいます〔詩篇68:30〕。苦患のこの二重によって、あなたは完全なるものとなるでしょう。こう謂っているからです。『苦患によってわたしを迷わされました』〔詩篇4:2〕。これらの苦患によって、わたしたちは魂をもっと修練しましょう。わたしたちは目の前に敵手を見るからです」。〔シュンクレティケー7〕

(24.)
 彼女はさらに云った。「病気がわたしたちにたかるとき、わたしたちは苦しまないようにしましょう、病気と身体の打撃のせいで、声に出して詩編朗誦できなくても。というのは、これらすべては、わたしたちにとって諸々の欲望を浄める効果があるからです。というのも、断食や地面に寝ることは、快楽のせいでわたしたちに律法として与えられているからです。ですから、病がそれらを鈍くするならば、〔その律法の〕言葉は余計事になります。というのは、偉大な修行とは、病にあって持ちこたえ、に感謝の賛歌を捧げることだからです」。〔シュンクレティケー8〕

(25.)
 彼女はさらに云った。「断食をしながら、病気のことを口に出しはいけません。というのも、断食しない人たちも、しばしば同じ病気に罹るからです。あなたは何か美しいことを始めたのですか? あなたを根こそぎにする敵から退いてはいけません。相手はあなたの忍耐によって、力を失うからです。例えば航海に乗り出す人々も、初めは順風に遭遇します。彼らは帆を広げますが、ついで逆風に遭っても、水夫たちが逆風のために船を見捨てることはありません。彼らはしばらくの問静かにし、あるいは大波と戦って、さらに航海を続けます。われわれも同様で、逆風に直面したら、帆の代わりに十字架を掲げて、無事に航海を終えましょう」。〔シュンクレティケー9〕

(26.)
 教母サッラーについて言い伝えられている — 彼女は60年問、川のほとりに住持したが、川を見るため身を屈めたことはなかった。〔サッラー3〕

(27.)
 師父ヒュペレキオスが云った。「霊的な夢をして、そなたの口にあらしめ、修練をして、そなたに襲い来る諸々の試練の重さを軽くせしめよ。この明確な手本こそ、旅の苦労を歌によって盗む、重荷を負った旅人である」。

(28.)
 さらに云った。「われわれは諸々の試練の前に自分たち自身を完全武装しなければならない。そうすることによってこそ、それらが来襲した時、われわれは資格或る者として立ち現れるのである」。

(29.)
 老師が云った。「試練が人に起こったら、彼にはあらゆる方向から迫害が増える、意気阻喪させ、囁くためである」。そうして老師は次のように話した。「ある兄弟がスケーティスにいたが、試練が彼に起こった。そうして、ある人が彼を見たら、彼に挨拶しようともせず、修屋に招き入れることもせず、パンを必要としても、誰ひとり彼に貸す者なく、また刈り入れから帰っても、誰ひとり愛餐のため、いつもどおりに教会へと励ます者もなかった。さて、ある日、刈り入れから帰ったが、自分の修屋にパンを持っていなかった。そうして彼は、そのすべてにに感謝した。するとは彼の忍耐を見て、試練の戦いを彼から除かれた、すると、見よ、パンを満載した駱駝をアイギュプトスから連れた或る者が彼の戸を叩いた。すると兄弟は号泣し言いはじめた。「主よ、わたしはわずかな迫害を受けるにあたいしないのですか?」。かくて試練が過ぎると、兄弟たちは彼を自分たちの修屋と教会に呼び、休ませたのであった。〔Anony192〕

(30.)
 老師が云った。「われわれが進歩しない所以は、おのれの境位を理解せず、われわれがはじめた業において忍耐もせず、苦労なく徳を獲得しようとするからである」。〔???〕

