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back.gif砂漠の師父の言葉(主題別)14/21

原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 12

砂漠の師父の言葉
(15/21)






15.

謙虚さ(tapeinofrosuvnh)について

(1.)
 師父アントーニオスは、の裁き(krivma)の深淵を凝視して責めた、いわく。「主よ、どうしてある人たちは短命にして死ぬのに、ある人たちは長生きするのですか。また、なぜある人たちは貧しいのに、他の人たちは富んでいるのですか。いったいどうして、不正な人々は富んでいるのに、義しい人々は貧しいのですか?」。すると、彼に声が聞こえてきた、いわく。「アントーニオスよ、自分自身に心を注ぐがよい。なぜなら、そのようなことはの裁くところであり、それらを学び知ることは、そなたに何も益しないからである」。〔アントーニオス2〕

(2.)
  師父アントーニオスが師父ポイメーンに云った — 人間の偉大な働きとは、自分の躓きをの前におのれの身に担い、最後の息を引き取るまで試練(peirasmovV)を覚悟していること、これである」。〔アントーニオス4、ポイメーン125〕

(3.)
 師父アントーニオスがさらに云った。「わしは地上に広がる悪魔のあらゆる罠を見、呻吟して云った。『いったい誰がこれら〔の罠〕をやり過ごせようか』。すると、声が次のように言うのが聞こえてきた。『謙遜(tapeinofrosuvnh)こそが』」。〔アントーニオス7〕

(4.)
 あるとき、老師たちが師父アントーニオスを訪ねたが、師父イオーセープもまた彼らに同行していた。そうして、老師は彼らを吟味しようとして、〔聖〕書からある説話(rJh:ma)を引き、その説話(rJh:ma)が何を意味するか、若輩から順に尋ね始めた。そこで、それぞれ自分の力に応じて言った。しかし老師は、各々に言った。「そなたはまだわかっておらぬ」。最後に師父イオーセープに言う。「そなたはこの言葉についてどのように言うか」。相手が答えた、いわく。「わたしは知りません」。師父アントーニオスが言う。「師父イオーセープが完全に道を発見したぞ、『わたしは知りません』と」。〔アントーニオス17〕

(5.)
 あるとき、修屋でダイモーンたちが師父アルセニオスに襲いかかり、彼を潰そうとした。さて、彼の奉仕者たちが訪れて、修屋の外に立っていると、彼がに大声で呼びかけ、こう言うのを聞こえてきた。「よ、わたしを見捨てないでください。わたしはあなたの面前で何一つ善いことをしてきませんでしたが、どうかあなたの仁慈によって、開始することをお許しください」。〔主題別2-4,アルセニオス3〕

(6.)
 また、彼について言い伝えられている — 宮廷にいた頃、宮廷の誰一人、彼よりも善い衣服を着た者はいなかった、そのように、教会においてさえ、彼ほど安っぽい身なりをしている者はいなかった、と。〔アルセニオス4〕

(7.)
 あるとき、師父アルセニオスが、アイギュプトスの或る老人に、自分の諸々の想念について尋ねたとき、別の人がこれを見て云った。「師父アルセニオスよ、あなたはそれほどローマとギリシアの教養を知識していながら、どうしてこんな農夫に、あなたの想念について尋ねたりなさるのですか」。すると彼はこれ向かって云った。「ローマとギリシアの教養は知識しているが、この農夫のアルファベットすらまだ学んではいないのだ」。〔アルセニオス6〕

(8.)
 老師たちは言うを常とした — あるとき、スケーテイスで、乾し無花果が少しずつ配られた。しかし、つまらないものだったので、失礼にならぬようにと、師父アルセニオスには持っていかなかった。すると老師はこれを聞いて、集会に出席しなかった、いわく。「が兄弟たちに送ってくださった祝福を、わたしに与えることをあなたがたは拒んだ。わたしはこれを受けるにあたいしなかったのだ」。そこで皆はこれを聞き、老師の謙虚さに益された。そこで、長老が出かけて、彼に乾し無花果を持ってゆき、喜びのうちに彼を集会に連れてきたのであった。〔アルセニオス16〕

(9.)
 また、彼について言い伝えられている — 彼の行住坐臥の作法をひとは理解できなかった、と。〔Anony15〕

(10.)
 かつて、同じ師父が、〔ナイル河の〕下流地方に坐っていたが、そこの群集に悩まされたために、修屋を後にするのがよいと彼に思われた。そこで彼は何も持たず、そうやってパラーン人の弟子のアレクサンドロスとゾーイロスのもとへ行った。そこで、彼はアレクサンドロスに云った。「立って、舟で川を遡れ」。そこで彼はその通りにした。ゾーイロスにも云った。「わしとともに川まで来い。そしてわたしのためにアレクサンドリアに下る舟を探せ。そして、そなたも兄弟を追って、川を遡るがよい」。しかしゾーイロスは、その言葉に混乱させれて、黙っていた。こうして彼らはお互いに別れた。さて、老師はアレクサンドリア地方に下ったが、重い病気にかかってしまった。そこでこの人の奉仕者たちは、互いに云いあった。「われわれの誰かが老師を苦しめたので、そのために老師はわれわれのもとを離れてしまわれたのか」。しかし彼らは自分たちの中に何の原因も見出せず、またかつて彼に逆らったこともなかった。
 さて、健康になると老師が云った。「わしの師父たちのところに行こう」。そして川を上り、自分の奉仕者たちがいるぺトラに着いた。彼が川のほとりにいると、アイティオピアの下女がやって来て、彼の羊皮衣に触れた。そこで老師が彼女を叱った。すると下女が彼に云った。「あんたが修道者なら、山へお行きなさい」。老師はその言葉に胸を打たれ、自らに言った。「アルセニオスよ、おまえが修道者ならば、山へ行け」。その後、アレクサンドロスとゾーイロスは、彼に出会った。そのとき、彼らは彼の足元にひれ伏し、老師も身を投げだした。そして両者ともども泣いた。さて、老師が云った。「そなたたちは、わしが病気になったと聞かなかったのか」。するとこれに彼らが云った。「いいえ、聞きました」。すると老師が言う。「では、なぜわしに会いに来なかったのか」。すると師父アレクサンドロスが言う、— あなたがわたしたちのもとを離れた理由が、納得できず、多くの人たちも、彼らが老師に逆らうことがなければ、彼らから別れることはなかったろう、と言うからです、と。彼らに言う。「では、人々は今度はこう言うようになるだろう、— 鳩はその足をとめて休息する場を見出せなかったので、ノアのもとに戻ってきた〔(創世記8章〕、と。こうして彼らは心が癒された。そうしてアルセニオスはその命終の時まで彼らのもとに留まったのであった。〔アルセニオス32〕
 師父アルセニオスが死に臨んだとき、彼の弟子たちは動揺した。すると、彼らに言う。「まだその時は来ていない。刻至れば、わしがそなたたちに言う。もしそなたたちが、わしの遺体を誰かに渡すなら、わしはそなたたちとともに恐るべき法廷で裁かれることになろう」。そこで彼らが云った。「それではわたしたちはどうしたらいいのでしょうか、わたしたちは埋葬の仕方を知らないのですが」。すると彼らに老師が言う。「わしの足に縄をかけ、山に引いてゆくことも知らぬのか?」。ところで、老師のこの言葉の意味は、次のようなものであった。「アルセニオスよ、おまえが出家した所以は何か。話しをしては幾度も後悔したが、沈黙したことについては、いまだかつて後悔したことはない」。さて、命終が近づいたとき、兄弟たちは、彼が泣くのを見た。そこでそこで彼に言う。「しんじつ、あなたでさえ怖いのですか、師父よ」。すると彼らに云った。「いかにも、今このときに、わしが抱いている恐れは、修道者になったとき以来ずっとわたしとともにある」。じつにそのようにして彼は永眠したのである。〔アルセニオス40〕
 ところで、老師の言葉はこうであった。「アルセニオスよ、そなたは何ゆえに出て行ったのか?」。そうして —。口を利いては何度も後悔したが、けっして沈黙することはなかった、と。師父ポイメーンは、師父アルセニオスが永眠したと聞いて、落涙して云った。

(11.)
 師父ダニエールは、同じ師父アルセニオスについて物語るを常とした、— 彼は、その気になれば語ることができたにもかかわらず、聖書の何らかの論点について、語ることを断じて拒んだ。いやそれどころか、書簡さえ軽々しくは書かなかった。また、たまに教会にやって来たおりには、柱の陰に座っていた、自分の顔を誰も見ぬよう、また自分も他人を見ることがないようにするためである。彼の容貌はといえば、イアコーボスのような天使的な姿であった。髪はことごとく白く、体つきは都会的であった。痩せていた。長い髭は腰に届いていた。彼の眼のまつげは泣き濡れていた。長身であったが、老齢のために背が曲がっていた。存命したのは95年。誉れあるテオドシオス大帝の宮廷に40年、このうえなく的なアルカディオスとホノーリオスとの父となった。その後、スケーティスで40年をすごした。さらに10年を上バビュローンにあるメンフィスのトロエーで〔すごした〕。さらに3年をアレクサンドリアのカノーポスで〔過ごした〕。他の2年は再びトロエーに戻り、そこで永眠した、平安とへの畏れとのうちに、自分の走路を走り終えて。命終した。— 彼は善き人であり、聖霊と信仰に満ちていた〔使徒行伝11:24〕。彼はわたしに、自分の皮の上衣と白い毛の下衣とナツメヤシの葉で編んだサンダルを遺してくれた。わたしはそれを受けるに値しない者ではあるが、祝福されるよう、それらを身に付けている。〔アルセニオス42〕

(12.)
 師父イオーアンネースが語り伝えている、— 師父アヌゥブと師父ポイメーン、そして一つ胎から生まれ、スケーティスで修道者となった彼らの自余の兄弟たちは、マジク族が来襲し、最初にこれ〔スケーティス〕を荒らしたとき、彼らはそこを立ち去り、テレヌゥティスと呼ばれるところにやって来た、それまで、彼らはいかに住持すべきか探していたのである。そして数日、そこの古い殿に留まった。さて、師父アヌゥブが師父ポイメーンに云った。「頼みがある。そなたとそなたの兄弟は、各々静寂のうちに住まい、この一週間は互いに会わぬことにしよう」。すると師父ポイメーンが云った。「お望みのようにしましょう」。彼らはそのとおりにした。
 ところで、そこには当の殿に一つの石像があった。そして老師である師父アヌゥブは、朝毎に起きあがり、像の顔に石を投げつけ、夕毎にこれに言った。「どうぞわたしをお赦しください」。そして、彼は一週間ずっと、そのようにし続けた。さて、土曜日に彼らは互いに会ったが、師父ポイメーンが師父アヌゥブに云った。「あなたを見ました、師父よ、この1週間、あなたが像の顔に石を投げつけ、それからこれに悔い改めをするのを。信実な人間が、そんなことをするのですか」。すると老師が答えた。「そんなことをしたのは、まさにそなたたちのためじゃ。わしが像の顔に石を投げつけるのを見たというが、〔像は〕しゃべったり怒ったりしなかったか」。すると師父ポイメーンが云った。「しません」。さらにまた、— わしがそれに対して悔い改めたが、動揺したり、「赦さない」と云ったりせなんだな? すると師父ポイメーンが云った。「しません」。すると老師が云った。「されば、われわれとて7人の兄弟である。もしお互いいっしょにとどまる気なら、侮辱されようが栄化されようが、動じることのない、この像のようになろう。しかし、もしそのようになることを望まないならば、見よ、この殿には四つの門がある。めいめい好きな所へと去るがよい」。すると彼らは師父アヌゥブにこう言って、地に身を投げ出した。「あなたの望むとおりに、師父よ、わたしたちはしましょう、そしてあなたがわれわれに言われるとおりに聞き入れます」。
 また、師父ポイメーンが云った、— われわれはわれわれの全時間、お互いいっしょに住持した、老師がわれわれに言った言葉に従って働いて。彼はわれわれのうちの一人を家令に任じた。われわれはわれわれに備えられたものは何でも食べた。だから、われわれのうちの誰も、「何か別のものをわれわれに持ってこい」とか、「こんなものは食べる気がしない」などと云うことはできなかった。こうして、われわれはすべての時を安らぎと平和のうちに過ごしたのである。〔アヌゥプ1〕

