title.gifBarbaroi!
back.gif『ケベースの絵馬』(神谷美恵子訳)


ポルピュリオス

ニュムペーたちの洞窟について
(De antro nympharum)



[底本]
TLG 2034
PORPHYRIUS Phil.
A.D. 3
Romanus, Tyrius
004
De antro nympharum
Comm.
Seminar Classics 609, Porphyry. The cave of the nymphs in the Odyssey [Arethusa Monographs 1. Buffalo: Department of Classics, State University of New York, 1969]: 2-34.

[邦訳上の参照]
Translated by Thomas Taylor



ポルピュリオスの「『オデュッセイア』におけるニュムペーたちの洞窟について」


(1)
 イタカにある洞窟は、かつてホメーロスによっていかなる謎掛けがなされたのか? これを彼は以下の詩句によって描写している、いわく。

ところで入江の、いちばん奥のとっさきに、細長い葉のオリーブ樹が
ある、すぐ間近に、いかにも愉しく縹渺とした洞窟をひかえ、
流れのニュムペーと呼ばれておいでの方々の聖所とあって、
内には酒和え瓶や両耳つきの酒盃などの置いてあるのが
みな石造り、さらに中では蜜蜂が蜜を巣へ貯めこんでい、
そこにはまたたいそう長い、石造りの機織が据えられ、ニュムペーらが
それへ掛かって、潮紫の、見るも驚くばかりな衣をお織りというに、
中には絶えず泉が流れた、この洞には二つの扉口が
あり、そのひとつは北へ向いてい、人間どもも降りて入れる、
だが今ひとつは、南向きのは、神々のためとあって、そこへは
人間たちが入っていかれず、不死である神々だけの通路をなした。
               (Od. XIII.102-112、呉茂一訳)

(2) 調査探究して把握したうえで、上述の内容に言及したのでないことは、この島の案内記を書いた者たちが明らかにしている、この島にそのような洞窟は言及されていないからであるとは、クロニオス〔プラトン主義とピュタゴラス主義における原理について論じた一群の著作者たちの一人(チェントローネ)〕が謂っているところである。また、非説得的ながら詩人の気儘で洞窟を虚構し、狙いをもってにしろ偶々虚構したにしろ、或る者がイタカ地方<に>人間どもや神々のために通路を建造したか、あるいは、人間ではないにしても自然が、そこからの下降路をあらゆる人間どものために、また逆にあらゆる神々には別の〔上昇〕路を指し示したと説得しようと望んだいうのが非説得的なことは、明らかである。たしかに全世界は人間どもと神々に満ちあふれてはいるが、イタカの洞窟が、その中に人間どもの下降路と、神々の上昇路とを持っていると説くなどと、とんでもないことである。
(3) そこで、クロニオスは以上のようなことを前置きしたうえで謂う、— 知者たちにとってのみならず、素人たちにとっても、この詩人が以上〔の詩句〕によって何ごとかを譬え、謎がけしていることは明白である、人間どもにはいかなる門があり、神々にはいかなる門があるのか、また、2つの扉があるというこの洞窟は、ニュムペーたちの<聖所>と述べられているのだが、同一のものが愛らしく且つ薄暗いとはいかなる意味なのか(というのは、薄暗いものが愛らしいことは決してなく、むしろ恐ろしいものなのだから)? また、単にニュムペーたちの洞窟と言われているのではなく、「流れのニュムペーたち」と厳密に付言されているのは何ゆえか、さらにまた、酒和え瓶や両耳つきの酒盃について、それらに注入されているものは何もわかっていないのに、蜂房の中のように蜜蜂たちが貯めこんでいるという言及はなぜか。また、いかなる長い織機がニュムペーたちへの奉納物として据えられているのか。しかも、それが木製とか他の材料によってではなく、酒和え瓶や両耳つきの酒盃のようにこれも石造りなのはどうしてか。なるほど、これはそれほどわかりにくいことではない。しかし、その石造りの織機で、ニュムペーたちが潮紫の衣を織っているというのは、目にするのはもちろん、耳にするだけでも驚くべきことである。女神たちが潮紫の衣を、影暗い洞窟の<中で>、石造りの織機に向かって織っている、しかも、神々の織物や紫衣が目に見えると謂うのを聞いて、いったい信じられる者がいようか。かてて加えて、洞窟には2つの扉があり、一方は人間どもの降下のために、もう一方は今度は神々のためにつくられているというのも驚くべきことである。また、人間どもにとっての通路は北風の方に向き、神々にとってのは南〔風〕の方に向いていると言われ、人間どもには北方向が、逆に神々には南方向があてがわれて、その目的のために東や西を用いていないの理由の難解さは小さくない、というのは、ほとんどすべての神殿は、神像や入口を東向きに持ち、入っていった者たちは西に向かって、神像に対面して立って、(4) 勤行や礼拝を捧げるのだからである。この話の造形はこのような曖昧さに満たされているのは、娯楽のためにたまたま詩作されたからではなく、所を得た歴史の説明をするためでもなく、近くにオリーブの樹をも神秘的に付加したこの詩人が、これによって何ごとかを比喩するためであった。すべては、追跡し展開することを古人たちさえ労苦と思いなした内容である、われわれも彼らの助けで、今、再発見すべく試みるべきである。
 それゆえ、在地の調査にかんしては、この洞窟も、これに関して描写した限りの内容も、詩人のまったくの虚構だと思うかぎりの人たちが書き記しているように思われる。だから、地理を書き記した人々は、最善にして最も精確に書いた者たちの中にエペソスのアルテミドーロスでさえ、11巻から成るその著作の第5巻で、こう書いている。「ケパレーニア〔サモス島〕のパノルモス港から東へおよそ11スタディオーン〔1スタディオーン=約192.27メートル〕離れてイタケー東があり、〔広さ〕およそ85スタディオーン、ポルキュノスと呼ばれる港を擁する。ここには砂浜がある。ここにニュムペーたちの聖なる洞窟があり、オデュッセウスが打ち上げられたとパイアーケス人たちによって言われるものである」。とすると、ホメーロスのまったくの虚構というわけではなかったわけだ。しかし、ありのままに描写したにしろ、自らも何ごとかを付け加えたにしろ、建造した人たちとか前述の詩人とかの意図を追跡する者にとって、何ひとつ問題がなくなるわけではない、古人たちが神秘的寓意なしに神域を建造したのでもなく、ホメーロスがたまさかそれらについて描写したのでもないからである。そして、この洞窟の様をホメーロスの虚構ではなく、ホメーロスに先立ってそれは神々に奉納されたということを示そうと努めれば努めるほど、この奉納物が古の知恵に満ちていることが見出され、それゆえにこそ、研究の価値があり、詮索の価値があり、そこに含まれる象徴的建立の照明の必要性があるのである。