(31.-32.)
 〔欠番〕
〔 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしはどうしたらいいのでしょうか、わたしの想念は片時もわたしの修屋に坐することを許さないのですが」。これに老師が云う。「わが子よ、下がれ、そなたの修屋に坐せ、そなたの手で働け、絶えずに祈れ、そなたの思念を主に傾注せよ。そうすれば、そこからそなたを逸れさせるものは何もあるまい」。続けて彼は云った。若い俗人がいた、彼には父があり、修道者になりたくて、修道者にならせてくれるよう、その父に何度も頼んだが、認めてはもらえなかった。しかし信心深い友たちの頼みで、やっとのことで同意してくれた。かくてその若い兄弟は出かけて行って、ある修道院に入った。彼は修道者となり、修道院のあらゆる業を完全に遂行し、日々断食を始め、さらにまる二日間継続し、同様にまた、一週間に一度に強化し始めた。彼の師父は彼を見て、彼が禁欲と労苦のために神を讃えるのを訝った。また、しばらくすると、件の兄弟は師父に頼み始めて云った。「師父よ、あなたにお願いします、どうか、砂漠に行くことをお認めください」。これに師父が云った。「わが子よ、そんなことを考えるべきではない、そなたはその労苦に耐えられないし、そのうえ、悪魔の誘惑やその術策にも耐えられない。万一そなたに誘惑が起こったさいに、そなたを鼓舞してくれる者が誰もおらぬ」。しかし件の兄弟は、出て行くことをますます願い始めた。しかし師父は、彼を引き留められぬとみて、祈りを上げたうえで彼を去らせた。それに際して、師父に云った。「お願いです、師父よ、わたしに道を示してくれる人を誰か付けてください、わたしはその人に従います」。そこで彼は、修道院の二人の兄弟を彼に付けてやった、こうして彼らは彼を伴って出て行った。その後彼らは、1日2日、砂漠を渡っていったが、その暑さにうんざりし、大地に身を投げだして、寝そべり、少しの間眠った。見よ、鷲がやって来て、彼らを翼で打ち、少し離れて大地に止まった。彼らは目覚めて、鷲を見て、〔二人の兄弟が〕彼に云った。「見ろ、おまえの天使だ、立ち上がって、あれについて行け」。彼は立ち上がり、兄弟たちに別れを告げて、それについて行った。彼は、鷲が止まったところまで行った。しかしそれはすぐに立ち上がり、1スタディオン以上飛んで、再び止まり、件の兄弟も同様について行った。すると再び飛んで、程遠からぬところに着地し、三時間の間そんなことを繰り返した。しかしその後は、彼がそれについていっている間、当の鷲は、自分についてくる相手の右側を歩いて進んだ。件の兄弟はそれでもついて行った。そして目をあげて、ナツメヤシと水源と小さな洞窟を目にした。そこで彼は云った。「これはがわたしに備えてくださった場所だ」。彼は入っていって、その中に坐し始め、食物にナツメを摂り、泉の水を飲んで、六年間、そこを隠修所として用い、誰にも会うことはなかった。
 すると、見よ、或る日のこと、悪魔が恐ろしい顔をした年老いた師父の姿をして、彼のもとにやって来た。それで、件の兄弟はこれを目にして恐れをなし、身を投げだして祈って立ち上がった。すると悪魔が彼に云う。「もう一度祈ろう、兄弟よ」。そうして彼らが立ち上がると、悪魔が云った。「おまえはここにどれくらい住持しているのか?」。そこで相手が答えた。「わたしは六年間住持してきました」。これにダイモーンが云った。「見よ、わしはおまえの隣人だが、おまえがここに住持していることを知らなんだ。〔知ったのは〕四日前に初めてだ。わしはここから遠くない修道院に住持しておる。そして、見よ、わしが修道院から外出したのは11年ぶりで、今日初めて、おまえがわしの近所に住持しておることを知った。わしは心中に考え、云った。『その神の人のところへ行こう、われわれの魂の益になり得ることを、その人と楽しもう』。わしが言うのは、兄弟よ、自分の修屋に坐していては、われわれは進歩しないということじゃ、なぜなら、われわれはクリストスの身体と血を拝領することがなく、それ以外に、その秘儀から遠ざかっていては、それを成就することはないのではと恐れるからじゃ。しかし、わしはおまえに言う、兄弟よ、見よ、ここから3哩のところに修道院があり、そこに司教がいる。今日か2週間後にか、そこに行き、クリストスの身体と血を拝領して、われわれの修屋にもどってこよう」。この悪魔的な説得が件の兄弟には気に入り、安息日が来ると、見よ、悪魔がやって来て彼に云った。「さあ、行くことにしよう、その時だ」。そこで彼らは出かけて行き、前述の修道院(あの司教がいるという)にたどりついた。彼らは教会に入って行き、祈りにふけった。そして件の兄弟が祈りから立ち上がり、見まわしたが、彼をここに連れて来た当人が見当たらない。そこで彼は云った。「いったい彼はどこに行ってしまったのだ? もしや共通の用事に行ったのだろうか?」。そこでとにかく長い間待っていたが、彼はやって来なかった。そこで彼は外に出て、彼を探した。しかし見つけられなかったので、かの地の兄弟たちに尋ねて、彼らに云った。「わたしといっしょにこの教会に入って行った師父はどこですか?」。すると彼らが彼に云う。「あなた以外には、何びとも見ていません」。そこで件の兄弟は、ダイモーンだったと気づいて云った。「これは驚いた! わたしの修屋からわたしを放り出すために、悪魔は何という術策を使うことか、しかし、それでもなおわたしに手を出せなかったのは、わたしが善き業に来たからだ。わたしはクリストスの身体と血を拝領して、わたしの修屋にもどるとしよう」。そこで教会で聖餐式が行われ、件の兄弟が自分の修屋にもどろうとすると、その修道院の師父が彼を引き留めて云った。「そなたがわれわれと〔共食して〕元気にならなければ、帰しません」。そこで彼はご馳走になると、自分の修屋にもどったのであった。
 すると、見よ、悪魔が、今度は若い俗人の姿をしてやって来て、兄弟を頭の先から足の先まで眺めまわして、云った。「これは彼当人か? 当人ではないのか?」。そうしてやつは彼を観察し始めた。そこでこれに兄弟が云った。「どうしてあなたはわたしをそんなに見つめるのですか?」。しかしやつが云った。「おれには信じられんのだ、おまえがおれを知っているってことが。どうしておまえは、こんなに長い時が経っても、おれがわかるのだ? おれはおまえの父親の隣人で、その息子だ。如何? おまえの父親は云々と名づけられたのではないか? またおまえの母親はこれこれで、おまえの妹は云々と呼ばれ、人々はおまえを云々と呼んだのではないか? しかし、おまえの母親と妹は3年前に亡くなった。そしておまえの父親も間もなく死亡し、彼はおまえに相続して云った。『わしはわしの所有物を誰に譲ることがあろうか、世俗を出離してのもとに行って聖人となった我が息子でなければ? 主にすがって、どこにいるか知っている者がいるかぎり、彼に云ってほしい、「帰れ、すべての所有物を譲渡して、わしとあいつの魂のために、これを貧しい者たちにばらまけ」と』。おまえを探すために多くの者たちが放浪したが、何も見つからなかった。しかし、たまたまおれがある用事でここにやって来て、おまえを見つけたのだ。だから、つべこべいわず、帰って、すべてを売り払い、おまえの父親の意思を実行せよ」。件の兄弟が答えて云った。「わたしは世俗に還る必要はありません」。そこで悪魔が云った。「おまえが帰らず、件の所有物が失われてしまったら、おまえはに釈明することになろう。おれがおまえに何か悪いことでも云ったか、おまえが帰って、貧しい者たちや必要としている者たちに、善き分配者のように、ばらまくということが、娼婦や悪しき生活者に引き寄せられるのではなく、貧しい者たちに遺贈されたものを、といったのが。それとも、ちょっとした面倒事のせいで、おまえの魂のために、おまえの父親の意思にしたがって、帰って施しをし、それからおまえの修屋に帰るということが何であろう?」。簡単に云えば、彼はその兄弟を口説いて、これを俗世に置いた。つまり、彼を連れて町に行き、これを置き去りにした。しかし件の兄弟は父親の家に、あたかもすでに亡くなったかのように、入ろうとしたが、見よ、その当の父親が現れたのである。彼〔父親〕は彼を見たが、わからず、これに云った。「おまえは誰だ?」。しかし後者は困惑し、何も答えられなかった。すると彼の父親が改めて彼に、どこから来たのか、と尋ね始めた。彼は狼狽して、それから彼に云った。「わたしはあなたの息子です」。すると彼がこれに云った。「何のために戻ってきたのか?」。彼は、何が起こったかを相手に云うことを恥じて、云った。「あなたに対する愛が、わたしを帰還させたのです、あなたに会いたかったものですから」。かくて彼はそこにとどまった。そして、しばらくして姦淫に陥り、しかも父親にしきりに懇願されて、この不孝を償うこともせず、俗世に留まった。
 それゆえ、わしは云ったのじゃ、兄弟よ、修道者は、どこにいようと、その修屋から出てはならぬ、他者に説き伏せられようと、と。〕

