31
「ダイモニオンは、あの女を信用してはいけないと言うのです。あの女からもらうものは確かなものだとも安心なものだとも考えてはならない、また、これを自分のものとも思ってはならない、とこう言う。なぜなら、これをまた奪い取って他の人間に与えるのもあの女の自由で、それを妨げるものは何もないからです。そして実際、あの女の常としてそういうやりくちは日常茶飯事らしい。だからダイモニオンは、こう言いきかせるのです。あの女のくれるものに征服されないようになれ、そして彼女が何かくれる時には喜ばず、奪い取る時には落胆するな、また彼女を非難もせず、褒めもするな、とこう命じる。というのは、前にもいったように、彼女は何事も思慮をもってなさず、万事でたらめに、行きあたりばったりにするのですからね。だから、ダイモニオンは、彼女が何をしようと驚いてはいけない、いかがわしい銀行家どものような真似をしてはいけない、と注意する。これはどういうことかというと、そういう種類の人間は、他人からお金を受けとるとほくほくして、それが自分のものであるような気になってしまうんですな。そしてそのお金を返してくれと要求されると腹を立てて、自分はひどい目に会っているように思う。その預金はまた払い戻しができるという条件で受け取ったのに、それをとんと忘れてしまっているのです。そこでダイモニオンは、『運命』からもらう贈物に対して以上のような態度をとるように勧める。そして『運命』が次のような性質を持っているのをおぼえていなくてはいけないと言う。それはどういう性質かというと、『運命』は自分の与えたものを奪い取ったり、そうかと思うとすぐまたその何倍も与えてみたり、今度はまた与えたものを奪い取ったりする。それも、それだけならまだしも、以前から持っていたものまで取り上げてしまう始末です。そこでダイモニオンほこうすすめるんですよ、『運命』のくれるものは何でも受け取って置くがよい、しかし、もっとしっかりした、危なげのない贈物を目あてにさっさと『運命』のもとを去ってしまえ、とこう言うんです。」
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「それはどんなものでしょう」と私は尋ねました。
「無事に『教養』のもとへ着いたらそこでもらうものですよ。」
「いったい、その『教養』というのは誰のことなんです。」
「身を益するものに関する真の『知識』なのです。彼女の与える贈物は危なげなく、確かで、変わることがない。だからダイモニオンは彼女のもとへさっさと逃げて行くように勧めるんです。前に申し上げた『無節制』と『放縦』という女たちのところへさしかかったら大急ぎで逃げ出しなさい、そして、あの女たちを 少しも信頼してはいけない、と勧告します。そして『偽の教養』のところへ来たらそこでしばらくいっしょに暮らし、彼女のところから何でも欲しいものを旅支度にもらうがよい。それから急いでそこを去って『真の教養』のもとへ行きなさい、というのがダイモニオンの指示なのです。この指図にもとることを行う者、 もしくはこれをきいてもいっこう気にもとめないような者は、みじめな人間としてみじめな死に方をすることになります。」
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「異郷の方々よ、以上がこの絵馬のたとえなのです。これについてもっとお尋ねになりたいことがおありなら、別に差支えはない、説明してあげましょう。」
「それはありがたいことに存じます」と私は申しました。「ところでダイモニオンは『偽の教養』のところで何かもらうように言うそうですが、それはどんなものなのでしょう。」
「文学やその他の学問です。プラトーンによれば〔註9〕、そういうものは若い人たちに対していわば手綱のような一種のカを持っていて、彼らが他のものに気を散らさないようにするのに役立つそうですよ。」
「『真の教養』のところへ行くには、そういうものをぜび持っている必要があるんでしょうか、どうでしょう。」
「ちっとも必要ではない。しかしともかく役に立ちはしますな。ただ、より善い人間になるという段となると、こちらの学問は少しも助けになりはしない。」
「では、こういう学問は、より善い人間になるためには少しも役に立たないとおっしゃるのですか。」
「というのは、そんな学問がなくても、より善い人間になることはできるからです。もっとも学問も役に立たないことはありませんがね。たとえていえば、ちょうどわれわれが通訳を通して人の言葉を理解する時のように、もしわれわれもその人と同じ言葉を知っていたなら、もっと正確に理解できるだろうから、便利でないことはない。まあこのくらいところで、別に学問がなくとも善い人間になれないわけは少しもないのです。」
〔註9〕 プラトーン『法律』第七章参照。