(5)
 実際のところ、古の人たちは世界を全体的にせよ部分的にせよ把握して、これに洞窟や洞穴を奉献した、大地は世界が成り立つ所以の質料の象徴だと説き(だからこそ、大地は質料だと一部の人たちは想定したのである)、質料から生じる世界を洞穴によって説明した所以は、洞窟はたいてい自生し、大地とともに発生し、単一の岩によって囲まれ、その内部は空洞だが、外部は大地の不定の部分まで広がっている。他方、世界も自生し〔外的原因でなく内的原因によって造られ(Taylor)〕、[癒着するものとして]質料と同類である、〔この質料が〕石とか岩である謎めかしていわれのは、形相に比して粗雑で頑固なためで、その〔質料の〕無形性の点では不定なるものと規定するところのものである。しかしながら、それ〔質料〕は流体であり、一定の形をとって[001]目に見えるようになる所以の形相を自体においては欠いているゆえに、洞窟や水っぽさや湿気、暗さ、つまり、詩人が謂ったように縹渺さは、その素材によって世界に付加される事柄の象徴として、(6) ぴったりだと解された。だから、この素材によって、世界は縹渺たるほの暗いものとなるが、世界もまたそう呼ばれる所以の形相の組み合わせと整序ゆえに、美しく且つ好ましいのである。だからして、素直に出会す者には、諸形相の参与ゆえに当然にもこれを好ましい洞窟と認められるが、その土台を調査し、新入りとしてこの中に入ってゆく者には、縹渺としている。その結果、外側の表面は好ましいが、内側の深部は縹渺としている。かくてペルシア人たちも、魂たちの下降と、逆に上昇とを秘教化して、密儀を遂行するのであるが、その場所を洞窟と称して。その最初の人は、エウブゥロスが謂うには、ゾーロアストレースで、ペルシアの近くの山地で、自成した、華やかで、泉をもった洞穴を、万物の創造者にして父なるミトラスの崇拝のために奉献したが、彼にとってその洞窟は、ミトラスが創造した世界の似像を捧持しているが、内部にあるものらは、対称的な間隔を置いて、この世の諸元素と風土の象徴を包摂していた。


 そしてこのゾーロアストレースの後も、自余の人たちのもとでも盛行したのが、たとえ自成したものであれ人工的に作られたものであれ、洞窟や洞穴によって諸々の宗儀を執り行うことであった。というのは、オリュムポスの神々には、神域や寺院や祭壇を建立するが、地神や半神たちには火壇を、地下神たちには窪や祭殿を〔建立する〕ように、この世界のためにも洞窟や洞穴を〔建立する〕、ニュムペーたち[002]にも同様であるのは、洞窟内に滴り落ちたり飛び散ったりする水 — われわれが少し注目したように、ニュムペーたちがナーイアスたちとして司る — のせいである。
 (7) しかしながら、われわれが謂ったように、〔古の人たちは〕洞窟を世界の象徴として、あるいは、感覚的生成の象徴としたのみならず、洞窟がまさしくあらゆる不可視な力の象徴と解されたのは、洞窟は暗いが、諸々の力の目に見えぬ有性だからである。そういうふうにクロノスも、オーケアノスそのものの中に洞窟をこしらえ、そこに自身の子どもらを隠した。また、デーメーテールも同様に、洞窟の中でニュムペーたちといっしょにコレーを育て、他にもそういった数多くの事柄を、神学者たちの書を読むひとは見出すであろう。(8) しかし、ニュムペーたち、中でもとくに、ナーイアスたち — 泉の畔に住み、流れがその職掌で、ナイアースたちと呼ばれる — に捧げられることは、アポッローンに寄せる讃歌も明らかにしている、その中でこう言われている

はたして御身には、若水の泉をば、
大地の一画を洞窟に真似て、
ムーサの神々しき声音によって
息吹で育てあげる、
されば彼女らは、地表を
あらゆる川を通して流し、
死すべき者らに、甘き流れの滾々たる湧出を
もたらす。

思うに、ピュタゴラース派も、彼らの後でプラトーンも、世界は洞窟であり洞穴であると説明した。というのは、エムペドクレース〔の著作〕においても、霊魂導師たる諸力がこう言っているからである

われわれは、この覆われた洞窟にやって来た。
          (断片B120)