(33.)
 老師が云った — 昔の人たちは、次の3つの場合以外には、自分たちの場所をさっさと移り変わることはしなかった。自分に対して誰かが何らかの苦痛を持っているとわかり、自分の慰めのために万事を為し、彼が変わることができない場合か、あるいはまた、自分が多衆によって栄化されることになった場合か、あるいは、邪淫の試練に取り囲まれた場合である、と。〔Anony194〕

(34.)
 兄弟がある老師に云った、いわく。「どうすればいいのでしょうか、諸々の想念がわたしを押し潰そうとするのです、いわく。『おまえは断食できず、働くこともできず、病人たちを見舞うだけで、それだけで施しなんだから』と」。すると老師がダイモーンたちの種子を見て彼に言う。「喰え、飲め、眠れ。ただし、修屋を離れることだけはするな、修屋の忍耐が修道者を自分の持ち場に運ぶのだと知って」。そうして、3日間実行して、懈怠に陥ったが、わずかな〔ナツメヤシの〕枝葉を見つけ、これを切りそろえた、そして翌日、再びこれを編み始めた。そして飢えて云った。「見よ、他にもう少し枝葉がある、これを編もう、そうして食べとしよう」。そうして枝葉をこしらえるや、再び云った。少し読もう、そうしてから食べよう」。そうして読むと言う。「詩篇を少し朗誦しよう、そうして煩いなく食べることにしよう」。じつにこういうふうにして少しずつ前進した、自分の持ち場に至るまで、が共働してくださったからである。そうして勇んで、諸々の想念に対してこれに勝利したのである。〔Anony195〕

