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原始キリスト教世界

語録集(Apophthegmata) 13

砂漠の師父の言葉(主題別)
(18/21)





18.

千里眼の持ち主たちについて

(1.)
 師父アントーニオスに、あるとき、砂漠で、啓示された —。都市に、知識においてそなたに似た医師がおり、自分に余分なものを、必要とする者たちに施し、日がな一日、の御使いたちとともに、 三聖唱(trisavgion)を詠唱している、と。〔アントーニオス24〕

(2.)
 兄弟が、スケーティスにある師父アルセニオスの修屋にやって来て、窓を通して覗いて、老師が全身火のようになっているのをまのあたりにした。しかしこの兄弟は、見るにふさわしい人物だった。そうして戸を叩くと、老師が出てきて、びっくりしているらしい兄弟を見た。そうして彼に言う、「長い間戸を叩いていたのか。ここで何か見たのではないか」。相手が謂った。「いいえ」。すると彼に話をしたうえで、これを帰したのだった。〔アルセニオス27〕

(3.)
 師父アルセニオスの弟子が、あたかも誰か他者についてのように — おそらくは本人であったのであろう — 云った、いわく。老師たちの或る者が、おのれの修屋に坐っていると、彼に声が聞こえた、いわく。「こちらへ、そうすれば、そなたに人間どもの業を見せよう」。そこで彼は立ち上がって出て行った。すると彼をとある場所へ連れて行き、アイティオピア人が木を伐り、大きな荷を作っているのを彼に示した。で、それを持ち上げようとしたが、できなかった。しかし、それから取り去るのではなく、さらに木を伐って、その荷に加えた。そして何度もそれをした。さらに少し進むと、今度は湖のほとりに佇み、そこから水を汲み、壊れた容器に移し替えるのだが、同じ水が湖に流れ出ているのだった。そしてさらに彼に言う。「こちらへ、そなたに別のを示そう」。そして、殿と、馬に騎乗した二人の男を観る、彼らは一人が一人の前に、樹木を斜めに抱えていた。そして門から中に入ろうとしたが、できなかった、木が斜めだったからである。しかし、丸太をまっすぐにして運ぶよう、一人が別の者の後ろにへりくだろうとしなかった。そのため彼らは門の外にとどまっていた。
 そこで彼に言う。「これらの者は、正義の軛のように傲りをもって運ぶ連中で、自らをまっすぐにし、クリストスの謙遜の道を歩むべくへりくだることがない。それゆえにまたの王国の外にとどまる。で、樹木を伐っている人間は、多くの罪の中にいる、そうして、悔い改める代わりに、自分の罪の上に、他の不法を加算しているのだ。また、水を汲んでいる人間は、確かに美しい業をなしてはいるのだが、そこに悪しき混合をもったが故に、自分の美しき業さえも滅ぼしてしまった。されば、あらゆる人間は、虚しい労苦を為すことがないように、自分の業に対して素面でいなければならないのだ。〔アルセニオス33〕

(4.)
 また、師父ダニエールが語り伝えている、いわく —。われわれの父、師父アルセニオスが、あるスケーティス人について云った、— 彼は偉大な実修者であったが、信仰においては小賢しかった。そして素人ゆえに躓いた。それで言うを常とした。「われわれがいただくパンは、自然本性としてクリストスの身体ではなく、象徴である」。彼がこんな言を言っていると二人の老師が聞いて、彼が生き方の点で偉大な者であるのを知っていたので、悪意のない小賢しさから言っているのだと思量し、彼のもとに赴き、これに言う。
 「師父よ、わたしたちはある人について不信心な言葉を聞きました、— われわれがいただくパンは、自然本性としてはクリストスの身体ではなく、象徴だと言っているというのです。老師が言う。「そう言っているのはわたしです」。そこで、彼らは彼を戒めた、いわく。「そのように捉えてはなりません、師父よ、普遍なる教会が伝えているように〔捉えなさい〕。というのは、われわれは信じているのです、— パンそのものがクリストスの身体であり、飲み物そのものが真実クリストスの血であり、象徴ではないのだ〔ルカ22:19-20〕、と。いや、初めに大地から塵を取って、御自分の似姿に即して人間を創造なさった〔創世記1:26〕、だから何びともの似像ではないとは言い得ないのです、たとえ把握しがたかろうとも。そのように、パンは、わたしの身体であると云われたのであり、そのように、真実クリストスの身体だとわたしたちは信じているのです」。しかし相手の老師は謂った。「わたしは事実そのものによって説得されない限り、満足しない」。そこで、彼らは彼に言った。「この1週間、この秘;についてにお願いしましょう、そうすれば、がわたしたちに啓示してくださると信じます」。老師はこの言葉を喜んで受け入れた。そしてにお願いした、いわく。「主よ、わたしが悪意によって不信心なのでないことは、あなたがご存じです。むしろ、わたしが無知の中に迷うことにないよう、どうかわたしに啓示をお与えください、主、イエースゥスのクリストスよ」。
 老師たちの方は、それぞれの修屋に戻り、彼らもに願った、いわく。「主、イエースゥスのクリストよ、彼が信じるように、この啓示を老師にお与えください、そして、彼の労苦を無駄にしないようにさせてください」。するとは両者に耳を傾けられた。その週が終わると、彼らは主の日に教会に赴き、かの長老を真中にして、三人だけが一つの敷物の上に立った。と、彼らの目が開かれた。パンが聖なる食卓に置かれると、彼ら三人だけに、幼児として現れた。そして司祭がパンを割くために手を伸ばすと、見よ、戦刀を持った主の使いが天から下って、その子を供犠し、その血を杯に注いだ。また、司祭がパンを小さな部分に割くと、天使も幼児を細かく切った。そうして彼らが聖なるものを拝領するために近づくと、かの老師にのみ、血のしたたる肉が与えられた。これを見た彼は、恐れ、叫んだ、いわく。「信じます、主よ、パンがあなたの身体であり、飲み物があなたの血であることを」。すると、たちまち彼の手の中の肉が、秘によってパンとなった。彼は、に感謝しつつそれを拝領した。そのとき、老師たちが彼に言う。「は、生の肉を食べることができないという人間の本性を知っておられ、だからこそ、信仰において拝領する人々のために、身体をパンに、血を葡萄酒に作り変えるのです」。彼らは、老師について、彼の労苦が無駄になることをお許しにならなかったならなかったことをに感謝し、そうして三人は、喜ぴをもって自分たちの修屋に戻っていったのである。〔ダニエール7〕

(5.)
 同じ師父ダニエールが、アイギュプトスの下流地域に住持していた別のある偉大な老師について語り伝えている、― 彼は小賢しくも、メルキセデクはの子であると言っていた。そこで、アレクサンドレイアの主教である浄福なるキュリロスに彼のことを告げた。そこで彼のもとにひとを遣った。そして、この長老が奇蹟のしるしを現す者であり、彼がに何かを尋ねると、が啓示すること、そして彼が先のように語ったのは彼の単純さによるということを知り、知恵を働かせて、長老にこう言った。「師父よ、あなたにお願いがあります。わたしの想念が、メルキセデクはの子であると言い、また別の想念が、そうではなく人間であって、の大祭司であると言うのです。そのために、そのことでわたしは猜疑し、あなたのもとに遣わされたのです、このことに関してあなたに啓示してくださるようあなたがにお願いするために」。すると老師は自分の生き方に勇んで、気易く(meta; parjrJhsivaV)云った。「わたしに3日間猶予してください。わたしもまた、このことについてに尋ね、これがどういうことなのかをあなたに告げましょう」。かくして彼は立ち去り、この説話(rJh:ma)についてに請い願った。そして3日後やって来て、浄福なるキュリロスに言う、― メルキセデクは人間である、と。すると大主教は彼に云った。「どうしてそれが分かるのですか、師父よ」。相手が云った。「がわたしの、アダムからメルキセデクまですべての太祖あらわにされたのです。そして、このとおりであると元気づけられたのです」。こういう次第で〔老師は〕立ち去り、メルキセデクは人間であると自ら布令たのであった。もちろん浄福なるキュリロスは大いに喜んだ。〔ダニエール8〕