プラトーン〔の著作〕においても、その『国家』第7巻の中で、こう言われている、「では見なさい、人間たちが、いわば地下の洞窟様の住居、光に向かって開いた、長い、洞穴と同じ幅の、入口を持った住居の中にいるのを」〔rep.VII,514a〕。続けて、対話相手が云う、「奇妙な比喩をあなたは言っています」、〔相手は〕続ける、「この比喩を、おお、愛するグラウコーン、先に言われた事全部に結びつけなければなりません、視覚によって映現する場所を牢獄の住居になぞらえ、火の光は太陽の力に」〔517a-b〕。


 (9)
さて、神学者たちが洞窟を、世界と、この世の諸力との象徴として規定したことは、これによって明らかである。また、〔洞窟が〕直知的有性の〔象徴〕であることもすでに述べられた、もちろん、異なった、同じでない観念から出発するからである。なぜなら、洞窟は暗く、岩がちで、水っぽいゆえに、感覚界の〔象徴〕となる一方、世界がそういうものであるのは、世界が構成される所以の材料のゆえであり、頑固でもあり且つ流体でもあると彼らは考えたからである。しかしまた、直知的なものの〔象徴〕なのは、感覚的には目に見えず、固体で、有性の確実さゆえである。まさしくこういうふうに、部分的諸力も目に見えず、ましてこれらの質料を含むものにおいてはいうまでもない。なぜなら、象徴を形成するのは、諸々の洞窟の自成性であり、夜性であり、暗さによってだからであって、一部の者たちが想像するのと異なり、形を基にしているわけではまったくない、(10) というのは、洞窟はみな球体状などではなく、ホメーロス〔の作品〕においても2つの戸口を持ったものであったように、洞窟は二重であり、それはもはや直知対象たる〔有性〕の〔象徴〕ではなく、感覚的対象の有性の〔象徴〕と解されるから、いま解されたものも、〔ホメーロスが〕謂う<ように>「永遠の水」を有するゆえに、直知の基体ではなく、質料をもった有性の象徴を帯びたものであろう。それゆえニュムペーたちの神域も、山のニュムペーたちのものではなく、高みにおわしたり、あるいは、何かそういった〔ニュムペー〕たちのものでもなく、流水(na:ma)にちなんでそのように呼ばれることになったナイアースたちのものなのである。
 そこで、水を司るナイアースたちや諸力を特にニュムペーとわれわれは言うが、生成へと下降する魂たちもすべてそう言われるのが常である。ヌゥメーニオスが謂うように、魂たちは神の息吹である水に依存していると考えたからである、それゆえ、神の息吹が水の面を漂うと預言者も述べたのだと言って。それゆえ、アイギュプト人たちも、ダイモーンたちが立つのはみな固いものの上ではなく、みなが船の上であり、太陽も、簡潔に言ってみながそうなのである[003]。いかなる魂たちも、生成へ下降するものらは湿り気を渇望すると知らねばならない。だからまたヘーラクレイトスも謂うのである、魂たちにとって湿気に死がないことは喜ばしく、生成への転落はそれらにとって喜ばしいと謂う、ただし、われわれがそれらの死を生き、それらがわれらの死を生きる〔「不死なる者が死すべき者であり、死すべき者が不死なる者である。彼の者の死をこの者が生き、彼の者の生をこの者が死している」F62〕のは別である、と謂う。そういうわけで、生成の中にある湿ったものらを、この詩人は魂を持った濡れものと呼ぶ。なぜなら、血や (11) 濡れた種子は、これら〔魂たち〕にとって友であるが、植物の〔魂たち〕には、水が養分だからである。また、一部の人たちは、大気や天にあるものらも、流水や河川やその他の蒸発によって養われると。またストア派の人たちには、太陽は海からの蒸発によって養われ、月は泉や河川の水から、星辰は大地からの蒸発によって〔養われる〕と思われた。その故にこそ、太陽は海から成った直知対象の塊であり、月は河の水から成った、星辰は大地からの蒸発から成った〔塊〕だと〔思われた〕のである。


 そういう次第で、魂たちも — それがあるいは有体であれ、無体であれ — 身体に引き寄せられるものらは、なかんずく血液や濡れた身体に緊縛されようとするものらは、水分に傾き、水っぽいものとして物体化せざるをえない。故に、胆汁や血液の滲出によって、死者たちの〔魂〕は励まされ、少なくとも身体を愛する〔魂〕たちは、水っぽい霊を引き寄せて、これを雲のように濃縮する。というのは、水分は大気の中で濃縮されて雲を構成するからである。しかし、霊的水分の過剰によって〔魂たち〕の中で濃縮されて、〔魂たちは〕目に見えるものとなる。そして、そいうふうなものらのうち、幻想において或る人たちに出くわすものらが、映像の出現に色づけする、しかしながら、純粋の〔魂たち〕は、生成と無縁である。そこで、当のヘーラクレイトスが謂う、「最も知恵があるのは、乾燥した魂である」〔Fr.118〕。故に、ここにおいても混合の欲望のせいで、霊は水っぽく、且つ、より湿ったものになり、魂は生成に対する下降(neu:siV)から (12) 切れ目ない水分に引き寄せられるからである。だから、生成へと進む魂たちはナイアースたちというニュムペーである。かくして、結婚したのも、生成へと軛に繋がれたニュムペーたちと呼び、泉とか流水とか永遠の井戸から汲まれて、浴場に空けるのがならいなのである。


