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back.gif砂漠の師父の言葉(主題別)10/21

原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 12

砂漠の師父の言葉
(11/21)






11.

いついかなるときも素面でいなければならないことについて

(1.)
 師父アントーニオスが云った。「数多くの労苦の後に、己れのわざに希望をいだいたために、心の呆然自失に陥って躓いてしまった修道者たちを、わたしは知っている。彼らは、『あなたの父に問え。そうすれば、あなたに告げるであろう、あなたの長老たちに〔問え〕、そうすれば、あなたに述べるであろう』〔申命32:7〕と云った方の誡めを誤解したのである」。〔アントーニオス37〕

(2.)
 さらに云った。「修道者は、できれば、踏み出した1歩や、自分の修屋で飲む1滴についてすらも、それらにおいてもしや蹟いているのではないかと、老師たちに信頼すべきである」と。〔アントーニオス38〕— 兄弟が、砂漠の中に隠遁し、静寂を保てる場所を見つけ、自分の老師に願った、いわく。「どうかわたしにこの場所に住むことを任せてください、そうすれば、わたしが大いに労苦できるよう、とわたしの祈りに希望を托します」。すると彼の師父は彼を許さなかった、いわく。「そなたが大いに労苦できることを知っておる。しかし、そなたは老齢を持っておらぬゆえ、に嘉されるなら、そなたの業すべてに勇み、修道者の技を完全に実修せんとしてそなたが勇むあまりに、そなたの労苦と心を滅ぼすのじゃ」。

(3.)
 師父アントーニオスが云った。「鉄の塊を打つ者は、まず鎌、戦刀、斧など、自分がこれから何を作るのか、先ず思量を考察する。同様にわれわれも、無駄な骨折りをしないよう、自分がいかなる徳を追求するのかを思量すべきである」。〔アントーニオス35〕

(4.)
 兄弟が、師父アルセニオスに、彼からお言葉をいただきたいと頼んだ。そこでこれに老師が云った。「あなたに備わるかぎりの力で格闘しなさい、あなたの内面の働きがの御旨にかなうよう、そうして、外面の情念に勝利するよう」。〔アルセニオス9〕

(5.)
 さらに云った。「もしわれわれがを探し求めるならば、われわれに姿を現したもう。また、もし彼〔〕に固執するなら、われわれのもとに留まってくださる」。〔アルセニオス10〕

(6.)
 同じ人が言った、— ある日、師父アルセニオスがわたしを呼んで、わたしに言う。「そなたの父親を安心させよ、〔父親が〕主のもとに逝去したとき、そなたのために執り成してくれ、そなたにとってよいことが起こるように」。〔アルセニオス35〕

(7.)
 師父アヌゥブが云った。「クリストスの御名がわしから発せられて以来、嘘がわしの口から出たことはない。〔アヌゥブ2〕

(8.)
 師父アガトーンが云った。「修道者は、いかなる事態にあっても、自分の良心が自分を咎めるままにしておいてはならない」。〔アガトーン2〕

(9.)
 師父アガトーンについて語り伝えられている、— 彼はあらゆる掟を果たすことに熱心であった。小舟で川を渡るばあいでも、自分が真っ先に櫂を握るのだった。また、兄弟たちが彼のもとを訪ねるときには、祈りの心をもって、手ずから夕食の席を調えた。それというのも、彼はの愛に満たされていたからである。そして彼が死に臨んだときには、彼は三日間、目を開いたまま動かずにいた。兄弟たちはこう言って彼を揺り動かした。「師父アガトーンよ、どうなさったのですか」。彼らに言う。「わしは、の法廷の前にいる」。彼らが彼に言う。「あなたでも恐れるのですか、師父よ」。彼らに言う。「確かに、の命令を守るために、わしの力を尽くしてきた。だが、わしは人間だ。わたしの業がの御旨に適っていたかどうか、どうして分かろうか」。これに兄弟たちが言う。「ご自分の業に確信が持てないのですか、の御旨に従ったものだと」。老師が言う。「わしは、にまみえなければ、確信が持てない。の判断と人間のそれとは別だからだ」。彼らが他の言葉をことを彼に尋ねようとすると、彼らに言う。「後生だから、これ以上わしに話しかけないでほしい。わしにはもはや暇がない」。そして、彼は喜びのうちに命終した。というのは、彼が自分の友たちや愛する者たちに別れを告げて、昇天するのを見たからである。〔アガトーン3〕

(10.)
 彼はさらに云った、— 諸々の的な掟を守ることなしに、ただ一つの徳においてさえ人間が進歩することはない」。〔アガトーン3〕

(11.)
 師父アムモーエースについて言い伝えられている、— 彼は教会に行くとき、自分の弟子が自分のそばを歩くのを許さず、遠ざけた。そして、諸々の想念について尋ね始めようものなら、これに答えのみを言って、こう言ってすぐにこれを追い返してしまうのだった。「われわれが益となることについて話しているときに、余計な会話が入り込まないためである。このため、わしはわしのそばにそなたが来るのを許さないのじゃ」。〔アムモーエース1〕

(12.)
 師父アムモーエースが師父ヘーサイアースに先ず尋ねた。「今わしはどのように見えるか?」。これに言う。「天使のようです、詩父よ」。さらに後に、彼に言った。「今わしはどのように見えるか?」。相手が言った。「サターンのようです。わたしに善い言葉お話になっても、それは剣のようです」。〔アムモーエース2〕

(13.)
 アローニオスが云った。「人が自分の心のうちで、— この世にはわたし一人とだけがいる、と言わなければ、安らぎを得ることはないだろう」。〔アローニオス1〕

(14.)
 さらに云った。— ひとが〔朝から〕夕方まで望むなら、神的境位に至るであろう、と。〔アローニオス3〕

(15.)
 師父ビサリオーンが死に臨んで言った、— 修道者というものは、ケルゥビムやセラピムのように、全身が眼でなければならない」。〔ビサリオーン11〕

(16.)
 あるとき、師父ダニエールと師父アムモーエースとが旅をしていた。すると師父アムモーエースが言う。「いつ、わたしたちも修屋に坐れるのでしょうか」。これに師父ダニエールが言う。「今、いったい誰がわれわれからを奪い取れようか。は修屋の中にいまし、また外にも、は在ます」。〔ダニエース5、主題別10-46〕

(17.)
 さらに云った。「帰ってそなたの持ち物を売り払え、そして物乞いたちに与えよ〔マタイ19:21〕、そして、十字架を担って、己れを捨てよ〔マタイ16:24〕。一意専心祈ることができるために」。〔ネイロス4〕