(6.)
 師父エプライムが少年だった〔ころ〕、次のような夢もしくは幻を見た、— 葡萄が彼の舌に芽生え、成長して、たくさんの実を結んで、天の下全体を満たした。そして、天のあらゆる鳥がやってきて、ぶどうの実をついばんだ。食べれば食べるほど、その実が増えるのであった。〔エプライム1〕

(7.)
 さらに別のとき、聖人たちの一人が幻の中に見た、天使の一団がの命令によって、天から下ってきたが、その一団が手に持った巻物は、内と外とに文字の書かれていた。そして彼らは互いに言いあっていた。「誰がこの巻物を受け取るべきか?」。と言い合っていた。そしてある〔天使〕たちは「この者だ」と言い、他の天使は「別の者だ」と言った。だが、彼らは答えて云った。「真に彼らは聖人であり、義人である。しかし、エプライム以外は、誰もそれを受け取ることはできない」。そして老師は、エプライムに巻物が渡されるのを見た。そこで朝早く起き、エプライムがその口から泉が湧き出るように説教するのを聞いた。そして、エプライムの唇から出る言葉は、聖霊から来るものだと理解したのである。〔エプライム2〕

(8.)
 師父ゼーノーンについて言い伝えられている — 彼はスケーティスに住持していたが、ある夜、沼地に行こうとして自分の修屋を出た。ところが迷って、三日三晩をさまよって過ごした。そして疲れ果てて倒れ、死んだようになった。すると、見よ、少年が彼の前に立った、パンと水の壺とを持っていた。そして彼に言った。「起きて、喰べなさい」〔列王記上19:7〕。そこで彼は起き上がり、礼拝した、幻だと思ったからである。すると相手が彼に云った。「あなたの行いは美しい」。そこで再び、二度、三度と礼拝した。すると彼に言う。「あなたの行いは美しい」。そこで老師は起き上がって、喰った。するとその後で〔少年が〕彼に言う。「あなたは歩き回れば回るほど、あなたの修屋から遠ざかったのだ。しかし、起き上がってわたしについて来なさい」。すると、すぐに自分の修屋を見つけた。そこで老師は彼に云った。「入って、わたしたちのために祈ってください」。しかし、老師が入ると、あの〔少年〕は見えなくなった。〔ゼーノーン5〕

(9.)
 聖なる師父たちが、世の終わりについて、預言しあっていた。「われわれはいかなる働きをすべきであろうか」と彼らは謂った。すると彼らの一人、偉大な師父イスキュリオーンが答えて、云った。「われわれはの掟を実修した」。すると〔幾人かが〕答えて云った。「われわれの後から来る者たちは、いったい、何を為すのだろうか」。すると〔イスキュリオーンが〕云った。「彼らはわれわれの業の半分に達するだろう」。すると彼らが云った。「では、彼らの後の人々はどうか」。彼が云った。「その時代の人々は、何のわざも持たぬ。試練が彼らにやって来ることになる。だが、その時に資格ありとみなされた者たちは、われわれや、われわれの師父たちよりも偉大な者となるだろう」。〔イスキュリオーン〕

(10.)
 師父イオーアンネースが云った — 老師たちの一人が脱魂状態にあって見た、と。そして、見よ、3人の修道者が海辺に立っていた。すると、別の岸から彼らにこう言う声がした。「火の翼をとって、こちらへ、わたしのところに来るがよい」。そこで、二人は受け取り、別の岸まで飛んでいった。だが、もう一人はとり残され、激しく泣いて叫んだ。やがて、彼にも翼が与えられたが、それは火の翼でなく、弱く無力なものだった。そこで苦労して、沈んだり浮いたりしながら、大変な艱難のすえ、向こう岸にたどり着いた。この世も同様である、翼を受け取るとしても、火の翼ではなく、弱く無力なのをかろうじて受け取っているのだ。〔イオーアンネース14〕

(11.)
 師父ロンギノスについて言い伝えられている — あるとき、或る船主が彼に寄進するため、自分の船荷から黄金を彼のために持ってきた。だが相手は受け取ることを拒んで、彼に云った。「ここではこれに用はなく、愛餐を実修しなされ、つまり、そなたの家畜に騎乗し、急いで聖なるペトラの橋を手に入れなされい。そうしたら、しかじかの外衣を着た或る若者を見つけようから、彼にこの黄金をそっくり与え、そうして彼に、持っておられるものは何かと尋ねよ」。そこで、船主は急いで、出かけて行き、老師が彼に云ったとおりであることを見出した。そこで彼に尋ねた。「どこに行かれるのですか、兄弟よ、わたしは師父ロンギノスのところにいたのですが、彼がわたしをあなたのところに遣わしたのです、あなたにこの黄金を与えるようにと」。このとき、若者が自分の悩みを彼に説明した —。わたしは多数の財貨を失って、融通ができないので、首を吊るため都市の外に出て行くところです。あなたが信じるよう、見よ、縄も持っています」。そうして、自分の懐から取り出して、彼に見せた。そこで船主は彼に黄金を与え、都市に帰るよう彼を変心させた。そうして師父ロンギノスのもとに帰って、彼に事情を話した。すると老師が彼に言う。「信じよ、兄弟よ、そなたが急いで彼に出会わなかったら、わしとそなたは彼の魂について裁かれたことであろう」。〔*Anony1709〕

(12.)
 また、別のとき、おのれの修屋に坐していたが、師父たちが彼を訪ねたとき、突然立ち上がり、誰にも何も告げずに、自分の修屋から出て行き、港に急いだ。そうして、港に近づくや、見よ、アイギュプトス地方からやって来た船が到着し、これには、彼を訪ねようとして或る聖なる老師が乗っていた。そうして、互いに聖なる抱擁によって挨拶を交わすや、祈りに耽った。するとそのアイギュプトス人がに言った。「よ、わたしはあなたに願いました、わたしのことがこの老師の知るところとなり、彼が労苦を忍ぶことがありませんように、と」。そうして師父ロンギノス修屋に赴いたが、翌日、このアイギュプトスの老師は永眠したのであった。〔*Anony1710〕

(13.)
 師父マカリオスが大砂漠に住んでいたときのことである。さて、そこで隠修していたのは独りであったが、下手には、非常に多くの兄弟たちを擁する別の砂漠があった。そこで、老師は道を見張っていた。すると、人間の姿をしたサターンが上って来て、彼のそばを通り過ぎようとしているのが目に入った。穴のあいた亜麻布の上着をまとっているように見えた。穴ごとに小瓶がぶらさがっていた。そこで彼に偉大な老師が言う。「どこへ行くのか」。するとこれに云った。「兄弟たちに想い出させに行くのだ」。そこで老師が云った。「おまえのその小瓶はいったい何のためだ?」。すると云った。「兄弟たちにいろいろな味を持って行くのだ」。老師が云った。「いったい、それで全部か」。答えた。「そうだ。一つが気に入らない者には他のものをやる。それも気に入らなければ、他のものを与える。全部の中で少なくとも一つは気に入るのがあるだろう」。こう云って立ち去った。
 老師はといえば、やつが再び帰ってくるまで、道を見張りつづけた。そうして老師は彼を見つけるや、これに言う。「救いがあるように」。相手が答えた。「どうして俺に救いなどありえよう」。これに老師が言う。「どうして?」。相手が言う。「皆が俺に頑なで、誰も俺を迎えないのだ」。これに老師が言う。「それでは、おまえはあそこに友は一人もいないのか」。相手が答える。「いや、一人の修道者を友としてあそこに持っていて、そいつだけは俺に聴従する。彼は俺を見ると、風のよう変心するのだ」。これに老師が言う。「その兄弟はいったい何と呼ばれているのだ」。相手が言う。「テオペムプトス〔「の遣わせし者」の意〕だ」。彼はこう云うと、去って行った。
 そこで、師父マカリオスは立ち上がると、下手の砂漠に出かけて行った。すると兄弟たちが聞きつけて、ナツメヤシの枝を執って彼に会いに出て来た。それからめいめいが準備をした、老師が自分のところに立ち寄ってくれると考えたからである。しかし彼は、山にいるテオベムプトスという者が何者かを探した。そして見つけると、その修屋に入った。テオペムプトスは喜んで彼を迎えた。しかし彼が一人になりはじめるや、老師が言う。「そなたの事情はどうか、兄弟よ」。相手が云った。「あなたの祈りのおかげで、美しいです」。そこで老師が云った。「もろもろの悪しき想念が、そなたに闘いをしかけて来はしないか」。相手が云った。「今のところは美しいです」。云うことを恥じたからである。これに老師が言う。「見よ、わしは長い間修行して、万人から誉められているが、邪淫の霊が老いぼれたわしにたかるのじゃ」。テオペムプトスもこう言って答えた。「信じてください、師父よ、わたしもなのです」。つまり老師は、別の諸々の想念までが自分に闘いをしかけてくるということを口実に、ついに彼が告白するよう仕向けたのである。ついで、彼に言う。「そなたはどのくらい断食するのか?」。相手が彼に言う。「第九時課までです」。これに老師が言う。「晩まで断食し、修行せよ。福音書と他の〔聖〕書を暗誦せよ。もし想念がそなたにのしかかっても、決して下を見ず、つねに上を見よ。そうすれば、すぐに主がそなたを助けに来てくださる」。老師は兄弟に指図したうえで、自分の砂漠に帰って行った。
 そして、再び見張りをしていると、例のダイモーンを見たので、これに言う。「今度はどこに行くのか」。相手が言う。「兄弟たちに想起させるために」。そして去っていった。再び戻って来ると、これに聖者が言う。「兄弟たちはどうだったか」。相手が言う。「うまくいかなかった」。そこで長老が言う。「なぜか」。相手が云った。「みなが頑なで、もっと悪いことに、俺に服従していたあの友までが、誰が惑わせたのか知らないが、俺に従わないだけでなく、一番頑固になってしまった。だから、当分の間はあそこには足を向けまい、と決心したのだよ」。こう云って、老師を残して去って行った。そこで、聖者も自分の修屋に入ったのである。〔エジプトのマカリオス3〕

