砂漠の師父の言葉(主題別)15/21
原始キリスト教世界
語録集(Apophthegmata) 12
砂漠の師父の言葉(主題別)
(16/21)
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16.
(1.)
あるとき、兄弟たちが師父アントーニオスを訪ね、彼に言う。「われわれにおことばをください、どうすれば救われるのでしょうか」。彼らに老師が言う。「〔聖〕書に聞くがよい、〔それこそが〕そなたたちにとって美しい」。だが彼らは云った。「あなたからも聞きたいのです、師父よ」。そこで彼らに老師が云った。「福音書は言う、『汝の右の頬を打つ者あらば、彼に他の頬をも向けよ』〔マタイ5:39〕」。彼に言う。「そんなことはできません」。彼らに老師が言う、「他の頬をも向けることができないのであれば、せめて片頬を堪え忍べ」。彼に言う、「それもできません」。彼らに老師が言う、「それもできないのであれば、そなたらが受けた害の仕返しをしてはならない」。すると彼らは云った、「それもできません」。そこで老師は自分の弟子に言う、「この兄弟たちに、わずかばかりの粥を作ってやるがよい。弱っているのだから」。〔そして兄弟たちに向かって〕彼は言う。「そなたたちがこれをなし得ず、またあれを望みもしないなら、そなたらのためにわしは何ができようか。祈りが必要だ」。〔アントーニオス19〕
(2.)
師父ゲラシオスについて言い伝えられている 彼は金貨18枚の価値がある羊皮紙の〔聖〕書を持っていた。そこには、旧・新約のすべてが記されており、兄弟たちのうち望む者が読めるよう、教会に置かれていた。さて、兄弟たちのうち客のひとりが、老師を訪ねてきたが、それを見るや、それが欲しくなり、盗んで出て行った。しかし老師は、気づいていたけれども、彼をつかまえるためその後を追いかけることをしなかった。そういう次第でくだんの兄弟は町に行き、それを売るべく探した。そして、買いたいという者を見つけて、金貨16枚を要求した。すると、買おうとした者が彼に言う。「先ずわたしに渡せ、それを吟味しよう、そのうえであんたに代価を渡そう」。そこでそれを渡した。相手は受け取ると、これを吟味すべく師父ゲラシオスのところへ持って行った、売り手も言った値を彼に述べてである。すると老師が言う。「これを買うがよい、美しいものであり、そなたが述べた値段にあたいする」。そこでその人は戻って売り手に別様に云った、つまり老師が云った通りにではなく、こう言った。「見よ、これを師父ゲラシオスにお見せした、するとわしに、『高い、そなたの述べるだけの値打ちはない』と云われた」。聞いてくだんの者が彼に言う。「老師はあんたにほかに何も云われなかったのか?」。これに言う。「何も」。そのとき言う。「これを売るのはもうやめだ」。そして仰天し、老師のもとに行った、悔い改め、これを受け取ってくれるよう彼に願って。だが老師は受け取ろうとしなかった。そのとき兄弟は彼に言う、 あなたがこれを受け取ってくださらないと、わたしは安らぎを得られません、と。これに老師が言う。「そなたが安らぎを得られないのであれば、見よ、これを受け取ろう」。かくてこの兄弟は、老師のわざに益されて、死ぬまでそこに留まったのである。〔ゲラシオス1〕
(3.)
Factus est aliquando conuentus in Cellis pro causa quadam, et locutus est quidam abbas Euagrius, et dixit ei presbyter monasteriorum: Scimus, abba Euagri, quia si esses in patria tua, forte aut episcopus fueras, aut multorum caput; nunc autem hic uelut peregrinus es. Ille uero compunctus, non quidem turbulenter aliquid respondit, sed mouens caput, respiciensque in terram, digito scribebat, et dixit eis: Reuera ita est, Patres; uerumtamen »semel locutus sum, in Scripturis uero secundo nibil adiiciam.«
(4.)