(18.)
 スケーティスにいる師父アポッロースなる者について言い伝えられている、— 彼は粗野な羊飼いであった。そして、胎に孕んだ女を野原で見て、悪霊に衝きうごかされて云った。「胎児が彼女の胎の中でどうしているのか見たいものだ」。そこで女を切り裂き、胎児を見た。すると、途端に彼の心が彼を打ちのめした。悔恨の念に打たれ、スケーティスにやって来て、師父たちに自分のしたことを告白した。そして、彼らが詩編を唱えているのを聞いた。「我らの齢の日々は、齢にして70年。健やかであっても80年。その多くは骨折りと悩み」〔詩篇90:10〕。そこで、彼らに云った。「わたしは40歳にもなる今まで、一度も祈ったことがありません。もしあと40年生きるなら、がわたしの罪を赦してくれるよう、絶えずに祈ります」。事実、彼は手仕事さえやめて、こう言ってつねにに祈った。「人としてわたしは罪を犯しました。よ、わたしを憐み給え」。この祈りは日夜、彼の勤めとなった。さて、兄弟が彼とともに生活していて、彼が次のようにいうのを耳にした。「主よ、わたしはあなたを悩ませましたが、わたしに少し安らぎをお与えください」。そして彼は、が自分のすべての罪と女殺しとを赦してくださったことを確信するに到ったが、子供については確信がもてなかった。そこで、老師たちの一人が彼に云った、— は子についてもそなたを赦した。だが、そなたを苦しみに委ねているのは、そなたの魂に益となるからじゃ、と。〔アポッロース2〕

(19.)
 さらに云った —。自分の心中に沸き起こる中傷を持つ人は、の憐れみからは遠い、と。

(20.)
 さらに云った —。の記憶を魂から追い出すのは以下のものらである。怒り、無視(ojligwriva)、教えようとすること、此の世の無駄話(mataiologiva)。なぜなら、寛容(makroqumiva)、柔和(praovthV)、に対するあらゆる営為(ejrgasiva)は、愛をもたらすからである、と。

(21.)
 さらに云った —。われわれの昔の師父たちは言うを常とした — 隠修とは、身体からの逃避である、と。

(22.)
 さらに云った。「試練の機に感謝(eujxaristiva)を見出すことは、生起する諸想念を後ろにそらせるが、に嘉せられることを信じないことは、そなたの労苦がに嘉せられることを信じないことは、の救いがそなたを守るべく備えさせる」。

(23.)
 さらに云った。「人間に対して悪意を持つな、そなたの諸々の労苦を無駄にしないために」。

(24.)
 さらに云った。「自分の心中に報復の悪意を有する人間においては、その勤行は徒労である」。

(25.)
 さらに云った —。われわれが、口に無心を、心中に悪意を有すること、これこそ悲惨(kovpoV)である、と。

(26.)
 さらに云った。「そなたが身体の内にあるかぎり、何事かを達成したかのように、そなたの心に得意となってはならない。なぜなら、人は自分の畑の果実を集めるまでは、それらに依り頼むことはできない、何が結果するかわからないのだから。同様に修道者も、自分の心の内で思量すべきである、自分の生命に気息を持つかぎり、何か善きこととして何を完全に実修したかを」。

(27.)
 師父ヘーサイアースの弟子、師父ペトロスが云った — わしの師父は言うを常とした — おのれに対する咎めをにない、ゆえに隣人のために自分の意思を捨て、そうやって敵意が真ん中に入ることを赦さない者は、その人が働き手であることを明らかにする。覚醒した理性を有するなら、彼はイエースゥス足下に覚知の裡にあるのだ。なぜなら、覚醒し気遣うなら、主の愛から遠ざからないよう、おのれの意思を切り捨てることに熱心になるからである。自分の意思に固執する者は、信仰者たちとさえ平和に暮らすことはないからである。というのは、怒り(ojrghv)と軽視(ojligwriva)と、兄弟に対する憤慨(parocusmovV)は、覚知を持っていると思われる心に聴従するからである。

(28.)
 さらに云った。「軽視と、ひとを思惟で非難することは、的な光を観させない」。

(29.)
 さらに云った。「われわれはにお願いしよう、おのれの罪を嘆くことをご自身がわれわれに与えたまうよう、そして、われわれがおのれの力を揮って、人間性から逃れ、世俗的な事柄と気易くしたり、虚しい話に加わったりしないで。理性がの覚知からくらまされることのありませんように、と。なぜなら、世俗の話題を聞いたりあるいはまた話したりする者が、の御前で心の気易さ(parjrJhsiva)を持することは不可能だからである」。すると相手がいわく。「わたしが世俗的な事柄を聞いたり話したりしても、害されることは何もありません、あたかも盲人に、燭台を近づけても、その光を見ることがないように。さらに、世界全体を照らす太陽〔の例〕からも、次のことが明らかです。小さな雲が覆って、その光輝と温度を暗くする。だが、覚知を有する者たちはそのことを知識している、ということが」。

(30.)
 さらに云った。「魂を引き倒す以下の3つの情動から逃れるべく格闘しよう、それは愛銭、名誉、平安である、これらは魂を凌駕すると、それ〔魂〕が前進することを赦さないからである」。

(31.)
 師父ペトロスが言うを常とした —。或る時、わしの師父に尋ねた。「情念に隷従する〔ピュタゴラス派21〕とは、どういうことですか?」と。するとわしに云われた。「いかなる苦であれ、ひとが隷従するかぎり、彼はの奴隷とはいまだ思量されず、彼が支配されている件の相手の奴隷であるにすぎない。なぜなら、自分が捕らわれているかぎり、誰が同じ苦に捕らわれているかを教えることはできないからである。というのは、自分が自由であることよりも先に、彼のためににお願いすることよりも、その人から教えることは恥だからである。いったい、自分がその人に捕らわれているのに、他人に代わって、お願いすることがあろうか? なぜなら、他者のために祈願するのは、の奴隷でもなく、友でもなく、息子でもないのだから。いや、自分が隷従する相手の人たちから自分が解放されるよう不断に頼みつづけることこそが役に立つ。そうして、おのれの顔は、の御前で羞恥に満たされていると考えるはずである。なぜなら、諸々の苦に服しているかぎり、との気易い仲(parrhsiva)(これこそ、が人間に要請したもう真なる純潔である)に値しないと哀哭すべきであるから」。

(32.)
 さらに云った。「ひとあって心を労してを求める者あらば、彼〔主〕に聞け、また、覚知(gnwvsiV)と気遣い(merivmnh)と心の労苦において誓願する者あらば、世俗のものらの何かに束縛されることなく、自分の魂に配慮して、これが無実としてその祭壇に捧げるなら、これに傾注してくださるであろう」。

(33.)
 さらに云った。「詩篇を軽蔑するなかれ、これらは、不浄の霊を魂から追い払い、聖なるを内住させるゆえに。ダウイドを想起せよ、彼がキンニュラを弾ずるとき、サウゥルがいかに邪悪なる霊から休まったかを。さらにまたエリッサイオスを〔想起せよ〕、彼らがモーアブの息子たちと戦争した際、民がはなはだしく渇したとき、〔サウゥルが〕云った。『キンニュラの弾じ方を知っている者をひとりわしのもとに呼べ』と。そうして弾じたとき、エリッサイオスが祈り、水が湧き、民は飲んだのである〔サムエル記上16章〕」。

(34.)
 師父ヘーサイアースが言った。「そなたの口を守れ、そうすれば、そなたの隣人はそたたにおいて価値ある者として見出されよう。そなたの舌に、の御言葉を知をもって教えよ、そうすれば虚偽はそなたから逃げ出すであろう」。