(14.)
 師父マカリオスについて言い伝えられている — 時課祈祷を執り行うため教会に行く途中、兄弟たちの1つの修屋の外で、一団の或るダイモーンたちが、女に変装し、みだらなことを言い、他の連中は若衆に〔変装して〕侮辱し、あるいは、他の連中は踊り、さらに別の連中はさまざまな姿に変身しているのを目にした。そこで老師は嘆息して云った。「まったくこの兄弟は等閑に過ごしている、だから邪悪な霊が、かくも猥りに彼の修屋を取り巻いているのだ」。さて、日課時?を執り行い、引き返す時、その兄弟の修屋に入って行き、彼に言う。「わたしは苛まれている、兄弟よ、しかしわしはあなたに信を置いている、そこでわたしのために祈ってくれるなら、確実に神はわたしの心を呵責から軽くしてくださるだろう」。すると兄弟は宥恕を請うた、いわく。「師父よ、わたしはあなたのために祈る資格はありません」。しかし老師は頼み言いつづけた。「わたしは立ち去らない、毎夜わたしのために一つの祈りをすると、わたしに言葉をくれないかぎりは」。ついに兄弟は老師のいいつけにしたがった。老師がこんなことをしたのは、彼が夜な夜な祈る理由のきっかけを彼にもたらそうとしたからである。さて、兄弟は夜間に起き上がり、老師のために祈りを上げた。ところが、祈りを満たすや、痛悔にとらわれ、心中に言った。「惨めな魂よ、老師のために祈りながら、自身のために祈らないとは」。そこで自身のためにも一つの祈りを上げた」。こういうふうにして1週間を過ごし、毎夜2つの祈り — 一つは老師のために、ひとつは自身のために — を挙げて。かくて主日に、老師は教会に行きがてら、兄弟の修屋の外にダイモーンたちが立っているのを再び見たが、連中は呻吟していた、それで老師は知った、兄弟が祈ることで、ダイモーンたちが呻吟しているのを。そこで大喜びして、兄弟のところに入って行った、いわく。「恩恵を施し、毎夜わたしのためにもうひとつの祈りを上げてもらいたい」。そこで老師のために2つの祈りを上げたが、またもや痛悔の念にとらわれ、心中に言った。「おお、悲惨な者よ、おまえ自身のためにももうひとつ祈りを加えるがよい」。かくて、まる1週間そのとおりにした、毎夜、4つの祈りを全うした。すると再び老師がやって来て、ダイモーンたちが呻吟し、沈黙しているのを見て、神に感謝し、再び兄弟のところに入って行って、自分のためにもうひとつの祈りを付け加えるよう彼に頼んだ。そこで兄弟は自身のためにも付け加え、夜毎、6つの祈りを上げた。かくして再び老師が兄弟のところにやって来た時、ダイモーンたちは兄弟の救いの件で憤慨して、老師に怒った。すると老師は神を栄化し、その修屋に入って行って、ゆるがせにするのではなく間断なく祈るよう彼に勧告し、彼のもとを立ち去った。ダイモーンたちはといえば、祈りに対する彼の持続と断食を見、神の恩寵により退散した。〔Anony66〕

(15.)
 彼がさらに言うを常としたのは、兄弟たちを慰めようとしたからである。「ダイモーンに憑かれた少年が、自分の母親に連れられてここにやって来て、自分の母親に言った。『立つのだ、婆さん、ここから連れて行ってやろう』。彼女が云った。『わたしはもう歩けない』。するとこれに少年が云った。『俺があんたを背負って行ってやるよ』。わしが驚いたのは、ダイモーンの悪辣さじゃ、いかに彼らを逃げさせようとするかという」。〔エジプトのマカリオス6〕

(16.)
 師父マカリオスがスケーティスの荒廃について兄弟たちに言うを常とした。「沼の近くに修屋が建てられるのを見たら、その荒廃は近いと知れ。樹木を見たら、それは戸口に迫っている。少年たちを見たときには、そなたたちの羊の毛皮を取って、隠修するがよい」。〔エジプトのマカリオス5〕

(17.)
 あるとき、師父モーウセースが邪淫に激しく闘いを挑まれた。もはや修屋に坐っている力なく、出かけて行って、師父イシドーロスに打ち明けた。すると、自分の修屋にもどるよう老師が彼に呼びかけた。承知しなかった、いわく。「わたしにはその力がありません、師父よ」。すると彼を連れてみずから屋根にのぼり、彼に言う。「西を向け」。そちらを向くと、ダイモーンたちの無数の大群を見た。連中は混乱し、戦いに騒ぎ立っていた。次に師父イシドーロスが彼に言う。「東をも見よ」。そこで向くと、栄化される聖なる天使たちの無数の大群を見た。すると師父イシドーロスが云った。「見よ、彼らは、聖人たちを助けるために主から遣わされたものたちである。だが、西の方の連中は、彼らに戦いを仕掛ける者たちだ。されば、われわれとともにいる者たちの方が多数である」。じつにこういうふうにして、師父モーウセースはに感謝し、勇気を取り戻して、自分の修屋に戻っていった。〔モーウセース1〕

(18.)
 師父モーウセースがスケーティスで言うを常とした。「もしわれわれがわれわれの師父たちの命令を守るならば、蛮族がここに来ることはないと、わしはにかけてそなたたちに保証しよう。だが、われわれが守らないならば、この地は荒らされるだろう」。〔モーウセース9〕 またかつて、兄弟たちが彼のそばに坐っていたころ、彼らに言った。「見よ、蛮族が、今日、スケーティスに襲来するであろう。さあ、立ち上がって、逃げよ」。彼らが彼に言う。285.30「するとあなたはお逃げにならないのですか、師父よ」。相手が彼らに云った。「わしは長年この日を待っていたのじゃ。『剣を執る者たちはみな、剣に滅びる』〔マタイ26:51〕と言われた主なるクリストスの言葉が成就するために」。彼らが彼に言う。「わたしたちも逃げないで、あなたとともに死にます」。相手が彼らに云った。「わしは関わりを持たぬ。めいめいが在り方を見よ」。ところで、兄弟は7人で、彼らに言う。「見よ、蛮族が門まで近づいて来ている」。やがて入って来て、彼らを殺した。彼らの中の一人は縄の山の後ろに逃れた。そして、7つの冠が降りて来て、彼らに戴冠するのを見た。〔モーウセース10〕