とはいえ、自然の中に現成した魂たちや生まれついてのダイモーンたちにとって、この世は神聖にして好ましいものである、たとえ自然本性的に暗く、標榜としていてもである。そのせいで、〔魂たち〕自身も空気的で、空気からその有性を得ていると怪しむ者がいる。それ故、それら〔魂たち〕にとって地上のおのれの神殿も、この世の似像という点で縹渺とした好ましい洞窟であり、最大の神殿の中でのようにその中で魂たちは暇つぶしするのであろう。また水のニュムペーたちにとっても、その中に永遠の水が内在する親らの洞窟は支えである。
 (13) そこで、現前する洞窟をして、魂たちや、力の点でもっと部分的なニュムペーたち — 流水や泉を司って、それ故にペーゲーたちとかナイアースたちと呼ばれている — に奉納されしめよ。すると、われわれの象徴にどんな違いがあるのか、一方は魂たちに捧げられ、他方は水中の諸力に〔捧げられて〕、どちらにも共通の洞窟が聖別されるとわれわれが理解するのならば? まさに石造りの酒和え瓶や両耳つきの酒盃をして、水棲のニュムペーたちの象徴たらしめよ。たしかにそれはディオニューソスの象徴であるが、しかし〔ディオニューソスのは〕陶製であるから、それは土で焼成されたものである。というのは、その実は天の火によって熟成されるから、これは神からの葡萄の賜物に親愛である。(14) これに対し、石造りの酒和え瓶や両耳つきの酒盃の方は、岩から湧き出る水を司るニュムペーたちに最も親和である。で、生成や身体的活動へと下降した魂たちにとって、これら以上に親和なものが何かあるだろうか? だからこそ、この詩人は以下の〔詩句の〕中で敢言したのである

潮紫の、見るも驚くばかりな衣を

つまり、肉の動作は骨で骨に携わるが、それは生き物の間では石に似ている。故に、機織も別の質料から成るのではなく、石から成ると述べられたのである。潮紫の衣とは、まぎれもなく、血で織られた肉であろう。というのは、潮紫は血で〔染められ〕、羊毛も生き物で染められ、肉の形成は徹頭徹尾血液を用いるからである。しかも、魂の組成に注目するにせよ、その結合に〔注目するにせよ〕、魂にとってそれがまとう下衣こそが身体であある、これこそは本当に見るに驚きである。そういうわけで、オルペウス〔の著作〕においても、コレーは、あらゆる種播かれるものの監督者として、織り姫と伝えられ[004]、天の帳は、天上の神々のいわば衣裳だと古人たちが述べてきたのである。


 (15) それでは、両耳つきの酒盃を満たしているのが水ではなくて蜜蝋なのは何ゆえか? それはその中に、と彼〔ホメーロス〕は謂う、蜜蜂たちが貯めこんでいるからである。貯めこむとは、明らかに、餌食を蓄えることである。餌食や糧食とは、蜜蜂たちにとっては密である。神学者たちが蜂蜜を数々の異なった象徴に使ってきた所以こそ、これが数々の力 — 浄化力も防腐力も — から成り立っているからである。例えば、<多くのものらは>蜂蜜によって腐らないままだし、満性の化膿も蜂蜜のおかげで綺麗になる。また、味わうに甘く、花々から集められるのは、牛から生まれることになった密蜂たちによってである。だから、獅子祭の秘儀参会者たちには、水の代わりに蜂蜜を両手に注いで、洗って、両手をあらゆる汚れや害や汚染から清浄にするよう命じ、火と戦うものとして水を要請する??。さらにまた舌も、(16) 蜂蜜であらゆる罪から浄化する。しかしペルシアで、果物の守りに蜂蜜を唱導する場合は、象徴に防腐性を内包させる。ここからして、一部の人たちは、屍体が腐らないよう詩人が鼻孔に垂らすネクタールやアムブロシア[005]として蜂蜜を要請したのは、蜂蜜が神々の栄養だからである。それゆえまたどこかで彼は、「紅いネクタール」〔Il. XIX, 38;Od. V, 93〕と謂っている。なぜなら、蜂蜜はそのような色をしているからである、と。もちろん、ネクタールについては、蜂蜜と解すべきかどうか、他の箇所でもっと詳しく調査することにしよう。ただ、オルペウス〔の作品〕においては、クロノスはゼウスによって蜂蜜で罠にかけられた。というのは、蜂蜜に満たされて、まるで葡萄酒によってのように酩酊し、射られた、まるでプラトーンの〔作品『酒宴』〕においてポロスがネクタールに酔ったように眠ったからである、「いまだ葡萄酒がなかったゆえに」〔とプラトーンは謂う(Symp. 203b)〕。つまり、オルペウス〔の作品〕においてニュクスは、蜂蜜によって罠を仕掛けてゼウスに謂う。