(13.)
 彼について言い伝えられている、— ある人々が、彼に裁いてもらおうとしてやって来た。しかし、老師は馬鹿のふりをした。すると、見よ、ひとりの女が彼の近くにいて、言った。「この老師は愚か者です」。すると老師は彼女のいうことを聞いて、彼女に声をかけて言う。「この愚かさを得るために、どれだけ砂漠で苦労したことだろう。そして、今日、そなたのせいでわしはそれを失ってしまった!」。〔アムモーナース9〕

(14.)
 その名を師父アップという、オクシュリュンコスの司教について語り伝えられている。— 彼が修道者であったとき、多くの難業を実修した。で、司教になったとき、世間においても同じく熱心に難業に従事するつもりだったが、その力がなかった。そこで、彼はの面前に、こう言って身を投げだしてた。「いったい、司教職のために、恩寵がわたしから遠ざかったのですか」。すると、彼に答えがあった、— 否、そうではない。かつては砂漠で、人間がいなかったので、が支えたのだ。しかし今は、世間があり、人々がそなたを支える、と。〔アップ〕

(15.)
 師父ダニエールが云った、— バビュローンに、上流階級出身で、ダイモーンに憑かれた処女がいた。ところで彼女の父親は、ある修道者を愛する者としてもっていた。するとこれ〔修道者〕が彼に言う。「あなたの娘を癒やすことは誰にもできない、わたしの知っている隠修者たち以外には。ところが彼らに頼んでも、謙虚さからそれの実修を承知しないだろう。しかし、こうしよう。つまり、彼らが市場に来たとき、品物を買おうとする素振りを見せて、その代金を受け取ろうとするときに、祈祷をしてくれるよう彼らに言うのです、そうすれば治ると信じます」。そこで彼らが市場に行くと、老師たちひとりの弟子が、彼らの品物を売るために座っているのを見つけた。そこで、いくつかの籠を持って、その代金を受け取るよう、彼を連れて行った。さて、この修道者が家に着いたとき、ダイモーンに憑かれた娘が出て来て、彼に平手打ちをくらわせた。相手はもう一方の頬をも向けた、主の掟にしたがったのだ〔マタイ5:39〕。するとダイモーンが拷問されて、叫んだ、いわく。「何という暴力だ! イエースゥスのイ掟が俺を追い出す」。すると、たちまち女は清められた。そうして老師たちがやって来たとき、何が起こったかを彼らに報告した。そこで彼らはを栄化し、云った。「クリストスの掟の謙遜によって倒れる、それが悪霊の倣慢の倣い」。〔ダニエール3〕

(16.)
 老師が云った。「救済の初めは、おのれを断罪すること」。〔950 Evagrios〕

(17.)
 師父カリオーンが云った —。わしは、わが息子ザカリアースよりも数多くの身体的苦行を為したが、彼の謙遜と彼の沈黙においては、彼の境位に及ばなかった、と。〔カリオーン1〕

(18.)
 かつて師父ザカリアースがスケーティスに坐っていたとき、幻視が彼に出来した。そこで立ち上がって、自分の師父カリオーンにそれを告げた。すると老師は、実践者であったが、それを正確にはつかめなかった。そこで立ち上がって、彼を殴りつけた、ダイモーンに憑かれたと言って。しかし想念は続いた。そこで、夜中、発って、師父ポイメーンのとこころに行き、これに事実と、彼の中でどれほど燃えているかを打ち明けた。すると老師はに由来するのを見て、彼に言う。「恐るべき老師のもとに行き、何かそなたに云うことあらば、行え」。そこで老師のもとに行き、彼に何かを訊くよりも早く、老師は先取りして、彼にすべてを、つまり幻視はに由来することを彼に云った。「いざ、行け、そなたの父に従え」。〔ザカリアース4〕

(19.)
 あるとき、師父モーセースが師父ザカリアースに云った。「どうかわしに、何を為すべきか云ってくだされ」。だが、聞くと、こう言って、彼の足許の地面に身を投げ出した。「あなたがわたしに尋ねるのですか、師父よ」。これに老師が言う。「わしを信じよ、わが子ザカリアースよ。聖なる霊がそなたの上に降るのを見たが、それ以来、そなたに尋ねるよう強いられているのじゃ」。そのとき、ザカリアースは自分の頭から自分の頭巾を取って、足元に置き、これを踏みつけて云った。「このように踏み潰さなければ、人は修道者ではあり得ません」。〔ザカリアース3〕

(20.)
 師父ポイメーンが云った、— 師父モーウセースは、命終せんとする師父ザカリアースに尋ねた。「何が見えるか?」。するとこれに言う。「黙っていたほうが善いのではありませんか、師父よ」。するとこれに言う。「しかり、わが子よ、黙っていなさい」。そうして彼の死の刻、坐していた師父イシドーロスが、天を仰いで云った。「喜べ、わが子ザカリアースよ、諸天の王国の諸門が、そなたのために開かれた」。〔ザカリアース5〕

(21.)
 師父ヘーサイアースが云った。「人間どもの栄光を愛することは虚偽を生むが、謙遜によってこれを覆すことは、への畏れを心中により大きくする。されば、世俗の栄光を愛する者となるな、の栄光がそなたから曇らないために」。

(22.)
 さらに云った。「そなたの勤行執り行う際、無価値な者であるかのように、謙遜のうちに執り行うなら、に嘉納される。だが、一種の高慢がそなたの心にのぼり、同意し、あるいは眠ったり軽率な別の人を模倣し、誰かを断罪するなら、そなたの労苦は無駄だと知れ」。

(23.)
   さらに、謙虚さについて云った — 〔謙虚さは〕誰かに対して、軽率な者と発言したり、あるいは、自分を虐待する者に反対したりする舌をもたぬ。また、他者の弱点を見たり、誰かを軽蔑する眼をもたぬ。また、自分の魂を益することなき事を聞く耳をもたぬ。また、自分の罪以外の何かを重視することなく、あらゆる人間どもと平和的であるのは、の戒めのゆえであって、何か別の好みのせいではない。というのは、ひとがまる1週間断食し、大いなる労苦に身を委ねたとしても、この道以外には、その労苦はすべて無駄であるから」。

(24.)
   さらに云った。「謙虚さを獲得した者は、おのれの罪に気づくだろう。そして、謙虚さに悲嘆をも結びつけ、両方が彼にとどまれば、その魂からあらゆるダイモーン的想念を追い出し、自分の名誉によって、また聖なる諸徳によって魂を養う。なぜなら、悲嘆と謙遜さとを持っている人には、人間どもの譏りは気にならぬ。なぜなら、それらが彼の完全武装となり、彼を怒りと仕返しから守り、彼に襲来するものらを彼が持ちこたえるよう教えるからである。云ったいかなる譏りあるいは苛立ちが、の面前で自分の罪のために嘆く者に接近しうるであろうか?」。

(25.)
  さらに云った。「覚知をもっての前におのれを投げ出すことと、謙虚さをもって諸々の戒めに聴従することとは、愛をもたらし、愛は無心をもたらす」。

(26.)
  同じ人が尋ねられた。「謙遜とは何ですか?」。すると云った。「謙遜とは、おのれをいかなる人間よりも罪深いと思量すること、そして、の面前でいかなる美しいことも為していない者としておのれを無とみなすことである。謙遜の業とは以下である。〔すなわち〕沈黙、何においてもおのれを買いかぶらないこと、愛勝しないこと、従順、瞳を地面に向けること、眼前に死をもつこと、虚言しないこと、無駄話をしないこと、長上者に反対しないこと、自分の言葉を立てることを拒むこと、暴虐に堪えること、安らぎを憎むこと、万事においておのれを強制すること、素面であること、自分の意思を切り捨てること、ひとに憤らないこと、ひとを妬まないこと、である」。

(27.)
  さらに云った。「嘆くことに従事できるよう、そなたの力が謙ったものであるようにせよ、そうしてそなたの力を尽くして、信仰に関して愛勝せず、独断論議をすることもせず、カトリック教会に聴従せよ。何びとも神性の何ごとかを会得することはできないのだから」。

(28.)
  さらに云った。「謙虚さを獲得した者は、兄弟の非難をおのれに招く、いわく —。わたしは躓いた、と。だが、兄弟を軽蔑する者は、自分は知者であり、いまだかつて誰かを殴ったことがないと確信する。だが、への畏れを有する者は、諸徳について、その1つも彼を逃れることのないよう気遣う」。

(29.)
 さらに云った。「そなたの舌をして語らしむるな、行為をして〔語らしめよ〕。そなたの言葉をして、行為よりも謙らしめよ。自覚(suneidhvsiV)なしにしゃべるなかれ。謙遜なしに教えるな、そうすれば、大地はそなたの種子を迎えるであろう」。

(30.)
 さらに云った。「しゃべることが知恵なのではない。知恵とは、いつしゃべるべきか、その機を知ることである。覚知をもって沈黙し、覚知をもってしゃべれ。しゃべる前に傾注し、必要な事を答えよ。覚知をもった無知者となれ、そうすれば数多くの労苦から逃れられよう。なぜなら、おのれに労苦を目覚めさせるのが、覚知をもておのれを照らすひとだからである。そなたの覚知を誇ることなかれ。何びとも何も知らないからである。あらゆる事の目的は、おのれを非難し、隣人の下にあること、神性に膠着することだからである」。

(31.)
 あるとき、浄福なる大主教テオピロスが、ニトリアの山地を訪ねたことがある。そこで、山の師父が彼のところに赴いた。するとこれに大主教が言う。「道中、何かより多いものを見出されましたか、師父よ」。これに老師が言う。「それは、絶えず自分自身を責め、非難することです」。これに師父テオピロスが言う。「それを措いてほかに道はありません」。〔大主教テオピロス1〕