あるとき、コロボスの師父イオーアンネースが教会の前に坐っていると、兄弟たちが彼を取り囲み、自分たちのさまざまな想念のことを彼に聞き合わせた。これを見て、老師たちの一人が妬みに戦いを仕掛けられて、彼に言った。「そなたの水差し(baukavlion)は、師父イオーアンネースよ、毒薬に満ちている」。これに師父イオーアンネースが言う。「そのとおりです、師父よ。しかし、あなたがそう云ったのは、外面だけを見てのことです。内なるものを見たら、何と云うことができることやら」。〔コロボスのイオーアンネース8〕
(5.)
師父アモーイの弟子であるテーバイ人の師父イオーアンネースについて言い伝えられている 彼は〔老師が〕病気になったとき、これに奉仕し、彼とともに茣蓙(xaravdrion)に坐して、12年間を過ごした。しかし老師は彼を軽視した。彼が彼のためにどれだけ苦労しても、彼に「救われるように」と云ったことはなかった。ところが命終せんとしたとき、老師たちが坐している中で、彼の手を握り、彼に言う。「救われるように、救われるように」。そうして彼を老師たちに預けた、いわく。「この者は天使であって、人間ではない」。〔テーバイのイオーアンネース〕
(6.)
スケーティスの司祭である師父イシドーロスについて言い伝えられている 病気で、軽蔑的で傲慢な兄弟を持っている人が、これを追い出そうとしたところ、老師が言った。「彼をわしのところに連れて来なさい」。そうして自分の修屋に彼を引き取って、寛容さによってその兄弟を救ったのであった。〔イシドーロス1〕
(7.)
師父ロンギノスについて言い伝えられている 彼の弟子たちの或る者が、彼を追放すると中傷された。そこで師父テオドーロス派の者たちがやって来て、彼に云った。「師父よ、この兄弟について何が起こったか聞いています。お命じになるなら、彼をあなたから引き取り、もっと美しい兄弟をあなたのために連れて来ましょう」。老師が彼らに云った。「わしは彼を追い出しはしない。わしを元気づけてくれるのだから」。そして理由を聞くや、老師が云った。「悲しいかな、われわれは天使になるべきここにやって来ながら、言葉なき不浄な生き物になっているとは」。〔*Anony1708〕
(8.)
師父マカリオスが、アイギュプトスにいたとき、駄獣を連れて来て、彼〔マカリオス〕の修屋を強奪しようとしている者を見つけた。しかし彼自身も余所者として門の傍に立って、いっしょになって駄獣に積んだうえで、大きな静寂さのうちに、彼を送りだした、いわく。「われわれは何ものをも持たずにこの世にやって来た』、主が与えてくださった。ご自身の御旨のままに、また成ったのだ。万事において、主は祝せられ給え〔1テモテ6:7、ヨブ1:21〕」。〔エジプトのマカリオス18〕
(9.)
あるとき、スケーティスで集会が持たれたが、師父たちが師父モーウセースを吟味しようとして、彼を侮辱した、いわく。「このアイティオプス人までわれわれの中に来ているとは、どういうことか?」。しかし彼は、これを聞いても、沈黙を守っていた。彼らが解散した後、彼に言う。「師父よ、先ほどあなたはちっとも当惑なさいませんでしたか?」。彼らに言う。「当惑した、が、話さなんだ〔詩篇76:5〕」。〔モーウセース3〕
(10.)
理髪師であった師父パウロと、その兄弟ティモテオスとがスケーティスに坐していた。彼らの間にはしばしば言い争いが起きた。師父パウロスが言う。「われわれはいつまでこんなことを続けるのだろうか?」。これに師父ティモテオスが言う。「どうか、わたしがそなたを困らせるときは、わしを我慢してくれ。そなたがわたしを困らせるときには、わたしもそなたを我慢するから」。このようにして、彼らは自分たちの生涯の残りの日々を平安に暮らした。〔理髪師・師父パウロス1〕
(11.)