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「より善い人間になるためには、学問のある人間は他の人間よりも有利な立場にあるんじゃありませんか。」
「どうして有利なことがありましょう。彼らも他の人間と同じょうに善と悪について間違っているのは明白であるし、あらゆる悪にまだ取りつかれているではありませんか。文学を知り、あらゆる学問に通じていながらなお、酔っぱらったり、無節制だったり、吝嗇だったり、不正だったり、裏切り者だったり、そして 最後に愚かだったりする。それを妨げるものは何もないのです。」
「たしかにそういう人はたくさん見られますね。」
「だから、そういう学問があるからといって、より善い人間になるために何の優(まさ)ることがありましょう。」
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「お言葉によってみれば、まったく何の優るところもないようですね。ところで、どういうわけであの人たちは第二の囲いの中でぐずぐずしているんでしょうか。まるで真の『教養』のところはもうすぐだ、といわんばかりですね。」
「ところが、『教養』の近くまで来ていることなどあの連中に何の役に立ちましょう。『無節制』やその他の『悪』のところから第一の囲いを出て来た者が、学問のある人たちのそばを通り越して第三の囲いに入り、『真の教養』のもとへ行ってしまう、というようなことはしばしば見られるんですからね。だから第二の囲いの中にいる人たちの方が優っているなんてことはどうしてあり得ましょう、むしろこの人たちの方がもっと怠惰であるか、もしくはものわかりの悪い証拠ですよ。」
「それはまたどういうわけで?」と私は尋ねました。
「なぜなら、第一の囲いの中にいる人たちは、自分の知らないことを知っているふりはしない。ところが第二の囲いの中にいる人たちは、自分の知らないことを知ったかぷりする、という点で少なくとも心がけが悪い。そういう考えでいるかぎり、どうしても『真の教養』の方向へ邁進しょうということに対して怠惰な らざるを得ないのです。これとはまた別に、『意見』たちもやはり第一の囲いを出て、この人たちのところへ同じょうにやって来るのが見えませんか。してみれば『意見』たちも、この人たちより少しもよいということはない。『悔い改め』が会いに来て、あなたたちの到達したところは『教養』ではなくて『偽の教養』 なんですよ、その『偽の教養』にあなた方はだまされているんです、とあの連中を説き伏せないかぎり、こんな風では救いもおぼつかないでしょう。ですから、おお、異郷の皆さんよ、あなた方はこうなさい、わしの言葉を聞いたら、それが習慣になってしまうまでとくと考えてみてください。この教えをたびたび思いめ ぐらし、それをやめてはなりません。そして他のあらゆるものは第二義的なものと見なすべきです。さもないと、今お聞きになったことも、あなた方にとって何の役にも立たぬことになりましょう。」
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「お教えのとおりにいたしましょう。ですが、このことをびとつご説明くださいませんか。いったい、人間どもが『運命』の手から受けるものはみな、なぜ善いものではないのですか。たとえば生きること、健康であること、富んでいること、人から尊敬されること、子供を持つこと、勝利を得ること、その他すべてこ れに類することですね。また反対に、これらと逆のことがなぜ悪いものではないのでしょうか。おおせのことは普通一般に考えられていることとまったく反対で、私どもには信じ難いように思われてならないのですが。」
「ではひとつ、わしからお尋ねしますから、お考えを答えてみてください。」
「ではそういたしましょう」と私は申しました。
「ある人が悪い生き方をするとしたら、その人にとって生きることは善いことでしょうか。」
「いいえ、悪いことのように思われます」と私は申しました。
「もしその人にとって悪いことなら、どうして生きることが善いことであろうか。」
「というのは、悪い生き方をする人々にとって生きることは悪いことで、善い生き方をする人々にとってそれは善いことなのだ、と私には思われますが。」
「それでは、生きることは、ある人々にとっては悪いことであり、ある人々にとっては善いことである、というわけですな。」
「ええ、私はそう考えます。」
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「そんな信じ難いようなものの言い方をするものじゃありませんよ。同一の事柄が同時に悪くもあり善くもある、などということは不可能です。それならば、そのことはまた常に有益であって同時に有害であり、望むべくして速くべきである、ということになる。」
「それはたしかに信じ難いことです。しかし、もし悪い生き方をする者にとって、悪く生きることが悪いことなら、なぜ生きることそのものが悪いことではないのでしょうか。」