(35.)
 エンナトーンの師父テオドーロスが云った、— が、祈りのときのわれわれのお座なりさと、詩編朗唱のときの捕囚状態とを思量なさるなら、われわれが救われることは不可能である。〔エンナトーンのテオドーロス3〕

(36.)
 師父テオーナースが云った。「理性をの観想から引き離すことによって、われわれは肉的な情念の捕囚となる」。〔テオーナース〕

(37.)
 あるとき、兄弟たちの何人かが、彼を調べるためにやって来た。自分の想念が散らされてはいないか、この代のことを話してもいないかを。そして彼に言う。「わたしたちはに感謝しています、今年は雨が多く降り、ナツメヤシが水を吸って、葉を伸ばし、そのため兄弟たちが自分たちの手仕事を見つけたからです」。彼らに師父イオーアンネースが言う。「聖霊も同様である。それが人間どもの心に降りるとき、彼らは新たにされ、への畏れのうちに葉を伸ばすのである」。〔コロボスのイオーアンネース10〕

(38.)
 彼について言い伝えられている、— あるとき、二つの籠をつくるために縄を編んでいたが、その一つを編んでいて、壁に届くまで気づかなかった。彼の想念が観想に没頭していたからである。〔コロボスのイオーアンネース11〕

(39.)
 あるとき、駱駝曳きがやって来た、彼の品物を受け取って、別の所に行くためである。そこで相手〔イオーアンネース〕は彼に綱を渡すために中に入ったが、失念した、精(diavnoia) がに向けられていたからである。そこで再び駱駝曳きが戸を叩いて煩わせ、再び師父イオーアンネースは入って、失念した。そこで、3度目に駱駝曳きが戸を叩くと、中に入りながら言った。「綱、駱駝、綱、駱駝」。〔コロボスのイオーアンネース31〕

(40.)
 師父イオーアンネースが云った、— わしは大樹の下に坐って、多くの野獣や爬虫類が自分に向かってくるのを観ている人のようなものだ。それらに立ち向かうことができないときは、樹の上に走り、救われる。わしも同様である。わしの修屋に坐して、わしの上を繊切る諸々の悪しき想念を観想する。そして、それに対して力を持てないときには、祈りによってのもとへと避難し、敵から救われるのである。〔コロボスのイオーアンネース12〕

(41.)
 ある老師がスケーティスにいた、身体的なことには勤しむが、思量事には精確な人ではなかった。そこで、師父イオーアンネースのもとにやって来た、忘れっぽさについて彼に尋ねるためである。そして彼から言葉を聞いて、自分の修屋に修屋に戻ったが、師父イオーアンネースが自分に云ってくれたことを忘れてしまった。そこで、もう一度彼に尋ねるために出かけて行った。で、同じように彼から言葉を聞いて、戻った。だが、自分の修屋に着くと、再び忘れてしまい、そのようにして何度も行ったのだが、帰ると忘れっぽさに支配された。その後、老師に出会ったので、云った。「ご存じの通り、師父よ、わたしに述べてくださったことをまたもや忘れてしまいました。しかし、あなたたからないために、来ませんでした」。これに師父イオーアンネースが言う。「行け、燭台に灯をともせ」。そこで彼が灯した。するとまたもや彼に云った。「他の燭台を持って来よ、そしてそれから灯せ」。で、同じようにした。すると師父イオーアンネースが老師に云った。「燭台は、それから他の燭台たちに点灯したことで、まさか何ぞ害は受けなかったな?」。彼が言う。「はい」。そこで老師が云った。「イオーアンネースも同様じゃ。たといスケーティス全体がわしのもとにやってきても、クリストスの恩寵からわたしを妨げることは断じてない。されば、そなたの好きなときに来なさい、遠慮などせずに」。じつにこういうふうにして、両人の忍耐によって、は老師から物忘れを取り去った。これこそが、スケーティスの人々の為業であった。すなわち、闘う人々には熱意を与えること。そして、善において互いが利得するよう、自分たち自身を強制するということが。〔コロボスのイオーアンネース18〕

(42.)
 コロボス人の師父イオーアンネースは、自分の弟子に言うを常とした。「われわれは一人を尊敬し、皆もわれわれを尊敬する。である一人をわれわれが軽視するなら、皆はわれわれを軽視し、われわれは破滅へと去りゆく」。〔???〕

(43.)
 師父イオーアンネースは言うを常とした、— 牢獄とは、修屋の中に坐して、つねにを想起することである。これこそが、「わたしは獄あったが、あなたたちはわたしを訪れてくれた」〔マタイ25:36〕ということである。〔コロボスのイオーアンネース27〕

(44.)
 兄弟がこう言って師父イオーアンネースに尋ねた。「わたしはどうすればよいでしょうか。しばしば兄弟が来て、わたしに仕事をさせようとするのですが、わたしはみじめで病弱なため、為事に疲れてしまうのです。そういう次第で、わたしは掟のために何をすればよいのでしょうか」。すると老師が答えて云った。「カレブはナウエーの子イエースゥス〔ヨシュア〕に言った。『わたしが40歳のとき、主の僕モーウセースが、砂漠からわたしとあなたをこの地に遣わしました。わたしは今85歳です。当時そうであったように、今も戦いに加わったり離れたりすることができます』〔ヨシユア14:7-11〕。されば、そなたもそのように、戦闘に加わったり離れたりできるならば、行け。しかし、もしそういうふうにすることができなければ、そなたの罪を嘆くために、修屋に坐っているがよい。嘆いているそなたを見れば、無理にそなたを引き出すことはないであろう」。〔コロボスのイオーアンネース19〕

(45.)
 師父イオーセープが師父ロートに云った。「そなたの全身が火のように燃えなければ、修道者になることはできない」。〔パネポーのイオーセープ6〕

(46.)
 彼がさらに云った。「わしがまだ若く、わしの修屋に坐していたとき、時課祈祷(sunavxiV)には限りがなかった。わしにとっては、夜も昼も時課祈祷であった」。〔イシドーロス4〕

(47.)
 師父アポッローンについて言い伝えられている、— 彼には名をイサアークという、あらゆる善き業の極みまで教育された弟子がいた。〔その弟子は〕また聖なる奉献祭儀において静寂さを保っていた。教会に行くときには、誰かが自身の会話に加わることを容赦しなかった。というのは、彼の言葉はこうだったからである、— すべてのものはそれぞれの好機において美しい。というのは、「万事にす好機がある」〔伝道の書3:1〕からである、と。そうして、集会が終わると、彼は火に追われるように、自分の修屋に飛んで帰った。また、集会後、しばしば、兄弟たちにビスケットと一杯の葡萄酒が与えられた。が、彼はそれを受け取らなかった。それは、兄弟たちの祝福を拒んだのではなくて、集会の静けさを優先したのである。
 さて、そんな彼が病気になったことがある。兄弟たちがそれを聞いて、彼を見舞いにやって来た。そして兄弟たちが坐して、彼に尋ねた、いわく。「師父イサアークよ、あなたはどうして、集会の後に兄弟たちを避けるのですか」。すると彼らに向かって云った。「わたしが避けるのは兄弟ではなく、ダイモーンたちの悪巧みなのです。というのも、人が火のついた松明を持って、戸外に立ったままぐずぐずしていると、火は消えてしまうでしょう。それと同じように、わたしたちも、聖なる奉献祭儀によって照らされても、修屋の外でぐずぐずしていると、わたしたちの理性が暗闇になってしまうのです」。これこそが、神法に適った師父イサアークの行住坐臥であった。〔イサアーク2〕