(35.)
 老師が尋ねられた。「何ゆえ懈怠に陥るのでしょう、わたしの修屋に坐っている時に」。すると彼が答えた。「希望される平安も、あるはずの懲らしめも、そなたがまだ見たことがないからじゃ。なぜなら、もしそれをはっきり目にし、そなたの修屋が蛆虫でいっぱいになり、首までそれに浸かっているなら、懈怠に陥らないですむだろう」。〔Anomy196〕

(36.)
 老師たちのひとりに、あまりに大きな労苦をやめるよう兄弟たちが頼んだ。すると彼は彼らに謂った。「そなたたちに言う、わが子たちよ、— アブラアームはの大いなる賜物を目にしたとき悔やまねばならなんだ、もっと多くの闘いをしなかったゆえに」。〔Anomy197〕

(37.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしの諸々の想念が徘徊し、わたしは押し潰されそうなんですが」。これに老師が言う。「そなたの修屋に座れ、そうすればそれらはもとどおりになろう。例えば牝驢馬が繋がれ、その仔があちこち跳ねまわってどこに行こうと、自分の母親のもとにもどってくるように、のおかげで自分の修屋の中に確固として或る者の諸々の想念もまた、しばらくは徘徊しても、再び自分のもとに立ち帰ってくるものじゃ」。〔Anomy198〕

(38.)
 ある老師が、水場から12ミリオン〔ローマ・マイル、1ミリオンは約1480m〕の隔たりがある砂漠に坐していた。一度汲みに出かけて、意気消沈して云った。「この労苦の必要性は何か? 引き返して、水場の近くに住もう」。そしてこう云って引き返しかけたが、或る者が自分についてきて、自分の歩数を数えているのを観た。そこで彼に尋ねた、いわく。「あなたは誰ですか?」。相手が云った。「わたしは主の使い、そなたの歩数を数え、そなたに報酬を与えるよう遣わされた者です」。これを聞いて老師は元気づけられ、もっと熱心になり、さらに5ミリオンを余分に付け足したのであった。〔Anomy199〕

(39.)
 師父たちが言うを常としていた。「そなたが住んでいるその場で試練がそなたに起こったなら、そなたに見舞った試練の場を後にしてはならぬ、さもなければ、どこであれそなたが立ち去ったそこに、そなたが避けたものをそなたの前に見出すであろう」。しかるに、試練が過ぎ去るまで留まるなら、そなたの隠修は躓きなきものとなり、その結果、そなたの出離がその場に住持する者たちに何らかの悩ましさを惹起することもない」。〔Anomy200〕

(40.)
 共住修道院に、ある寂静主義者の兄弟がいたが、たえず怒りに衝きうごかされていた。そこで心中に言う。「立ち去ろう、独りで隠修しよう、そうしてわしが誰かと何にも関係を持たず、静寂を保てば、わしの情動は止むだろう。そこで出て行って、洞窟に独り住んだ。さて、ある日のこと、壺に水を満たし、地面に置いたら、突然ひっくり返った。そこで取って、もう一度これを満たしたが、再びひっくり返った。次いで三度目にこれを満たしたが、ひっくり返った。そこで立腹して、それを引っつかんで、これを砕いた。しかし我に返って、ダイモーンに弄ばれていることを悟って、云った。「見よ、独りで隠修しても、わしは負かされた。それなら、共住修道院に戻ろう。どこにいようと、戦いと忍耐との助けが必要なのだから」。そうして立ち上がって、自分の共住修道院に戻っていった。〔Anomy201〕

(41.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうしたらいいのでしょうか、師父よ、修道者らしいことが何もできず、食べるにしても飲むにしても眠るにしてもひどく不注意で、恥ずべき想念や多くの迷いの状態にあるのです、為業から為業へ、想念から想念へと移ろって」。すると老師が云った。「そなたはそなたの修屋に坐しおれ、そなたのできることを迷いなく為せ。そなたが今為す小さなことが、かつて師父アントーニオスが砂漠で為した偉大な為業のごとくであることを望み、また、の名によって自身の修屋に坐し、おのれの意識を見張る者は、本人も師父アントーニオスの仕方を見出すであろうとわしは信じる」。〔Anony202〕