「高く聳える樫の木の下に、あいつがぶんぶん唸る蜜蜂の為業に酩酊している[006]のを見たら、

先ずあいつを縛れ」と。クロノスはそのとおりの目に遭い、縛られて、ウゥラノス同様去勢されたのであるが、この神学者〔オルペウス〕が謎かけしているのは、神的なものらは快楽によって繋縛されて生成界に滞留し、快楽に倦み疲れて諸力を射精するということである。ここからして、交合の欲望のせいで[007]、ゲーのもとに下降したウゥラノスをクロノスが去勢することになる。また、蜂蜜の〔快楽〕が、交合から起こる快楽と同じことを彼ら〔神学者たち〕に思いつかせ、これ〔蜂蜜〕の罠にかかってクロノスが去勢された。つまり、ウゥラノスと対立するものらの第一人者がクロノスであり、その天球であったのだ。で、諸力は天から、また、諸惑星から下降する。もちろん、天〔ウゥラノス〕からの〔諸力〕はクロノスが受けとり、クロノスからのそれは、(17) ゼウスが〔受け取る〕。されば、蜂蜜は浄化とも、腐敗の防止とも、快楽による生成への降下とも解されるので、水のニュムペーたちにも神話な象徴であるのは、彼女たちが司る水の防腐力や、その浄化力や、生成における共働力(水は生成に共働するから)のせいである。だからこそ、蜜蜂たちは酒和え瓶や両耳つきの酒盃の中に蜜を蓄えるのであるが、酒和え瓶とは泉の象徴をおび、酒和え瓶は泉の代わりとしてミトラスのそばに据えられるのであるが、両耳つきの酒盃の方は、この中に (18) この中に泉から汲んだ〔水〕を容れるものである。
泉と小川が、水のニュムペーたちにふさわしいのはもちろんだが、魂のニュムペーたちにこそよりふさわしい、これ〔魂のニュムペーたち〕を古の人たちは〔蜜のように甘美な〕快楽の造り手であることからとくに蜜蜂と呼んだところのものである。そこでソポクレースも魂たちについていみじくもこう謂ったのである、

死者の群が、ぶんぶんいいながら立ち昇ってくる。
          (Fr. 879)


デーメーテールの女神官たちをも、地の女神の秘儀に与る女たちであるので、古の人たちはこれ〔ペルセポネー〕をコレー・メリトーデース〔蜂蜜のごとき乙女〕と呼び、またセレーネーは生成の司であるのでメリッサ〔蜜蜂〕と呼び、他には、セレーネーは牡牛であり、牡牛はセレーネー〔月〕の昂揚であるので、メリッサたちは牛から生まれたものら、また魂たちも、牛から生まれて生成へと到来したものであり、ひそかに生成と†結びつけた†のは牛泥棒の神〔ヘルメース〕である。さらに付け加えれば、蜂蜜は死の象徴でもある(蜂蜜の灌奠によって地神たちに供犠するのが常である故に)が、胆汁は生の〔象徴〕である、快楽によって魂の生はなくなるが、苦汁によって生き返る(だから、神々にも胆汁が供儀される)と謎掛けしているにせよ、あるいは、死は労苦からの解放だがこの世の生は辛労と辛苦、と謎掛けしているにせよ。
(19) しかしながら、彼らが蜜蜂と言ったのは、単に生成へと赴いた魂たちすべてではなく、義しさをもって生き、神々に愛される事柄を実行して再び帰還せんとする魂たちである。なぜなら、この生き物は、帰還を愛し、とくに義にして真面目〔な生き物〕だからである。だからまた、蜂蜜による灌奠も生(き)なのである。また〔蜜蜂たちが〕ソラ豆にとまることはない、習慣的に生成の象徴と解され、種子植物の中でほとんど唯一完全に育ち、その茎の節にとまることなく[008]貫通するからである。そこで、蜂房や蜜蜂たちは、水の精のニュムペーたちや、生成へと嫁いだ魂たちの、ふさわしい普通の象徴であると認められよう。


 (20)
そういうわけで、最古の人たちは、神殿を思いつくよりも先に、洞窟や洞穴を神々に奉献したのであって、クレーテーではクレータ人たちがゼウスに、アルカディアではセレーネーとパーン・リュケイオスに、ナクソス<では>ディオニューソスに、ミトラスが知られるところではどこでも、洞窟によってこの神を宥めたのであるが、イタカの洞窟においては、2つの戸口を持っていると云うことでホメーロスは満足せず、ひとつは北に向かい、いまひとつは南向きで[より神々しく]、北向きのは下降路であり、南向きのが下降路であるかどうかには触れもせず、ただこういうだけである

そこには人間たちは
入って行かれず、不死なる者たちの路である。
          (Od. XIII, 111-112)

10
(21)
そういうわけで、続いて探究すべきは、叙述された事柄の意図 —   この詩人は事実を報告しているのか、それとも彼の謎かけであって、記述は彼の虚構なのかどうかである。洞穴こそは、この世界の似像であり象徴であると、ヌゥメーニオスとその同志クロニオスが謂っている、天界に2つの極あり、そのうち冬の至点より南はなく、夏の〔至点〕より北はない。また、夏の〔至点〕は巨蟹宮にあり、冬の至点は山羊角宮にある。そして、巨蟹宮はわれわれに最も近いから、当然にも最も近いセレーネー〔月〕に割り当てられるが、南の極はまだ見えず、もっと遠く離れていて、あらゆる惑星の中で最上にある〔土星〕には、山羊角宮が割り当てられる。
(22) そうして、獣帯の配列はといえば、以下のごとくである。巨蟹宮から山羊角宮に至る第1の獅子宮はヘーリオス〔太陽〕の宮、次に処女宮はヘルメース〔水星〕の、天秤宮はアプロディーテー〔金星〕の、天蠍宮はアレース〔火星〕の、射手宮はゼウス〔木星〕の、山羊角宮はクロノス〔土星〕の宮である〔これはエジプト配列である〕。しかし、山羊角宮からは逆に、宝瓶宮はクロノスの、双魚宮はゼウスの、アレースのは牡羊宮、金牛宮はアプロディーテーの、双子宮はヘルメースの、そしてセレーネーのは残る天蠍宮である。