(32.)
 あるとき、師父テオドロースは彼ら〔兄弟たち〕とともにする機会があった。しかし彼らが食事の際に、うやうやしく黙して杯を受けようとせず、また「憐れみたまえ」とも言わなかった。そこで師父テオドロースは云った。「修道者たちは、『憐れみたまえ』と言うだけの自分たちの稟性を失ってしまった」。〔テオドーロス6〕

(33.)
 彼について言い伝えられている、— 彼は、スケーティスで輔祭に任じられたが、その役割を引き受けるのを望まず、あちこち逃げ回っていた。しかし老師たちは、「あなたの輔祭の勤めを捨てないでください」と何度も言って、彼をスケーティスに連れ戻した。彼らに師父テオドーロスが言う。「わしに任せてほしい、そうすれば、わしがその典礼の役割に留まることに足るかどうか、に祈ろう」。そして、に祈って言った。「わたしがこの役割に留まることがあなたの御意志であるならば、わたしに確信をお与えください」。すると、地から天に届く火の柱が彼に示されて、こう言う声が聞こえた。「もしもそなたがこの柱のごとくなれるのならば、行け、輔祭の務めを果たせ」。これを聞いて彼は、もはや務めを受けないことを決心した。さて、彼が教会にくると、兄弟たちは、彼の前に跪いた、いわく。「輔祭になるのを拒まれるのでしたら、せめて〔聖体祭儀の間だけ〕杯を持ってください」。しかし、彼は、それを承知しなかった、いわく。「わしを放っておかないならば、わしはここを立ち去る」。それで、彼らは彼を放任した。〔テオドーロス25〕

(34.)
 コロボス人の師父イオーアンネースが云った —。謙遜はの門、われわれの師父たちは数多の高慢に別れを告げて、の門に入った、と。〔*Anony956〕

(35.)
 さらに云った。「謙虚さとに対する畏れは、あらゆる徳にまさる」。

(36.)
 テーバイの師父イオーアンネースが云った。「修道者は、何よりもまず、謙遜を修得しなければならない。これこそ、『霊において貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものだからである』〔マタイ5:3〕と言う救い主の第一の掟だからである」。〔テーバイのイオーアンネース〕

(37.)
 兄弟が師父クロニオスに尋ねた。「どういう仕方で、人間は謙遜に達するでしょうか」。これに老師が言う。「への畏れによって」。これに兄弟が言う。「どのような行いによって、への畏れに達するのでしょうか?」。これに老師が言う。「わしの思うに、あらゆる思い煩いから離れることによって、身体的な労苦にみずからをゆだね、力の及ぶ限り、身体からの脱出と、の裁きとの想起によって」。 〔クロニオス3〕

(38.)
 あるとき、スケーティスに或る者たちがメルキセデクについて寄り合ったが、師父コプリスを呼ぶのを忘れていた。そこで、後に彼を呼び、この件について尋ねた。相手は、自分の口を三度叩いて、云った。「ああ情けなや、コプリスよ、行うようがおまえにいいつけたことをそっちのけにして、おまえに求めないことを求めているとは」。これを聞いた兄弟たちは、自分たちの修屋に逃げ帰った。〔コプリス3〕

(39.)
 師父マカリオスは自分について話すを常としていた、いわく。「わしがまだ若く、アイギュプトスで修屋に坐していたとき、わしをつかまえ、村の聖職者にしようとした。だが、受け入れることを拒み、別の所に逃れた。そこで、世間の敬虔な人がわしのところに来て、わしの手仕事を引き受け、わしに奉仕してくれた。その頃、村のある処女が誘惑を受けて堕落したということが起こった。そうして孕んだため、このようなことをしたのは誰かを尋ねられた。すると彼女が言った。「隠修者です」。そこで、村まで来てわしを捕らえ、わしの首に煤だらけの鍋と壺の耳〔取っ手〕とをぶらさげ、村の通りを引きずり回した、わしを殴って、こう言いながら。「この修道者が、われわれの処女を堕落させた、こいつを捕えろ、捕えろ」。そして、わしをすんでのところで死ぬほど殴ったのである。
 そのとき、老師の一人が来て云った。「異国の修道者を、いつまで殴るつもりか」。また、わしの奉仕者はといえば、恥じ入りつつわしの後について来た。というのも、彼をさんざんに侮辱し、こう言う者たちがいたからである。「見ろ、おまえが保証人になった隠修者だぞ。何ということをしてくれたのだ」。彼女の親たちも言う。「彼女を養う約束をしない限り、やつを放さない」。そこで、わしの奉仕者に云った。するとわしの保証人になってくれた。そこでわしの修屋に戻り、持てるかぎりの籠を、こう言って彼にわたした。「売って、わしの妻に食べ物を与えてほしい」。そして、わしの想念に言いきかせた。「マカリオスよ、見よ、おまえは妻を見つけた。彼女を養うために、もう少し懸命に働かなくてはならない」。わしは夜も昼も働き、彼女に渡していた。しかし、哀れなこの女に出産のときが来ても、何日も陣痛に苦しみつづけ、出産できなかった。そこで〔人々は〕彼女に言う。「これはどうしたことだ?」。彼女が云った。「わたしにはわかっています、— 隠修者を讒訴し、偽って訴えました。事に及んだのはこの人ではなく、しかじかのです」。そこでわしの奉仕者は喜んでやって来て、言った、— あの処女は、事に及んだのは隠修者ではなく、彼に対して偽ったと言って告白するまで、出産することができなかった。そして、見よ、村全体がうやうやしくここに来て、あなたに悔い改めようとしています、と。これを聞いたわしは、人々がわしを悩ますことのないよう、ここスケーティスに逃げてきた。これが、わしがここに来たそもそもの理由である。〔エジプトのマカリオス1〕

(40.)
 あるとき、師父マカリオスが沼地から自分の修屋に帰ろうと、ナツメヤシの枝を運んでいたところ、見よ、道中、小刀を持った悪魔が彼に出くわした。そこで〔悪魔が〕彼を叩こうとしたが、その力がなかった。それで彼に言う。「おまえから、マカリオスよ多くの力が出ていて、俺はおまえに何もできない。というのは、見よ、おまえがすることは何でも俺もする。おまえが断食すれば、俺もする。おまえが徹夜すれば、俺も全く眠らずにいる。おまえがわしに勝利するのは、ただ一つのことによってだ」。これに師父マカリオスが言う。「それは何だ」。相手が謂った。「おまえの謙遜だ。これによってこそ、俺はおまえに対して何もできないのだ」。〔エジプトのマカリオス11〕

(41.)
 師父マトーエースが云った。「人間はに近づけば近づくほど、ますますおのれを罪人とみる。例えば預言者ヘーサイアースは、主を見て、おのれを惨めで不浄な者であると言った〔イザヤ1:1-13〕」。〔マトエース2〕

(42.)
 あるとき、師父マトーエースはライトウからゲバラ地方に出かけて行った。彼の兄弟も彼とともにいた。ところが、ある主教が老師を捉まえて、彼を司祭に任じた。そして彼らがともにいるとき、主教が言った。「どうかわたしを赦してほしい、師父よ。あなたがこのことを望んでいないことは知っている。だが、あなたからわたしが祝福を受けたかったので、あえてこのようにしたのだ」。すると彼に老師が、謙って云った。「わたしの想念も、少しはそれを望んでいました。それよりもわたしを苦しめるのは、わたしとともにいる兄弟から離れなければならないことです。というのは、祈りをすべて一人ですることには耐えられないからです」。すると主教が言う。「彼がふさわしい、とあなたが思っておられるならば、わたしが彼を叙階しよう」。これに師父マトーエースが言う。「彼がふさわしいかどうかは分かりません。ただ一つ分かっているのは、彼がわたしより美しい人であることです」。そこで、彼をも叙階た。しかし、彼らは二人とも、奉献祭儀を行うために祭壇に近づくこともなく、永眠した。が、老師は言っていた。「わたしは、奉献祭儀を行わなかったから、叙階のことでひどい裁きを受けることはないとに信頼している。というのは、叙階は咎められるところのない人々のものだからだ」。〔マトエース9〕

(43.)
 師父モーウセースについて言い伝えられている、— 聖職者となり、ひとびとは彼に法衣(ejpwmivV)を授けた。そして大主教が彼に言う。「見よ、そなたは全身真っ白となったのだ、師父モーウセースよ」。これに老師が言う。「外見はです、教父なる主よ、内面もそうでありますように!」。そこで大主教が彼を吟味しようとして、聖職者たちに言う。「師父モーウセースが至聖所に入って来たら、彼を追い出し、彼についてゆけ、彼が何と言うかを聞くために」。さて、老師が入っていった。すると彼らは彼を咎め、追い出した、いわく。「出て行け、アイティオプス人め」。すると相手は出て行きながら、自身に言った。「彼らをおまえを美しく扱ったのだ、灰色肌の黒ン坊よ。人間ではないのに、おまえはどうして人間どもといっしょするのか?」。〔モーゥセース4〕

(44.)
 師父モーゥセースが云った。「謙遜を持っている者は、ダイモーンたちをへりくだらせる。しかし謙遜を持たない者は、連中にからかわれる」。〔N 499〕

(45.)
 さらに云った。「へりくだったもの言いをするだけでなく、へりくだった者であれ。なぜなら、に従った為業においてそなたが高められることは、謙遜さなくしては不可能だからである」。

(46.)
 師父ニステローオスが師父ポイメーンに尋ねられた。— かつて困難なことが共住修道院に起こったとき、彼は口を利かず、また干渉もしなかったが、どこでその徳を獲得したのか、と。彼は答えた。「わたしをお赦しください、師父よ。初めてこの共住修道院に入ったとき、わたしの想念に云いました、『おまえと驢馬はひとつだ。驢馬は殴られても口を利かず、暴行されても何も応えないように、おまえも同様であれ。詩篇がこう言っているとおりに、「わたしはあなたの前で家畜のようであった、しかしいつもあなたとともいる」〔詩篇73:22-23〕』。〔共住修道院のニステローオス2〕

(47.)
 彼がさらに或る老師について云った、— 〔その老師は〕スケーティスにいた。しかし奴隷の出身であった。が、非常に分別のある人物であった。毎年。アレクサンドレイアに出かけた、自分の主人たちのところに報酬を持って行くためである。かれらは彼を迎え、彼に敬意を表した。老師の方は、自分の主人たちの足を洗うために、盥に水を入れて、持って来た。しかし彼らは彼に言った。「いけません、師父よ、わたしたちの気を重くさせないでください」。しかし相手は彼らにに向かって言うのだった。「あなたがたの奴隷であることをわたしは告白します。わたしが自由人としてに隷従することを許してくださったことを感謝して、わたしもあなたがたの足を洗います、そして、わたしのこの報酬を受け取ってください」。しかし彼らはあくまで受け取らなかった。そこで彼らに言った。「受け取ることを拒まれるならば、あなたがたに隷従するために坐ります」。こうして彼らは彼を恐れて、したいようにすることを許した。そして、多くの必需品と多くの敬意を彼に捧げ、自分たちに代わって愛のわざを為すことができるようにした。このため、彼はスケーティスで有名になり、愛される人となったのである。〔ミオース2〕