(19.)
 師父たちの何人かが、テーバイの師父マルケッロスについて語り伝えている — 彼の弟子がしばしば云った — 彼は主日に時課礼拝に出かけようとすると、自分で準備して、〔聖〕書の或る部分を、教会に着くまでに暗記した。そうして、そういうふうに彼が練習している間、彼の唇は、ヒトがこれを聞かないよう、動くことがなかった。そうして集会に立つと、彼の胸は涙に濡れた。というのは、彼は言うを常とした —。集会が執り行われている間、わしは教会がすべて火のごとくなるのを観じ、教会が終わると、再び火が退くのだ」。〔*Anony567〕

(20.)
 師父シルゥアーノスについて言い伝えられている、— 彼がシュリアに向かって出発しようとしたとき、彼の弟子マルコスが彼に云った。「師父よ、わたしはここを出て行きたくありません。いや、わたしはあなたを出発させたくないのです、師父よ。いや、3日間ここに留まってください」。そして3日目に、彼は永眠した。〔シルゥアーノスの弟子マルコス5後半〕

(21.)
 師父イオーアンネースが言うを常とした、— あるとき、われわれはシュリアをでて、師父ポイメーンのもとを訪れ、心の頑迷さについて彼に尋ねるつもりであった。しかし老師はヘッラス語を知らず、通訳も居合わせなかった。すると、われわれが困っているのを見て老師は、368.1 ヘッラス語の発音で話しはじめた、いわく。「水の自然本性は柔らかく、石のそれは硬い。しかし、石の上に吊り下げられ、一滴ずつ落ちる水差しの水は、石を穿つ。同様にの言葉は柔らかいが、われわれの心は硬い。だが、人あってしばしばの言葉を聞くならば、彼の心はへの畏れへと開かれる」。〔ポイメーン183〕

(22.)
 彼がさらに云った。「聖書に書かれている。『鹿が水の泉をあえぎ求めるように、わたしの魂もあなたを、よ、あえぎ求める』〔詩編41:2〕。鹿たちは砂漠で沢山の爬虫類を飲み込む。そしてその毒が自分を焼くとき、水辺に来ることを渇望する。飲むことで、爬虫類の毒から身を鎮めるのである。同様に、修道者たちも、砂漠に坐し、邪悪なダイモーンたちの毒に焼かれたとき、土曜日と主の日を渇望し、その結果、水の泉に、つまり、主の身体と血に赴くのである。悪の苦しみから浄められるためである。〔ポイメーン30〕

(23.)
 他の兄弟が、こう言って彼に尋ねた。「『悪に悪を返すな』〔1テサロニケ五・一五)とは、どういう意味ですか?」。これに老師が言う。「この情念は、4つの対処法を有する。第一は心によって、第二は視覚によって、第三は舌によって、第四は悪に悪を返さないことによってである。もしもそなたの心を浄めることができるならば、視覚にやって来ない。視覚にやって来るならば、それを口にしないように見張れ。しかし、口にするのならば、せめて悪に悪を返さないよう、ただちにそれを断ち切るがよい」。〔ポイメーン34〕

(24.)
 (sequitur textus latinus)
 〔 聖なる司祭バシレイオスが、次の出来事を語り伝えている。ある修道院に一人の姉妹がいて、彼女は狂人で、ダイモーン〔に取り憑かれた〕ふりをしていた。他の姉妹たちは、偏見にとらわれたあまりに、誰も彼女と食事を共にしないほどであった。彼女は台所を離れることなく、ありとあらゆる下働きをした。それが彼女の選びであった。僧院のスポンジと諺にあるとおり、彼女は行動によって聖言をまっとうしていたのである。『もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思うひとがいるなら、知者となるために愚者となるがよい』〔1コリン、3_18〕。彼女は頭に布きれを結わえ — 他の女たちはみな毛を刈りこみ、頭巾付き外套をまとっていたから — そうやって下働きしていた。
 彼女の人生の歳月の間、彼女が口をもぐもぐさせているのを見た者は、400人の修道女たちのなかに一人もいなかった。食卓についたことなく、パン切れをもらったことなく、食卓の上の屑を集め、壺を洗って、それら〔の残り物〕で満足していた。かつて誰かを侮辱したことなく、不平をこぼしたことなく、少なくも多くもしゃべったことがなかった。酷使され侮辱され、罵られ、嫌悪されることはあっても。
 ところが、聖ピテールゥムに天使が臨み、彼に言う。
 「こんな場所に座っているだけなのに、敬神者(eulabes)のごとくそなた自身を誇るのは何ゆえか。そなたよりも敬神の念篤き女を見たいか。タベンネーシスの女たちの修道院に行ってみよ、そうしたら、そこに頭に頭巻布をまいた女をひとり見つけるであろう。彼女はそなたより善い女である。あれほどの群衆と拳闘しながら、彼女の心(kardia)はから離れたことがない。しかるにそなたときたら、ここに座っていながら、精神(dianoia)は国中をさまよっている」。そこで彼は今まで出かけたことはなかったが、その修道院まで出かけていって、女たちの修道院に入れるよう教師たちに頼んだ。彼らは、彼が高名であり、老いていたので、信用して彼が案内されることを許した。
 こうして入って、すべての女たちを見るために歩いた。彼女は姿を現さなかった。最後に彼女たちに言う。「すべての修道女たちをわたしに見せてくれ。ほかにも残っているはずだから」。〔修道女たちが〕彼に言う。「気のふれたのが内の台所にひとりいます」。 — 受難している女たちのことを彼女たちはそういうふうに呼んでいたのだ。彼女たちに言う。「その女をもわたしのところに連れてきてくれ。彼女に会わせてくれ」。彼女らは彼女のところに出かけて声をかけた。彼女は耳を貸さなかった、おそらくは、事態を感じていたのか、あるいはまた、啓示されていたのであろう。力ずくで引き立て、彼女らは彼女に言う。「聖ピテールゥムがあんたに会いたいのだよ」。彼には名声があったからである。
 こうして、彼女が来ると、彼女の額の頭巻布を見て、彼女の足下に身を投げ出して彼女に言う。「わたしを祝福してください」。同様に彼女も彼の足下に身を投げ出して、言った。「あなたがわたしを祝福してください、主よ」。女たちはみなびっくりし、彼に言う。「師父よ、侮辱を受けてはいけません。彼女は気がふれた女です」。女たち全員にピテールゥムが言う。「おまえたちこそ気がふれている。この女性はわたしにとってもおまえたちにとっても太母だ — そういうふうに霊的な女性のことを彼らは呼んでいた — 。だから、裁きの日に、彼女にあたいする者として見いだされるようわたしは祈るのだ」。
 これを聞いて、〔修道女たちは〕彼の足下に身を投げ出し、全員が口こもごも告白(exomologesthai)した。ある女は、皿の食い残しを彼女に浴びせかけたという。別の女は、げんこつでぶったという。別の女は、彼女の鼻を辛子責めにしたという。そうして、全員がさまざまな暴行(hybris)を報告した。そこで彼女たちのために祈って、彼は立ち去った。そして数日後、くだんの女は姉妹たちの讃美(doxa)と礼遇(time)に耐えられず、また、弁解を負担に感じて、修道院から出て行った。そしてどこに行ったのか、どこに潜伏したのか、どのように命終したのか、知るものは一人もいない。
Cf.『ラウソス修道者史』34話〕

(25.)
 師父パコーミオスについて言い伝えられている — 死人の棺台が道に運び出され、これに行き合った師父パコーミオスは、二人の御使いが、藁布団の後ろを、その死人についてゆくのを目にし、彼らについて思量して、自分に出来事を啓示してくださるように頼んだ。すると、二人の御使いが彼のところにやって来たので、彼らに云った。「あなたがたは御使いでありながら、何ゆえこの死人についてゆかれるのですか?」。すると御使いたちが彼に云った。「わたしたちの一人は第4日目〔水曜日〕の〔御使い〕であり、一人は準備の日〔木曜日〕の〔御使い〕です。そして、この魂は死ぬまで、水曜日と木曜日に断食をやめませんでした、それで、わたしたちも、こ〔の魂〕の棺のそばに付き添っているのです。そ〔の魂〕の死まで断食を守ったこと、このゆえにこそわたしたちも、これ〔魂〕がにあって格闘したことを栄化するのです」。