11
さて、神学者たちはこれら2つの門を巨蟹宮と山羊角宮に決めたが、プラトーンは2つの口と謂った。そして、そのうち巨蟹宮は、これを通って魂たちが下降し、山羊角宮は、これを通って上昇するところのものである。しかり、巨蟹宮は北にあって [009]、と。さらに、北部は、生成へと下降する魂たちのもので、洞窟の北に向かった門も、人間どもにとって正当にも下降路となっている。しかし南部は神々のものではなく、神界へと上昇するものたちのもので、同じ理由で〔詩人は〕神々のものであることを否定して、不死なる者たちのもので、それはそれ自体ないし有性的に不死なるものである魂たちにも共通であると〔謂っている〕のである。これら2つの門は、パルメニデースも『自然について』の中でローマ人たちやアイギュプトス人たちに言及していると謂う。すなわち、ローマ人たちは、ヘーリオスが山羊角宮に至ったとき、クロノス祭を祝うが、奴隷たちは自由人たちの恰好をまとい、あらゆるものがお互いの共有となって祝う。立法者が謎掛けしているのは、天のこの門にあるとき、生成のせいで目下奴隷の身にある者は、クロノス祭つまりクロノスに捧げられた宿〔山羊角〕の期間に、生き返りや逝去(ajpogevnesiV)を離れるなら、自由になるであろう。しかし、彼らにとって山羊角宮からの道は下降路である。〔ローマ人たちは〕その門をヤヌス(ijavnoua)〔ラテン語。「門」の意〕と云い、ヤヌスの月を「門の月」と呼称し、この時期に、ヘーリオスは山羊角宮から (24) 東へと転換して、北方へと向かう。他方、アイギュプトス人たちにとっては、1年の初めは、ローマ人たちとは違って、宝瓶宮ではなく、巨蟹宮である。なぜなら、ソーティス〔シリウス〕(ヘッラス人たちはこれを犬星と謂う)は、巨蟹宮に近いからである。そして彼らにとっての新月はソーティスの上昇であり、この世への生成のはじまりである。だから、〔ホメーロスが〕門を東や西にも設けず、白羊宮や天秤宮といった分点にも〔設け〕ず、南や北、南の最南の門と、北の最北の門に〔設けた〕のは、この洞窟が魂たちと水のニュムペーたちに奉献されたからであり、魂たちにとってはこの場所が生成と逝去(ajpogevnesiV)との宿だからである。

 だから、ミトラスにとっては、分点のある〔円周〕が、ふさわしい座として配属された。故に、〔ミトラスは〕白羊宮の〔支配惑星である〕アレースの戦刀を携えて、牡牛に馬乗りになるが、牡牛はアプロディーテー〔金星〕の〔宮〕である。で、造物主であるミトラスは、生成の主人でもあって[010]、分点の円周に配置され、その右手には北部を<持ち>、左手には南部を〔持って〕、それらの南には、熱いからカウテースが配置され、北に (25) <カウトパテースが> 配置されたのは、〔北〕風の冷たさのせいである。

12
 同様に、生成へと進み、生成から離れる魂たちには、当然ながら、諸々の風が配置されたが、それは、一部の人たちが考えたように、それら〔魂たち〕も風〔霊〕を引き寄せ、そのような有性を持つ故である。それどころか、北風は生成に進む〔魂〕たちに親密である。故に、死にゆかんとする〔魂〕たちをも北風の息吹は、

吹き寄せては、ほとほと息の絶えはてた命を生き返らせた。
          (Il. V, 698)

対して南風の〔息吹〕は〔命を〕解体させる。なぜなら、前者は、より冷たいから凝結させ、〔これを〕大地の生成の冷たさの中に保持するが、後者は、より熱いので、〔この生を〕解体させ、〔これを〕神的なものの熱の方へと送り届ける。しかしながら、われわれの住まいする世はより北の方にあるので、ここに孕まれた〔魂たち〕は、北風と交わるのが必然であるが、そこから変成した〔魂たち〕は、南〔風と交わるのが必然である〕。これこそが、北風はその始まりにおいて偉大であるが、南風はその終わりにおいて〔偉大〕である理由である。というのは、前者は熊星の下に住んでいる人たちに直接関与するが、後者ははるか遠く隔たっている。それで、遠くからの吹き寄せはより時間がかかる。しかし (26) ひとたび集まるや、そのときは有り余る。しかしながら、北門から魂たちが生成へとやって来るとき、次の理由でその風を恋情的と規定した。というのも

漆黒のたてがみをした馬の姿に身を似せて添い寝した。
それで牝馬たちが身ごもってから、仔馬を十二匹まで生んだものである。
          (Il. XX, 224-25)

 つまり、オーレイテュイアを彼〔ボレアース=北風〕がかどわかして[011]、ゼーテースとカライスとをもうけた、と謂い伝えられているのである。

 しかし、南は神々に寄進されているので、南中が定まるとき、神々の神殿に帳を引くのは、ホメーロスの次の告知を守るからである、つまり、この神〔太陽〕が南に傾くとき、人間どもが神殿に入るのは神法に悖り、道は不死なるものらのものである、ということである。(27) だからして、この神〔太陽〕が南中したとき、〔古の人たちは〕南中と南の象徴を扉にこめたのである。したがって、その他の扉についても、扉は神聖なものであるから、常時しゃべるのは許されることではなく、それゆえピュタゴラス派も、アイギュプトス人たちの中の知者たちも、扉とか門とかを通過する者たちにしゃべることを禁じたのは、万物の原理を有する神を、沈黙によって崇拝するためなのである。

13
 ホメーロスも扉が神聖だと知っていたことは、その〔作品〕の中で嘆願する代わりに扉を揺さぶるオイネウスが明らかにしているとおりで、

ぴったりはまった板戸を揺すぶりながら、息子の膝にすがった。
          (Il. IX, 583)