(42.)
 誰かが還俗するのを見ても、真面目な修道者が躓かないためにはどうすべきか、と老師が尋ねられた。すると云った。「犬たちが兎たちを追跡するのを観察すべきである。すなわち、あたかも、彼らの中の一匹が、兎を見つけて追いかけると、残りのものたちは、追いかけている犬だけを見て、ある程度は走るが、やがてもとに戻ってくるが、兎を見つけたあの犬だけは、追いつくまで追いかけ、引き返した連中に走路の目的を邪魔されることがなく、崖や森や棘を気にすることもないばかりか、茨に満たされ、しばしば傷だらけになっても、休むことがない。主人であるクリストスを求める者も同様で、十字架にかけられた方に達するまでは、自分に遭遇するあやゆる躓きを踏み越え、たえず十字架に傾注しているのである」。〔Anony203〕

(43.)
 老師が云った。「樹木がたえず植え替えられていると、実りをもたらすことができないように、修道者も場から場へ渡り歩いていると、実りをもたらすことがない」。〔Anony204〕

(44.)
 老師たちが言うを常としていた — 修道者は死に至るまで、懈怠と軽視のダイモーンと、とりわけ時課祈祷の機に戦うべきである。そうして、これをとともに矯正したら、〔修道者をして〕満足と無痛の想念に心を傾注せしめ、言わしめよ。「主が家を建てられるのでなければ、建てる者たちは無駄に勤労するのだ」〔詩篇126:1〕、「なぜなら、土と灰がなければ、人間は無であるから」〔〕と、そうして、想起せしめよ。主は「高ぶる者たちは退け、謙虚な者たちには恵みを与えたもう」〔箴言3:34、ヤコブ4:6〕と。〔Anony374〕

(45.)
 兄弟が、自分は修道院から出て行こうという諸々の想念にたかられて、自分の師父に報告した。すると相手が彼に言う。「行け、そなたの修屋に坐せ、そうしてそなたの身体を担保として、そなたの修屋の壁に委ねよ、そうしてそこから出て行くな。想念をして望むがまま思量するに任せるがよい、ただ、そなたの身体をそなたの修屋から出すな」。〔Anony205〕

(46.)
 老師が云った。「修道者の修屋はバビュローニアの炉で、そこでは3人の子どもたちがの息子を見つけ、がモーウセースに話しかけた雲の柱もある」。〔Anony206〕

(47.)
 老師たちの或る者が、物乞いラザロス〔ルカ16:20〕について言った — 彼が見出されるのは、1つの徳を実修したからではなく、ただ次の一点をわれわれが彼に見出すからである、つまり、自分に憐れみをかけてくださらないと、主に対してけっして不平をかこつことなく、感謝の念をもって自分の労苦を担った。このゆえにが彼を迎え入れられた、ということである、と。 〔Anony376〕

(48.)
 ある兄弟が9年間、共住修道院から出て行こうと挑戦され、毎日、出て行くために自分の羊の毛皮を準備しつづけた。しかし晩になると、自分に云った —。「明日、ここから隠遁しよう」。そうして再び夜明けになると想念に言った。「今日も主のために堅忍するようおのれを強制しよう」。じつに9年間そのように成就したので、は彼の試練を軽減されたのであった。〔Anony207〕

(49.)
 ある兄弟が邪淫に陥り、迫害ゆえに修道者の規則を放棄したが、再開しようとしたものの、迫害に妨害された、心内にいわく。「かつてあったようにおのれを見つけ出すことはいつできるのであろうか?」。そうして失望のあまり、修道者の業をはじめることができなかった。そこである老師のもとに赴き、これに自身のことを説明した。老師は彼の迫害の件を聞いて、彼に次のような手本を授けた、いわく。「ある人が地所を持っていたが、それを等閑にしたため荒れ地となり、藺草と茨に満たされた。その後、この地所を美化するのがよいと彼に思われ、自分の息子に言う。「行って、地所を綺麗にせよ」。そこで彼の息子はそれを綺麗にするため出かけて行ったが、多くの藺草と茨を見てがっかりした、心内にいわく。「これをすべて引き抜き、ここのすべてを綺麗にするなんて、いつできることやら」。そうして横になって眠りはじめた。そうして何日もそうしていた。その後、彼の父が、彼がどうしているか見るためにやって来た。そうして彼が何も働いていないのを見て、彼に云った。「今まで何もしていないのはなぜか?」。そこで若者が自分の父親に云った。「働き始めたばかりです、父上、藺草と茨の多さを見たうえで、迫害に押しひしがれましたが、心をけっして、眠ったのです」。このとき彼の父親が彼に言う。「わが子よ、そなたの寝台の上と同じく、日々のことを為すがよい、そういうふうにすれば仕事は進み、失望することはなかろう」。相手は聞いてそのとおりにし、わずかな期間にその地所は奇麗になった。されば、そなたも同様じゃ、兄弟よ、少しずつ働け、そうすれば失望することはあるまい、そうしても、その恩寵によって、そなたのもとの状態へともう一度そなたをもどしてくださろう」。兄弟は立ち去り、忍耐をもって決心し、老師に教えられた通り実習した。じつにそのようにして安息を見出し、クリストスによって前進したのであった。〔Anony208〕