(48.)
 彼がさらに、砂漠に坐していた別の老師について語り伝えている、— 彼は自分に恩寵をたまうように呼びかけ、その結果、霊的交わりが動いている間は決して居眠りをしなかった。また、誰かが悪口や無駄話をふっかけると、すぐに眠りに陥ち、自分の耳がそういう毒を味わうことのないようにした。またこの人が言うを常としたのは、悪霊とは無駄口の好き者であり、あらゆる霊的な教えの敵対者である、ということであった。その際、次のような例を使った。「というのは、わしが」と彼は謂う、「有益さについて数人の兄弟たちに話していると、彼らは深い眠りに陥ちたあまりに、まぶたを動かすこともできないほどであった。そこで、わしは彼らに悪霊の活動を示そうと思い、無駄話を挟んだ。彼らはこれを喜び、たちどころに目を覚ました。そこで嘆息して云った。「今までわれわれは諸天のことを対話していたが、そなたたちの眼はみな眠りに捕らわれていた。しかし、無駄話が述べられたときには、すぐに目を覚ました。それゆえ、兄弟たちよ、願わくば、邪悪な悪魔の活動を認識せよ、そして、何か霊的なことを行う場合には、居眠りに警戒し、おのれ自身に心を注ぎ、あるいは聞くがよい」。〔カシアーノス6〕

(49.)
 偉大な師父マカリオスが云った。「魂は、詩篇朗誦の折に、痛悔をもって、おのれの諸思念(logismovV)を集中させ、への期待と、その方に対してのみ内生するそのかたへの愛とに到達する以外の何ものにも思いを致すべきではない。そうして、母親がわが子を家に集めて矯正するように、魂もおのれの、ほっつき歩く諸々の想念を到る所からわが子のように集め、罪によって散らされようとも、可能なかぎり諸想念を休みなく集め、確かな信仰のうちにを期待すべきである、そうすれば、それ〔魂〕へと行き着き、気を散らすことなき真の祈りそのものを、それ〔〕への唯一の祈願へとして教えてくれる」。

(50.)
 彼がさらに云った、— 灯火が、暗い部屋を明るくするのと同じように、への畏れも、人間の心に入ってくると、彼を照らし、すべての徳との掟とを教える。〔イアコーボス3〕

(51.)
 彼はさらに云った、— ある老師が〔異教の〕殿に留まっていた。するとダイモーンたちがやって来た、彼にこう言いながら。「われわれの場所から立ち去れ」。そこで老師が謂った。「そなたたちは居場所をもたぬ」。すると、彼のナツメヤシの葉をあちこちにばらまき始めた。しかし老師はそれを集めつづけた。今度はダイモーンが彼の腕をつかんで、彼を外にひきずり出そうとした。しかし老師は、扉につくより早く、他方の手で扉をつかんだ、こう叫びつつ。「イエスゥスよ、どうか助けてください」。すると、すぐにダイモーンは逃げていった。すると老師が泣きだした。そこで主がこれに云った。「何を泣くのか」。そこで老師が言う。「彼らが人間をつかまえることを敢行し、こんなふうにすることをです」。するとこれに云われた。「そなたは不注意だった。そなたがわたしを求めるならば、そなたに何が起こるか、見たはずだ」。
 以上のことをわしが言うのは、多くの労苦が必要であり、労苦なくしては、自分のを得ることができる者はいないからだ。御自身が十字架にかけられたのは、われわれのせいなのだからである。〔エーリアース7〕

(52.)
 師父モーウセースが云った。「ひとはクリストスの軍隊に入ることはできない、全身火のようになって、名誉や平安を軽蔑し、肉の意思を切り捨てて、のあらゆる誡めをも守らないかぎりは」。

(53.)
 さらに云った。「気易さ(parrhsiva)を避けよう、その炎暑がわれわれの労苦の果実を燃えあがらせないように」。

(54.)
 さらに云った。「敬神と真面目さと単純さと柔和と敬虔さを、人間どもすべてに対して獲得しよう、そうすれば、諸悪の母たる気易さを逃れられよう」。

(55.)
 かつて、師父ポイメーンが若者であったとき、ある老師のところに出かけた、3つの想念について尋ねるためである。ところが、老師のもとに着いたとき、3つうちの1つを忘れてしまった。そこで、自分の修屋に引き返した。そして、戸を開けるために掛け金に手をかけたとき、忘れていた言葉を思い出した。そこで彼は掛け金から手を離して、老師のところに戻った。317.10 すると老師が彼に言う。「急いでやって来たな、兄弟よ」。そこで彼に話した。「掛け金を握るためにわたしの手をかけた途端に、探していた言葉を思い出したので、戸も開けずに、それで引き返して来ました」。ところで、その道の距離は非常なものであった。そこで彼に老師が言った。「天使たちの牧者(ポイメーン)よ。そなたの名はアイギュプトス全土で語られることになろう」。〔ポイメーン1〕

(56.)
 師父アムムゥンについて言い伝えられている、— 彼はごく少量の大麦で二か月も過ごした。で、当人が師父ポイメーンを訪ね、彼にこう言う。「もしわたしが隣人の修屋に行ったり、あるいは彼が何かの必要のためにわたしを訪たりすれば、何か余計な会話が頭をもたげないよう、お互いに会話するのを用心します」。これに老師が言う。「それは美しい。というのは、若者には見張りが必要だからじゃ」。これに師父アムムゥンが言う。「では、老師たちはどうなさるのですか」。するとこれに云った。「老師たちは進歩しているので、彼らにあっては別物のようなものとか、口に余計なものをもたぬ、それを話すにしても」。「では、やむを得ず」と彼が謂う、「〔聖〕書においてとか、老師たちの言葉においてとか、隣人と話さねばならない場合は?」。老師が言う。「そなたが沈黙を保ち得ないなら、老師たちの言葉についての方が美しい、そして〔聖〕書については〔話す〕な。危険が少ないからじゃ」。〔アムムゥン2〕

(57.)
 師父ポイメーンが汚れについて尋ねられた。そこで彼が答えた、— もしわれわれが行いを堅持し、注意深く素面でいるならば、自分自身の中に汚れを見出すことはないであろう、と。〔ポイメーン165〕

(58.)
 師父ポイメーンについて言い伝えられている、— 集会に赴かんとするときには、およそ1時間、ひとりで坐した、自分のさまざまな想念を判別するためである。じつにそういうふうにしたうえで出かけて行くのであった。〔ポイメーン32〕

(59.)
 師父ポイメーンがさらに云った、— あるとき、ある人が師父パイシオスに尋ねた、いわく。「わたしの魂のためにどうしたらいいのでしょうか、わたしは無頓着で、を畏れないのですが」。すると337.20 彼に言う。「行って、を畏れる人と親密にせよ。そして、その人に近づくことで、そなたもを畏れるように教えてくれるであろう」。〔ポイメーン65〕