〔ホメーロスは〕また、天の門も知っていた、これはホーラたちが信託されていたもので、雲井の場に始まりをもち、その開閉は雲によって、

群がる雲をあるいは開きあるいは閉ざす役をあずかるもの           (Il. V, 751; VIII, 395)

それ故にこそ、軋むのは、群雲を通して雷鳴が轟くからである。

おのずから天の御空の大門の扉は軋んで開いた、これを守るはホーラたち。
          (Il. V, 749)

(28) さらに〔ホメーロスは〕どこかで、ヘーリオスの門をも、巨蟹宮と山羊角宮との意味で言っている。<つまり>〔ヘーリオスは〕これらまで進むのであって、北風から南部まで下降し、そこから今度は北部まで上向するのである。ところで、山羊角宮と巨蟹宮とは乳河〔銀河〕のほとりにその境界を割り当てられていて、巨蟹宮は北、山羊角宮は南である。また、ピュタゴラスによれば、夢の輩〔Od. XXIV, 12〕とは魂たちのことで、〔魂たちが〕生成界に落下すると、乳河に集められ、乳で育てられることにちなんで、乳河はそういうふうに呼称されるのだと〔ホメーロスは〕謂う。霊魂導師たちがそれら〔魂たち〕のために乳の混ぜられた蜂蜜で灌奠するのも、〔その魂たちが〕快楽によって生成界へと赴くことを修練したからである。乳はそういう〔魂たち〕といっしょに孕まれるよう生まれついている。

 さらに、南部は身体の小さいものをつくる。なぜなら、熱がそれ〔身体〕をとりわけ痩せ細らせるのが習いであるが、まさしくその〔熱〕によって[で]矮小化させ、乾燥させるのが習いだからである。ところが北部では、身体はすべてなおさら大きくなることは、トラキア人たちやスキュティア人たちといったケルト族が明らかにしているが、それは彼らの大地が湿潤で、多量の牧草を産したからである。またその〔BorevaVという〕名称そのものも、boravに由来する。boravとは、食べ物という名詞であり、したがって大地からの糧の香りを送る風も、栄養に (29) 富んでいるので、Borra:Vと呼ばれる。されば、こういう次第で、死すべき者や、生成界へと転落した輩にとっては、北部は親しいのだが、より神的なものにとっては南部がそうであるのは、あたかも、神々には東部が、ダイモーンたちには西部が〔親しい〕がごとくである。

 なぜなら、ピュシスが差異性から始まったとき、至る所で二重門がその〔ピュシスの〕象徴とされた。例えば、その進行(poreiva)は直知によってか、感覚によってである。そうして、感覚の場合は恒星によってか諸惑星によってかであり、さらにまた、不死なるものによってか、可死的進行によってであり、また、中心はひとつは地上にあり、ひとつは地下にあり、ひとつは東方にあり、ひとつは西方にあり、また一方は左方にあり、他方は右方にあり、夜と昼である。この故にまた、調和が引き合って、反対のものらを通して射当てるのである。そこでプラトーンは謂うのである、口は2つで、それを通って天に登高する〔魂たちの〕ものと、大地に下降する〔魂たちの〕ものとで、ヘーリオス〔太陽〕とセレーネー〔月〕という、神学者たちが魂の門と決めたもので、ヘーリオスを通って上昇し、セレーネーを通って下降する。だからこそホメーロス〔の作品〕において、2つの甕が

贈り物らのうち、ひとつは禍の、もうひとつは幸福の、容れものであった。
          (Li. XXIV, 528)

(30)
プラトーンの『ゴルギアス篇』においても、それは魂の甕と考えられ、ひとつは善行の〔甕〕、もうひとつは悪行の〔甕〕、つまり、前者は理性の〔甕〕、後者は非理性の〔甕と考えられている〕[012]。甕とは、魂は活動と性情の容器をなすからである。ヘーシオドス〔の作品〕においても、一方の一種の甕は閉められ、他方は、快楽が開けて、ことごとく散らばったが、ただひとつ希望だけが残った。なぜなら、つまらぬ魂は、質料のまわりに散らばって、すぐにそれらの中で罪を犯し、これらのすべての善望でおのれを (31) 飼養するのが常だからである。

14
そういうわけで、二重門はどこにおいてもピュシスの象徴であるから、この〔ホメーロスの〕洞窟も、当然ながら、一重門ではなく、諸々の物に対応して適切に変化する2つの扉を持ち、ひとつは神々と善〔霊〕たちに関するもの、もうひとつは可死的にして、よりつまらぬものらに〔関する〕ものである。このことから出発してプラトーンも、彼自身も酒和え瓶のことを知っていて、両耳つきの酒盃のかわりに大甕と解し、われわれが謂ったように、2つの門のことを2つの口と〔謂い〕、シュロスのペレキュデースも、奥処や洞窟や扉や門のことを言い、これらを通じて魂たちの生成と消滅を謎かけたのであるが。
 さあ、古の哲学者たちや神学者たちの諸説を縷説して、話を引き延ばさないために、〔ホメーロスの〕意図はすべて、(32) 以上によっても証明されたとみなすことにしよう。

15
残るはまさに、生えているオリーブの象徴は、いったい何を闡明しているのかを見定めることである、それ〔オリーブ〕がなにか余計なものとしてあり、単にそこに生えているのではなく、入江の突端に〔生えている〕と述べられているからには。