師父ポイメーンの兄弟パエーシオスは、自分の修屋の外に何人かの者たちと関係を持っていた。だが師父ポイメーンは気に入らなかった。そこで立ち上がって、師父アムモーナースのもとに逃れ、これに言う。「わたしの兄弟パエーシオスは、何人かの者たちと関係を持ち、わたしは安らげません」。これにアムモーナースが言う。「ポイメーンよ、そなたは極端を生きるのか? 下がれ、そなたの修屋に坐せ、すでに1年、墓の中にいることをそなたの心に置け」。〔ポイメーン2〕
(12.)
師父ポイメーンが云った。「いかなる労苦がそなたに襲いかかろうとも、これに対する勝利は、沈黙である」。〔ポイメーン37〕
(13.)
ある兄弟が別の兄弟に不正され、テーバイ人・師父シソエースのもとに赴いて、これに言う。「ある兄弟から不正されました、わたしも自分が仕返ししようと思います」。しかし、老師は彼を諭す、いわく。「それはいけない、わが子よ、仕返しの件は神に任せる方がよい」。しかし相手は言った。「自分で復讐しないうちは収まりません」。そこで老師が云った。「祈ろう、兄弟よ」。そうして老師は立ち上がって云った。「神よ、もはやあなたが、わたしたちのことを慮る必要はありません。わたしたちは自分で仕返しをするからです」。すると、これを聞いた兄弟は、こう云って老師の足元にひれ伏した。「わたしはもう兄弟と争訟しません。どうかわたしをお赦しください」。〔シソエース1〕
(14.)
或る人が、棺台(kravbbatoV)に載せた屍体を運んでいる愛労者を見て、これに言う。「屍体を運んでいるのか? 下がれ、生者を運べ」。〔N335〕
(15.)
師父たちの或る者が云った。「そなたを侮辱する者あらば、彼を祝福せよ。彼がそなたを受け容れれば、両者にとって美しいが、受け容れなければ、彼は神から傲りを、そなたは祝福を受けとる」。
(16.)
修道者であった或る者について言い伝えられている 彼を侮辱したり、苛立たせようと思う者がいればいるほど、ますますその者のところに駆け寄った、いわく。「こういう人たちこそ、真面目な者たちにとって成就の原因となるが、浄福視する人たちは、魂を混乱させる。〔聖書に〕書かれているからである。『あなたがたを浄福視する者たちは、あなたがたを迷わせる』〔イザヤ3:12〕と」。〔主題別10-16, N336〕
(17.)
老師たちの或る者が云った。「ひとが彼を辱めたり、苦しめたり、妬んだり、要するに迫害する者の記憶を有するなら、これをクリストスに遣わされた医師として記憶すべきであり、これを善行者として有するべきである。なぜなら、それらのことにおいてそなたが迫害されることこそ、病気の魂の〔証拠〕である。というのは、病気にならない限り、気づかなかったろうから。そうして、彼のおかげで自分の病気に気づいたということで、その兄弟に感謝し、彼のために祈り、彼に起因することを、主から遣わされた効き目のある薬物として受け取るべきである。もしもひとりで苦しむことができるのなら、そなたは神に言っているのだ、『あなたの薬物をもらうことはお断りします、わたしの傷で腐るつもりです』と」。
(18.)
さらに云った。「病気から解放されるために、魂の恐るべき傷から癒やされたいと望む者は、医者に課せられたことを持ちこたえなければならない。なぜなら、身体的に病気で或る者は、切られたり下剤をもらったりすることを歓ぶことはないが、吐き気をしながらそれらを想起する。それでも、それらなくして自分が病から解放されるのは不可能だと、自身を説得し、医師から課せられることを我慢するのは、わずかな辱めによって長患いから解放されるはずだからである。そなたを辱めたり、そなたを悪罵するひとは、イエースゥスの焼き印であって、むしろそなたを虚栄から解放する有益な試練を避ける者は、永遠の生を避ける。自分を石化させることによって所有されるような栄光を、聖ステパノスに与える者があろうか?」。
(19.)