(60.)
 さらに云った —。初めと終わりはに対する恐れである。次のように書かれているからである。「知恵の初めは、主に対する恐れ」〔詩篇110:10〕、さらにまた。アブラアームが供犠を執り行ったとき、これに主が云った。「そなたがを恐れることを今こそ知った」〔創世記22:12〕。〔N 647〕

(61.)
 さらに云った — 要点は次の3つである。主を恐れよ、間断なくに祈れ、汝の隣人に善を為せ、と。

(62.)
 師父ボイメーンがさらに云った、— 人が新しい天と新しい地を造るとしても〔イザヤ66:22〕、気苦労なしには不可能である、と。〔ポイメーン48〕

(63.)
 老師が云った。「対話の際に愛勝する人間から常に離れていよ」。〔Anony124〕

(64.)
 同じ師父パウロとティモテオスは、スケーティスでは理髪師であったが、彼らは兄弟たちによって悩まされていた。そこでティモテオスが自分の兄弟パウロスに言う。「この技をどうしたらよいだろうか。彼らは、一日中われわれを静かにしておかない」。すると師父パウロスが答えて彼に云った。「われわれには夜の静寂で充分だ、われわれの精が素面ならば」。〔理髪師パウロス2〕

(65.)
 兄弟が、師父ロートの〔弟子〕べトロスに云った、— わたしの修屋にいるときには、わたしの魂は平安のうちにあります。しかし、兄弟がわたしのもとを訪れて、外界の話をわたしに云うときには、わたしの魂は動揺してしまうのです」。師父ペトロスが言う、— 師父ロートが言っておった。「そなたの小さな鍵が、わしの戸を開ける」と。兄弟が老師に言う。「その説話(rJh:ma)の意味は何ですか?」。老師が言う。「人あってそなたのもとを訪れると、そなたは彼に言う。『お元気ですか? どこから来られたのですか? 兄弟たちは元気ですか? 彼らはあなたを受け入れてくれますか、くれませんか?……』。こうして、そなたは兄弟の戸を開け、そなたの 聞きたくないことを聞くのだ」。彼に言う。「そのとおりです。それでは、人はどうすべきなんでしょうか、自分のところに兄弟が来たら?」。老師が言う。「悲嘆は全き教訓である。悲嘆のないところでは、自分を守ることはできない」。兄弟が言う。「修屋にいるときは、悲嘆はわたしとともにあります。しかし、誰かがわたしのところに来たり、わたしが修屋から出たりすると、それが見当たりません」。
 老師が言う。「それは、〔悲歎が〕まだそなたに服従せず、用をなしているからじゃ。というのは、律法にはこう書かれている、— もしへブライ人の僕童を入手したならば、彼は6年間そなたに隷従させるべし。しかし7年目にはこれを自由人として解放しなければならない。しかし、もし彼に女を与え、あなたの家で子供を産み、彼が妻と子供のために去ることを望まないならば、あなたは彼を門のところに連れて行き、錐で彼の耳に穴を開けなければならない。そうすれば、彼は永久にあなたの奴隷となるだろう〔出エジプト21:2-6〕、と」。兄弟が言う。「その説話(rJh:ma)は何を意味するのですか?」。老師が言う。「人がある必要なことを求めて、できるだけ苦労をするならば、それを得るために、どれほど長い間探し求めようとも、それを見出すだろう」。彼に言う。「どうか、その説話(rJh:ma)の意味をお教えください」。老師が言う。「庶子の息子は何びとかに隷従して、留まることはないが、嫡出の息子は自分の父親を放置することはない」。 〔ピオニトスのペトロス2〕

(66.)
 師父シソーエースは、話をするよう兄弟にさんざんに頼まれて云った。「断食してそなたの修屋に坐せ、数多の涙をもってにおのれを委ねよ、そうすれば平安を得られよう」。

(67.)
 兄弟が師父ティトエースに尋ねた、— どうすれば、わたしの心を守れるでしょうか。これに老師が言う。「どうしてわれわれの心を守れようか、われわれの口と腹とが開いたままで」。〔ティトエース3〕

(68.)
 かつて、師父シルゥアーノスがシナイ山に住持していたとき、彼の弟子ザカリアースが奉仕に出かけるようとして、老師に言う。「水を撒いて、菜園に水をやってください」。そこで彼は外に出て、自分の眼を頭巾で覆い、自分の足跡だけを見るようにしていた。そのとき、兄弟が訪れた。そして遠くから彼を見、何をしているのか観察した。そして、兄弟は彼のところに入っていって、云った。「どうかわたしに云ってください、師父よ、どうしてあなたは、頭巾であなたの顔を覆って、菜園に水をやるのですか」。これに老師が言う。「わが子よ、わしの両眼が樹木を見ないため、そしてわしの理性がおのれの業を離れてそれら〔樹木〕に没頭しないためじゃ」。〔シルゥアーノス4〕

(69.)
 師父モーゥセースが師父シルゥアーノスにこう言って尋ねた。「人間は日々、始めることができるのでしょうか?」。すると老師が云った。「もし勤勉ならば、刻々であっても始めることができる」。〔シルゥアーノス11〕

(70.)
 あるとき、こう言って師父シルゥアーノスに尋ねた〔人たちがいる〕。「どんな行住坐臥をしたらよいのでしょうか、師父よ、この思慮を得るには」。すると答えた。「を怒らせるような想念を、わしの心に赦したことはない」。〔シルゥアーノス6〕

(71.)
 師父サラピオーンが云った、— 語った。「あたかも皇帝の将兵たちが、立っているとき、右とか左を眺めることができないようなものだ。ひとも同様で、の御前に立ち、つねに畏れのうちにその御顔を注視するならば、彼が敵を恐れることはあり得ない」。〔サラピオーン3〕

(72.)
 師母シュンクレティケーが云った。「わが子たちよ、わたしたちはみな、救われると知っています、しかし、おのれの無頓着のせいで、救いを失っているのです」。〔シュンクレティケー伝22〕

(73.)
 さらに云った。「断食しましょう、なぜなら、わたしたちの脆弱さのせいで、たとえ望んでいなくても、盗人たちが入りこむからです。いったいどうすれば、外から煙が動き、窓が開いていたとしても、家が暗くならずにすむことができるのでしょうか?」。〔シュンクレティケー伝25〕

(74.)
 さらに云った —。わたしたちはダイモーンたちに対して完全武装しなければなりません。というのも、連中は外側からも襲来しますが、内側からも活動するからです。魂も、あたかも船のように、或る時には外側から第三波によって海没させられますが、時には内側の淦(あか)によっても水面下になるのです。そのように、わたしたちも、或る時には、外の実践的な罪によって滅び、或る時には内にある想念によって汚されるのです。されば、外側からの霊に対する攻撃をも監視し、内側の想念に対する不浄をも撤退させなければなりません」。〔シュンクレティケー伝45〕

(75.)
 さらに云った。「〔シュンクレティケー伝47〕

(76.)
 彼はさらに云った。「そなたの思慮は常に天の王国になければならない。そうすれば、すみやかにそれを遺産として受けることになろう」。〔ヒュペレーキオス7〕