(50.)
 ある老師がいた、しかしたえず具合が悪くて病気だった。ところが、1年間、彼が具合が悪くなることがないことがあったが、ひどく不機嫌になり悲哭した、いわく。「はわしをお見捨てになった、わしを視察してくださらぬ」。〔Anony209〕

(51.)
 老師が云った。— ある兄弟が9年間想念に試みられた結果、彼は自分の救いをあきらめ、敬虔さからおのれを断罪した、いわく。「わたしの魂を失いました、失ったからには、世俗にもどろう」。しかし彼が立ち去っている途中、道中で彼に声が聞こえてきた、いわく。「そなたが試みられたこの9年間、花冠はそなたのものであった、そなたの場所に引き返せ、そうすればそなたを諸々の想念から軽くしてやろう」。諸々の想念ゆえにひとがおのれに失望するのは美しくない、むしろ、これら〔諸々の想念〕こそが、これらを美しく扱えば、われわれに花冠でもてなしてくれるのだと知れ、と。〔Anony210〕

(52.)
 ある老師がテーバイの洞窟に坐していたが、ある経験を積んだおのれの弟子を持っていた。毎夕、益のためその弟子に勧告し、勧告のあと祈り上げ、彼が眠るために解散するのが老師の習慣であった。ところが、あるとき、敬虔な在俗信徒たち数人が、老師の多大な修行を見て、来訪し、彼らに勧告を与えるということがあった。そうして彼らが立ち去ったあと、夕方、老師は再び坐した、勤行の後、習慣どおり兄弟に訓戒するためである。そうしてこれと交わっているうち、居眠りに陥ってしまった。兄弟の方は、老師が眠りから醒め、いつもどおりの祈りを自分にするまでとどまっていた。かくて長い間坐していたが、老師は眠りから醒めなかったので、解散の辞の前に去って眠るという諸想念にたかられた。しかしおのれを強制して想念に抗し、とどまっていた。しかしまたもやたかられたが、去らなかった。同様に7度たかられたが、その想念に抗した。その後、夜が更け、老師が眠りから醒め彼が傍に居るのを発見してこれに言う。「今まで去らなかったのか?」。相手が云った。「はい、わたしを解かれなかったものですから、師父よ」。老師が云った。「どうしてわしを起こさなかったのか?」。相手が謂った。「あなたを敢えて起こしませんでした、あなたの邪魔をしないために」。
 そこで彼らは立ち上がって、朝課を実修し、祈祷会のあと老師は兄弟を解放した。そうしてひとりで坐すや、法悦にひたり、見よ、或る者が彼に栄光の場所と、そこにある王座と、王座の上に7つの花冠を示していた。示す者に尋ねた、いわく。「これは誰のものですか?」。相手が彼に云った。「そなたの弟子のものです。場所と王座は、彼がこの世から去るときのためにが彼に授けられた。7つの花冠は今夜彼が手に入れたものだ」。これを聞いて老師は驚き、恐れをいだき、兄弟を呼んで彼に言う。「どうかわしに云ってくれ、今夜そなたは何をしたのか?」。相手が云った。「どうかわたしをお許しください、師父よ、何もしておりませんが」。老師が、謙遜して告白しないのだと思って、彼に云った。「今夜何をしたか、あるいは、何を思いめぐらしたかわしに云わないなら、そなたを勘弁せぬ」。しかし兄弟は、何ら自覚的にしたことがないので、何を云ったらいいか行き詰まった。そこで老師に言う。「どうかわたしをお許しください、師父よ、何もしておりませんが、ただ、あなたの解散の辞なしに引き上げようという諸想念に7度たかられましたが、去らなかったという以外は」。老師はこれを聞いて、その想念に交戦した回数だけに花冠を授けられたと気づいたが、兄弟にはそのことは何も陳べず、益のためにこれを師父たちに話したのであった、小さな思いめぐらしであれ、はわれわれに花冠をお恵みになるということをわれわれが知るためにである。されば、ゆえにおのれを強制することは美しいのである。『諸天の王国は暴行されるが、暴行者たちはそれ奪い去られる』〔マタイ11:12〕。〔Anony211〕