(48.)
 師父ポイメーンが云った — 人が謙遜とへの畏れとを必要とすることは、自分の口から出る気息を〔必要とする〕ごとし、と。〔ポイメーン49〕

(49.)
 師父ポイメーンが兄弟に尋ねられた。「わたしの住んでいる場所で、わたしはいかにあるべきでしょうか?」。するとこれに老師が言う。「どこに寄留しようと、寄留者の想いを持て、そなたの言葉が先立つことを求めないように、そうすれば、そなたは平安を得られよう」。〔Cf. 970 ポイメーン〕

(50.)
 さらに云った。「の前におのれを投げ出すこと、おのれを買いかぶらないこと、自分の意思を後ろに投げ出すことは、魂の道具(ejrgalei:a)である」。

(51.)
 さらに云った。「自分自身を買いかぶるな、むしろ美しく振る舞う者と親密にせよ」。〔ポイメーン73〕

(52.)
 兄弟が同じ人に尋ねた、いわく。「師父よ、わたしは修屋に坐して何に傾注すべきでしょうか?」。これに老師が言う。「わしは頸まで泥の深みに浸かっている人間じゃが、頸のまわりに重荷を運び、に向かって大声で叫んでいる。『わたしを憐れんでください』と」。〔パウロス2〕

(53.)
 さらに云った — 兄弟が、師父アローニオスに尋ねた、「己れを無にする(ejxoudevnwsiV)とはどういうことでしょうか?」。すると老師が云った。「ロゴスなきものらの下に〔身を〕置くことであり、それらが咎められるべきものでないことを知ることである」。〔ポイメーン41〕

(54.)
 さらに云った — あるとき、老師たちが坐って、食事をしていたとき、同じ師父アローニオスが給仕をするため立ち上がった。するとこれを見て彼を褒めた。しかし、彼は一言も答えなかった。そこで、ある人がひそかに彼に言う。「あなたを褒めている老師たちに、なぜ答えなかったのか?」。これに師父アローニオスが言う。「もし彼らに答えれば、わたしはその称賛を受け入れものと見られよう」。〔ポイメーン55〕

(55.)
 さらに云った。「が命じられた大地で供犠する、これこそ謙虚さである」。〔???〕

(56.)
 さらに云った。「自分の秩序を保つ者は、心を乱されないだろう」。〔ポイメーン167〕

(57.)
 師父イオーセープが語り伝えている —。われわれが師父ポイメーンとともに坐していたとき、師父アガトーンを呼ばれた。そこでわしがあの方に言う。「若輩者です、いったいどうして彼を師父と呼ばれるのですか?」。すると師父ポイメーンが云った。— 自分の口が彼が師父と呼ばれるようにさせたから、と。〔???〕

(58.)
 師父ポイメーンについて言い伝えられている — いまだかつて他の老師の説話の上に自分の言葉を与えようとしたことはなく、むしろ称賛した、と。〔???〕

(59.)
 大主教である師父テオピロスが、あるとき、スケーティスを訪れた。集まっていた兄弟たちが、師父パンボーに云った。「この場で〔大主教が〕益されるよう、教皇に一言云ってください」。彼らに老師が言う。「わしの沈黙によって益されることがないなら、わしの言葉によっても益されることはできぬ」。〔大主教テオピロス2〕

(60.)
 兄弟ピストスが語り伝えている、いわく — われわれ7人の兄弟が、クリュスマ〔紅海のヘロオポリス湾の突き当たりの都市〕の島に住んでいる師父シソエースのもとに出かけた、彼がわれわれに言葉をくださるよう願うためである。すると彼が云った。「どうかわしを赦してほしい、わしは素人じゃから。しかし、わしは師父オールや師父アトレのところを訪れたことがある。ところが、師父オールは18年来病中にあった。わしに言葉をくださるよう、彼らの前に跪いた。すると師父オールが云った。「そなたに何が云えよう。立ち去れ、そなたが見ることを行え。は、おのれに対して優位に立つ人、あるいは、すべてにおいておのれを抑える人のものである」。師父オールと師父アトレとは、1つの管区の出身ではなかった。が、身体から離れ去るまで、彼らの間には大いなる平安があった。というのも、師父アトレの従順は偉大であり、また師父オールの謙遜は多大であったから。実際、わしは数日間彼らのところで過ごした、彼らを追跡するためである、そこで師父アトレが行った大いなる驚異を目撃したのじゃ。
 つまり、ある人が彼らのところに小さな魚を持ってきたので、師父アトレは師父オールのためにそれを調理しようとした。そこで、魚を捌くために包丁を取った、すると師父オールが彼を呼んだ、いわく、「アトレよ、アトレよ」。そこで師父アトレは魚の真中に包丁を残したまま、残りを捌くことなく、老師のもとに赴いた。まさに、わしは彼の偉大な従順さに驚嘆した、なぜといって、『魚を捌くまで気を長くしてください』と云わなかったからじゃ。そこで、わしは師父アトレに云った。『どこでそのような従順を学んだのですか?』。するとわしに云った。『これはわたしのものではなく、老師のものだ』。そしてわたしを連れていった、いわく。『こちらへ、彼の従順をごらんなさい』。そして小さな魚に触れ、これをわざと傷め、これを老師に供した。すると何もいわずに喰った。そこで彼に云った。『美味でしょうか、老師よ』。すると答えた。『とても美味じゃ』。その後で、すこぶる美味な部分を少し彼のところに持っていって、云った。『これを傷めてしまいました、老師よ』。するとこれに答えた。「うん、うん、これを少し傷めたな』。すると師父アトレがわしに云った。『従順が長老のものであることが、おわかりであろう』。そこで、彼らのところから戻り、自分の目にしたことを守るよう、全力を尽くしたのじゃ」。
 以上が、師父シソエースが兄弟たちに云ったことであった。さて、われわれの中の一人が、彼に願った、いわく。「どうか、わたしたちにご自身も一言を聞かせてください」。すると云った。「知識において無心(ajyhvfiston)を保持する者は、聖書全体を成就する」。われわれの中の別の者が彼に云った。「余所者であること(ceniteiva)とは何ですか、師父よ」。相手が云った。「沈黙せよ、そして、『どこに行こうと、そのすべての場において、わたしは関係をもたない』と云え。これこそが余所者であること(ceniteiva)である」。〔ピストス1〕

(61.)
 兄弟が師父ティトエースに尋ねた、いわく。「謙遜へ通じる道とはどのようなものでしょうか?」。するとこれに老師が言う。「謙遜に通じる道とは、自制、に祈ること、〔自分を〕あらゆる人間の下だと格闘すること、これじゃ」。〔ティトエース7〕

(62.)
 或る兄弟が、師父シソエースを師父アントーニオスの山に訪ねた、そして、彼らが話をしているときに、師父シソエースに向かって言った。「あなたはまだ師父アントーニオスの境位には達しておられないのでしょうか、師父よ」。すると老師が言う。「どうしてわしが聖人の境位に達し得ようか? わしが師父アントーニオスの想念の一つをいだくなら、わしは全身火のごとくなるだろう。ただし、苦労して彼の想念を担える人なら知っておる」。〔シソエース9〕

(63.)
 さらにまた兄弟が尋ねた、いわく。「はたして、サターンは昔の人々を、このように試みたのですか」。すると師父シソエースが答えた。「今はそれ以上である、というのは、あの方の〔裁きの〕時は近づいたが、乱れておるからじゃ」。〔シソエース11〕

(64.)
 別の或る人たちが、彼から言葉を聞くために彼のもとに訪れたが、彼らに何も話さなかった。ただ、「どうかわしを赦してほしい」と言うばかりであった。そこで彼らは彼の小籠を見て、彼の弟子アブラアームに云った。「この小籠をどうするのですか?」。すると言う。「これはあちこちで(w|de kajkei:)消費します」。すると老師が聞いて、云った。「シソエースでも、ときには(e[nqen kajkei:qen)食事する」。彼らは聞いて、大いに益され、彼の謙遜に高められ、嬉々として帰って行った。〔シソエース16〕

(65.)
 兄弟が師父シソエースに尋ねた、いわく。「わたしは自分自身が見えます、の記憶がわたしに現前していると」。すると老師が言う。「そなたの想念がとともにあることは、大きなことではない。偉大なのは、そなたがすべての被造物の下にある自分自身を見ることである。この身体的な労苦こそが、謙遜さへの道案内人である」。〔シソエース13〕

(66.)
 浄福なシュンクレティケーが云った。「あたかも釘なくして艤装され得ない船のように、謙虚さなくして救われる術はない」。〔N 1000、シュンクレティケー伝56〕

(67.)
 師父ヒュペレーキオスが云った。「生命の樹を高みに立てるのは、謙虚さである」。〔N 667〕

(68.)
 さらに云った。「ファリサイ派の者とともに断罪されないために、徴税人に倣いなさい〔ルカ18:10-14〕、また、あなたの険しい心を水の泉に変えるために、モゥセースの優しさを選びなさい〔詩篇113:8〕」。〔シュンクレティケー11〕

(69.)
 師父オルシシオスが云った。「生の〔焼かれていない〕煉瓦が、川の近くで土台に定礎されると、一日ともたない。しかし焼かれると、石のようにもつ。同様に、肉的な人間が思慮を持ちながら、イオーセープに倣ってへの畏れによって燃やされなければ〔詩篇104:19〕、権力の座に就いても滅びてしまう。なぜなら、人間どもの中にいるこういう人たちには、数多くの誘惑があるからだ。そこで、自分の程を知って、権力の重みを避けるのが美しい。しかし、信仰をしっかり保つ人は、不動である。316.20 至聖なるイオーセープについて語ろうとする者は、言う、— 地上の者ではなかった、と。彼はどれほどの試練を受けたことか、また、どのような地方で? 当時、そこには敬のかけらもなかった。しかし、彼の父祖たちのは彼とともにあり、彼をすべての苦患から連れ出し、今、自分の父祖たちとともに諸天の王国にいる。そういう次第で、われわれも自分自身の程を悟り、闘技しよう。そういうふうにしてこそ、辛うじての裁きを免れることができるからじゃ」。〔オルシシオス1〕

(70.)
 隠修者として砂漠を放浪していた或る老師が、諸徳を成就した、と心中に言った。そこでに祈った、いわく。「どうかわたしに示してください、よ、何か至らざるところあれば、わたしは実修します」。するとはその思量を謙らせようとして彼に云った。「しかじかの大修道院長のもとに行け、そして何かそなたに云うところあれば、実修せよ」。そしては大修道院長に啓示した、いわく。「見よ、何某という隠修者がそなたのもとにやって来る、そこで彼に云え、鞭を取って、豚どもを飼え、と」。さて、老師がやって来て、戸を叩いた、そして大修道院長のもとに入って来て、お互いに挨拶を交わした上で、坐した。そこで隠修者が言う。「どうかわたしに言ってください、救われるには、どうしたらいいのでしょうか」。これに言う。「されば、あなたに何を云おうと、実修なさるか?」。これに言う。「はい」。相手が云った。「この鞭を取れ、下がれ、豚どもを飼え」。そこで隠修者は退出して、豚どもを飼った。或る者たちは彼を見、彼のことを聞いて、豚どもを飼っているのをまのあたりにして、言った。「われわれが聞いてきた偉大な隠修者を見ろ。見よ、気が触れて、ダイモーン的なものに憑かれ、豚どもを飼っている」。しかしは彼の謙遜さが、人間どもの譏りをこれほど耐え忍んだのを見て、彼を再びその場所へともどしたのであった。〔N132E〕