(77.)
 また云った。「修道者の生は、御使いたちの模倣、つまり、罪を焼きつくすことです」。

(78.)
 彼はさらに云った。「思うに、人はおのれの心を美しく守らなければ、自分の聞いたことをすべて忘れ、気にしない。このようにしてこそ敵は彼の内に居場所を見つけ、彼を陥れる。例えば、手入れされて輝くランプが、油を入れることをゆるがせにされると、少しずつ消えていって、ついにはそれに対する闇を強める。いや、そればかりか、鼠までがそのまわりにやって来て、芯を食い尽そうとするが、油がなくなる前は、できない。しかし、光がなくなるだけではなく、火の熱もなくなると、芯を引き出そうとして、ランプをも倒す。しかし、ランプが陶器でできているならば、割れてしまう。だが、銅でできているなら、家主人はもう一度それを整えられる。それと同様に、魂が不注意であると、聖霊は少しずつ魂から退き、ついにはその熱が消えてしまう。そして、最後に敵が、魂の熱意を食い尽くし、諸悪が身体を抹消してしまう。しかし、その人がに対して状態的に美しく、単に怠慢に引きずられているだけならば、は憐れみ深いお方として、その人にへの畏れと罰への想起を投げかけ、その訪れのときまで、彼が素面であるよう、そして前もって注意深く見張りをするよう、準備させるのである」。〔オルシシオス2〕

(79.)
 兄弟が師父マトエースに尋ねた、いわく。「どうすべきでしょうか、。わたしの舌がわたしを苦しめるのです。人々の中に入っていくときも、これを制することができません。いや、善いわざに対しても、彼らを咎め、彼らに反駁してしまいます。一体どうすればよいでしょうか」。すると老師が答えて云った。「自分を制することができないならば、独りの生活に逃れよ。それは弱さのためである。しかし、兄弟たちと坐す者は、四角であってはならず、あらゆる方向に転がることができるように、丸くなければならない」。また、老師が云った。「わしが独りで坐るのは、徳があるからではなく、弱さのためである。というのは、人間どもの中に入って行く者たちは、力ある人々である」。〔マトエース13〕

(80.)
 師父たちの何人かが語り伝えている — 或る偉大な師父がいた、からの恩寵にあたいするとして、評判の人であった。その徳ゆえに、彼の名は王にまで達した。王は、彼の祈りを要請するため彼に人を遣わした。そして彼に謁見し、数多く益されたので、彼に黄金を差し出した。すると老師は、受け取って、郷里に帰ってからは、耕地や別の所有物を愛着するようになった。例によって、ダイモーン的な者がやって来たが、老師はそのダイモーンに言う。「の被造物から出て行け」。するとダイモーンが彼に言う。「おれはおまえのいうことを聞かぬ」。老師が言う。「何ゆえ?」。ダイモーンが云う。「おまえは、おれらの一人のように、への気遣いを等閑にして、地上的気遣いにおのれを専念させている。それゆえ、おまえのいうことを聞いて出て行くわけにはいかんのだ」。

(81.)
 老師たちの或る者が、あるとき、他の老師のもとを訪ね、彼らが話している時、ひとりが言った。「わたしはこの世に死んだ〔〕」。他の老師が言う。「おのれを恃んではいけない、兄弟よ、身体から出離するまではね、というのは、たとえ君が『わたしは死んだ』と言っても、サタンは死んではいないのだから」。〔Anony266〕

(82.)
 老師が云った、「罪を犯さぬよう、油断なく努めよ、そなたとともに住みたもうを侮辱して、そなたの魂から追い出すことのないよう」。〔N 650〕

(83.)
 老師が云った。「厳粛ないのちのために、可能なかぎり競い合え、まっすぐであるようにと」。

(84.)
 美しい事どもに思いを致せ、それを実修もするように。なぜなら、人間の思念(e[nnoia)がを忘れることはないのだから。されば、そなたの思想(diavnoia)をして、あらゆる悪から清浄たらしめよ」。

(85.)
 老師が云った。「そなたの魂が照らされることは不可能である、おのれ自身を清浄にしないかぎりは」。

(86.)
 老師が云った。「蜜蜂は、居るところで蜂蜜をつくる。そのように修道者も、居るところでの業をする」。

(87.)
 師父たちの或る者が云った。「修道者に必要なのは、労苦して断食すること、自覚的に詩篇朗誦すること、徹宵して祈ること、地上的なことは何ひとつせず、すべて霊的なことを実修すること。これらにおいてこそ、修道者である」。

(88.)
 さらに云った。「目下の機を見過ごして、後になって、呼びもどそうとすることは恥ずべきことである、われわれにとって叫ぶ以上のことは何もないであろうから」。

(89.)
 さらに云った。「来たるべき善きものらのために競い合い、脱出の準備をしよう、そうして、自分たち自身の刻をいたずらに浪費しないようにしよう」。

(90.)
 さらに云った。「兄弟よたち、戦いの刻に断食しよう、燃えあがって、邪悪な為業の気遣いに引きずられないようにしよう、邪悪な想念が、われわれの魂の内に入口を見つけ出さないように」。

(91.)
 老師が云った。「修道者は、夕ごと朝ごとに自分自身に言葉をかけて言わねばならない。『われわれはが望まれないことを何か行わかったか、また、が望まれたことを何か行ったか』と。そしてそういうふうにして悔い改め〔なければならない〕。修道者はそういうふうであらねばならない。そのように生きられたのが、師父アルセニオスであった」。〔Anony264、ニステローオス5〕

(92.)
 老師が云った。「ひとが金ないし銀を失っても、それの代わりを見つけることができるが、好機を失うひとは、他のものを見つけることはできない」。〔Anony265〕

(93.)
 老師が云った —。への畏れについてより他に、何事かについて思い煩ってはならない、と。なぜなら、こう云われたからである。「身体的必要性について思い煩うよう必然づけられたとしても、前もってそれを思量したことはない」。〔N 651〕

(94.)
 老師が云った。「将兵や狩人が、競争を開始すれば、他者が負傷したり他者が救われるかどうかを気にすることはなく、各人は自分のためにのみ競うように、修道者もそうあるべきである」。〔Anony267〕

(95.)
 老師が云った。「何びとも王の近くにいる者に不正できないように、サタンもわれわれの魂がの近くにいるとわれわれに何かを実行することができない、『汝らわが近くにあれ』と謂う、『そうすれば、我もまた汝らの近くにあらん』〔ヤコブ4:8〕、しかるにわれわれはいつもぐらついているので、敵はわれわれの惨めな魂を易々と不名誉の情態へと引っさらうのである」。〔Anony268〕

(96.)
 老師が云った —。人間は自分の業を守るべきである、そうすれば滅びることはない。なぜなら、ひとが多くのことをしでかして、何も守らなければ、何の益するところもないからである。ひとが小さなことをして守るなら、そのひとの業は確定する。〔N 473a〕

(97.)
 さらに老師が云った。「小さな業から大きな〔業〕まで、われわれはその為すところの目的を思惟すべきである、思念においてであれ実修においてであれ、何が目的とされているのかを」。〔N 652〕