「しかし、生きることと悪く生きることとは同一ではない、そう思われませんか。」
「もちろん私にも同一のこととは思われません。」
「では悪く生きることが悪いことなのであって、生きることは悪いことなのでほない。もし生きることが悪いことなのだったら、善く生きる人々にとっても、それは悪いことになるでしょう。なぜなら、彼らにとって生きることそれ自体が悪いことになるのだから。」
「おおせは真理のように思われます。」
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「善く生きる人々も悪く生きる人々も両方とも生きるということにあずかるのだから、生きること自体は善くもなければ悪くもない、ということになる。切ったり焼いたりする療法自体が病人たちにとって有害または有効であるのではなく、いかに切ったりするかが問題なのであるのとちょうど同じようなわけですね。生きることもまた同様に、生きることそのことが悪いのではなく、悪く生きることが悪いのです。」
「そのとおりです。」
「今度はこのことを考えてごらんなさい。あなたは悪く生きたいか、それともいさぎよく男らしく死ぬのがよいか。」
「いさぎよく死ぬ方がいいと私は思います。」
「そうすると、死ぬことは悪いことではないわけですね。死ぬことは生きることよりもしばしば望ましいとすればね。」
「そのとおりです。」
「健康であることと病気であることについても同じです。なぜなら、しばしば健康であっても何の役にも立たず、事情にょってはかえってさかさまのこともありますからね。」
「それは本当です。」
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「では、ひとつ富むことについて考えてみましょう。よく見られるように、富を持っていてもみじめに不幸せに生きている人がいますね。」
「まったく、じつにたくさんいます。」
「ではその富は、その人たちにとって、善く生きるために何の助けにもならないではありませんか。」
「そうです。それはその人たちが悪い奴らだからです。」
「では、その人たちを善い人間にするのは、富ではなくて『教養』なのですね。」
「お話からしてみればそうらしく思われます。」
「富というものは、それを持っている人たちがより善い人間になるのを助けない。してみれば善いものではないわけですね。」
「そうらしく思われます。」
「富を用いる術を知らない者にとっては、富むということは有益なことではない。」
「そう私にも考えられます。」
「しばしば持主のためにならないことがあるようなものが、どうして善いものであると判断し得ましょうか。」
「まったくそのとおりです。」
「つまり、正直に賢く富を使う術を知っている人たちは幸せに生活するだろうし、そうでない者は不幸せになるでしょう。」
「おおせはもっとも正しいことと思われます。」
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「一般にこういうものを善いものとして大切にしたり、悪いものとして蔑(ないがし)ろにしたりすることが人を乱したり損ったりするのです。というのは、大事に思う時には、これらによってのみ幸せになれると考え、そのためにはあらゆることを耐え忍んで行ない、もっとも敬虔を欠き、もっとも恥ずべきと思われることさえも辞さない。こんな破目に陥るのも、つまり善なるものに対する無知からなのです。悪いものから善が生ずるはずはないことを知らないからなのです。悪い恥ずべき行為によって富を獲た人間はたくさん見られますよ。たとえば裏切り、掠奪、殺人、密告、盗み、その他たくさんの悪いことでね。」
「おおせのとおりです。」
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「悪いものからなんら善いものが生じないとすれば(そしておそらくそのとおりなのだと思われますが)、また富が悪い行為から生ずるとすれば、どうしても富は善いものではないことになります。」
「お話の結論はそういうことになりますね。」
「だから、思慮も正義も悪い行為から得られるものではない。同様に、不正や無思慮は善い行為から得られるものではありません。この二つのことが同時に同一の人間の内に存することは不可能です。ところが、富や勝利やこれに類するあらゆるものは、多くの悪いものと同時にある人間の裡に共存しうる。それゆえに、これらのものは善いものではなく、また悪いものでもないということになる。ただ思慮のあることのみが善であり、思慮のないことのみが悪なのです。」
「このへんで、どうやら充分お話をうかがわせていただきました」と私は申しました。
2009.01.23. 複製。
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