(71.)
 老師たちのうち、砂漠に住む或る修道者を、ダイモーンに憑かれひどく泡を吹いている人物が頬を殴った。しかしその老師はもう一方の〔頬〕に変えて差し出した。するとダイモーンは、謙遜の炎にたまらず、すぐに彼から離れた。 〔Anony298〕

(72.)
 老師が云った。「高ぶりや高慢の想念がそなたに忍びこむたびに、そなたの意識(suneidvV)を調べよ、すべての誡めを守っているかどうか、そなたの敵を愛し〔マタイ5:44〕、彼らの短所を悲しんでいるかどうか、また、自分を無用者の下僕であり〔ルカ17:10〕、誰よりも罪人とみなしてしているかどうかを。また、あたかも万事において成功するかのように、断じて思いあがってはならない、このような想念は万事を破壊すると知って」。〔オール11、Anony299〕

(73.)
 老師が云った。「そなたの心中で、そなたの兄弟に対してこう云ってはならぬ、いわく —。わたしはもっと素面であり、もっと修行する者だが、クリストスの恩寵によって物乞いや偽りのない愛餐の霊に服している、それは虚栄の霊によってそなたの労苦を失わないためである、実際、〔聖書に〕書かれている。『立っていると思っている者をして倒れないように注意せしめよ』〔1コリント10:12〕、されば『塩で調味して』〔コロサイ4:6〕、主にあって喰うがよい」。〔オール13、Anony331〕

(74.)
 老師が云った。「値打ち以上に評価されたり称賛されるような者は、大いに害を被る。他方、人々に全く評価されないような者は、上界で栄光を受けるであろう」。〔オール10、Anony300、1部ニステロオス5〕

(75.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「多くの悔い改めをすることは美しいですか?」。これに老師が言う。「ナウエースの子イエースゥス〔=ヨシュア〕をわれわれは見る、ひれ伏した彼にが見られた〔ヨシュア5:14〕ということを」。〔Anony301〕

(76.)
 老師が尋ねられた。「何ゆえにかくもわれわれはダイモーンたちによって戦いを仕掛けられるのですか?」。相手が云った。「われわれがわれわれの武器を投げ捨てるからじゃ、羞恥、謙遜、無所有、忍耐をな」。〔Anony302〕

(77.)
 兄弟が老師に云った。「もし兄弟が関係のない無意味な話をわたしのところに持ちこんだら、いかがでしょう、師父よ、それをわたしのところに持ちこまないよう彼に云うべきでしょうか?」。老師が云う。「否」。そこで兄弟が云った。「何ゆえですか?」。すると老師が言う。「われわれがそれを守ることは不可能だからじゃ、われわれが隣人にそれをしなかったと言えても、今後、われわれがそれをするのを見出すかもしれぬからじゃ」。兄弟が言う。「それではどうすればいいのですか?」。老師が言う。「われわれが沈黙を好めば、その仕方が隣人を満足させる」。〔Anony303〕

(78.)
 老師が尋ねられた。「謙遜とは何ですか?」。相手が云った。「そなたの兄弟がそなたに罪を犯しても、そなたに対して彼が悔い改める前に、そなたが彼を赦すことじゃ」。 〔Anony304〕

(79.)
 老師が云った。「いかなる試練にあっても、人をではなく、そなた自身のみを非難せよ、こう言って —。わたしの罪のせいでこれらのことがわたしに結果したのだ、。〔オール12、Anony305〕

(80.)
 老師が云った。「断じて、わしの地位が高みを逍遙すべく超越したわけではなく、低きへと引きずり降ろされて混乱したわけでもない。なぜなら、わしの気遣いはすべて、古い人間からわしを放り出すまで、に懇願することじゃから」。〔?N660〕

(81.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「謙虚さとは何ですか?」。老師が言う。「そなたに悪事を為す者たちに善く為すことじゃ」。兄弟が言う。「しかし、ひとがこの境位に達していない場合は、どうしたらいいのですか?」。老師が言う。「彼をして、沈黙を選んで、逃れしめよ」。〔Cf. 1305A〕

(82.)
 他の兄弟が彼に尋ねた、いわく。「救いについてどうかわれわれに云ってください、師父よ。しかし何を云われても、われわれの大地が辛いことをわれわれは堅持しません」。

(83.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「余所者であることの業とは何ですか?」。老師が言う。「わしは余所者の兄弟と知り合いであった、教会にいたところ、折よく愛餐に出くわし、兄弟たちといっしょに喰うため食卓に就いた。すると或る者たちが云った。「誰がこいつまで呼んだのだ?」。そうして彼らは彼に云った。「立て、出て行け」。そこで彼は立ち上がって立ち去った。しかし別の者たちが悲しんで、出かけて行って、彼を招いた。その後、彼らは彼に尋ねた。「いったい、あなたの心中はどうなんですか、追い出され、再び入って来たというのは」。相手が云った。「わたしが心に留めたのは、まるで犬だということです。つまり、追い出されれば行き、招かれれば、やって来るところの」。〔Anony306〕

(84.)
 あるとき、テーバイの或る老師のもとに、ある人たちがダイモーンに憑かれた人を連れて、これを癒やしてもらうためにやって来た、老師はといえば、くどくど頼みこまれたので、ダイモーンに言う。「の被造物から出て行け」。するとダイモーンが老師に云った。「出て行くところだ、しかし、おまえにひとこと尋ねたい、どうかおれに云ってくれ。『山羊とは何で、羊とは何か?』」。すると老師が云った。「山羊とはわたしのことだ、羊が何かは、が知っておられる」。これを聞いてダイモーンが大声で叫んだ。「見よ、おまえの謙遜のせいでおれは出て行くのだ」。そうして、その瞬間に出て行った。〔Anony307〕

(85.)
 小テオドシオス皇帝の治下〔テオドシウス2世(401-50)〕、コーンスタンティヌゥポリスの郊外に、或るアイギュプトス人の隠修者が住持していた。さて、皇帝は、その道を進んでいるとき、皆の者を置き去りにして、ひとり進んで、修道者の戸を叩いた。相手は開けて、何者であるかを察知したが、これをひとりの高官(taxewvthV)として迎え入れた。そこで入るや、彼らは祈り上げ、坐した。すると皇帝は、アイギュプトスの師父たちはどうしているか、彼に問いただし始めた。相手が云った。「皆、あなたの皇帝のために祈っています」。そしてこれ〔小テオドシオス〕に云った。「少し喰いなされ」。そして、彼のためにパンを浸し、少しのオリーヴ油と塩をかけてやると、彼は喰った。さらに彼に水を加えてやると、飲んだ。すると彼に皇帝が云った。「わしが誰か知っているか?」。相手が云った。「あなたが何者か、が御存知だ」。このとき彼に言う。「わしは皇帝テオドシオスである」。するとすぐに老師は彼に跪拝した。するとこれに皇帝が言う。「浄福なるかな、そなたたち生に無頓着な者らは。真に、わしは帝位に生まれたが、今日のように、いまだかつてパンや水そのものを味わったことがない。たしかに、ひどく快適に喰った」。それから皇帝は彼をたたえ始めた。しかし老師は立ち上がって、再びアイギュプトスに帰って行った。〔N 308(欠番)〕

(86.)
 老師たちが言うを常としていた。「われわれが挑戦されないときこそ、ますますわれわれはへりくだらなければならない。なぜなら、はわれわれの弱さを知っておられるので、われわれを庇い、驕り高ぶる場合は、われわれからその覆いを取り去り、われわれは破滅するからである」。〔Anony309〕

(87.)
 兄弟たちの或る者に、悪魔が光の天使に変装して現れ、彼に向かって謂う。「我はガブリエール、そなたのもとに遣わされた」。相手はこれに云った。「他の者に遣われたのでないか見よ、わたしはその価値がないのだから」。すると相手はすぐに見えなくなった。〔Anony310〕

(88.)
 老師たちは言うを常とした — 真に天使がそなたに現れても、迎え入れるな、むしろ、そなた自身をへりくだらせよ、こう言って。「わたしは天使を見る資格はありません、罪の中に生きているのですから」。 〔Anony311〕

(89.)
 或る老師について言い伝えられている。— 彼が修屋に坐して競い合っているとき、ダイモーンたちと面と向かって見合い、連中を軽蔑した、自分競合相手だったからである。悪魔の方は、自分が老師に負けているのを見て、行きがてらおのれを顕現させた、いわく。「わしはクリストスである」。するとこれを見て老師は自分の両眼をつぶった。これに悪魔が言う。「どうしておまえの両眼をつぶるのか。わしはクリストスである」。すると老師が答えて云った。「わしはクリストスをここで見ようとは思わぬ」。これを悪魔が聞くと、消えていなくなった。そこで、数多くの謙遜にちなんで、は恩寵として彼に千里眼をさずけた。それで老師は、いつ誰々が彼に会いに来るかを知って、……自分から取り除かれるように懇願したのであった??? 〔Anony393〕

(90.)
 他の老師にダイモーンたちが言った。「クリストスを見たいか?」。相手が連中に云った。「おまえたちと、おまえたちの言うことに呪いあれ。というのは、わしが信じておるのは、次のように云われる我がクリストスだからじゃ、『誰かがあなたがたに、「見よ、ここにクリストスがいる、見よ、あそこに」と云っても、信じるな』〔マタイ24:23〕。するとすぐに見えなくなった。 〔Anony313〕

(91.)
 或る老師について語り伝えられている — 週に1度の食事で70年間の週をすごし、〔聖〕書のある1句について〔その意味を〕懇願したが、は彼に啓示なさらなかった。そこで彼は心中に言う。「見よ、これほどの辛苦をしたが、効がなかった、しからばわたしの兄弟のところに下り、彼に尋ねよう」。そうして出かけるために戸を閉めたとき、主の天使が彼に遣わされた、いわく。「そなたが断食した週の70年間が、に近づけることをしなかったが、そなたの兄弟のところに行こうとおのれをへりくだらせたとき、その語をそなたに告げるためわたしが遣わされた」、そうして探求していた語について彼を満足させ、彼から引き上げたのであった。〔Anony314〕

(92.)
 或る老師について言い伝えられている — ある恩寵について、7年間、に懇願しつづけ、ついに彼に与えられた。そこで或る老師のもとに出かけて行き、恩寵のことを彼に報告した。すると、これを聞いて件の老師は、悲しんだ、いわく。「大いなる尽瘁かな」。しかし彼に云った。「下がれ、もう7年間、そなたから取り除いてくださるようにお願いして過ごすがよい。そなたの益にはならぬのだから」。そこで帰ってそのとおりにし、ついに彼から取り除かれたのであった、と。〔Anony380〕