(26.)
 聖アントーニオスの弟子、純朴者、浄福なる師父パウロスは、師父たちに以下のような事件を物語った。— あるとき、監査のため、また兄弟たちの益のために、修道院に居合わせたが、彼らの互いとお決まりの対話を交わした後、お決まりの時課祈祷を果たすため、の聖なる教会に入っていった。そこで浄福なるパウロスは、(と彼が謂う)、教会に入ってゆく者たちの各人に、一体どんな魂の状態で時課祈祷に与るか、を注視した。というのは、彼は主から彼に与えられたそういう恩寵を持っていて、各人が魂においていかなる者であるかを、われわれが互いの顔を視るように見えたのである。で、皆が顔を輝かせ、喜びに満ちた表情で入って行き、各人の天使がその人を喜んでいる中で、一人だけ、(と彼が謂う)、全身が黒くて暗い者を見た、ダイモーンたちがこの者を両側から押さえつけ、しかも彼を自分たちの方へ引っ張り、その鼻にひき綱を懸けている。また、彼の聖なる天使は陰鬱に、意気消沈して遠くからついて行っているのであった。パウロは涙を流し、手で絢を打ち、教会の前に坐った、このように彼に示された人のことを激しく泣くためである。
 この人の思いがけない振舞いと、涙と悲しみに駆り立てられたその急な変化を目にした人たちは、なぜ泣いているのか云うよう彼に尋ねた、皆を非難してそうしているのではないかと思ったからである。そして、自分たちと一緒に時課祈祷に加わるようにと彼に願った。しかし、パウロスは首を振り、外に座っていた、自分の見た人のことを激しく嘆くためである。さて、時課祈祷が終わってしばらくの後、全員が外に出て来たので、パウロスは改めて各人を精査した、どのように出て来るのかを知りたいと思ったからである。すると件の人物が、前には全身が黒くて暗かったのに、顔を輝かし、真っ白い身体をして、教会から出て来て、ダイモーンたちがかなり遠くから彼に従い、聖なる天使が大変嬉しそうに彼のそばについているのを見た。
 そこで、パウロスは喜びのあまり跳び上がり、を祝福して叫んだ、いわく。「おお、の言い表し得ぬ人間愛と善性よ!」。そして、高い段の上に駈け登り、大声で言った。「来て見よ、のわざを〔詩編45:9〕、何と畏るべく、また驚嘆に値することよ。来て見よ、すべての人が救われ、真理を認めに来ることを望まれるを〔ティモテ2:4〕、来て礼拝せよ、主の前にひれ伏し〔詩編96:6〕、『あなただけが罪を消し去ることができる』と言おう」。そこで、皆は興奮して駆けつけた、言われることを聞こうとしたからである。そして皆が集まったので、パウロスは教会の入口で自分に見えたこと、続いて起こったことを語り、が突然このような変化を恵みとしてもたらした理由を話してくれるように、かの男に求めた。
 さて、その人物はパウロスによって曝かれ、皆の面前で自分のことをありのまま話した、いわく。「わたしは罪人です」と彼が謂う、「久しい以前から、今に至るまで、わたしは邪淫の中に生きていました。ところが今、の聖なる教会の中に入ると、聖なる預言者ヘーサイアースが読まれているのを、否むしろ、彼を通しては話しておられるの聞きました。「身を洗え、清浄な者となれ、あなたがたの心からあなたがたの邪悪を取り除け。わたしの眼前で、美しいことを為すことを学べ。たといあなたがたの罪が緋のようであろうとも、わたしは雪のように白くする。そして、こころあってわたしに耳を傾けるなら、あなたがたは地の善きものらを喰うだろう〔イザヤ1:16-19〕」。わたしは」、と彼が謂う、「預言者の言葉によって魂を揺さぶられ、わたしの精の中で嘆息し、に云った。— あなたはです、罪人たちを救うためにこの世に来られたお方よ〔1テモテ1:15〕、今あなたの預言者によって告げられたこと、罪人であり何の価値もないこのわたしにおいて、成就してください。見よ、今より後、わたしはあなたに言葉を捧げ、おさらばし、心からあなたに告白します、— もはやいかなる悪も断じて行わず、すべての違法から離脱し、今から清浄な良心をもってあなたに仕えます〔1テモテ3:9〕と。今日、おお、主よ、この瞬間から、悔い改め、あなたの前にひれ伏し、今後あらゆる罪から遠ざかるわたしを受け容れてください」。このように約束して」と彼は謂う、「わたしは教会から出て来たのです。の御前で、もはやいかなる悪も行わないと、自身の魂の中で決心して」。
 これを聞いて、皆は声を合わせて、に向かって叫んだ。「あなたのわざは何と多いことか、主よ。あなたは万物を知恵において造られた〔詩編103:24〕」。されば、おお、キリスト者よ、的な書と、聖なる啓示から、がどれほどの善性を有しているかを知るがよい。すなわち、のもとに真摯に避難し、悔改めをもって自分のかつての躓きを矯正する人々に対するの憐れみを。そして、が過去の諸々の罪に対する審判を行うことなく、約束された良きものを再び与えることを学んで、自分自身の救いに絶望しないようにするがよい。というのは、預言者ヘーサイアースによって告げられたように、は罪に深く沈んだ人々を洗い、羊毛や雪のように白くし、彼らを天のヒエルゥサレームの善きものにふさわしいものとするのだ。また同様に、は再び預言者イエゼキエールによって、われわれを滅ぼさない、と誓って保証された。というのは」と彼が謂う、「主は言っておられる、— わたしが望むのは、罪人の死ではない、彼が回心して生きることである〔エゼキエル18:32、33:11〕、と」。〔純朴者パウロス〕

(27.)
 別のとき、彼の弟子ザカリアースが入って行って、彼が恍惚状態にあるのを見たが、その両手は天に広げられたままであった。そこで彼は扉を閉めて出て行った。そして第六時と第九時に来てみると、彼が同じ状態なのを目にした。さらに第十時ころ戸を叩いた。そうして入ると、彼が静寂を保っているのを目にして、これに言う。「今日はどうされたのですか、師父よ」。相手が云った。「今日は病気じゃった、わが子よ」。しかし相手は、彼の両脚を捉えて云った。「あなたを放しません、何をごらんになったかわたしに云ってくださらないかぎりは何を見たかを話してくださらない限りは」。これに老師が言う。「わしは魂を引き上げられ、の栄光を見た、そして、さっきまでそこに留まっていたが、今解放されたのじゃ」。〔シルゥアーノス3〕

(28.)
 彼女はさらに云った。「こう書かれています。『蛇のように聡く、鳩のように素直であれ』〔マタイ10:16〕。蛇のようであるということは、悪魔の攻撃と姦計を忘れないことを意味します。というのは、似たものはすぐに似たものを認めるからです。他方、鳩の素直さとは、行いの清さを示しています」。〔シュンクレティケー18〕

(29.)
 師父たちのひとりが言っていた — あるとき、老師たちが坐して、〔魂の〕益について話していたとき、彼らの中にひとりの千里眼の持ち主がいて、天使たちがナツメヤシの葉を揺すり、彼らを祝福しているのを目にした。しかし、他の交わりが始まるや、天使たちは引き下がり、彼らの真ん中では悪臭にみちた豚たちが転げまわり、彼ら〔天使たち〕を消滅させた。しかし再び益について話しはじめるや、天使たちがやって来て、彼らを祝福した。〔Anony359〕

(30.)
 老師が云った。「書かれていることはこうだ、『ツロの3つの罪4つの罪のために。だが、4つの〔罪の〕ために逸らされることはない』〔アモス1:9〕。〔3つの罪とは〕悪を思いつくこと、想念といっしょに下ること、喋ることであるが、第4のそれはその業を遂行することである。このために、の怒りが逸らされることはないであろう」。〔Anony360〕