さらに云った 。わたしを中傷する連中をわたしは責めはせず、善行者と呼ぶ、また、虚しい魂に不名誉の薬をあてがう魂の医師を逃げはしない」。
(20.)
さらに云った。「クリストスの十字架を見つめ、その受難を朗読しよう、そうすればわれわれは暴虐を何ひとつ受けることはない」。
(21.)
あるとき、ある老師の修道院に盗賊がやって来て、彼に云った。「おまえの修屋にあるものすべていただきに来た」。相手が謂った。「そなたたちによいと思われる限り、子どもたちよ、もって行くがよい」。そこで修屋に見つけられたものを取って、引き上げていった。ところが、そこにぶらさがっていたひとつの金袋(marsivppion)を忘れていった。そこで老師は、それを取ると、彼らの後を追いかけた、叫びながら、こう言いながら。「子どもたちよ、そなたらの修屋に忘れていったものを受け取れ」。連中は、老師の堅忍に驚嘆して、修屋にあったすべてを彼に返し、悔い改めた、お互いにこう云いながら。「このひとは真に神の人である」。 〔Anony337〕
(22.)
あるところに二人の修道者が住んでいたが、老師たちのうち偉大な一人が、彼らを訪ねた。そうして、彼らを吟味しようと、杖を執って、一人の野菜を打ちのめしはじめた。するとこれを見て兄弟は身を隠した。そうして一つの根が残ったので、兄弟が彼に言う。「師父よ、よろしければ、それは容赦してください、わたしが料理しますから、いっしょに味わいましょう」。すると老師がその兄弟の前にひれ伏した、いわく。「そなたの堅忍のおかげで、神の霊がそなたの上にとどまっている、兄弟よ」。〔Anony343〕
(23.)
兄弟たちが、砂漠の地に坐している聖なる老師を訪ねたが、彼の修道院の外で、子どもたちが放牧しながら、不適切なことばを口にしているのを見出した、そこで、自分たちの想念を彼に打ち明けて、彼の識見に益された後で、彼に言う。「師父よ、どうやってあの子どもらに耐えておられるのですか、そうして連中が野放図にならぬよう連中にいいつけないのですか?」。すると老師が云った。「まことに、兄弟たちよ、彼らにいいつけようとした日が何日もあるが、そのたびにおのれを咎めたのじゃ、いわく。『こんな小さなことを担えぬなら、もっと大きな試練がわしに襲い来たったとき、どうして担えようか』とな。わしが彼らに何も言わない所以は、何が襲来しようと担える糧となるからじゃよ」。〔Anony338〕
(24.)
別の老師について老師たちが語り伝えている いっしょに住んでいる子どもを持っていた、その子が自分のためにならぬ業をなしているのを見て、これに一度云った。「そんなことをしてはならない」と、しかし彼のいうことを聞かなかった。で、いうことをきかなかったので、老師は無関心となり、それの私的な判断に任せた。すると若者は、糧食が蓄えられている小屋の戸を閉ざし、13日間断食する老師を放置し、老師も、「どこにいるか」とか「どこに行ったのか」とか彼に云わなかった。ところで、老師はある隣人を持っていた、彼〔隣人〕は、若者が遅いことに気づいて、わずかな煮物を作って、壁の隙間から彼に差し出し、彼に味わうよう頼んだ。しかし、「兄弟はどうして遅いのか?」と彼に云うと、老師が言った。「あれは時機がくればやって来よう」。〔Anony341〕
(25.)