(53.)
 あるとき、ケッリアで単独で坐していたある老師が病気になった。しかし自分に仕える者を持たなかったので、修屋で起き上がり、何でも見つけたものを摂った。そういう次第で、何日も彼は過ごしたが、誰も彼の見舞いにやって来なかった。30日が過ぎても誰も彼のところにやって来なかったので、彼に給仕するようが御使いを派遣した。そうして7日が過ぎたとき、師父たちが老師を思い出し、互いに云いあった。「出かけよう、老師何某がまだ病気か見よう」。そういう次第でやって来て、戸を叩くと、御使いは引き上げた。そして老師が中から叫んだ。「ここから去れ、兄弟たちよ」。しかし戸を押し開けて中に入り、彼に尋ねた。「どうして叫ぶのか?」。相手が彼らに云った —。「30日間疲弊したが、誰ひとりわたしを見舞いに来なかったが、見よ、がわしの給仕に御使いをお遣わしになって7日になる。だがそなたたちがやって来たので、わしから離れた」。こう云って老師は永眠した。兄弟たちは驚き、を栄化して、いわく —。「主は自分に希望をいだく者たちをお見捨てにならない」。〔Anony212〕

(54.)
 老師が云った。「身体的病がそなたに及んでも、意気消沈するな。そなたが身体的に具合悪くなることをそなたの主人が望んでおられるのに、不機嫌になるそなたは何者か? あらゆる事柄においてそなたをご自身が気にかけておられるのではないか。まさかあの方なしにそなたが生きられることはあるまい? されば、辛抱し願え、がそなたに益となることをくださるよう、それこそがあの方のご意志である。そうして寛大さを持って愛餐を食しつつ坐せ」。〔Anony213〕

(55.)
 修道者が、あらゆることでサターンに対して競い合い、やつのせいで両眼をくり抜かれた。しかし彼は仰ぎ見ることを祈らず、忍耐を持ち、その忍耐ゆえには彼に視覚を恵み、彼は仰ぎ見たのである。〔Anony382〕

(56.)
 師父たちの或る者が語り伝えている、いわく —。「わしがオクシュリンコスにいたとき、土曜の晩、愛餐に与ろうと物乞いたちがそこにやって来た。そうして彼らが眠っているとき、敷物を1枚だけを、半分は自分の上に、半分は自分の下に、持った者がそこにいた。このときはすこぶる寒かった。さて、手水に出て行こうとしたとき、彼が寒さから歯の根が合わぬを聞いたが、彼はおのれを励ましていた、いわく。「あなたに感謝します、主よ、どれほどの富者たちがいま牢獄で鎖につながれ、他の者たちは足を枷に繋がれ、おのれの手水さえ使うことができないことでしょう。しかるにわたしは王者のよう、わたしの足をのばし、好きなところに行けるのです」。わしは彼がこれを言うのを聞きながら立ちつくしていた。そして出て行くと、これを兄弟たちに話し、聞いて益されたのである。〔Anony214〕

(57.)
 兄弟が老師たちの或る者に尋ねた、いわく。「ある場所にいて、迫害がわたしに襲いかかり、ある人に報告するだけの信頼をその人に持っていない場合、どうしたいいのでしょうか?」。老師が言う。「わしはを信じておる、ご自身がその恩寵をお送りになり、そなたがあの方を真に求めれば、そなたを信じてくださる、と。というのは、わしは聞いたことがある — スケーティスで次のような事件が起こった、と。つまり、ある隠修者がいて、或る者のところに行くだけの信頼を持っていなかったが、隠棲するため自分の毛皮の外套を用意していたところ、見よ、その夜、の恩寵が処女として彼に現れ、彼を励ました、いわく。『けっして出かけてはならぬ、もう少しわたしと坐せ、そなたが聞いたような悪は何も生じないのだから』。そこで説得されて坐し、彼の心はすぐに癒やされたのじゃ」。〔Anony215〕

(58.)
 老師が云った。「格闘場において対戦者が殴るように、競い合う者(修道者のことであるが)は諸々の想念を抑えねばならない、おのれの両手を天に差しのべ、に救いを呼ばわるためである。競い合う者は裸で格闘の競技場に立つ、裸とは非物質的ということでもある、おのれにオリーヴを塗油し、いかに格闘すべきかを精通者から教えられる。次いで、他の競合者が反対側から進み、砂(つまり土)をふりかける、そうやって彼を簡単に押さえるためである。これをおのれに観想せよ、修道者よ。われわれに勝利をもたらすこそ精通者である。格闘家とはわれわれ、相手とは対抗者。砂とは世俗のものである。そなたは敵の技倆を見る。そこで非質料として立て、そうすれば勝利するであろう。なぜなら、理性が物質的なものによって重くされるときには、非物質的で聖なるロゴスを受け容れないからである」。〔N 406〕