(31.)
 スケーティスの偉大な老師について言われている。— 兄弟たちが修屋を建てようとして、喜んで開始し、礎石を据えたうえで、完成するまで休むことはなかった。ところが、あるとき、修屋を建てているところに〔老師が〕やって来て、大きく嘆息した。そこで彼に兄弟たちが言う。「嘆息し嘆かれるのは何故ですか、師父よ」。すると彼が云った、「この場所は荒野となるはずじゃ、わが子たちよ。というのは、わしは見たのじゃ、スケーティスに火が放たれ、兄弟たちがシュロの枝を取り、それを叩き消した。しかし再び火が点けられ、再びそれを消した。しかし3度目に点けられ、スケーティス全域を満たし、もはや消火されることはできなかった。だからこそわしは嘆息し、嘆いたのじゃ」。〔Anony361〕

(32.)
 或る人が語り伝えている、いわく。— スケーティスで聖職者たちが供え物をしているとき、鷹のように供え物の上に舞い降りたが、聖職者たち以外、彼らの誰ひとり見えなかった。そこで、或る日、ある兄弟がいったい何だったのかと奉仕者に請うたが、これに言う。「今は暇がない」。そこで彼らが供犠にのぼったとき、いつもどおりに鷹の似像を取り除けず、司祭が奉仕者に云った。「これはどういうことか、いつもどおり鷹がそのままなのは、この違反はわしのせいか、それともおまえのせいだ。そこで、わしから離れよ、そうして舞い降りれば、おまえのせいで舞い降りたのでないことがわかるだろう」。そこで奉仕者が離れると、すぐに鷹が舞い降りた。そうして集会が終了すると、司祭が奉仕者に云った。「どうかわしに云ってくれ、何をしたのか?」。そこで彼を満足させるために言った。「自分が罪を犯しているという自覚はない、ただし、兄弟がやって来て、わたしにこれを要請したので、『暇がない』と彼に答えたのです」。すると司祭が云った。「では、おまえのせいで舞い降りたのではなく、兄弟がおまえに苦しめられたからだ」。そこで奉仕者は行って、その兄弟に悔い改めた。〔Anony68〕

(33.)
 老師が云った。「〔聖暑に〕書かれている。『義人はナツメヤシのように花咲く』〔Ps 91,13〕。この言葉が意味しているのは、善き行為から起こるものは、高く、正しく、甘いということである。さらにまた、ナツメヤシの心〔核〕はただ1つで、それはまた白く、そのあらゆる働きを有する。似たことが義人にも見られる。つまり、彼の心はただ1つで端的にのみを見つめている。また白いのは、信仰から照明を得ており、義人の為業はすべてその心の中にあるからであるが、悪魔に対する抵抗は、棘の鋭さである」。〔Anony362〕

(34.)
 老師が云った。「シュネムの女がエリッサイオスを受け容れたのは、彼女が人間というものとの関係を持たなかったからだ〔列王記下4:14〕。そこで、シュネムの女は魂のたとえ、エリッサイオスは聖霊の喩えと言われる。されば、魂が身体的混乱から離れていれば、の霊がそれに訪れ、そうしてその時、子を産むことができるだろう、石女であっても」。〔Anony363〕

(35.)
 師父たちの或る者が云った — 豚の両眼は、自然本性的な構造を持っており、大地に俯かざるをえず、けっして天を仰向くことができなくなっている。そのように、と彼は謂う、諸々の快楽の甘い汁を吸う者の魂も、いったん享楽のぬかるみにはまると、仰向くことができなくなるのだ、と。〔Anony364〕

(36.)
 ある偉大な老師が千里眼の持ち主となり、この人物が確言した、いわく。— わしが見た力能は授洗所に立っていたのだが、その同じ力能を修道者の着物の上にも見た、〔修道者が〕その恰好をしている時にだが、と。 〔Anony365〕

(37.)
 老師が言うを常とした。— 執事がしばしば言う。「お互いに敬意を払いあえ、兄弟たちの口に聖霊を見た」。〔Anony87〕

(38.)
 あるとき、老師が過去の事を明視する能力に満たされ、言った。— 兄弟が自分の修屋で修練を積んでいるのを見た、そうして、見よ、ダイモーンが修屋の外に立っているのだ。そうして、兄弟が修行している間は、入りこむ力がなかった。しかし修行をやめると、まさにそのときダイモーンは修屋に入りこんで、彼に戦いを仕掛けたのである、と。〔Anony366〕

(39.)
 ある老師について言い伝えられている — ダイモーンたちを目にすることをに要請したが、これに答えられた「彼らを見る必要はない」と。しかし老師はこう言って願った、「主よ、御身の手でわたしを庇うことがおできになります」。そこでは彼の眼を啓かれ、彼は彼らを目にした、蜜蜂のように人間のぐるりを取り囲み、彼に向かってその歯を歯がみし、他方、の天使たちは、連中を叱りつけているのを。〔Anony369〕

(40.)
 師父たちの或る者が云った — 彼の隣人に二人の兄弟がいた、一人は余所者で、一人は在地の者だったが、余所者の方は少し不注意者だったが、在地の者の方はひどく真面目な者であった。ところが、余所者が永眠してしまい、老師は、千里眼の持ち主だったので、多数の御使いたちが彼の魂を案内するところを目にした。そうして、天に着き、入るために行くと、彼について調べが行われ、上から声が聞こえてきた、いわく。「少し不注意な者であることは明らかだが、彼が余所者である故、彼のために開門するがよい」。さて、その後、在所の者の方も永眠し、その親類がみなやって来たのだが、老師は御使いがどこにもいないのを見て、驚き、の御前に拝跪した、いわく。「余所者は、不注意者であるのに、あのような栄光に与ったのに、この真面目な者の方は、そのようなことに何ひとつ与らなかったのはどうしてですか」。すると彼に声が聞こえてきた、いわく。「真面目なこの者は、永眠したとき、その両眼を開けて、自分の親族が哀号しているのを見、その魂は慰められた。しかし余所者の方は、たしかに不注意者ではあったが、その家族の誰一人をも目にせず、嘆息して哀号した、それでが彼を慰められたのだ」。〔Anony367〕

(41.)
 師父のひとりが物語った — ネイルゥポリスの砂漠に隠修者がいて、これに信心深い俗人が使えていた。他方、都市にも富裕で不敬虔な人がいたが、この者が死に、司祭も灯火と香類を持って都市全体が彼を葬送することになった。そこで隠修者の奉仕者も、いつもどおり彼にパンを捧げるため出かけたが、彼がハイエナにむさぼり食われているのを見出し、こう言っての前に突っ伏した。「わたしは起き上がりません、主よ、これがどういうことなのか、御身がわたしを満足させるまでは、不敬虔なあやつがあれほどの壮観を持つとは。しかるに、夜も昼も御身に隷従したこの人は、こんな死に方をするとは」。すると主の天使がやって来て、彼に云った。「あの不敬虔者は、小さな美しい業を持った、それであんなふうに報いを得た、かしこでなにひとつ安楽を見出さないために。しかしこの隠修者はあらゆる徳に飾られてきた者であるとはいえ、人間として小さな過ちを持ったゆえ、それをこの世で棄てたのだ、あの世での御前に清浄な者として見出されるために」。そこで満足して、の審判を真実であると称えつつ立ち去ったのである。〔Anony368〕