ある人たちが語り伝えている あるとき、哲学者たちが修道者たちを吟味しようとした。すると、一人の者が美しく着飾って通りがかったので、これに言う。「おまえ、こちらに来い」。相手は怒って彼らを侮辱した。さらにまた別のリュビア人の偉大な修道者に行き合い、彼に言う。「おまえ、性悪の年寄りめ、こっちへ来い」。すると相手は真面目にやって来た。そこでこれに平手打ちをくらわせた。すると相手はもう一方の頬をも彼らに向けた。そこで彼らはすぐに立ち上がり、彼の前に平伏した、いわく。「見よ、真の修道者だ」。そうして彼を自分たちの真ん中に坐らせ、彼に尋ねた、いわく。「あなたはこの砂漠でわれわれ以上に何をしたのですか? 断食ですか、われわれも断食しました、徹宵ですか、われわれも徹宵しました、何であれあなたのしたことは、わたしたちも実修しました、されば、砂漠に坐したわたしたちより何を余計に実修なさったのですか?」。彼らに老師が言う。「わたしたちは神の恩寵に希望をいだき、理性を見張ります」。当の彼らも言う。「わたしたちはそれを守ることができないのです」、そうして彼らは益されて、彼を去らせたのであった。 〔Anony342〕
(26.)
師父たちの或る者が、経験を積んだ弟子を持ったが、あるとき、短気から、彼を追い出してしまった。しかし兄弟は外にじっと坐していた。そうして、老師が戸を開けて彼を見つけ、その前にひれ伏した、いわく。「師父よ、あなたの謙遜と寛容がわたしの短気に勝利しました。さあ、中へお入りください、これからはあなたが老師にして師父であり、わたしは新参者であり弟子です。あなたの業によってわたしの老齢を凌駕なさったのですから」。〔ローマ人の師父2〕
(27.)
老師たちの或る者が言った 。わしは何人かの聖人たちから聞いたことがある 若い者たちがいて、老人たちを生へと導く、と。実際、〔その老師は〕次のように語っていた
ある酔っぱらいの老師がいた、そうして、日に〔1枚の〕敷物を製作し、これを村で売って、その代価で飲むを常とした。後に、ある兄弟が彼のところにやって来て、彼とともに住持し、このひともまた敷物を製作した。老師はこれをも受け取って売り、両人の代金で飲んで、夕方にわずかのパンを持って帰った。彼がこれをすること3年、兄弟は何も口に出さなかった。しかしその後、心中に言う。「見よ、わたしは裸で、わたしのパンも食うに事欠いている、されば、立って、ここから出て行こう」。だがもう一度心中で想念した、いわく。「どこに立ち去れよう、もう一度坐すことにしよう、わたしが共住して坐すのは、神のためなのだから」。するとすぐに主の御使いが彼に現れた、いわく。「断じて去ってはならぬ、明日、われわれはそなたのところに行くから」。そこでその日、兄弟は老師に願う、いわく。「断じて出かけないでください、今日、わたしの〔友たち〕がわたしを迎えに来るのですから」。ところが、老師の出かける刻がくると、彼に言った。「今日、彼らはやって来ない、わが子よ、彼らは遅刻したのだから」。しかし相手が云った。「いいえ、師父よ、彼らはきっと来ます」。しかし、相手としゃべりながら、彼は永眠してしまった。すると老師が泣きながら言った。「情けなや、わが子よ、わしは長年おざなりに生きてきた。しかるにそなたは短時間のうちに、忍耐によってそなたの魂を救ったとは」。そのとき以来、老師は慎慮して、経験ゆたかな〔修道〕者となった。〔Anony340〕
(28.)
偉大な老師の隣人のある兄弟について言い伝えられている 彼はその老師の修屋に忍びこんで盗みをした。で、老師が目撃したが、彼を咎めることなく、余計に働いた、いわく。 たぶん、兄弟には必要なのじゃろう、と。ところが、老師は非常に窮迫し、自分のパンにも事欠く有様であった。そして老師が命終しかかったので、兄弟たちが彼を取り囲んだ、すると盗んだ者を見て彼に言う。「わしに近く寄れ」。そうして彼の両手に接吻すると、言った。「この両手に感謝あれ、わしが諸天の王国に下がれるのは、この〔両手の〕おかげなのじゃから」。相手は刺し抜かれ悔い改め、自分が目にした偉大な老師の実修から、みずからも経験ゆたかな修道者となった。〔Anony339〕
(29.)