(93.)
 老師が云った。「ひとがへの畏れと謙遜を持って兄弟に事を為すよう下命するなら、兄弟に服従させ、下命されたことを実行させられる。ところが、ひとがへの畏れにしたがって兄弟に命じるのではなく、権力によってのように彼を意のままにしようとするなら、心に隠されたことを凝視したもうは、彼が聞くことはもちろん実行することさえ満足しない、それは、のために為される仕事でないのが明らかであり、権力の仕事であることが明らかだからである、というのは、のそれは勧告をともなう謙遜であるが、権力をともなうそれは、怒りと混乱に満たされ、邪悪から起こるものだからである」。〔Anony315〕

(94.)
 老師が云った。「わたしは謙遜をともなった劣敗を好む、高慢をともなった優勝よりは」。〔Anony316〕

(95.)
 老師が云った。「そなたのそばに立っている者を軽視するなかれ。の霊がそなたの内に宿るか、彼の内に宿るか、そなたは知らないからである。わたしが言うのは、まさにそなたのそばに立っている者、しかもそなたに仕えている者のことである」。〔Anony317〕

(96.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「もし、兄弟たちとともに住んでいて、不適切なことを見たら、いかがでしょう、口に出すべきでしょうか?」。老師が言う。「そなたより年上かそなたの同年齢なら、沈黙して平安を得るのがよい、それによってそなた自身を下にし、心配なき者となすからである」。これに兄弟が言う。「されば、どうしたらいいのでしょうか、師父よ。というのは、諸霊がわたしを乱すのですが」。これに老師が言う。「そなたが困っているなら、へりくだって一度は辛抱せよ、だがそなたのいうことを聞かないなら、個人的な意志は捨てて、そなたの辛苦をの面前にゆだねよ、ただし、そなたの煩いがにしたがって生じたかのように見られないよう留意せよ、だがわしの見るところ、沈黙するのがより美しい、それが謙遜だからである」。〔Anony318〕

(97.)
 別の兄弟が老師に尋ねた、いわく。「に対する修道者の進歩とは何ですか?」。老師が言う。「人間の進歩とは、謙遜である。なぜなら、人間が謙れば謙るほど、それだけますます進歩へと導かれるのだから」。 〔Anony381〕

(98.)
 師父たちの或る者が云った —。もしも人が或る人に、「どうかわたしを赦してください」と、謙虚に云ったら、彼はダイモーンたちを焼いているのだ、と。

(99.)
 老師が云った。「沈黙を獲得したら、おのれを徳の成就者とすることなく、『わたしはものをいう値打ちもありません』と言え」。〔Anony321〕

(100.)
 老師が云った。「もしもパン職人が家畜の両眼に目隠しをつけなければ、向きを変えて、その報酬を食ってしまうだろう、われわれも同様に、の摂理どおり目隠しをつけよう、われわれが働いている美しいものらを目にして、おのれ自身を浄福視しないよう、それゆえまた、われわれの報酬を喪失しないために、それゆえわれわれは汚れた想念に身を任せ、おのれ自身を断罪するためにそれら〔諸想念〕を見るばかりであるが、しあkしこの汚れはわれわれにとって小さな善の目隠しとなる。実際、人がおのれを咎めるときはいつも、自分の報酬を失うことがないのである」。 〔Anony322〕

(101.)
 老師が云った。「わしは教えるよりは、教えられたい」。〔N 668〕

(102.)
 さらに云った。「好機の前に教えるな。さもなければ、そなたの全時間、そなたは識見(sunevsiV)において劣った者となるだろう」。〔N 669〕

(103.)
 老師が、謙遜とは何かと尋ねられ、答えて云った。「謙遜とは、偉大にして的な業である。謙遜の道は、身体的な諸々の労苦であり、おのれを罪人にして、誰よりも下等なものとみなすことである」。すると兄弟が云った。「誰よりも下等なものとは、どういうことですか?」。すると老師が云った。「これがそうだ。他者の罪にではなく、いつもおのれのそれに傾注すること、そうして、たえずに懇願することである」。〔Anony323〕

(104.)
 ある修道者が、ある人から傷を受け、その傷を押さえながら、殴った相手の前にひれ伏した。〔Anony329〕

(105-106.)
 兄弟が或る老師に尋ねた、いわく。「どうかわたしに何か云ってください、わたしが守り、それによってわたしが生きられるように」。すると老師が云った。「もしもそなたが侮辱されても我慢することができるなら、それはどんな徳にもまして偉大なことである」。〔Anony324〕 老師が云った。「侮り(ejcoudevnwsiV)と乱暴(u{briV)と損害(zhmiva)を身に受ける者は救われることができる」。〔Anony325〕

(107.)
 老師が云った。「僧院長(hJgoumevnoV)を知己とするな、彼につきまとってもならぬ。なぜなら、それによって気易さを持ち、ついには僧院長になることを欲するだろうから」。 〔Anony326〕

(108.)
 彼がさらに云った、— 称讃される者は、自分の罪を思量し、自分は言われている内容に値しないということに思いを致さなくてはならない。〔イアコーボス2〕

(109.)
 ある兄弟が共住修道院にいたが、兄弟たちの罪過をすべて自分に帰し、ついには淫行までわたしが犯しましたとおのれを告発するまでになった。それで、兄弟たちの何人かは、彼の実修を知らず、彼に対して不平を鳴らし始めた、いわく。「あいつはどんなにか悪事をして、働かない」。しかし師父は、彼の実修を知っているので、兄弟たちに言った。「わしは、謙遜をともなった彼の1枚の敷物の方が好きだ、そなたらの高慢をともなった〔敷物〕すべてよりはな、いったいそなたらはに確信させてもらうつもりか?」。〔主題別14-30、Anony328〕

(110.)
 老師が尋ねられた。「『天使たちの幻を目にした』と言う人たちはどうですか?」。すると答えた、いわく。「修道者とは、いつも自分の罪を目にする者のことである」。〔Anony332〕

(111.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「わたしに敵意を持つ人にわたしが謝っているのに、相手がわたしに清らかでないのを目にするのは、なぜでしょうか?」。 するとこれに老師が言う。「わしに真実を云ってくれ、そなたは彼に謝りながら、彼こそがそなたに対して過ったのであって、そなたは戒律によって相手に謝っているのだと、そなたの心中に義忍しているのではないか?」。すると兄弟が言う。「なるほど、そのとおりです」。そこでこれに老師が云った。「そなたに対して清らかになるよう事態をが仕上げられなかった所以は、そなたが、彼に対して罪を犯したとして、確信を持って相手に謝っているのではなく、むしろ、彼こそがそなたに対して罪を犯したとみなしている、これ以外にはない。たとえ相手がそなたに罪を犯したとしても、相手に対して罪を犯したのはそなたの方だと、そなたの心に思い定め、そなたの兄弟を義認せよ、そうすれば、は彼がそなたに対して清らかとなるよう仕遂げられる」。そうして老師は彼に次のような喩えを物語った。
 何人かの敬虔な世俗の者たちがいたが、心を合わせて出離し、修道者となったが、福音の声に従って熱意に促されたのではなく、無知のまま、諸天の王国のためにおのれから去勢したのである。そして主教が聞いて、彼らを破門した。件の者たちは、自分たちの行いは美しいと思っていたので、彼に対して憤慨した、いわく。「われわれがおのれから去勢したのは、諸天の王国のためである、しかるにこいつはわれわれを破門した。行こう、やつの代わりに、ヒエロソリュモスの主教に会おう」。そうして出かけて行って、彼にすべてを報告したところ、彼らの主教が言う。「わしもそなたたちを破門する」。そして、このことを悲しみ、アンティオケイアの主教のもとに出かけて行き、彼に自分たちの件を云ったところ、彼もまた彼らを破門した。彼らは互いに言い合う。「ローメーに行こう、法王のところに、そうしたらあ、あの方がこれらすべての連中に対して擁護してくれるだろう」。そういう次第で、彼らはローメーの主教のもとに出かけて行き、主教たちが自分たちにしたことを彼に報告した。「わたしたちがあなたのもとにやって来たのは、あなたが万人の頭だからです」。ところが、彼もまた彼らに云った。「わたしもそなたらを破門する、そなたらは破門されたのじゃ」。彼らは途方にくれて、互いに云いあった。「各人各様に承認し合っているのは、宗教会議で通達されたのだろう、それなら、キュプロスの監督、の聖人であるエピパニオスのところに行こう、彼は預言者であり、人間の顔は取らないであろうから」。ところが、彼らが彼の都市に近づいたとき、彼らについて彼に啓示されたので、ひとを遣って彼らと面会させ、この都市に入らぬよう云った。このとき、彼らは我に返って云った。「まこと、われわれは転倒していた。たとえあの人たちがわれわれを破門したのが不正だったとしても、まさかこの預言者までがそうではあるまい。見よ、がわれわれについてあの方に啓示なさったのだ」。そうして、自分たちが行ってきた為業についてひどく自身を断罪した。まさにそのとき、心を知りたもうが、彼らが真にみずからを断罪したのを見て、キュプロスの監督エピパニオスに確信させ、みずからひとを遣って彼らを連れて来させ、励ましたうえで、共同体に受け容れ、アレクサンドレイアの主教に書簡を送った。「そなたの子どもたちを受け容れよ、彼らはに悔い改めたのだから」と。
 かくして老師が云った。「これが人の癒しであり、これこそのご意志である、ひとがおのれの前なる過ちをの面前に投げ出すことが」。〔Anony334a〕

(112.)
 二人の肉親の兄弟がいたが、悪魔が彼らを互いに離間させるためやって来た。或る日、弟が灯火を点けたが、ダイモーンが活動して、燭台を引っ繰り返し、灯火もひっくり返り、兄が怒って彼を殴った〔ので〕、ひれ伏した、いわく。「大目に見てください、わが兄よ、もう一度点けます」。すると、見よ、主の力が出て行き、夜明けまでダイモーンを拷問した。そうしてダイモーンがやって来て、その頭に出来事を報告した。するとヘッラス人たち〔異教徒〕の官がダイモーンの話を聞いて、出て行って、修道者となり、最初から謙遜を保持した。そうして言った — 謙遜は敵のあらゆる力を解体する、自分もやつから聞いたところでは、— 修道者たちを乱れさせようとして、その一人が転倒し、ひれ伏した、するとわしの力を無効させた、と。〔Anony77〕

(113.)
  師父ロンギノスが云った。「謙虚さを伴う敬神は、いかなる場合も美しい。なぜなら、冗談をいい、感謝しているように思われている人がいる。だが、長い間それをするなら、非難される。しかし敬虔な者が謙虚さの内におのれを保全すれば、いつも敬意を得る」。