(59.)
 老師が云った。「加熱されたり柔らかくされたりしなければ、蜜蝋が自分に捺される印象を受け容れることができないように、人間も、諸々の労苦や弱さで吟味されなければ、クリストスの力に場所を空けることはできない。それゆえ主は、々しいパウロスに言うのである。『わが恵みは汝に足りている、わが力は弱さにおいて完成するからだ』〔2コリントス12:9〕。また使徒本人も誇っている、いわく。『されば、クリストスの力がわたしに宿るように、わたしの弱さを喜んで誇ろう』〔同〕」。

(60.)
 師父たちが語り伝えている — 共住修道院にある師父がいたが、この人の奉仕者(diakonhthvV)は失望して、修道院から出て、他の場所に行くことになった。しかし老師は、翻意するよう懇願するため、彼のもとにほとんど脱走せんばかりであった。しかし相手は拒んだ。しかし、老師は3年間これを為し、ついに奉仕者は口説かれて、もとにもどった。すると老師は彼に、出かけて、ストイベー〔Dsc.IV-12、バラ科の植物。トゲワレモウコウとも。枝には鋭い棘があり、キリストの「茨の冠」のイバラであるとも言われる〕を集めるよういいつけた。奉仕者がまさにそのことをしているとき、サターンの活動により彼は片眼を失った。老師はといえばひどく悲しんで、彼が痛がるのを諭しはじめた、すると奉仕者が言う。「原因はわたしにあります、あなたのためにささげた労苦のせいでこれを受けたのですから」。しばらくして苦痛から解放され、情動が続いていたとき、またもや老師が彼に、出かけてナツメヤシの葉を刈り入れるよういいつけた。そこで働いていると、敵の活動のせいで今度は棒が跳んで、もう一方の眼も失った。そこで修道院に帰って、平静にした、もう何もせずに。師父はといえば再び困って、自分の召命が来ると予知し、兄弟たち全員を呼びに遣り、彼らに言う。「わしの召命は近い、おのれ自身を凝視せよ」。各人が言いはじめる。「師父はわれわれを誰に任せるのですか?」。すると老師は沈黙したが、盲人ひとりを呼び寄せ、これに召命について言う。相手は落涙した、いわく。「この盲人のわたしを誰に任せられるのですか?」。すると老師が言う。「祈れ、の御前で気易さ(parrhsiva)を得るために、そうして主日にそなたが礼拝会を為すと希望する」。そうして彼は永眠したが、わずかな日の後、見えるようになり、共住修道院の師父となった。〔Anony22〕

(61.)
 ある聖人について言い伝えられている — 迫害の際に信仰告白し、青銅の椅子に坐して火をつけられるほどの拷問を受けた。しかし、その最中に浄福なコーンスタンティノスが皇帝となり、キリスト教徒は解放された。そうしてこの聖人も介抱され、自分の修屋に帰り、遠くからこれを見るや、云った。「悲しいかな、数多くの災悪にまた見舞われるとは」。しかしこう云ったのは、諸々の戦いや、ダイモーンたちとの格闘ゆえであった。〔N 469〕

(62.)
 あるところに、師父たちの一人が、美しく行いすまして坐していた。彼には塔頭(lauvra)を嚮導する兄弟が仕えていた。ところが、心中に言う。「わたしはどうしてここで労苦して坐しているのか? わたしの兄弟のところに行こう、そうすればわたしに必要なものを提供してくれよう」。そこで立ち上がって、自分の兄弟のもとに行った。すると彼の兄弟が見て喜んだ。そして件の人が彼に言う。わたしはここにとどまりたい、自分でとどまれるよう、どうかわたしに修屋をください」。そこで彼に与えた。そしてその刻以来、そこにやって来たことを忘れた。ところが塔頭の者たちは、兄弟が嚮導者の出なのを見て、その兄弟が必要品を提供していると思いなして、彼に何も持って行かず、彼にパンまで与えられるよう彼を修屋に呼ぶこともしなかった。しかし彼は敬虔な人であったから、何かにたかられることはなかった。そのときは心中で思量した、いわく。「多分、ここにとどまることはの御意志ではないのだろう」。そこで修屋の鍵を取って、自分の兄弟に返して、彼に言う。「どうかわたしを許してください、ここに留まることができないのです」。件の人は驚いた、いわく。「いったい、いつここにやって来られたのですか?」。彼に言う。「修屋の鍵をわたしに与えたのはあなたではないですか?」。これに彼の兄弟が言う。「わたしを納得させてください、あなたがここにやって来られたことを記憶していないのですから。いや、主にかけて、いかなる想念でやって来られたのか、どうかわたしに云ってください」。件の人が彼に云う。「このような希望を持ったのは、あなたのもとでわたしに平安をもたらすためでした」。これに彼の兄弟が言う。「だからは義しくもわたしから隠されたのです、あなたが持ったのはあの方のためではなく、わたしのためだったということを」。そうして立ち上がると、自分の最初の場所に帰っていったのである。

2016.10.09.

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