(98.)
 老師が云った。「そなたが坐しているとき、あるいは、目覚めているとき、あるいは何か他のことをしているとき、もしがそなたの眼前にいたまえば、敵は何によってもそなたを怖れさせることはできない。されば、この想念が人間の内にとどまれば、の力もまたその内にとどまる」。〔Anony377〕

(99.)
 老師が云った — 夜明けに起き上がって、そなた自身に言え。『身体よ、栄養を摂るために働け、魂よ、遺産相続するために素面でいよ』と」。〔Anony269〕

(100.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしの不注意をどうしたらいいのでしょうか?」。これに老師が云う。「不注意というこの小さな青草を根こそぎにしなければ、釘になる」。〔主題別21-45、N 420〕

(101.)
 兄弟がある老師に云った。「戦いは何ひとつわが心の内に見えません」。これに老師が言う。「そなたは四方門、望む者がそなたを通って入ったり出たりするが、そなたは気づかない、しかしそなたが扉を持っていてこれを閉ざし、悪し諸々の想念がこれを通って入ることを許さなければ、そのときそなたはそれらが外に立って、戦いを仕掛けるのを目にしよう」。〔Anony57, 270,〕

(102.)
 ある老師について言い伝えられている、— 諸々の想念が彼に、「今日はゆっくりして、明日、悔い改めればいい」と言ったとき、それらに反論した、いわく。「否、今日悔い改め、明日の意思をして知らしめられよ」。〔Anony271〕

(103.)
 老師が云った。「われわれの内なる人が素面でないなら、外なる〔人〕を守ることはできない」。 〔Anony272〕

(104.)
 老師たちは言うを常とした。— サタンの力は、忘却、不注意、欲望の3つで、これらがあらゆる罪を先導する、つまり、忘却が起これば、不注意を生む、不注意からは欲望が登場する、欲望によって人は転落するのである。しかし理性が忘却から素面であれば、不注意には墜ちず、不注意でないなら、欲望に進むことはなく、欲望しなければ、そのときこそクリストスの恩寵によって転落することがないのである、と。 〔Anony273〕

(105.)
 老師が云った。「沈黙を修せ、何ものも気にするな、汝の修證(melevth)に傾注せよ、への畏れを持って就寝し起床して、そうすれば、不敬虔な者たちの突撃を恐れることはない」。〔Anony274〕

(106.)
 老師が云った —。悪魔とは縄を綯う者である。そなたがやつに房縁を供給するかぎり、勝手に綯いつづける、と。これは諸々の想念について云ったことである。

(107.)
 老師がある兄弟に云った。「悪魔は敵であり、そなたは家である、そうとすると、敵は、何でも見つけたものをそなたの家の中に投げこんで、あらゆる不浄を注ぎこんでやめない。そしてゆだんなく外に投げ出すのはそなたの役目である。しかし油断すれば、家はあらゆる不浄で満たされ、そなたはもはやそこに入ることができなくなる。しかし、最初にやつが投げこんだものを、少しずつ放り出せ、そうすればそなたの家はクリストスの恩寵によって清浄でありつづけるのである」。〔Anony275〕

(108.)
 老師たちの或る者が云った。「牛の両眼を覆えば、そのとき〔粉碾き〕機会の周りをめぐるが、覆わなければ、周りをめぐることはない、悪魔も同様で、人の両眼を覆うことが先行すれば、これをどんな罪にでも落とせるが、その両眼が照らされていれば、やつから逃れることは容易にできる」。〔Anony276〕

(109.)
 偶像の或る神官がスケーティスに赴き、或る老師のもとに泊まり、その暮らしぶりを観て、これに云った。「あなたがたのから何も観ないのですか?」。老師が言う。「何も」。すると官が云った。「われわれは、ささやかな勤行を実修すると、秘儀のすべてがわたしたちに示されます、あなたがたも徹宵やこれほどの勤行をしてこれほど労苦しながら、あなたは「何もない」と言うのですか? あなたがたの心中にまったく邪悪な想念を持ちなさい、そうすれば、そのことがあなたがたをあなたがたのから遠ざけ、その秘儀をあなたがたに知らしめないのだ」。師父たちはこれを聞くや驚嘆した、いわく —。不浄な想念が、われわれをから遠ざけるのだ、と。〔???〕

(110.)
 言い伝えられている — 師父アントーニオスの山に7名が坐していたが、ナツメヤシの時期に、鳥どもを追い払うために一人が守った。ところでそこに老人がいて、彼の日に守ったとき、泣きだした、いわく。「内なる邪悪な想念どもは下がれ、外なる鳥どもも」。〔Anony277〕

(111.)
 ある兄弟が、修屋で、自分のナツメヤシの枝を浸し、編むために坐したとき、彼に想念が言う。「下がれ、これこれの老師を訪ねよ」、そしてさらに心中で思量する、いわく。— 数日先に下がることにしよう、と。さらに言う。「もし彼が死んだら、おまえはどうするのか? すぐにでも話すがよい、夏だから」。さらに内心で言う。「いや、好機ではない」。ところがさらに思量する、いわく。「いや、藺草を切ったら、好機になる」。相手が謂った。「茎を仕上げよう、それから出かけるとしよう」。ところがまたもや心中に言う。「いや、今日は天気が美しい」、そうして立ち上がって、その浸した茎を放置して、自分の毛皮外套を取って出かけた。しかし彼の隣人の老師の或る者は明視者であった。そうして彼が走っているのを見て、呼びかけた、いわく。「捕虜よ、捕虜よ、こっちへ来い」。そうしてやって来ると、老師がこれに言う。「おまえの修屋にもどれ」。そこで兄弟は彼に戦いを物語り、修屋に入り、ひれ伏した、するとダイモーンたちが大声をあげた、いわく。「汝らはわれらに勝てり、おお、修道者たちよ」。すると彼の下に敷いた敷物が火によってのように燃えつき、連中も煙のようになって消えたのである。〔Anony278〕

(112.)
 老師が云った。「われわれは目覚めていよう、兄弟たちよ、祈りの裡に断食しよう、に専念しよう、最善のことをあのかたに実修して救われるために。将兵は、戦争の際、自分の魂のみに配慮する、猟師も同様である。されば、われわれも彼らと等しくしよう。に従って生きる者は、あのかたとともに生きる。『すなわち、われは彼らの中に住み、歩きまわろう、われは彼らのとなり、彼らはわが民となろう』〔2Kor 6,16; Lev 26,12〕〔N 653〕

(113.)
 師父たちの或る者が云った。「そなたを称賛する兄弟たちや、諸々の想念や隣人を無き者扱いする者たちを警戒せよ。何びとも何事も知らないからである。
 盗賊が十字架に付けられていたが、一言で義とされ〔ルカ23:42〕、イウゥダスも使徒たちの一人に数えられていたが、一晩でその労苦をすべて失い、天から冥府に墜ちた〔マタイ26:24〕。だから、何びともよいことをしたからといって、誇ってはならない。というのは、自分自身に依り頼む者はみな、好機の瞬間に滅びたからである」。〔Cf. クサンティアス1〕