(42.)
 師父たちの或る者が語り伝えている — 修道者たちにおいて大事なのは3つのことであり、われわれは恐れと戦慄と霊的な歓びをもってこれに従事しなければならない、つまり、聖なる秘儀の共有、兄弟たちの食卓、彼らの水盤、である。さらには次のような模範を保持せよ、いわく。— 老師たちの或る者は偉大な千里眼であったが、たくさんの兄弟たちとたまたまいっしょになることがあり、彼らが食事している際に、老師は食卓に坐しながら霊に傾注し、或る者たちは蜂蜜を食し、或る者たちはパンを、或る者たちは糞を〔食しているの〕を目にした。そうして心中に驚き、に懇願した、いわく。「主よ、どうかわたしにこの秘密を啓示してください、全員の食卓に同じ食べ物が供されていながら、食する際にはこういうふうに変わって見え、或る者は蜂蜜を食し、或る者はパンを、或る者は糞を〔食する〕ということの」。すると上方から彼に声が聞こえた、いわく。— 蜂蜜を食する者たち、これは恐れと戦慄と霊的な歓びをもって食卓に坐し、間断なく礼拝する者たちで、彼らの祈りは薫香としてのもとに立ちのぼり、それゆえまた蜂蜜を食する。パンを食する者たち、これはによって授けられたものらに与ったことに感謝する者たち。糞を食する者たち、これは不平を鳴らしてこう言う連中である。『これは美しいがあれは腐っている』。それは思量すべきことではなく、むしろを祝福し、これに讃歌を献ずべきことである、次のことばを満たすために。『食べるにせよ、飲むにせよ、何かを為すにせよ、一切をの栄光へと為すがよい』〔1コリント10:31〕」。〔Anony85〕

(43.)
 或る修道者たちが、自分の修屋から出て行き、同じ場所に集まって、修行や敬虔さ、いかにしてに嘉されるべきかについて議論した。で、彼らが話している時、彼らのなかの或る老師たちには、二人の御使いが見えた、〔二人の御使いは〕胸当てを懸け、有益さについて話している彼らのおのおのを祝福していた。しかし、幻視が示された者たちは、何も言わずに黙っていた。そして次の日、同じ場所に集まって、或る兄弟について過ちをおかしていると話し、これを告げ口し始めた。すると、同じ老師たちに、豚が悪臭を吐き、全身不浄になっているのが見えた。そこで、驚異が示された者たちにその躓きがわかったので、御使いたちの祝福も豚の光景も、兄弟たちに説明したのであった。〔*Anony1713〕

(44.)
 老師たちは言うを常とした — 各人の務めは、いかようにもあれ、隣人として住むこと、つまり、みずからほとんど神体を着こみ、人間全体をにない、これと同苦し、万人のためにともに喜び、ともに泣き、端的にそういう情態であること、それは、同じ身体をまとい、同じ顔と同じ魂を有し、いつか自分に艱難が結果したら、おのれのために呵責するように。というのも、次のように書かれているからである —。「われわれはクリストスにあって1つの身体である」〔ロマ書12:5〕、さらにまた。「信じた者たちの群は心も魂も1つ」〔行伝4:32〕と書かれているとおりに〔振る舞うこと〕である、— 聖なる挨拶のことも、これを明らかにしている。 〔Anony389〕

(45.)
 或る老師が語り伝えている —。年齢的に非常に年老い、への畏れにおいて進歩した処女がいた。そして、彼女の隠遁の仕方をわたしに尋ねられ、嘆息した上で次のように言いはじめた。「わたしには、おお、貴方、まだ子どもの頃、品行方正で性格の優しい父がいましたが、〔その父は〕病弱で身体的に病気がちで、いつも自分の心配事とともに過ごしていたあまりに、地方住まいをしている者たちにも会いに行くこともほとんどありませんでした。しかし土地には執着し、自分の人生をそこに専念させ、健康な時には、諸々の果実を家に運びこむこともありましたが、たいていの時は、病床と療養に従事しました。彼の沈黙ぶりは、彼を知らない人たちには声無しと思われるほどでした。しかし、わたしの母は正反対でした。祖国に関することにさえお節介を焼きました。彼女の話は、誰に対しても活発なあまり、彼女の全身が舌かと思われるほどでした。彼女のもとでは、誰に対してもひっきりなしの口論が惹き起こされました。酒の酩酊のなか、放縦な男たちと過ごしました。内向きのことは、淫婦のように、非常に多くの財産もわたしたちには充分でありえないかのように、家政の仕方はわるかったのです。というのは、家政は父によって彼女に任されていたからです。

(46.)
 さらに、同じ老師がある司教についても語り伝えたのは、その人物からも、とくに勇猛心を得て、わたしたちがおのれの救いの源となるためであった、—。「一部の人たちから、わたしたちのところの司教に報告があった、これを目撃した当人が、語り伝えた人でもあったのだが、世俗信徒の自由人のある二人の信者が、不謹慎な生活をしている、というのである。そこで司教は、これを報告した者たちのせいで、一種人間的な感情に陥り、他の者たちについてもこれを猜疑し、以来、への懇願の際に、いったいどんなことに与っているのか、精しく知ることをひたすら願った。何と! 神的で畏れ多いお勤めと、あの奉献の儀のあと、聖なる秘儀の拝領のために近づいてきた者たちの魂を、面貌を通して、各人がいかなる罪に陥っているかを目にし、罪人たちの面貌はまるで煤のようで、その或る者たちは、炎のような顔をして、眼は血走り火のようであったが、その別の者たちは、面貌は光り、衣服は白く、自余の者たちに対しては、の身体を与えられて受け取った者のように」と彼は謂う、「輝きわたり燃えあがり、光となって口を通って入ったように、その全身を照らしていた。ところで、その彼らの中に」と彼が謂う、「修道院生活に住持しながら、結婚している連中も、同じ情態にあった。次いで」と彼が謂う、「女たちが魂においてどのようであるかを知ろうと、彼女たちにも自身が授けようとした。そうして、彼女たちにおいても同じようになり、顔は黒く血走り、火のようになったり白かったりするのを目にした。その女たちの中には、司教に告げ口され、そのためとくに司教がこのような祈願をするに到ったあの二人の女たちも含まれていた。そうして、の聖なる秘儀の奉献によって、彼女たちも、顔は明るく尊く、白い衣裳を身にまとい、ついで彼女たちもクリストスの聖なる秘儀の与って、光りによって透視されるようになっているのを目にした。
 そこで再び、彼は、自分に示された啓示の意味を覚れるよう、へのいつもの嘆願に傾注した。するとの御使いが彼の傍に立ち、おのおのについて尋ねるよう命じた。そこで司教はすぐに、二人の女たちについて、彼女たちに対する先の告げ口ははたして真実なのか、それとも虚偽なのかどうか尋ねた。すると御使いが、彼女たちについて言い立てられたことはすべて真実であると云った。そこで司教は御使いに謂った。「〔*Anony1715〕

(47.)
 かつて、あるひとが悔い改めて静寂を保った。ところがしかし、彼はやすやすと岩の上に落ち、足を打っておびただしい血を流し、気絶してその魂〔生命〕を失う結果になった。そこで、ダイモーンたちが襲いかかり、彼の魂を取ろうとしたが、天使たちが連中に言う。「岩に傾注せよ、そうして主のために流した彼の血を観よ」。そうして天使たちがこれを云っている時、その魂は自由になったのである。〔Anony88〕