師父カシアーノスが云った スケーティスの司祭・偉大なイシドーロスには、パプヌゥティオスという執事がいたが、これはその徳によっても、死後これを継ぐために司祭にされた人物である。この人物は、敬虔さから役職には就かず、執事にとどまった。さて、この人物を、敵の企みによって老師たちの或る者が妬んだ。そうして、集会のために教会に全員がいる時に、出かけて行って自分の書を師父パプヌゥティオスの修屋に投げこんだうえ、赴いて師父イシドーロスに報告した 。いつか兄弟たちの誰かがわたしの書を盗みました、と。もちろん師父イシドーロスは驚いた、いわく このスケーティスでそんなことが起こるはずがない、と。すると、書を投げこんだ老師がこれに言う。「師父二人をわたしといっしょに派遣してください、修屋を調べるために」。さて、彼らが出かけると、老師は彼らを他の者たちの修屋に連れて行き、最後に師父パプヌゥティオスの修屋に〔連れて行った〕。そうしてその書を発見し、これを教会の司祭のところに持って行った。すると師父パプヌゥティオスは、全会衆の前で、司祭の師父イシドーロスにひれ伏した、いわく。「罪を犯しました、どうかわたしに罰を与えてください」。そこで、3週間彼は交わってはならぬという罰を彼に与えた。かくて、各集会の度に出かけて行って、教会の前で全会衆にひれ伏した、いわく。「どうかわたしを許してください、わたしは罪を犯しました」。そして3週間後、交流を許された。するとすぐに、彼を誣告した老師がダイモーンに憑かれ、告白しはじめた、いわく 。わたしは神の僕を誣告しました、と。そこで全教会によって彼のために祈りがささげられたが、癒やされることはなかった。このとき、大イシドーロスが万人の前で師父パプヌゥティオスに言う。「彼のために祈るがよい。そなたは誣告されたが、そなたによらぬ限り、彼は癒やされまい」。そこで彼が祈ると、たちどころに老師は健康になった。
(30.)
兄弟が、師父たちの一人に尋ねた、いわく。「悪魔はどのようにして、聖人たちに試練をもたらすのですか」。すると、これに老師が言う、 師父たちの中に、名をニコーンという者がいて、シナー〔シナイ〕山に住んでいた。ところで、見よ、一人の男が、あるパラーン人の幕屋にやって来て、その娘が独りなのを見つけ、彼女と罪に陥った。そして、彼女に言う。「隠修者である師父ニコーンがわたしをこのような目に遭わせたと言え」。そうして、自分の父親が戻って来て、知ったとき、剣を取って長老のもとへ行った。そうして彼が扉を叩くと、老師が出て来た。そこでこれを殺そうとして、彼は自分の剣を突きつけたが、その手は萎えてしまった。そこで、このパラーン人は帰って、司祭たちに云った。そこで彼らは彼のもとに人を遣わした。そして老師がやって来た。そこで彼にしたたかな鞭打ちを課したうえで、追放しようとした。すると呼びかけた、いわく。「神にかけて、悔い改めるために、わたしをここに留めてください」。そこで彼らは、3年間、彼を人々から離し、誰も彼を訪れないように、という命令を下した。そうして彼は3年間をすごした、主の日ごとに悔い改めのために出かけてゆき、そうして皆に呼びかけた、いわく。「わたしのために祈ってください」。さて、罪を犯して隠修者にこの試練を与えたかの男は、その後ダイモーンに憑かれた。そして、教会で、「わたしは罪を犯しました」と告白し、神のしもべを誣告したと云った。そこで、民衆はみな出かけ、老師の前にひれ伏した、いわく。「どうかわたしたちをお赦しください、師父よ」。すると彼らに言う。「赦すことについては、あなたたちは赦されるように。留まることについては、もはやここにあなたたちとともに留まらない、わたしを哀れんでくれるほどの分別を持つ人は、一人も見出せなかったからである」。じつにこのようにして、彼はそこから隠遁した。また老師は言った。「どのようにして悪魔が聖人たちの上に試練をもたらすかが分かるであろう」。〔ニコーン〕
2016.04.18.
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