(114.)
 老師が云った。「兄弟が罪を犯しているのを見たら、罪を告発するのはその者ではなく、彼に戦いを挑んでいる者に対して言え。『悲しいかな、わしは、この者が負けたように、わしもそうだとは』。そうして、の助けを求めて泣け、心ならずも陥った者に同情せよ。なぜなら、何びともにたいして罪を犯すことを望む者はなく、われわれはみな欺かれているのだから」。〔N663〕

(115.)
 ある老師について言い伝えられている — スケーティスで亡くなりかけた、兄弟たちが彼の寝椅子を取り巻き、彼の恰好を整え、泣きだした。するとその両眼を開いて笑い、次いでまた笑い、三度目にもまた笑った。そこで兄弟たちが彼に願った、いわく。「どうかわたしたちに云ってください、師父よ、わたしたちが泣いているのに、どうしてあなたは笑うのですか?」。彼らに言う。「わしが笑ったのは、皆が死を恐れている故じゃ、二度目に笑ったのは、そなたらが用意できていないからじゃ。三度目に笑ったのは、わしは労苦から平安へと下がれる故じゃ」そうしてすぐに老師は永眠した。〔Anony279〕

(116.)
 老師が云った。「余所者の同居人は、家の主人のいうことを聞かずに、余所者を導き入れる力を持たないように、敵も、導き入れることを〔主人が〕容認しないかぎり、同様である。されば祈って言え。『主よ、あなたはすべてを知っておいでです、わたしは駄獣です、何も知りません。あなたはわたしをこの救いの命令に運びこまれました、わたしを助けてください、よ。「わたしはあなたの僕、あなたの婢の息子です」〔Ps. 115:7〕、よ、あなたの御心によってわたしをお救いください』と」。〔主題別12-28、N 403〕

(117.)
 ケッリアに住んでいる兄弟が、師父たちの一人のところにやって来て、自分を押し潰す想念を彼に云った。するとこれに老師が言う。「そなたは、への畏れという偉大な価値あるものを放置し、葦の笏つまり邪悪な想念を執ることを我がものとしている。むしろ、への畏れがそれであるところの火を獲得せよ。そうすれば、想念が接近すべくそなたを見舞えば、葦のように火によって焼きつくされる。なぜなら、何らかの邪悪なものは、への畏れを有する者に比して強くはないからである」。〔N 654〕

(118.)
 老師が云った。「肉における〔血縁〕者たちに、ゆえに別れを告げたのなら、そなたが修屋に坐しているとき、父親や母親や、兄弟たちの愛や、息子たちや姉妹たちの同情や、妻の愛を嘆いて、快楽がそなたを引きずるに任せてはならない。なぜなら、すべてはのために捨てたのであるから。されば、死の刻を記憶せよ、それらのどれひとつとして、そなたを救えないのだから」。〔N 405〕

(119.)
 老師が云った。「大いなる強力な根は2つである。されば、ひとがの恩寵によってこれらを守るなら、あらゆる苦を凌駕するであろう。自分の心中にへの畏れと謙遜を持つこと」。

(120.)
 老師たちの或る者が云った。「修道者たちにふさわしいのは次の3つである。余所者であること、物乞い、断食を伴う沈黙」。〔アンドレアース〕

(121.)
 師父たちの或る者が言うを常とした — 或る愛労者が、おのれに傾注するあまり、彼は少しく無頓着な者になってしまった。それで、無頓着な者になったので、おのれを断罪して云った。「魂よ、いつまでおまえはおまえの救いに無頓着で、この無頓着さに捕らわれて、永遠の懲罰に引き渡されるのではないかと、の審判を恐れないのか?」。心中にこう言って、の業へとおのれを目覚めさせた。されば、彼が日課時祷を実修するとき、ダイモーンたちがやって来て、彼を騒がせた。すると彼は連中に言う。「いつまでわたしを潰そうとするのか? 目下の無頓着さで充分ではないのか?」。これにダイモーンたちが言う。「おまえが無頓着であったときは、われわれもおまえに無頓着だった。しかし今はわれわれに対して目覚めたので、われわれもおまえに対して目覚めたのだ」。これを聞いて、彼はますますに対する畏怖へとおのれを鼓舞し、の恩寵によって前進したのであった、と。〔N 401〕

(122.)
 或る兄弟が試練を受け、或る老師のもとに出かけて行って、耐え忍んでいる試練をこれに告げた。するとこれに老師が言う。「そなたに出来している試練をして、そなたを窒息せしめるな。というのは、敵勢は、魂がに上げられ、結びつけられているのを観れば観るほど、妬みにとろけて不機嫌になる。なぜなら、やその聖なる御使いたちが、諸々の試練の中に臨在しないことはできないからじゃ、ただし、大いなる謙遜をもって、あのかたに救いを求めることをやめなければの話だが。されば、そなたに何かそのようなことが起こったときは、われわれの救主たるの現在と、われわれの弱さと、われわれの敵の未熟さとに、思いを致せ、そうすれば、の救いに与れよう」。〔N 402〕

(123.)
 老師が尋ねられた。「気を散らさずに祈るとはどういうことですか?」。すると答えた。「純粋に、かつ、自分の全意思で、の戒めに傾注すること」。

(124.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「〔魂が〕美しい果実をもたらすところの、魂の耕作とは何ですか?」。これに老師が言う。「わしについていえば、魂の耕作とは、素面での静寂、自制、身体の苦難、おびただしい身体的な祈りと、人間どもの躓きに傾注しないことである」。〔*1705〕

(125.)
 師父たちの或る者が云った。「先ず憎まなければ、愛することはできず、もし罪を憎まないなら、正義を為すことにならないとは、〔聖書に〕書かれているとおりである。『悪から遠ざかり、善を為せ』〔詩篇33:15〕と。ただし、どんな場合においても、企ては至るところでに求められている。例えば、アダムは楽園にありながら、の戒めに背いたし、イオーブは糞の中に坐しながら、それを守った。されば、が人間に善き企てをお求めになるのは、あの方をいつも怖れるためにほかならない」。〔Anony378〕

(126.)
 老師が云った —。非常に裕福な或る農夫がいて、自分の息子たちに農業を教えようとして、彼らに云った。「わが子たちよ、わしがいかにして裕福になったかを知れ、そうすればおまえたちもわしに耳をかせば、裕福になるであろう」。すると彼らが彼に云った。「あなたにお願いします、わが父よ、どうすればいいか、どうかわたしたちに云ってください」。そこで彼は、彼らがゆるがせにしないよう巧みに扱って、彼らに云った。「1年は1日である、その日に働く者があれば、富裕になる。しかしその〔日〕がいつか、わしは老齢ゆえ失念した。されば、たった1日働かず、その日に働かないため、まる1年を虚しく辛労することになる件の祝福された日がけっして見落とすことのないよう、1日もゆるがせにしてはならない」。このようにわれわれも、間断なく働くなら、生命の道を見出せよう、と。〔N 407〕

(127.)
 彼女はさらに云った、— わたしは上るために梯子にわたしの足をかけますが、それにわたしが上る前に、眼前に死を置きます。〔サッラー6〕

2016.07.13.

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