(48.)
 かつて、或る兄弟について言い伝えられていた — 主日の機に聖餐式(sunavxiV)が行われるので、いつもどおり、教会に行くため立ち上がった。すると悪魔が彼をからかった、彼にいわく —。「どこに出かけるのか、パンと葡萄酒に与るためか? クリストスの身体と血だとおまえに云ったら、からかったことになるまいが」。そこで兄弟はその想念に納得して、いつもどおりに教会に行くことをしなかった。そこで、兄弟たちは件の兄弟を待った、そうするのが砂漠の習いで、全員がやって来るまで聖餐式を実修しないからである。それで彼らは長い間待ちつづけたが、件の者がやって来ないので、〔数人が〕立ち上がって、彼のところに行こうとした、いわく。「まさか病気ではあるまい、まさか死んだのではあるまい」。で、その兄弟の修屋にやって来ると、これに問いただした。「何ゆえ教会に来なかったのか、兄弟よ」。しかし相手は彼らに告げることを恥じた。しかし兄弟たちは、悪魔の悪巧みを察知して、悪魔の企みを自分たちに告白してくれるよう、彼の足許にひれ伏した。そこで相手は彼らに告げた、いわく。「どうかわたしを赦してほしい、兄弟たちよ、いつもどおりわたしは教会に行くため立ち上がった、すると想念がわたしに云ったのだ — おまえが与るために行くのは、身体や血ではなく、パンと葡萄酒にすぎん、と。されば、あなたがたといっしょに行くことを望むなら、この口実に関してわたしの想念を治してください」。そこで彼らは彼に云った。「立ち上がれ、われわれといっしょに行け、そうすればわたしたちも、降下する神的な力をあなたに示してくださるように懇願しよう」。そこで彼は立ち上がり、彼らといっしょに教会へ行った。そうして、祈りが上げられ、兄弟に関して、秘儀の力が彼に明らかにされますようにという嘆願の<***>。じつにそういうふうにして、教会の真ん中に兄弟を立たせて、聖務(suvnaxiV)を執り行いはじめた。すると聖務が終わるまで、件の兄弟はおのれの顔を涙で濡らしつづけてやめなかった。そこで聖務の後、その兄弟を呼びつけて、彼に尋ねた、いわく。「がそなたに何か示されたのなら、われわれに告げよかし、われわれも益されるために」。すると相手が慟哭しながら言いはじめた —。「詩篇朗誦の式次になり、十二使徒の教訓(hJ tw:n ajpostovlwn didachv)が朗読され、福音書(megalei:on)〔を読むため助祭が〕立った時です。天井が開かれ、天が見えているをわたしは知りました、すると聖なる福音書のロゴスの一つ一つが火のようになって、天まで達したのです。また、諸天が開いて、下りてくる火と、その火とともに大勢の天使たちが、そのほかに別の2つの有徳な人物が〔見えましたが〕、その美しさを言い表すことはできません。そのきらめきは稲妻のようだったからです。そうして、二人の人物の真ん中には、小さな幼児が。そうして、天使たちは聖なる卓の周りに立ち、二人の人物はその上に、その真ん中に幼児が。そうして、聖なる祈りの奉献(kaqosivV)が行われるために、お供えのパンを裂くべく聖職者たちが近づいた時です。わたしは見たのです、卓の上の二人の人物が、彼らの真ん中にいる幼児の両手・両脚を引っつかみ、戦刀を執って、幼児の喉笛を切り、その血を、聖なる卓の上に置かれていた聖杯に空け、その身体を細切れにして、パンの上に置き、パンが身体となったのです。そうして、わたしは使徒が言われたのを思い出しました。『そしてまさにクリストスがわれわれの過越の犠牲として屠られたのである』〔1Colin. v. 7〕と。さて、兄弟たちが聖なる奉献の儀に与るため近づいてくると、これに身体が手渡され、『アメーン』と言って呼ばわるや、それは彼らの手の中でパンとなったのです。
 そこで、わたしも摂ろうと行き、わたしに身体が与えられたのですが、それを摂ることができなかったところ、わたしの耳に、声がわたしにこう言うのが聞こえました、『そなた、何ゆえ摂らないのか? これはそなたが求めているものではないのか?』と。そこでわたしが云いました。『どうかわたしにお憐れみを、よ、身体を摂ることができません』。すると再びわたしに云った。『もしもひとが身体を摂ることができないとすれば、そなたも見てのとおり、〔物質的な〕身体と見るからであろう。しかし、何びとも〔物質的な〕身体を喰うことはできず、それゆえ、は供物のパンを定められた。なぜなら、あたかも原初に、アダムがの手によって肉となり、が彼の中に生命の息〔=霊〕を植えこまれた。かくて肉は土に還ったが、息〔=霊〕は留まった。そのように、クリストスもおのれの肉を聖なる霊とともに与え、肉は天界に不在であるが、息〔=霊〕はそなたの心に据えられている。されば、そなたが信ずれば、そなたが持てるものをそなたの心中に摂れ』。わたしも云いました。『信じます、よ』。すると、これをわたしが云うや、わたしの手中に持っていた身体がパンとなり、そこでに感謝しつつ、わたしは聖なる奉献の儀に与ったのです。そして聖務が進行し、聖職者たちが同じところに集まってくると、再び、二人の人物の真ん中にいる幼児と、集まった聖職者たちの賜物とを目にしました。さらに、再び天井が開き、神的な力が天上へと高く上を目にしました」。
 兄弟たちはこれを聞いて、大いに痛悔し、めいめい、おのれの修屋へと引き上げていった、を栄化し、讃美しながら。〔*Anony1761B〕

(49.)
 師父たちの或る者が語り伝えている —.われわれの在所の司教である或るひとは、久しい間苦行を堅持し、聖なる諸書のおびただしい朗読によって修練を積んできた人であるが、わしに次のようなことを話し聞かせてくれた。「わしには」と彼が謂う、「年齢的には若いが、年数的には、自分の若さの全時間にわたって断食と自制を習得し、その年数からいえば老齢といってもよい処女の妹がいた。この彼女が、わしのそばにいたとき、突然仰向けに倒れ、両手を広げ、声なく気息なく、死人のように横たわった。

(50.)
 ある老師について言い伝えられている — ポリュプリテース山に坐していたが、自分の両眼を天に挙げると、そこにあるものらすべてを観、また俯いて地に傾注すると、深淵と、そこにあるものらすべてを眺めた、と。〔N371〕

(51.)
 老師が、或る千里眼の持ち主について云った — 用具を売るため、都市に入り、たまたま、命終しかかっている或る富裕者の門前に坐った。そうして坐ると、傾注して、そうして見えたのは、黒い馬たちと、これに騎乗して、黒い恐怖に満たされ、燃える剣を携えている者たちとであった。そうして、彼らは門に近づくと、彼らのめいめいが入っていった。そうして、彼らを見ると、病人は大声で叫んだ。「よ、どうかわたしを助けてください」。するとこれに向かって遣わされた者たちが言う。「太陽が沈む今になって、を憶える気になったのか? 何ゆえ、陽が輝いているときに、あのかたを求めなかったのか? されば、今、おまえに希望の余地なく、慰めもない」。そうしてそういうふうにして、彼らは彼を受け取って立ち去ったのである。〔N 492、主題別20-18〕

(52.)
 老師が云った —。師父たちに諸々の想念を告白することは美しい、と。例えば、見よ、或る二人の兄弟たちが或る老師のところに行った。一人は年長で、一人は年少であった。そうして年長の方が年少の方を、こともあろうに老師に告発した。そこで聖者は年少の方を呼びつけ、これに言った。「そなたについて彼が言うのは真実か?」。相手が認めた、いわく。「はい、真実です。多くの点で彼を悩ませましたから」。その後、他方の者〔年長の兄弟〕はますます激しく訴えた。そこで年少の〔兄弟〕が不平をかこって、こう囁いて云った。「聖者があんたのいうことを真実だと考えないよう、沈黙せよ」。彼〔聖者〕はこれを聞いて叫び声をあげた。さて、どうしてそんなことをしたのか、兄弟たちが尋ねたとき、老師は答えた、いわく。「この二人の兄弟がわしの近くに入って来たとき、弓を携えていたひとりの黒人が傍に立っていて、年少者に対する年長者の告発を矢で射たが、矢弾はその外衣にさえ命中しなかった。結局、年少の方が不平をかこっていたので、黒人はこれに対して矢弾を発し、これを撃とうとした。そこで、撃たないよう、わしは叫んだのじゃ」。そこで二人の兄弟は情動の癒しを得ることを願ったので、老師が云った。「そなたたちが愛勝に陥るときには、黒人を想起するがよい、そうすれば〔争いは〕やむであろう」。そうしてそのとおりにして、彼らは癒やされたのである。〔N 638〕

(53.)
 或る兄弟が、スケーティスに渡るため、ネイロス河沿いに進んでいるとき、旅と、暑熱に取り憑かれた刻限とに気が挫け、自分の外衣を脱ぎ捨てると、自分で水浴するため降りていった。ところが、鰐と呼ばれる獣がとびかかり、彼を略奪した。千里眼を持った或る老師が来合わせて、兄弟が略奪されるのを目にして、その獣を叩いて、これに言う。「何ゆえ師父を喰ったのか?」。ところが獣は、彼に向かって人間の声で云った。「おれは師父を喰っていない、俗人を見つけて、これを喰ったのだ。修道者なら、あそこに居る」。そうしてその僧衣にお辞儀をした。そこで、老師は出来事を嘆きながら、引き上げた。

2010.06.26.

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