入江の、いちばん奥のとっさきに、細長い葉のオリーブ樹がある。
その〔オリーブの〕すぐ間近に、洞窟。

ひとの思いなしとは異なり、何らかの偶然で芽生えたのではなく、それ〔オリーブ〕が内包するのは、その洞窟の謎掛けである。なぜなら、世界は徒にわけもなく生じたのではなく、神の思慮とピュシスの知性との成就であり、この世界の似像たる洞窟のそばに生えているのが、神の思慮の象徴としてのこのオリーブなのである。というのは、この植物はアテーナーのものであり、アテーナーとは思慮である。そしてこの女神は〔ゼウスの〕頭蓋から生まれたのだから、神学者は神話な場を入江の突端に見出し、それ〔オリーブ樹〕を奉納し、これによって表意しているのは、この〔世の〕全体は偶然に生じたり、ロゴスなき僥倖の作品として生じたのではなく、ピュシスの知性と智恵との成就であり、〔知性と知恵は〕それ〔世界全体〕からは離れているが、入江全体に根拠づけられた頭には近い、(33) ということである。しかしながら、オリーブは常磐木であるから、この世界における魂たちの諸変革に最も親和な一種の固有性を帯びていて、この〔魂たち〕にこの洞窟は奉納されている。例えば、夏には、白い葉が反りかえるが、冬には、もっと白い〔葉〕が俯く。ここからして、懇願や嘆願の際にも、オリーブの枝を差し伸べて、彼女ら〔魂たち〕にとって危難の蔭を〔平安の〕白さへと変える吉兆となるようにするのである。だから、オリーブは、常磐木の自然によって労苦に続けて、その扶けとして果実をもたらし、アテーナーと勝利した競技者たちに、それ〔オリーブ〕からできた花冠を授け、必要とする者たちにそれ〔オリーブの枝〕にちなんだ立願成就をかなえるのである。さらにまた世界も直知的ピュシスによって配剤され、、永遠にして常磐なる知慮に導かれつつ、それ〔知慮〕から勝利牌も多大な労苦の癒しも人生の競技者たちに授けられ、憐れまれ嘆願する〔魂〕たちの愛顧を得ているのが、この世界を保っている造物者である。

16
 (34)
そういうわけで、ホメーロスが謂うのは、外界の事物はみなこの〔洞窟の〕中に収納されなければならない、裸の〔恰好〕であれ、物乞いの身につけた恰好であれ、干涸らびた身体であれ、あらゆる過剰を脱ぎ捨てた〔身体〕であれ、諸々の感覚を拒んだものであれ、アテーナーと相談すべく、オリーブの根元に彼女とともに坐らねばならないということである、どうすれば自分の魂の企みに満ちた情動をすべて根絶できるかを。というのは、わたしの思うに、ヌゥメニオス派の人々にとっても、オデュッセウスは『オデュッセイア』において、生成に続く〔道〕を通過して、かくしてあらゆる荒波と海に無経験な〔地〕に上陸した者の似像をホメーロスにもたらしたと思われたのは、的外れではない。

海というものをまだ知らぬ男たちの住まうところへたどりつくまで行程を進めるがよい。
またその者らは、塩を加えて味つけをした食物をいまだ知らず。
          (Od. XI, 122-3)

17
さらに、大洋、海洋、波は、プラトーン〔の作品〕においても(35) 構成の素材である。それゆえ、わたしの思うに、〔ホメーロスは〕入江をポルキュス[013]の名で呼んだのである。

さて、ポルキュスと呼ばれる入江が……ある。
          (Od. XIII, 96)

水の神 — これの娘こそがトオーサであることを、『オデュッセイア』の首巻で〔ホメーロスが〕系譜づけているのであるが —、彼女から生まれたのがキュクロープス、これの眼をオデュッセウスが脱落させたのであり、それが、祖国に至るまで、諸々の過ちを思い返す一種の機会をもたらした。ここからしてまた、オリーブ樹下の座も、神の嘆願者や、嘆願の枝のもとに生まれの守りダイモーンに償いを戦とする者のごとく、彼にとって親和である。なぜなら、この感覚的生からまぬがれることは簡単ではなく、それ〔感覚的生〕を盲目にさせ、簡潔にいえば、徒労に終わらせることに熱心だからである。しかしながら、同じことを敢行する者には、汐海の質料的神々の瞋恚[014]がつきまとい、彼ら〔同じことを敢行する者たち〕は先ずもって供犠と、物乞いの労苦と、堅忍によって宥めなければならない。あるときは諸々の情動と闘い抜き、あるときは呪文をかけ、欺き、多様な仕方でそれらへと変身して、ついに襤褸を脱いで裸となって、すべての点で綺麗になり、そうやって諸々の労苦を厭うこともせず、海や水仕事に無経験な魂たちにおいても、水にかかわる道具や仕事に完全に無経験である故に、櫂の把手を掬い鍬(ptuvon)と思いなすほどに、完全に塩抜きとなる場合に。

18
(36)
だが、このような解説をこじつけだとか、屁理屈をつける人士の牽強付会だと考えてはならない、が、古の知恵と、ホメーロスのそれが、知慮深さとあらゆる徳の厳格さにおいてもいかほどのものであったかを思量するなら、物語の造形において、より神的なものらの似像を謎かけたなどと失望してはならない。なぜなら、ある種の真実から、虚構を変えないまま、前提全体を狙いどおりに仮構することはできないからである。しかしながら、この件にかんする著作は別の研究に持ち越し、本件の洞窟に関する説明内容は、これで終わりとしよう。

2017.04.29. 訳了。

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