(114.)
 さらに云った — 謙遜は、いかなる権勢よりも強力である。というのは、師父たちの或る者が語り伝えているからである — 二人の司教が、互いの近くにいたが、かつて、互いに軽蔑し合っていた。というのは、一人は富裕で、権勢者であったが、他方は謙遜者であった。そうして、権勢者は、謙遜者が悪行することを求めていた。しかし、心の謙虚な者は〔それを〕聞いて、〔相手が〕何をしようとしているか知って、その聖職者に言った。「わたしたちはの恩寵によって打ち勝つことができるでしょう」。だが人々が言った。「主よ、誰があの人とつきあえるでしょう」。すると彼が言った。「待つがよい、わが子らよ、そうすればの慈悲を見ることができよう」。かくして機会を窺い、件の者が聖なる殉教者たちの全祭をもったとき、自分の聖職を取って、彼らに言う。「わしについてきなさい、そうして、わしが何かするのを見たら、そなたらも実行せよ、そうすれば彼に打ち勝つことができよう」。彼らが言った。「いったい、わたしたちは何をしたらいいのですか?」。こうして彼のところに出かけて行き、司祭一行が通り過ぎ、都市が参集したとき、自分の聖職とともに彼の足許に投げだした、いわく。「どうかわたしたちをお許しください、主よ、わたしたちはあなたの僕です」。すると件の人は、彼のしたことに驚愕し痛悔し、がその心を変えさせたもうたので、彼の足を掴んだ、いわく。「あなたこそ、わたしの主にして父です」。そうして、そのときから、彼らの間に大いなる愛が生まれたのであった。そうして、心の謙虚なひとは、自分の聖職者に言うを常とした。「わしはそなたたちに言ったではないか、わが子らよ、の恩寵によって打ち勝つことができる、と。されば、そなたたちも、誰かに敵意をもったなら、これを実行せよ、そうして、われらの、イエースゥス・クリストスの恩寵によって打ち勝て」と。

(115.)
  師父マルキアーノスが云った。「われわれが謙虚さを気遣うなら、われわれが折檻(paideiva)に不足することはないであろう。なぜなら、あらゆる恐るべきことは、傲りによってわれわれに結果するからである。というのは、使徒にサターンの天使が、高慢になるためではなくて打擲するためために与えられなら、われわれが得意になればなるほど、ますますサタナースそのものが、われわれがついに謙るまで、われわれを殴り倒すために与えられるだろう」。

(116.)
 師父セラピオーンについて言い伝えられている — 彼の人生は、鳥類の一種のそれの如くで、この世のものをまったく所有することなく、修屋に決まってしがみつくこともなく、麻布をまとい、小さな福音書を〔携えて〕、神体なき者の如くに遊歴した。されば、彼は村の外や道に坐し、恐ろしいほど哀哭しているところを見出されることしばしばであった。そこで尋ねられる。「何ゆえそんなに哀哭するのですか、師父よ」。すると当人が答えるを常とした。「わしの主人が、ご自分の富をわしに預け、わしがそれを失ったり散財しても、わしを罰したり滅ぼしたりしようとなさらんのじゃ。そこで、その連中は聞いて、彼が金のことを言っているのだと思いこんだ。また、彼にわずかなパンを投げ与えて言うことしばしばであった。「受け取りたまえ、兄弟よ。君が失った富については、が君に送ってくださることができるのだ」。すると老師は答えた。「アメーン」。〔N 565〕

(117.)
 さらに、別のとき、アレクサンドレイアにいたが、凍えた物乞いに出くわし、立ち止まったまま心中に思量した。「どうしてなのか、修行者であり働き手だと思われているわしが外衣をまとっているが、この物乞いは — おそらくはクリストスであろう — 凍えて死にかかっているというのは? 当然、彼が死ぬにまかせれば、わしは人殺しとして審判の日に裁かれるであろう」。そこで、美しい競技者のように脱衣して、まとっていた外衣をその物乞いに与え、いつも携えていた小さな福音書を自分の腋にかかえ持って、裸で坐していた。さて、いわゆる平和の守り手(+O ejpi; th:V eijrhvnhV)〔治安判事〕がやって来て、彼が裸なのを見て、彼に向かって言う。「師父セラピオーンよ、そなたに脱がせたのは誰か?」。すると小さな福音書を取り出して、彼に向かって言う。「このかたがわしに脱がせたのじゃ」。
 また、そこから立ち上がって、負債のせいで他の者に捕まり、返済できないでいる別の或る人に行き合った。そこで福音書を売り、この不死なるセラピオーンは、暴行されていた物乞いの人の負債のために与え、裸のまま自分の修屋に帰っていった。そこで、彼の弟子が、彼が裸なのを見て、彼に向かって言う。「師父よ、小さな僧衣(kolovbion)はどこですか?」。すると彼に向かって老師が言う。「それは遣わしたのじゃ、わが子よ、われらがそれを必要とする所へ」。彼に向かって兄弟が言う。「小さな福音はどこですか?」。老師が答えた。「当然、わが子よ、日々わしに、『そなたの持ち物を売り払って、物乞いたちに与えよ』と言われるかた、この方を売って与えたのは、裁きの日にその方のもとで有り余る気易さ(parrhsiva)をわれわれが見出すためなのじゃ」。〔N 566〕

(118.)
 モニディアに住む兄弟は、しばしば悪魔の活動によって邪淫に陥り、聖なる格好を棄てないよう、おのれを強制しつづけた。しかしながら、自分のわずかな勤行を投げだし、呻吟しながらに呼びかけて、言った。「よ、わたしの必然をご存知です、わたしを強制してください。よ、わたしが望もうと望むまいと、わたしをお救いください。わたしは泥ですから罪を渇望しますが、御身は力あるですから、わたしを妨げてください。なぜなら、御身が義人のみを憐れまれるなら、何ら偉大なことではありません。清浄な者をお救いになっても、何ら驚嘆すべきことではないからです。憐れみに値する者たちだからです。わたしに対しては、御主人さま、あなたの憐れみをして、値しない者を驚嘆させてください、そして、「物乞いがあなたのために残されている」〔Ps. 9:35〕ということの中に、御身の人間愛をお示しください」。さて、彼を日々、〔邪淫に〕陥ろうと陥るまいと、彼は言った。すると、或る日、いつもどおり、夜間、罪に陥るや、彼はただちに起き上がり、定例の祈りを始めた。するとダイモーンが、に対する彼の希望と廉恥に驚いて、彼の目に見えるように現れて、彼に言う。「どれだけ詩篇朗誦するのか、の御前に立つなり、その名を唱えるなりして、まったく赤面することがないのはどうしてか」。これに兄弟が言う。「この修屋は鍛冶場である。鉄槌一撃をおまえが与え、鉄槌一撃をおまえが受け取る。されば、死ぬまでおまえとの格闘を堪え忍ぼう、ついに屠って、おまえに対して誓いを成就するまで。悔い改めた罪人たちを救いに来られる方にかけて、に祈って、おまえもわしに戦いをやめないかぎり、おまえに抗することをけっしてやめない、そうすれな、おまえかか、誰が勝利するかをわれわれはまのあたりにするだろう」。これを聞いてダイモーンが彼に言う。「本当に、これからはもうおまえに戦いは仕掛けない、おまえの忍耐ゆえに、おまえに花冠の証人にならぬために」。そうして、その日以来、ダイモーンは彼のもとを離れた。
 見よ、忍耐が、そして、われわれが戦いや罪や試みに何度陥ることになろうとも、おのれにあきらめないことが、どれほど善きことであるかを。されば、この兄弟は痛悔に赴き、それ以後、自分の罪を泣きながら坐した。されば、想念が彼に、「おまえは美しく泣いている」と言ったとき、彼自身も言った。「この美の呪わしいことよ。いったい何をは必要としておられるのか、ひとがその魂を失い、その〔魂〕ゆえに嘆きつつ坐し、あるいはまた、ついにおのれを救ったり、救わなかかったりするとは」。〔N 582〕

(119.)
 モニディアの同じ修道院に兄弟が独り坐していたが、彼の祈りはいつもこうであった。「よ、〔N 583〕

(120.)
 同じ人が自分の弟子に言った。「一人のお方を敬おう、そうすれば、万人がわれわれを敬うであろう。しかし、われわれがなる一人のお方を軽んじれば、万人がわれわれを軽んじ、われわれは破滅へと向かうであろう」。〔コロボスのイオーアンネース24、N 587〕

(121.)
 兄弟が老師に尋ねた、いわく。「どうして、師父よ、この世代は師父たちの苦行を凌駕できないのですか?」。すると老師がこれに言う。「を愛さず、人間どもを避けることもせず、世俗の質料を憎むこともせぬからじゃ。つまり、人間どもや質料を自発的に避ける人間は、彼に苦行がやってくる。というのは、人間は自分の畑に点火された火を消すことができず、質料をその〔火の〕前から取り除いたり切り捨てたりしないうちは、これを消せないように、人間も、パンそのものさえも労苦を以て〔のみ〕見出せる場に退かなければ、苦行を習得することはできない。なぜなら魂は、凝視しなければ、すぐには欲することもないからじゃ」。〔N 588〕

(122.)
 偉大な或る老師が、シュリアのアンティオケイアの山地に坐していた。だが、自分と共住する兄弟をもっていた。ところがこの兄弟は、ひとが躓くのを見ると、断罪しがちであった。されば、老師はこのことについて彼を諭すことしばしばであった、いわく。「自然に、わが子よ、そなたは迷動し、そなたの魂を滅ぼすだけじゃ、何びとも、自分の内に内住する霊でないかぎりは、人間の事を知らないからじゃ。というのも、多衆はしばしば人間どもの面前で数多くの悪事を働きながら、こっそりとに告解し、受け容れられているものじゃ。確かに罪をわれわれは知ったが、彼が行ったその他の善き事どもは、のみが知っておられる。〔N 589〕

(123.)
 さらに、遺恨について云った —。総じて、喧嘩したり、人を苦しめたり、人に苦しめられたりすることさえしないのは、天使たちにのみ属することである。対して、少しの間混乱させられるが、すぐに和解することは、美しき競技者たちに固有のことである。しかし、混乱させられ磨り減らされた或る者に時間を費やしたり、苦痛や怒りを終日持ち続けたりする者、この者はダイモーンたちの兄弟である。なぜなら、罪の赦しを懇請したり、から受け取ったりすることはできないからである、自分の兄弟が、たとえ自分に罪を犯したのだとしても、自分がそれを赦さないかぎりは。

(124.)
 さらに云った —。盗む者とか嘘をつく者、あるいは他の罪を犯す者は、罪の成就によってしばしばすぐに呻吟したりおのれを責めたりして、後悔に陥る。しかし、魂の内に遺恨を持つ者は、食むにせよ飲むにせよ、坐すにせよ歩きまわるにせよ、いつも毒のように内に引きこむ。なぜなら、不可分の罪を有し、その祈りは彼にとって呪いとなり、総じて彼の労苦はから何ひとつ思量されないからである。クリストスゆえにその血が流されようとも、彼の祈りが容認されることはない。〔N 590〕

(125.)
 老師が云った —。罪深き人間よりも不浄なるものはない、犬も豚も及ばぬ。なぜなら、後者は言葉なき存在なるも自分の地位を守っている〔にすぎない〕。だが人間は、の似像に倣って生まれながら、自分の地位を守らない、と。

(126.)
 さらに云った。「悲しいかな、罪に慣れ親しんだ魂。彼は食事のおり大食に慣れ親しんだ犬に似ている。時には追跡し鞭打たれ、しばらくは隠修することもあるが、再び習慣と食事に引き戻され、死ぬまでそこに坐っている」。

(127.)
 さらに、自分の弟子に云った。「悲しいかな、われわれは、わが子よ、犬ほどにもを畏れないとは」。かれの弟子が彼に言う。「そんなふうに言ってはなりません、師父よ、冒涜になりますから」。これに老師が言う。「冒涜であろうが、冒涜でなかろうが、次の一事は知っている、しばしば、夜間、わしは罪を犯す場所に赴いたが、その場所へ犬ころどもの声を聞くや、連中に怯えてすぐに引き返したが、神に対する畏れがなし得なかったことを、獣に対する恐怖が強めたのじゃ」。

(128.)
  さらに云った —。われわれが、人間どもを愛するようにを愛するなら、われわれは浄福である。なぜなら、わしは多衆を、その友たちを苦しめているのを見たが、彼らは、昼夜、慰めを動かせ、彼らを和解させるまで、賜物を贈ることをやめなかった。

(129.)
 真面目な兄弟が、異国からやって来て、シナイ山の小さな修屋に独り住持した。そうして、初日、坐するためにやって来て、小さな木切れに、かつてここに住持した兄弟によって記されているのを見つけた、以下のごとし。「われはテオドーロスの子モーゥセースなり、われは証言す」。そこで兄弟は、この木切れを、毎日、自分の眼前に置いて、記した者が居合わせるかのように尋ねた。「貴公はいったいどこに居るのか、そう言う貴公は? わたしがここに居て、わたしが証言するということか? この瞬間、いったい、貴公はいかなる世界に居るのか?」。そして、日がな一日そういうふうにして、墓を想起して慟哭しつづけた。しかしまた、手仕事として写字職を得、数多くの兄弟たちからパピルス紙や筆写の注文を受けた。さて、彼は誰にも何も書き残さずに死んだが、各人の紙片に書いていた、いわく。「どうかわたしを許してください、兄弟諸君、或る人のために小さな仕事を持っていて、書く暇がなかったのです」。

 この人の隣に別の兄弟が住持していたが、或る日、砦(kavstron)に出かけようとして、能書家の兄弟に言う。「〔N 519/520〕

(130.)
  オリーヴの山に坐していた兄弟が、或る日、聖都に降りて行き、執政官のもとに赴いて、これに自分の罪を打ち明け、これに告白した。「律法どおりにわたしを罰してください」。そこで執政官が驚いたが、心に決して、その兄弟に言う。「本当に、貴公、もはや貴公みずから貴公を告白したのだから、の前に貴公を裁くつもりはない。おそらく、が貴公をお許しにもなったのであろうから」。そこで兄弟は立ち去り、鉄をおのれの両脚と頸に懸け、おのれを修屋に閉じこめた。そうして、仮に人が、「師父よ、このような鉄の拷問を、誰があなたに課したのですか」と言って尋ねると、言った — 執政官が、と。さて、彼の命終の1日前、彼は鉄をおのれから外し、〔それらは〕彼から脱落した。そこでわたしは見て驚いて彼に云った。「誰が鉄をあなたから解いたのですか?」。わたしに言う。「わしの罪を解いたかたが。というのは、昨日、そのかたが現れたのだ、いわく。『見よ、そなたの忍耐のゆえ、そなたの罪をすべて解いた』と。そしてご自分の指で鉄にお触れになると、すぐにわしから脱落したのじゃ」。そうして、こう云って兄弟はすぐにのもとに逝ったのである。〔N 527〕

(131)
 数々の恐るべきことをしでかし、さまざまな仕方で身体を汚していた或る行政官(tacewvthV)がいた。しかし、のおかげで痛悔し、立ち去って、〔世俗に〕おさらばし、おのれのために砂漠に修屋を建て、奔流する川の下流の場所に坐した、自分の魂の気遣いをするためである。すると、知己たちの何人かが聞き知って、彼にパンやナツメヤシや、彼の必要品を送り始めた。しかし彼はおのれが平安の内にあり、何ものも足らざるものがないのを知って、おのれに言う。「われわれ〔自分と自分の魂〕は何も為さず、この安息は、彼岸の安息からわれわれを追い立てる。すると、わしはこの〔安息〕に値しないのだ」。そこでおのれの修屋を後にして隠修した、いわく。「行こう、魂よ、呵責へと、彼処の呵責に落ちないために。なぜなら、わしの糧は、言葉なきものらの養いこそふさわしい、言葉なきものらの行いと生をわしは行ったのだから」。〔N 528〕

(132.)
 修道院に、日頃から迂闊な或る兄弟がいた。この人がまさに逝去せんとしたとき、師父たちの何人かが陪席した。そうして、彼が陽気に、歓んで身体から出郷しようとしているのを観て、兄弟たちに建徳させることを望んで、彼に言う。「兄弟よ、たしかに、われわれはみな、そなたが苦行にあまり真面目でなかったことを知っている。そんなに熱心に逝こうとするのは、いったいどうしてなのか?」。するとその兄弟が言う。「たしかに、師父よ、あなたは真実を云っておられる。ただし、わたしが修道者になって以来、躓いた者を裁いたことなく、ひとに遺恨を持ったこともなく、同じ日にその者とすぐに和解し、に云うことを望んだ、『あなたは云われた、ご主人さま、「裁くな、そうすれば裁かれることはない」〔ルカ6:37〕と、また、「赦せ、そうすればあなたがたは赦される」〔Cf. イザヤ22:14〕とも」。そこで全員が建徳させられたので、彼に老師が言う。「そなたに平安あれ、わが子よ、そなたは労苦なくしても救われている」。〔N 530〕

(133.)
 この人をアイギュプトスの兄弟が訪ねたのは、邪淫に戦いを仕掛けられたからで、この戦いが自分から軽くされるために、自分のために祈ってくれるよう老師に懇願した。そこで、日に7度、彼のためにに懇願した。そして8日目に、兄弟に尋ねた。「戦いの様子は如何、兄弟よ」。すると件の人が彼に言う。「悪いです、自然にまったく軽さを感じません」。そこで老師は訝った、すると見よ、夜間、彼にサタナースが現れ、彼に言う。「信じるがよい、老師よ、最初の日から、おまえがに要請したので、おれは彼から離れたが、彼は固有のダイモーンを持っており、自分の喉に固有の戦いを持っているのだ、だから、おれはこの戦いに関係していないが、彼は自分でおのれと戦っているのだ、さんざん、食ったり飲んだり眠ったりしながら」。〔N 532〕

(134.)
 われわれのために師父テオドーロスが語り伝えられている — 痛悔の恩寵を持った或る兄弟がいた。ところが、日々の1日、まさに心の労苦から、彼におびただしい涙が結果した。すると、兄弟は見て心中に言った。「これは真に、ついにわたしの死の日が近いという徴だ」。〔N 537a〕

(135.)
 アイギュプトスに、スケーティス大沙漠とを分かつ山がある。ペルメー山と呼ばれる。この山に、およそ500人の修道者たちが住持している。そのなかにパウロスという人もおり、そういうふうに呼ばれて、次のような行住坐臥を堅持していた。〔すなわち〕仕事には触れず、商売に〔触れ〕ず、食べる分以上は誰からも受け取らなかった。ただ、彼にとっての仕事とはすなわち、不断に祈るという修行のみであった。だから、所定の祈りを300回を行った、そしてそれだけの数の小石を集め、籠の中にためておいて、1回祈るごとに、小石をひとつ籠の外に取り出した。
 この人物が、「市民(politikos)」と言われていた聖マカリオスと面談(syntychia)するために出かけ、これに言う。「師父マカリオスよ、わたしは悩んでいます」。すると彼〔マカリオス〕が、何ゆえにか云うようこれに促した。そこでこれが相手に言う。「ある村にひとりの乙女が住んでいて、30年間修行しつづけている。彼女についてひとびとがわたしに話してくれたところでは、安息日ないし主の日のほかは決して食事をとらないという。いやそれどころか、1週間から食事をする日を引いた5日の間ずっと、700回の祈りを行うということです。これを知って、わたしは300回以上行うことのできないので、自分に不満なのです」。
 聖マカリオスが彼に答えた。「わたしは60歳になる、定めの祈りを100回行い、食うための諸事をこなし、兄弟たちのために面談(syntychia)の務め(opheile)をはたしていて、しかもわたしが無配慮だと思念(logismos)が責めることはない。だから、あなたが300回行いながら、良心に責められるとしたら、明らかに、その祈りを清浄に行っていないか、あるいは、もっと多く祈ることができるのに、それなのに祈っていないかであろう」。〔ラウソス修道者史20〕

(136.)
 彼に兄弟が、鈍感さ(ajnaisqhsiva)について尋ねると、老師が答えた、いわく。「兄弟よ、助けになるのは、神来の老師たちの痛悔の語録ともども、聖なる諸書の常なる朗読、の畏怖すべき審判の記憶、身体からの魂の脱出、はかなく憐れなこの生において邪悪を実行した際の恐るべき諸力の、将来におけるそれ〔魂〕との出会うという〔記憶〕。かてて加えて、クリストスの恐るべき受け容れがたい法廷に、行為のみならず言葉について、とそのすべての御使いたちと端的にあらゆる所有の前で、弁明に思いを致して。恐るべき義しい裁判官が左側の者たちに述べるあの訴状をこそ常に思い出せ。「わたしから離れ去れ、汝らは呪われて、悪魔とその天しどものために備えられて永遠の火へと赴く」〔マタイ25:41〕。また、人間的な大いなる呵責を想起するのも美しい、頑なで鈍感な魂が、固有の悪しき情態を感知するためには。だが、兄弟たちへの愛に関する弱さは、そなたが猜疑から生じる諸想念を受け容れ、固有の心中を信じることから、また、選択意志によっては何ものをもこうむろうとしないことからもそなたに生じる。されば、に助けられながら、総じて固有の意向を原則として信じないよう心掛けよ、そして全力で、兄弟たちに対して謙り、自分の意志をおのれから切り捨てることに努めよ。もしそれらのいずれかがそなたを虐待し、あるいは、他の何かがそなたを迫害することあらば、その者のために祈れ、師父たちが云うを常としたように、〔相手をば〕そなたに大いなる善行をする者として、そなたの愛名心に対する医師として。なぜなら、これによってそなたの怒りも減少するのであり、少なくとも、聖なる師父たちによれば、怒りの手綱が愛だからである。しかし、何よりも、が、断食と、「善にして、嘉せられ、完全なるその意志」〔ロマ書12:2〕を知る叡知と、なおまた、あらゆる善き業へと身支度するための力をも、そなたに与えてくださるように願うがよい」。〔Cf. ガザのドローテオス192〕

2016.08.26.

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